【1‐1】 戯言から始まる世界
夢を見た。
夢と呼ぶにはあまりにも不確定でも不鮮明な記憶であり、空想に包まれた夢の中にしては不思議なほどに自我と思考力が存在していたのだが、その光景を現実だと断定できる程に少年――栂村 啓介の人生経験は波乱に満ちたものでも痛快でもなかったために彼はこの記憶を“明晰夢”と決めつけた。
「運命って概念、アナタは信じる?」
啓介の前に立ちはだかるように佇む少女が彼に問いかける。質問にしてはあまりにも謙遜さや謙虚さに欠け、まるで傲岸不遜を体現したかのような話し方だったが、不思議と怒りは沸いてこなかった。まるで人の感情の波を荒立てないような声色だったからだ。
しかし見知らぬ少女の問いに親切に答えてやるほどに啓介は親切な人間でも善良な人間でもない。どちらかというと善良とは無縁の生き方をしている人間である。だから啓介は少女の問いかけに対して何も答えずに口を固く閉ざしていた。
黙り続ける啓介を前に鮮やかなライトブルーの長髪を風に靡かせながら少女は呆れたように肩を竦め、口を開いた。
「いくら赤の他人とはいえ、質問には答えるのが普通だと私は思うんだけどなぁ」
――普通の人間が相手ならな、と啓介は心の中で呟いた。
目の前に少女が佇んでいるということは確認できるのだが、姿がうっすらとしか見ることができず、まるで霧に包まれているかのように大まかな姿しか判別できないのだ。どんな服装をしているのか、どんな美貌をしているのかは何となく理解できるのだが、いざ顔をじっくりと観察しようとすると度の合わない眼鏡をかけられたように姿が確認できなくなるのだ。そして、そよ風が吹いているということを肌が感じていても霧が一切晴れないという不可思議な現象とその現象を引き連れる少女を前に啓介は一種の警戒心を抱いていたのだ。
「……いい加減、口を開いたらどう? いくら貴方が“無能”だとしても言葉くらいは話せるんじゃないの?」
まるで自分が世界の中心かのような言い方だった。見た目こそは絶世の美女という形容ですら生温いほどに美しいというのに、その柔らかそうな唇から出てくる言葉は罵詈雑言とまではいかなくとも人の神経を逆撫でるために存在するような言葉ばかり。
夢で見る架空の女性とは己の理想の女性であるという定説を思い出した啓介は自分の深層意識に不信感と不安を抱くと同時に目の前の“空想の産物”との対話を繰り広げることにした。ストレスしか溜めないような明晰夢などさっさと終了させるに限る、と考えて。
「お生憎さまだが、俺は自分の妄想と対話するなんて言う痛々しい行為をしたくないだけだ。なんだって俺は自分の妄想にまで無能扱いされなくちゃいけねぇんだよ」
「妄想? ……まぁそれでいいや。とにかく、言語を話せるというのなら私の質問に答えてほしいんだけど」
「質問?」
「さっき言ったでしょ? アナタは運命という概念の存在を信じるかどうかって」
少女は啓介の記憶力に対して呆れたかのような物言いで再び質問を投げかけてきた。相変わらず癪に障る言い方ではあったが、くだらない明晰夢を終わらせるためにも啓介は回答を口にした。
「信じねぇな」
「即答だね。理由とかあるの?」
「神様なんて不確定で不確かで役に立たない存在を信じて俺の何に役に立つってんだ」
「成程。理由としては合格ラインだね」
何の合格ラインかは知らないが、少女は啓介の回答に対して満足そうな返事を与えた。別に彼女を満足させるために放った回答ではなく、啓介の本心からの答えであったのだがそんなことは彼にとっても彼女にとっても然したる問題ではないようだ。
「じゃあ運命という概念がもしも実在したらどうする?」
「存在しないってんだろうが。存在が確定しない限り、俺は信じない」
「私は仮定として尋ねているんだけど」
そんなこと言われても存在しないものについての議論など時間の無駄だと啓介は思った。この西暦2030年・科学万能の時代には、運命やら神様やら天使やらの存在は空想上に生きるものでしかなく、この確固たる現実に存在するはずがないのだ。
少女は額を左手で抑えて溜息を吐きながらあきれ返る。
「これだから人間は話が円滑に進めない。特に日本人は」
「日本人で悪かったな」
世界最高峰の科学技術を有する科学大国・日本の国民は宗教や神様といった非科学的存在に対して非常に懐疑的な傾向を持っている。確かにお彼岸やお盆といった古くからの行事は今でも続いているし、先祖やらを敬ったり崇拝する国民性は変わっていないが、外国の宗教信者のように“宗教を人生の支柱にしている”人間がほとんどいないのだ。だから他国の宗教信者などからは“科学バカ”と蔑まれることもある。
