【1-2】 栄誉なき孤立
──神様なんて存在するわけがない。
少なくとも平々凡々な才能しか持たない凡人である栂村啓介はそう考えている。それ以前に西暦2030年、“科学超大国”と呼ばれる『日本國』で生きる日本国民にとって非科学的存在は単なる迷信でしかあり得ない。この国はアメリカやソ連を凌ぐ科学技術を確立した“全てを科学で解決する国”であり、神や運命といった宗教などはあくまでも古くから伝わる慣習として続けられているだけだ。宗教を支柱とする国家などからは『科学バカの国』などと蔑まれたりしているそうだが、神などと言う不確かな存在に祈って助けを乞う暇があるなら自力で何とかするという国民性を持つ日本人からすれば宗教に傾倒する人間の真意こそ理解できないのだろう。啓介もその一人だった。
「……」
瞼の裏を焼くような眩い光に少しばかりの不快感を覚えながら啓介は目を開いた。
寝起きのためかうまく働かない頭で胸糞悪い明晰夢だったなと思いつつも半開きの目で天井をいばらく眺めたのちに起き上がった。そして少しばかり物が散らかった年相応らしい部屋を意味もなく見渡した啓介はベットからゆっくりと降りる。立ち上がった際に背骨がポキポキと音を立てて軋んだが、気にすることなく彼は床に散らばる漫画やゲームを踏まないように歩いて部屋から出ていった。冷たいフローリングの廊下を裸足でペタペタと歩いて階段を降り、扉を開けて誰もいない1階のリビングへと足を踏み入れる。
「……朝飯食っちまうか」
ボサボサの寝癖を左手の指で無理矢理梳かしながら啓介は独り言を前提として呟く。そして大きな薄型テレビの前に備え付けられているガラスのローテーブルに置かれたリモコンを持ち上げてボタンを押す。電源の入った薄型テレビはニュース番組を映し出し、画面の中では化粧で顔を整えた美人アナウンサーが芸能人と共にワイドショーのように今朝のニュースを紹介していた。番組を虚ろな瞳でしばらく眺めた啓介はキッチンへと向かい、朝食の準備を始める。
『4月8日 午前7時12分』と表示されている壁掛けデジタル時計を横目に啓介は冷蔵庫から卵とソーセージを取り出し、フライパンに油を敷く。ゆったりとしたやる気の感じられない動作で卵とソーセージをフライパンの中へと放り込むと横に置いてあった食パンを一枚だけ取り出し、トースターに放り込んで電源を押す。一連の作業を惰性で終わらせた啓介は菜箸でやる気なくフライパンの中の卵とソーセージを弄りながらテレビの画面を視界に入れる。
(久しぶりに夢見たと思ったら明晰夢。しかも胸糞悪い内容。……疲れてんのかな、俺)
自分の弱点をチクチクと突く嫌な夢だったと感想を心の中で考えながら啓介は夢の内容を今一度思い返してみる。己の弱点を否定するだけでは進歩できないと理解しているためだ。
(絶対運命主義の世界。才能は初めから決められていて努力は必要のないもの。凡人の運命を持つ人間には努力など時間の無駄でしかない……か)
あんな自身の非力さを他人のせいにするようなおこがましいことを自身の深層意識が考えていたのかと思うと暗然たる気分になる。自分としては常に力を得るために一生懸命努力を続けてるのだと思っていたのだが、と考えてから啓介は溜息を吐く。
(夢の中のアイツは“努力如きで運命を乗り越えることは不可能だ”って言ってた。……それは、才能がないと定められている奴が努力したところで才能を得ることが出来ないっていうこと)
そこまでぼんやりと考えていた啓介はハッとしたように目を見開き、頭を横にブンブンと振って自分の考えを吹き飛ばす。
(何考えてんだ俺。……俺は、俺は……凡人なんかじゃないんだ)
少しだけ目を細め、暗い感情を心に纏わせた啓介だったがそれも一瞬のことであり、すぐに啓介は先ほどまでと変わらない能面へと表情を変えて目の前の料理に集中する。
空想など信じないと断言していた啓介だったが一瞬見えた表情にはどこか“あるはずのないもの”を切望するような気持ちが込められていたことに気付けた者はいたのであろうか……。否、誰もいない。元々、この一軒家で生活を営んでいるのは17歳の啓介だけであり、彼以外にこの家を生活の拠点として活動する人間は誰一人としていないのだ。
ほどよく焼けた目玉焼きとソーセージを皿に乗せ、カウンターキッチン越しにテーブルへと置き、軽い音を立てて焼きあがったことを知らせたトースターから食パンを取り出し、テーブルの前に置かれた6つのイスのうちの一つに座る。主のいない5つのイスが寂しそうに鎮座されていた。
