【1‐4】 紅水晶と菫青石
事実は小説よりも奇なりと言う諺が日本には存在する。現実の世界で起こることは人が考えて作る小説よりも不思議で複雑だという意味で、イギリスの詩人が生み出した言葉だ。
(……まさかこんなところでこの言葉の意味を痛感することになるなんてな)
世界は自分の思っている以上に馬鹿馬鹿しいものなのかもしれないと軽い失望の念を抱きながら啓介は冷蔵庫から缶ジュースを2本ほど掴み取る。啓介が冷蔵庫から手を遠ざけると同時に冷蔵庫のドアは自動で音も立てずに閉じられた。
無遠慮さを見せつけるかのようにソファに座りこむアリエルの元へと戻った啓介はテーブルの上に缶ジュースを置いてアリエルに飲むことを無言で薦めた。啓介はアリエルの対面に鎮座するソファに座りこむ。
「飲めるか」
「飲み物を飲めるかと言う意味で? それともこのちんちくりんな構造をしたものを開けることが出来るかと言う意味で?」
「……できないのか」
「まぁね」
今の時代、缶ジュースも開くことのできない人間など東アフリカの無政府地帯に住む人間くらいしかあり得ないだろう。しかも先進国どころか超大国として名を馳せているこの国の人間ならばもっとあり得ない。頭のどこかで目の前の少女とあの夢を否定していたが、その否定する気持ちが啓介の頭の中から益々薄れていった。
「缶ジュースの上面についたアラビア数字の“8”みたいな引き金に人差し指を入れて引っ張れ。……そっちじゃなくてもう1つの穴な」
呆れた表情を見せながら啓介は自分の持つ缶ジュースも開け、口づける。
(人目を引く容姿というかなんというか……。どっちかって言うと“美人”で人目を惹くというよりも“異端”で人目を惹く感じだな)
染髪塗料でも使用しない限り、人間には再現不可能な青色の髪。しかも到底染髪では手に入れられないであろう程に美しく透き通ったその髪は彼女を更に異端に見せる。単に血が黒く濁っただけではないような赤と黒の絶妙なコントラストとも言える色をした瞳は美しさよりも畏怖を見せつけた。
「……」
缶ジュースを右手でつまむように持ち上げて上から覗きこんだり下から覗きこんだりしている彼女を見つけながら啓介は自身の考えを一つにまとめていく。
(……夢で見た姿と全く同じ。むしろ違いを見つけることの方が難しいような気がする)
正夢や逆夢、明晰無夢などは所詮人間の妄想のパーツの1つでしかないと啓介は考えている。しかし彼の目の前に対峙する者は間違いなく夢と思わしき記憶の中で会話した者と同じであり、それは彼の考えを真っ向から否定する存在だった。
「人間ってのはよくわからない生き物だよ。1000年前と何も変わっていない」
「まるで1000年前を知っているような言い方だな」
「知ってるからこそ嘆いているんだよ。良い意味でも悪い意味でも人間と言う種族は変化しない」
「……」
アリエルは缶ジュースを一口で飲み干すと缶をテーブルの上に置く。そして足を組み、ソファにもたれかかりながら啓介の方へと顔を向けた。他人の家でありながらその堂々過ぎる態度に多少イラッとしながらも啓介は冷静を気取った顔でアリエルを見る。
交じり合う視線に何も臆することなくアリエルは啓介に言葉を投げかける。
「単刀直入に言おうじゃない。私の話、覚えてくれている?」
「……あのバカげた運命論か。残念ながら覚えてねーよ」
「覚えているじゃん」
「夢だと割り切らせてほしいんだが。あんなバカみたいな妄想話を押し付けられて盲信できる程、俺はバカじゃないんだよ」
「世界を形作る法則って言うのは人間が思っているほどに崇高でも神秘的でも荘厳でも厳かでもないものだよ。世界っていうのは何処までも汚くてバカみたいなものに支配されているって気付きなよ」
まさに全てを上から見下したような言い方。しかしながら何処か妙な説得力のある言葉の羅列に啓介は戸惑った。証拠などどこにもないのに彼女がそうだと言えば世界はそうであると信じれるような説得力だった。詐欺師や新興宗教の教祖にでもなれば億万長者間違いなしだろう。
「お前の妄想話は真実だって言いたいわけかよ」
「真実だよ。君が信じるものが君にとっての真実のように私が信じる者も私にとっては真実となる」
その言葉を聞いて啓介は「同じ嘘を何千回何万回繰り返せばそれは真実となる」という言葉を残した政治家を思い出した。その政治家は後世では世界最悪の独裁者などと蔑まれるようになったのだが。
「君の真実が世界の真実であるという確証は何処にもない。そうでしょ?」
「……まぁそうだが」
