【1-5】 人は如何にして悪魔へと成り下がるか
悪魔との契約と言えばまず何が思いつく? そう問われれば啓介が思いつくのは“魂を売る”ということだった。神に反して魂を悪魔に捧げることによって超自然的な力で世界に害を及ぼす人間になるというのが中世ヨーロッパの魔女狩りに繋がる迷信だったと啓介は記憶している。現代でこそ、魔女狩りなどと言う野蛮な行為はほとんど存在しないが、中東やヨーロッパの一部など信仰心の強い地域では未だに行われていると聞く。
もしアリエルが本当に悪魔だというのならば今まさにこの瞬間、彼女に誘惑されて魂を売ろうとしている自分は魔女なのだろうか。いや、男の場合は魔術師か。
「他にメリットは色々とあるけど、それは話に合わせて説明するとして……契約によって君が得ることのできるメリットは『運命と言う呪縛から逃れることができるという点』と『超能力と言う超自然的な能力を自由に扱うことが出来る点』の2つが最も大きい」
「そもそも超能力っていうのはどういうモノなんだ」
「人間には実現不可能なことができるようになるっていう解釈でいいと思うよ。瞬間移動とか念力とかそういうのかな。普通の生活を営む上で役に立つものもあれば、完全に殺傷向けの能力もあるからそこの所は評価が人によって分かれてしまうね」
「選ぶことはできないのか」
「できないね。完全なるランダムだよ」
あまりメリットと言えない様な気がすると啓介は思った。そもそも超能力自体この世界では影に隠れる存在であり、平然と使用してしまえばあっという間に政府の研究機関に放り込まれて解剖されるか、軍隊に送り込まれて前線で戦い続けるハメになるかのどちらかだろう。結局のところ、デメリットしか存在しない。
「あと、契約って言うのは悪魔の刻印を身体に刻み、悪魔の血を身体に宿すことによって発生するモノ。だから契約した人間は“人ならざる者”とでも言うべきかな」
「人の皮被った化け物ってことか」
「身も蓋もない言い方だとそうなるかな。けれど、その人の皮を被った化け物は超人的身体能力も身に着けることが出来るから人間が生きていく上では非常に有益だと思うんだけど」
「……デメリットは? 殺人衝動みたいなモノとか」
「特にないね。正式な超能力者になれば、神様による直接的な運命操作での死は免れることが出来るし。ただまぁ、運頼みが効かないという点はデメリットかもね。有効かどうかはともかく」
つまり、絶体絶命のピンチに陥っても神様は助けてくれないどころか、これ幸いとばかりに追い打ちをかけてくるというわけだ。全て、自分自身の能力で人生を生き抜いていかなければならない。ただ、最初から神を信じていない啓介にとっては大したデメリットにもならないが。
「実質、デメリットはないってことか……」
デメリットのない契約を啓介は完全に疑っていた。こんな夢のノーリスクハイリターンの契約があってたまるかと思いながら啓介は溜息を吐いた。
そんな啓介の感情を知ってか知らずかアリエルはウィンクを決めてニヤリと笑みを浮かべる。
「まぁ疑うのは仕方ないかもしれないね。これだけ人間側に旨みのある契約なんだもの」
「……お前たちのメリットが全くわからないな。慈善事業だって言うならお前らは悪魔扱いされていないだろうし」
「そればっかりはね。君が契約してくれない限りは私の口から語ることはできないよ。ただ、私のこれまでの言葉の中から君が推測するのは自由だけど」
それはつまり、今までに語った言葉の中に堕天使側のメリット又はそれに近いヒントが隠されていたというわけか。顔色や表情を一切変えなかったが、もう少し真面目に聞いておけばよかったと啓介は若干反省した。
「でもね、結局のところ堕天使にとって人間って言うのは自分たちが地獄へ落ちることとなった原因でもあるし、大体の堕天使は人間のことを“欠陥のある消耗品”としか見ていないと思うよ?」
「……消耗品」
「私個人としては契約を持ち掛けてすぐに契約してくれるような人間はバカ過ぎて好ましくないけど、君くらいに粘られるのもあまり好きじゃないなぁ。っていうことで契約してくれない?」
「アホか。ヒントが少なすぎて余計に警戒心が強まったわ」
明るさを隠そうともしないアリエルの言葉に若干イラついた啓介は、彼女のこれまでの言葉を脳内でかき集めてヒントを見つけようと努力していた。彼女の、堕天使の自分に求めるモノについて。
そして黙り込む啓介を前にアリエルは彼を眺めながら缶ジュースに口をつける。そして中身が既にないことに気が付いたのかアリエルは缶ジュースをテーブルの上に置き直した。