無表情で何も感じさせない能面のまま美味しくなさそうに啓介は自身の料理を食べながらテレビを眺める。
「……」
この西暦2030年、1億3140万2137人の人口を有する日本では先の第三次世界大戦と戦後混迷期の影響から天涯孤独の孤児や片親しかいない子供などは啓介たちの世代や一つ上の世代には少なからず見られるため、啓介のような境遇を持つ子供も少なくない。
啓介の通う高校にも両親が早世してしまったために苦学生として通ってきている同級生も少なくないし、啓介の住む町の場合だと両親が揃っている方が少ないだろう。
(俺は、立ち止まっちゃいけないんだ……。ここで立ち止まるわけにはいかないんだよ)
どこか脅迫めいた自己暗示を心の中で復唱する啓介は料理を黙々と口へと運んで朝食を手早く済ませた。そして味気ない朝食後、啓介は寝癖でボサボサの髪を整えるために洗面所へと向かう。まるで色のない灰色の世界を生きるかのように、感情を持たないロボットのように啓介は全ての行動を事務的にこなしていく。その姿は実に不気味だった。
恐らく第三者が彼を見たのならきっと誰もが口をそろえてこう言ったであろう。
──コイツ、生きてるのか?、と。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「超能力者。それは“人と同じ次元を生きながらにして違う理を抱えて生きる生き物”」
鮮やかな青色のペンキをぶちまけたかのような晴天の下、淀みの感じられない声が風に乗って“世界”へと広がっていく。
「そして、堕天使の力を手に入れることによって自身に定められていた運命を修正不能なまでに捻じ曲げて“自由”と“意志”を手に入れた存在」
街を見渡せる丘を横切るように並べられた電柱の上にその声の主は鎮座していた。春の訪れを感じさせる涼しい風が声の主の髪を揺らす。
「“自由意志”を手に入れるために“幸せが約束された未来”を捨てる人間と“幸せが約束された未来”を手に入れるために“自由意志”を捨てる人間。どっちが賢くて、どっちが愚かなのかなんて誰にもわかりっこないよ? まぁ、両方とも愚かだと私は思うんだけど」
太陽の光が透き通るような白肌をした少女は街を見渡しながら誰かに言い聞かせるように言葉を風に乗せていく。
「でも、“不幸が約束された未来”を捨てて“自由意志”を手に入れることは愚かなことなのかな? 不幸を幸せに変えるために自由意志を手に入れることは、原罪なのかな? 私にはそこが理解できないんだよね。……唯一神はそこんところ理解できてるのかな?」
平和を感じさせるような街並みを見下す少女は脈絡も意味も感じさせない言葉を呟き続けるだけだった。
哲学を大真面目に議論する研究者のような口調と意味もなく言葉を並べて“それっぽく”仕立てあげたような言葉の羅列。それは他人の目に彼女を愚者のようにも映し出すような行動でもあると同時に彼女を天才のようにも映し出せる行動であった。得体のしれない胡散臭さを感じさせる少女は目をゆっくりと開いてその紅い瞳を外気に晒す。
「……まぁ結局のところ、アナタは“自由意志”を“余計な概念”と捉えているんだろうね。それこそが悪しき感情と原罪を生み出すのだと。でもそれは何処までも傲慢で幼稚で強欲過ぎる考え方だよ。だから私たちは憤怒を持って堕天したっていうのに。……一体何時になれば気づくのやら」
神と敵対する一族の一員としての意見なのか、彼女個人の意見なのかわからないその言葉の塊は何もない空へと風が運んでいった。
「自分の愛玩道具を寝取られて悔しい癖にさ、そんな天空で偽りで塗り固めた余裕を装備しちゃって。私たちを殺したいほどに憎んでるならとっとと終末の日起こしちゃいなよ。そうしたら全力でその汚い玉座から叩き落として私たちが見下してあげるから、さ」
彼女の罵詈雑言に反応する者は誰もいなかった。いや、“人間の目には視えなかった”だけのなかもしれない。
彼女の後姿は何処か自身に満ち溢れながらも寂しさを感じさせる。そう感じれるようなとても小さな背中だった。
「果たして、あの人間は虚構の自尊心をかなぐり捨てることによって生まれ変わることが出来るのかな? まぁアナタにとっては価値のない愛玩道具みたいだから、アイツらを仕掛けてくることはないんでしょうけど」