「だったら私の話は聞く価値があると思うんだけどね。自分以外に対して常に排他的なその性格、生きていて辛くないの?」
「……さぁな」
啓介は右手に持つ缶ジュースに口をつけて唇を潤し、何も感じていないかのように極めて冷静に振る舞った。
何処か憐れむような顔と何処かバカを蔑むような瞳をしてアリエルは彼を眺めた。
「それで、君は超能力者になってくれる決心でもついた?」
「超能力ねぇ……」
「まぁ、あくまでも私が君に対して“神の運命を無効化する力”を植え付ける時に生まれる副産物が超能力であって、超能力自体を主体としているわけではないんだけどね」
つまり、舗装道ではなく獣道を歩むための力を体内に宿した結果、エネルギーが収まりきらずに体外へ放出されるものが超能力であると彼女は啓介に語った。
(超能力。英語に直せばサイキック。合理的に説明のつかない超自然的な能力のこと)
いつもと変わりのない日常に紛れ込んだたった1つの異常。その異常が現在の啓介の混乱を招いていた。日常を機械的に生きてきた啓介にとっては対応の難しい異常だった。
いきなり目の前い現れて自分は堕天使だなどとのたまうだけでなく、契約して超能力を貸し与えてやろうなどとその傲慢不遜な性格を見せつける少女を前にして冷静に対応ができる人間など今の時代の日本にはほとんどいないだろう。
「悪くない話だと私は思うんだけどねぇ。君は運命から解放されて自分の力を最大限発揮できるようになるんだし」
「胡散臭い」
「……そう思う理由は?」
「確かに運命が存在するという前提で話をするのならば、俺にとってその契約はメリットがあるかもしれん。だけど、お前には一体何のメリットがあるっていうんだ?」
啓介は彼女を警戒していた。自らを堕天使と名乗った彼女が世界に存在する85億の人間の中から極東の島国にいる数多くの無能の中から自分が選ばれて慈善事業をするわけがないのだ。悪魔の話には必ず裏が存在するものだ。悪魔などと言う存在を信じているわけではないが。
「メリット、か。君が契約してくれない限りは口が裂けても話せないプライベートな事情だよ」
「なら交渉は決裂だ。他を当たれ」
「ところがそうもいかないよ? 私には君しかいないんだから」
男ならば勘違いしてしまいそうな言葉をアリエルは啓介に投げかけた。思わず少しだけ頬を赤らめてアリエルを睨み返す啓介だったが、アリエルは意に介さず話し続ける。
「契約を君に持ち掛けてしまった以上、君以外の者にこの契約話を持ち掛けることが私にはできないっていうワケ。まぁ、堕天使にも色々とルールとかあるのよ」
「つまりなんだよ、俺はお前の契約を呑む未来しか存在しないってことか?」
「いいや? 私の契約を呑む前に君が死ぬ、という未来もあり得るよ?」
「……俺を殺すのか?」
「まさか。確かに人間くらいさくっと殺せるけど、厳しい条件が課されているからね。上層部だって私一人の存在のために神と全面戦争だなんて勘弁願いたいだろうし」
何やら色々と大変そうな世界ではあると思ったが、特に興味もないので彼は深く聞こうとはしなかった。少女の何処か面倒臭そうなものを思い返すような表情をチラリと眺めると啓介はソファに体重を預けた。
「じゃあどうやって俺を契約に導くんだ? 超能力による洗脳か?」
「人間相手に超能力なんて簡単に使用許可降りないって言ったじゃん。そこは……そうだねぇ、誠意を見せるしかないというか何というか」
「つまるところ誘惑か」
「そういうことになるね。ひたすらメリットを提示してその気にさせるしかないよ」
つまり、啓介がアリエルの契約に応じない限り、彼女は永遠に他の人間に対して契約を持ち掛けることが出来なくなるわけだ。
「残念だったな。俺が死ぬまで後何十年かどうかは知らないけど、その間はお前は契約を他の人間に持ち掛けることが出来ないって言うわけだ」
「そりゃどうかな。神の怨敵が玩具に接触した以上、神は君が自ら定めた運命から離反することを防ごうとするはずだけど。自分の思い通りにならない玩具は要らないのだから」
「どういうことだ」
「そのままの意味だよ。君が私の契約に応じていないにも関わらず、現在の君の運命は従来のものとズレ始めている。それは私がこの場にいるから。私と言う存在しない筈の因子がこの場にいるから。でも、それと同時に君は神からの圧力も受けている状態にある」
神と堕天使の両方からの運命への干渉を受けているということか、と啓介は理解する。ただし、それと啓介の余命と一体何の関係があるというのだろうか?