しばらくの間、二人の居座る空間から音が消えた。対人恐怖症やコミュニケーション障害の人間ならば、半狂乱になるくらいに不気味な沈黙が数分ほど続いた後にアリエルの口が開く。
「正直、私側のメリットが良かったら受けても構わないって考えているでしょう?」
「……」
無言。しかしアリエルはそれを肯定と受け取り、話を続ける。
「運命って言うのは受精が成功した瞬間から決まるわけ。つまり、君の運命は君の母親のお腹の中に居る時から既に決まっているわけ。君が何時生まれて何時死ぬのか、何時結婚するのか、何時子供が出来るのか、何時孫が出来るのかも全てが」
「……」
「でも、そんな神様でも唯一決めることのできないものがある」
「……心か」
なんとなく話の流れで予知した言葉を啓介は呟く。アリエルは無言で頷くと説明を続けた。
「人間が持つ感情って言うのは千差万別。こればかりは神様でも決めることが出来ないわけ。だから、この人間はこういう心を持つ人間になってこういう時にこんな感情を感じるんだなんてことまでは決めることが出来ない」
「人間の一生を決める方が感情設定よりも大変そうだが」
「確かにその言葉は当たっている。けどね、これは“神様の力不足”というよりは“神様が設定できない”と呼ぶべきなんだよ。まぁ、その辺はどうでもいいんだけど」
そこにも何らかの事情があるらしい。ここまでの会話の中で重要な部分は全てが隠されているために彼女の話が非常に胡散臭く感じてしまう啓介だったが、仕方がないことかもしれない。そもそも日本のこの何の変哲もない一般的な家の居間で、こんな森羅万象を覆すような話が行われていること自体が胡散臭いのだが。
「君が今ここで感じている感情や心の動きは神様が決めたものじゃない。だから、今までの君が積み重ねていた感情や心っていうのは間違いなく君の手によって作られたものだ。……自分の感情にそぐわない運命を無理矢理歩かされるか、その運命を打ち砕いて自分の感情に沿った運命を歩くかは君次第だよ」
「感情にそぐわない……」
そういえば、と啓介は思う。ずっと前にネットで見た投身自殺未遂者の話で『飛び降りる気がなかったが、いざその場所に立ったらなんだか飛び降りたくなった』という話があったが、そういう話ももしかしたらその感情と行動の弊害で生まれた出来事だったのかもしれない。
「……」
そんな中、1つだけ啓介の心の底から湧き出た考えがあった。それが一体どんなものなのかはよくわからなかったが、とてもドロッとした嫌な感情にさせるできれば触れたくないような感じの考えだった。啓介はその考えを掴み損ねると同時に掴み損ねたことを安堵するような不思議な感情に襲われた。
「アリエル」
「何?」
「……1つだけ、聞かせろ」
「……1つと言わず何個でもどうぞ」
やけにサービス精神旺盛な堕天使で、とても悪魔に似つかわしくない少女を前に啓介は質問を投げかけた。
「俺が、もし俺がこの契約を承諾したのなら……俺は」
「……」
やけに心細い声だなとアリエルは思った。先ほどまでの傲慢不遜というか、目上の者を敬おうとしない、まるで愚か者のような声は何処に行ったのやら。
「俺は──」
啓介は“その言葉”をアリエルに投げかけた。その言葉を聞いたアリエルは片眉を少しだけ上げると同時に栂村啓介と言う人間を理解した。
(成程ね。そういう心が、君を作ったわけか)
沈黙に包まれる居間で、アリエルはその言葉を耳に流し込み、その言葉から彼の考えをある程度読み取った。人間の弱点を逃さない辺りは非常に堕天使らしい姿だった。
「それは、私にはわからないよ。……ただ、現状維持よりはその可能性は高いと言うべきかな」
「……そうか」
「まぁ、君が答えを出すまでの期間くらいなら私は待つよ。いくら制限が掛かって時間が惜しいとは言っても君が答えを出すために必要な時間くらいなら大丈夫だとは思うし」
アリエルは立ち上がる。
「それじゃあ、充分に時間を使って考えたまえよ、人間君」
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栂村啓介はその歪な性格故に友達と呼べる存在が一人も居ない。生まれ持った才覚を持って人々を支配する人間をヘドが出るほどに嫌うその性格。そんな性格を持つ彼は先ほどの対談から数時間が経過した、夕方頃、リビングで一人休んでいた。
「・・・・・・はぁ」
ソファにもたれて天井を見上げ、溜息を吐いていた啓介は頭だけを動かして、棚の上に飾られている1枚の写真を見つめた。
「……」
30代くらいの男女が寄り添って写っている写真。2人の後ろに写る背景は焼け野原から復興する最中の街であったが、2人の姿からはとても幸せそうに微笑んでいた。男性の方は迷彩柄の服を着て煤を被ったように所々黒い。女性の方は白衣を着ており、その白衣が男性と寄り添っているために黒く汚れていたが、彼女は気にしていない様子だった。