「まぁ日本人を馬鹿にしているわけではないんだけどね。……少しは仮定を考慮に入れて議論をしてほしいなって」
「わかったよ。考えればいいんだろ? 考えれば」
「素直になりなよ」
少女の言葉を無視して啓介は考えた。
運命という概念が存在するのなら、自分はどう思うのか。そしてどうするべきなのか。
(もし、運命が存在するのなら俺は……どうするんだろうか)
運命。それは生命が誕生した時から神的存在によって与えられている“決められた事象”のことであり、全てに適応・行使される絶対のルールと呼ぶべき概念。
物難しそうな顔で考え込む啓介に対して話を円滑に進めるためか少女は説明を加えようと口を開く。
「じゃ、質問に対する回答を出しやすくするためにフォローでも入れておこうか。……人間っていうのは“過去に起きた事象に限定”して運命という言葉を使う。運命の恋人とか運命の出会いとかそういう感じで使われているね。でもこれってある意味正解である意味不正解な訳」
啓介のためを思ってか差し込まれたフォローのようだが、難しい言葉を使う上に非常に回りくどいしゃべり方のせいかイマイチ話の意図が掴めずに啓介は眉をひそめる。啓介が無能な為か少女の話し方がへたくそな為か、もしくは両者かはわからないが、これではフォローになっていない。
「意味が分かってないのかな? じゃあ、簡単に言おうか。“人間は過去に限定して運命を持ち出すが故に不正解”な訳」
「……つまり、お前の運命論云々を前提とするならば、“運命は過去のみならず現在にも未来にも適応される”ってことか?」
「なんだ、ちゃんと理解できるじゃない」
少女はそよ風に揺られる前髪を右手で抑えて感心したように話す。
白人よりも白く太陽の光が透き通りそうな白肌が啓介の目に焼付けられた。満月のよく見える夜のような暗闇に支配されたこの空間では彼女の白色が神秘的な程に栄えていた。
「……まぁ結局のところ人類は運命を理解しきれていないわけ。過去に起きた事象を『運命の出会い』だの『神様によって導かれたもの』だの言い放つくせに、未来の事象に対しては『頑張れば変えられる』だの『努力すれば未来は変わる』だの言い放つ」
啓介は少女のその言葉を前提条件に加えなおして再思案する。
もし、運命という概念が実在してこの世界を統制しているというのならば――。
啓介がこの17年間という短い人生で経験してきた全ての事象は“最初から”決められていということであり、そこには啓介自身の自由意志や自我が存在せずに彼は神的存在の敷いたレールを何も疑うことなく歩いてきただけだったということになる。
無意識か歯を噛みしめた啓介を前に少女はニヤリと笑みを浮かべて見つめる。
「そう。もしも、運命が存在するというのならば君の“無能”は最初から決定された事象ってわけになる。君がいくら努力しようともその運命を変えることはできない。だって、運命とは時間や人間の精神よりもさらに上位に位置する言語では到底説明することのできない不可解で曖昧な概念なんだよ? 努力如きで未来が変わるわけないじゃない」
「……それが真実なら、の話だろ」
もしも運命が実在するなら、と仮定した際に啓介の内側を覆ったのは気持ち悪いものだった。それを否定したくて啓介は“仮定”という言葉へと逃げ込んだ。
しかし少女は彼を逃さずに追いつめる。
「そんなこと言いながら、アナタだって心のどこかで感じたんじゃないの? 運命の存在を」
「……俺は運命なんて非論理的なモノに自分の無能の責任を転換させたくないんだよ」
「立派だねぇ。まぁ、いきなり運命を信じろ、自分の今までの人生が無駄だったということ受け入れろと言われても受け入れられないか。諦めの悪い人間なら特に」
少女が啓介の方に向かって歩み出す。そしてそれと同時に得体の知れない不気味さを背筋に感じた啓介は急に心の底から湧き出てきた恐怖心を抑えつけようとして気が付いた。
(か、身体が……動かない)
まるで冷凍保存されたかのように啓介の身体は動かなかった。金縛りとはまた別の息苦しさを感じる身体の停止に混乱しながらも啓介は目の前の少女から視線が外せなかった。
啓介の人間としての、生物の一匹としての本能が叫んでいるのだ。背中を見せるな、と。
(目が、離せ、ない……)