首をひねる啓介に「理解力がない人間は嫌いだよ」と呟き、アリエルは説明を続ける。
「言ったでしょ? 自分の思い通りにならない玩具なんて要らないって。玩具が神の怨敵のものになるくらいなら、君の運命を今のうちに弄って処分してしまおうって言う考えなワケ」
「……」
我儘すぎる、と啓介は呟いた。
「自分の軍から敵軍へ離反しようとする者が出ているのに、それを見逃す上官が世界の何処に存在しているって言うの?」
つまり、啓介はアリエルの契約に応じない以上、近い内に神による運命操作の果てに死を迎えるということだ。アリエルと自身の邂逅は自分が望んだものでもなかったにも関わらず、邂逅してしまった。その時から既に死へのタイムリミットが始まっていたということだ。
「……横暴過ぎる。もしホントならの話だが」
「私が君にへばりついている間は運命干渉をある程度は相殺できるけど、私がいない時は常に死に晒されることになる。……早い内に契約しちゃった方がお得だと思うけど」
「アホらし……」
「んなッ!? 折角人が忠告してあげたのにッ!」
啓介は胡散臭い物を見る表情でアリエルを馬鹿にした。そもそもはお前が俺を見つけたせいで俺が死にそうになってるのであって、お前が全面的に悪いのだと言ってやりたかったが、彼はそれ以上何も言わなかった。
「普通の人間が死への導きを簡単に回避できるとでも思ってるの!? そんな簡単に運命操作できるなら私たちのいる必要性がないじゃんかぁ!」
(運命なんて……実在するわけねーだろうが)
心の中でそう呟いた啓介だったが、彼の思考の奥で“もし運命が実在すれば?”という考えが膨らみ始めていた。もし、実在するのならば自分は明日にでもすぐに死んでしまうのだ。
(……そんなくだらねーこと考えてどうするってんだ。運命があろうがなかろうが、明日俺が死ぬかもしれないという可能性は存在する。死亡確率が跳ね上がるだけだろうが)
第一、契約と超能力についての話が全く進んでいない現状での契約など危険極まりない。堕天使とは悪魔であり、悪魔との契約と言えば、この世の禁忌とも呼ばれる行為だ。内容を理解せずして計測に契約してしまえば必ず後悔する日がやって来るだろう。それが真実か偽りかはともかく。
「……本当に馬鹿馬鹿しい」
自分の反論を全てかわされて怒っていたアリエルは突然の彼の呟きに口を止めて首をかしげた。自分の反論に対する返答ではないということを何となく感じ取ったようだが、それが何を意味しているのかまでは理解していないようだった。
「どうしたの?」
「なんでもねーよ。自分の軽率っぷりに辟易してただけだ。それよりも、とっとと超能力や契約について話せよ。ここまで来たんだ。ついでに全部聞いてやる」
「なんで信じないかなぁ。本当に科学ボケの国ってのはやりづらいよ……」
「科学ボケで結構。悪魔の契約したいならもっと西の国に行くべきだったな」
啓介の人を馬鹿にしたような対応にイラッとしたアリエルはわざとらしく溜息をついた。表面上は自分の話を否定しているくせに内側では自分の話と自身の過去を照らし合わせて運命理論に対して驚いている。全くもって目の前の人間は捻くれた性格をした厄介な人間だとアリエルは思った。
だからこそ、彼女は決心した。これほどの捻くれた人間ならば恐らくこの契約は素晴らしい結果を残すかもしれないと考えながら──。
「……そこまで言うなら話してあげようじゃないか、私と君の未来を決定付ける“契約”とやらを」