風で揺れるライトブルーの長髪を左手で押さえながら少女は口角を釣り上げて笑った。
静脈を流れるような黒い鮮血のような色をした紅色の瞳が禍々しく輝いた。
「さぁ、人間。灰色の世界に飽き飽きしているのなら、私の元においでよ」
少女は電柱から飛び降り、下界に見える林の中へと姿を消し去った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
変化のない日常なんて糞喰らえだと啓介は考えている。変化がないということは“進化”も“退化”も存在しないということであり、進化か退化のどちらかを望まない生命体など生きるに値しないとも啓介は考えていた。故に現状維持という言葉が啓介は大嫌いだった。
(……つまらないな)
午前8時30分。同級生たちよりも少しばかり遅く、始業のチャイムぎりぎりに登校してきた啓介は無言でHR教室へと入っていった。自動で引き戸が開き、啓介はHR教室へと足を踏み入れた。そして啓介が足を踏み入れた瞬間、HR教室は静寂に包まれて誰もが啓介を一瞥した。しかし、その一瞥は一瞬であり、同級生たちはすぐに雑談や行動を再開する。
啓介は奇異の目を向けられたことに対して特に何も思うことなく自分の席へと歩いて行く。廊下側の列の一番奥が彼の席だ。他の生徒たちは教室の前や窓側に集って啓介の周囲には誰もいなかった。そのことに気付いているようだが気にすることもなく啓介は着席する。
毎朝SHRを実施するためだけの普通の教室という景色をぼんやりと視界に入れたまま、啓介は頬杖をつきながら今朝の夢について更なる考えを深める。
(……運命ってのは残酷だ。もしも実在するなら──の話だが)
ある日突然、自分が大切に思っている人がこの世を去ってしまったとしよう。これが病気や老衰、自殺ならその者の死に対して深く悲しみを覚えるだろうし、これが事故や事件によるものなら加害者に対して深い憤りを覚えるだろう。場合によっては復讐すら考えるかもしれない。同じ苦痛を与えて同じ目に遭わせてやるという感情の下に。誰だってそう思うことだろう。被害者がこの世を去って加害者がのうのうと生きている現実なんて誰も受け入れたくないはずだ。
そして運命と言う概念が存在するという前提で考えるならば、事件や事故でこの世を去った被害者は“事件や事故で死ぬためだけに生まれてきた存在”ということであり、事件や事故を起こした加害者は“事件や事故を起こすためだけに生まれてきた存在”ということになる。これは重病を患う人間や自殺した人間に対しても同じことが言えるだろう。
(……今思い返してもムカムカする夢だったな)
あれは自身の心の奥底に眠る誰にも晒したくない最深部を抉るような夢だったと啓介は感じながらも『嫌な夢』で思考停止させないためになぜ自分自身の深層意識があのような考えを抱くに至ったのかを考える。
(…………)
啓介は無意識のうちに目を細める。負の感情が垣間見えるような瞳は周りの人間を軽く威圧する。
誰も人が寄ってこない啓介は孤独と言うよりは孤高の存在であった。嫌な人間を見るような視線が啓介を突き刺すが、彼は全く気にせずに自分の世界に浸る。
(……自分の無能を運命のせいにして俺を取り巻く環境が変わるってんならいくらでも責任転嫁してやる。でも、現実は甘くなんかない。在りもしないもののせいにする暇があるなら努力を続けろ)
“努力すれば必ず報われる”と考える啓介は現在に至るまで文武共に努力を続けている。努力の天才と言えば周りの人間は彼を褒め称えるだろうが、彼の努力は中々成就していない。そんな彼の内面には努力を続ければ報われると信じて努力する精神が存在すると同時に『天才は天才、凡人は凡人』という思想も存在していたのだ。
それが啓介の内面であった。天才になりたいというあり得ない理想を追い求め続ける癖に彼は変な所で現実主義者であり、その思想と精神の差が歪すぎる弊害を生み出し、彼を“凡人でありながら凡人と異なる人間”に育て上げたのだ。
(……諦める権利は俺には存在しないんだ。だから弱音を吐くな)
自分の非を認めずに駄々をこねる子供と形容できるまでに悲痛な感覚を呼び起こさせるその言葉は啓介の心に深く沈み、彼の心を更に真っ黒に染めていった。
……彼の心は“ある意味で正常である意味で異常”だった。そして、そんな彼の歪な心の叫びに気付き、彼を掬い上げることのできる存在はまだ、何処にもいない。
まだ、何処にもいない──。