啓介はその写真に手を伸ばそうとして──止めた。その手は居場所を亡くしたかのように空を切った後、啓介の下へと戻っていった。
(……20年も前の写真か。当時は地獄みたいな世界だったろうに、どうしてこんなにも笑えるんだろう)
20年以上も昔、世界の遥か極東に浮かぶ小さな島国であったここ「日本國」は第三次世界大戦の主戦場となり、数多くの日本人が無残にも散っていった。食べるものも着るものも住むところも何もなく苦しむ国民、増援や支援もないままに散っていく自衛隊、国を守るどころか売ろうとした政府。当時の日本を知る者に聞けば『小説や漫画でも描写できないような空前絶後の地獄』について詳しく教えてくれるだろう。
そして、そんな激動の時代を経験した日本人からすれば、現在の日本は夢にまでみた理想の日本ともいえるだろう。世界最高峰の科学技術に、そこらの国程度であれば1日もかからずに文字通り消滅させることが可能な程の強大な軍事力、そして世界第2位の経済力。日本建国以来最高の時代とも呼べるかもしれない程だ。現に日本に住む日本国民のほとんどはそう考えているだろう。
「……俺は、どうしたらいいんだろう」
写真に向かって啓介はポツリと呟く。写真に写った啓介と何処か顏の似ている男性は何も答えなかった。当たり前だ。
(超能力を手にすれば、アリエルは運命に縛られることが無くなると言った。だが、そもそもの話で運命と言う概念が存在するのかがわからない。……もし、運命が存在するのなら、アイツの言っていた“報われない運命”っていうのは俺を縛っているのかもしれない)
運命と言うものが実在するかどうか。そこの判断によって啓介の選択は変わることになる。超能力自体にあまり興味はないが、才覚を手に入れることが出来るというのならば、契約しても構わないと啓介は少しだけ考えていた。
(俺が望んだあの世界に足を踏み入れることが出来るって言うのなら、悪魔にだって魂を売ってやるさ。それが、歪んだ形での恩返しになろうとも)
そう決まればやる事は1つだ。まずは運命の実在を確認することから始める必要がある。普通に考えれば運命の有無などどうやっても測ることなどできないのだが、彼には1つだけ手があった。
(アリエルは俺に『自分が近くについていないと運命操作ですぐに死に至る』と言っていた。……危険かもしれないが、試してみる価値はある筈)
アリエルに頼んでこの実験を試してみればいいのだ。彼女が近くに居れば、運命への干渉が打ち消されるという効果を逆手に取り、絶体絶命の時に彼女に助けに来てもらうのだ。そうすれば命は助かるはず。そして、運命の有無も確認できるはず。
(……やってみる価値はある。行動せずに成功は生まれないんだって言うじゃないか)
啓介は目を閉じて決意を心の中で表明する。これが成功さえすれば、自分にとってもアリエルにとっても有益にはなるはず。……ただ、彼女が契約によって手に入れるメリットが不明な分、躊躇いの気持ちもない訳ではないが。
啓介が目を開けた瞬間、ドアがガチャリと音を立てて開き、アリエルが居間へと入ってきた。先ほどまでの非現実感を湧き立たせるような服装ではなく、黄色いパジャマに身を包んでいた。
「あぁ、着れたのか。ダメもとでもやってみるもんだな」
「どういう意味で言っているのかは知らないけど……これって誰の服? 君が着るには余りにも小さいし、女々しいというか」
「妹のだよ。……2年前に出て行った妹の服だよ」
「ふぅん? まぁいいや。とにかくお風呂は空いたから入ってきたらどう?」
白い肌がほんのりと赤く染まっており、髪も湿っているアリエルの姿は子供っぽいパジャマを着ているにも関わらず色気を感じさせる扇情的な姿だった。相変わらずの矛盾した風貌だと啓介は思う。
「まぁ後で入るさ。それによりもアリエル、お前に頼みたいことがある」
「……あれほど、契約に関して難色を示していた君がこんな短時間で変わるとは思えないんだけど。……どういう用事で?」
「契約関連だよ」
啓介の言葉にアリエルは少しだけ驚いたように表情を動かした。
「……へぇ、それで何? まだ何か契約関連について聞きたいことでもあるの?」
「だったら頼みごとなんて言い方はしない」
「……じゃあ何?」
アリエルの少し戸惑ったような声を前に啓介はすくっと立ち上がるとアリエルの方を向いた。そして、彼女を見つめながら啓介は言い放った。
「お前の言う“邪悪な運命”とやらを確かめるために力を貸してほしい」