少女の歩みは啓介の数歩手前で止まる。距離的に1メートルも離れていない筈なのだが、少女の顔はぼやけて見ることができない。
「この世には、“3種類の人間”が存在するの。1つ目は“神に寵愛を受けた人形”で、2つ目は“神に選ばれた人形”、そして3つ目が“神に見捨てられた人形”」
肩を大きく出した白のカッターシャツに赤黒のチェックスカートという奇抜な服装で身を包んだ少女は手を伸ばして啓介の顎に触れた。
細く儚さを感じさせるような子供っぽい手だったが、何処か妖艶さと清楚さという相容れない2つの要素を同時に含んだ手の動きに啓介は不思議な感覚に襲われる。
「よくわかるでしょう? ……1つ目の人種は“先天型の天才”。2つ目の人種は“後天型の天才”。そして、3つ目の人種は“凡人”。……地球上に生きる人間はこの3種類の何れかに属することになっている。無能のアナタは、この話をさっきの運命論と合わせて前提条件に入れて……どう思うのかな?」
無能。それはかつて啓介を苦しめ、今でも苦しめ続ける言葉である。
天才。それは人間が通常の努力を行うだけでは決して到達できないであろうレベルの才能を持つ人間に対する最上級の賛辞的形容であり、特殊相対性理論を提唱したアインシュタインや1300もの発明を行った天才発明家のエジソン、絵画や彫刻から人体学にまで精通していたというダヴィンチ、音楽の天才と形容されるモーツァルト、数学の魔術師と呼ばれた天才数学者のラマヌジャン、万有引力の法則を提唱したニュートン、後世の新表現主義画家たちに多大な影響を与えたという画家のピカソなどが挙げられる。誰もが後世に何らかの形で自分の存在を残した人類の宝とも呼べる存在であり、今日の人類社会を築く尊敬されるべき面々だ。しかし、それと同時に啓介の底辺を醜く成し上げた元凶である。
「先天型の天才。まさしく神の寵愛を受けた人間であり、ありとあらゆる人間の上位に立つ存在になる未来を持つ人種」
“先天型の天才”。先程挙げた天才たちはまさしくこちらに分類される存在であり、彼らこそ“神に深く愛された人間”だ。生まれた時から斬新な着眼点や独創性を発揮して周囲の凡人から孤立こそするものの、最終的には人類史に名を残し、後世にまで語り継がれるような発明や発見をする存在が彼らである。勿論、これらに属する天才たち全員が奇人変人というわけではなく、常識を兼ね備えながらも優れた才能を発揮するゲーテのような存在もいるが、性格に問題があるにしろないにしろ彼らに共通する点は『神に溺愛された存在』という点にある。
「後天型の天才。先天型ほどの寵愛は受けないにせよ、人生において努力を続けることによって報われることのできる人種」
“後天型の天才”。彼らは生まれた直後や幼少期こそは凡人と大差ないレベルであるが、努力によって圧倒的な才能を目覚めさせ、先天型の天才と同格かそれ以上の存在へと進化するタイプの天才である。芸術やスポーツといった類の分野における天才はこちらに分類されることが多く、彼らの中には悦に浸ることなく常に高みを目指して努力を怠らない立派な人間が多い。勿論、先天型の天才も努力することはあるのだが、後天型の天才と比べると努力の差は歴然であり、そこが彼らを区別する定義として用いられるのだ。
「そして、凡人。神に愛されず、神の愛した人間を引き立てるためだけに生み出された人種」
“凡人”。何の卓越した才能も持たず、良くても平均より少し上なだけの才能を持った存在。身も蓋もない言い方をすれば『天才たちの才能を引き立てるための雑用係』である。天才を天才で至らしめるための引き立て役として存在し、彼らを尊敬する存在である。人類社会というシステムを動かすための存在であり、チェスでいう歩兵、囲碁でいう歩兵とされる存在。世界を動かすために必要不可欠な存在であると同時に“個”が評価されない存在だ。
「……」
「世界を支配するは3種類の人間。でも、全ての人間が同じ世界に生きているわけじゃない」
「……」
「どうして、神は人間を“差別”するんだろうかね。どうして、神は──」
神を罵倒するように呟かれる少女の言葉が啓介の耳に透き通るように響き渡る。どこか達観めいたような、しかしわずかに憎しみと悲しみを織り交ぜたような声だった。
「“全ての人間“を救おうとしないんだろう」
明晰夢の中の自身の妄想の具現的存在だというのに啓介は少しだけ目の前の少女に対して興味を抱いた。単に己の深層意識が生み出した存在が『自分の無能を認めろ』と囁いている啓示のようなものだと考えていたが、どうやら啓介の考えていた夢とは違うようだ。もしかすると、“異常”を渇望する自身の意識が関係した夢なのかもしれない。
啓介は口の中にため込んでいた空気を吐き出すように率直な感想を告げた。
「真実味に欠ける話だな」
他人を前にしたときは嘘と出まかせしか口にしないような啓介が、目の前の少女だけには素直な感想を告げた。恐らく気持ちの悪い自問自答くらいには考えているのかもしれない。
少女はその回答を聞いてため息をつくと先ほどまでのやや落ち込んだような声が無かったかのように元の声色へと戻る。
「……まぁ、今は信じなくてもいいよ。いずれは嫌でも信じないといけなくなるから。これはアナタがどれだけ努力しても変えられない運命だから」
「努力……ねぇ。もしも、お前の仮説が実在するという前提なら、凡人である俺は努力をしても意味がないっていうことなのか?」
「勿論。努力なんて無駄。無駄の極みだよ。先天型の天才でも後天型の天才でもない凡人の努力が実るわけないじゃん。天才になるという運命を持たない凡人の努力は血の滲むような──それこそ天才以上の量の努力をこなしても“方向性の間違った努力”として修正されて無駄になるんだから」
まるで悪魔の誘惑だと啓介は頭の片隅で考えた。自身の努力不足や能力の低さを“神”という不確かな存在に責任転換でき、自身の無能を正当化できてしまうのだからこれは間違いなく“誘惑”だ、と。
「努力を無駄に修正された凡人は空しい結果を得るだけでなく、挫折を経験し、自分は“社会を創造する存在”ではなく“社会を動かす存在”なのだと理解する。そして、神が決めることができるのは誕生・過程・終焉のみであって“個体の思考”までは定めることができないという設定がさらに凡人を苦境へと追いやることになる」
自分の分身と理解しているはずなのに何処か引き込まれるような魅力を持つ少女。何があれば、何処までも普遍で凡庸で平行線を辿る凡人である自分自身からこんな“魅力”を持つ分身が生まれるのだろうか?
しかし、それは客観的に考えればもう一人の自分に惹かれているということであり、第三者からすれば自性愛者に認定される以上の気持ち悪さを持つことになるのだが、彼はそれに気付いていなかった。
「考えてもみなよ。野心あふれる天才ややる気のない凡人ならば大した苦行にはならないだろうけど、やる気のない天才と野心あふれる凡人にとっては“自分の思考と行動が常に乖離する人生”を送らないといけないわけだよ? 行動が制限された状態での自由な思考。それはとても残酷な拷問だよね」
「……だからこそ人は無駄な努力に人生を捧げるって言いたいのか」
かつて発明家エジソンは『1%の直感が無ければ、99%の努力は無駄となるだろう』と言った。彼自身、元から持ち合わせた才能だけでのし上がった人間ではなく、何度も実験を失敗して成功へと導いた努力の人であり、この言葉は彼の長い経験から生み出された素晴らしい名言であることには間違いない。しかし、もしも彼の言った『1%の直感が無ければ、99%の努力は無駄となるだろう』という言葉でいう“1%の直感”が元から存在していなければ、この言葉はどうなるだろうか?
そんなことを頭の片隅で考えていた啓介は少女の視線を感じ、思考を中断させる。感じる視線はまるで悲しそうな者を見るものであり、彼の一番嫌いな視線だった。
「さて? とにかく人間っていうのは中途半端な自由を得たが為に才能や努力、限界といった存在を正確に計ることが出来ない。……先天型の天才の行う努力は『才能という包丁を更に鋭く仕上げるための砥石』のようなもの。後天型の天才の行う努力は『才能という刀を鍛え上げて形にするための金槌』のようなもの。そして、凡人の行う努力は『卑金属から金を練成するための錬金術』のようなもの。これを理解できない人間が多すぎるよ」
「……お前は努力を否定するんだな」
「当たり前だよ。自分が“そうなる運命”を持っていないとわかっていながら努力をするなんて余程の物好きでもない限りしないと思うよ? 生物にとって時間は有限なんだから」
確かに誰だって『自分の特にもならないようなこと』のために自身の貴重な時間を数年も数十年も使いたいとは思わなだろう。何物にも代えることのできない時間と言う存在を無駄にしてまで超えることのできない限界を超えることに挑戦する猛者は一握りだけだ。
「アナタは、報われない努力を続けて何を成し遂げたいの? 自分は頑張ったんだという無益な満足感のため? それとも才能はなかったけど頑張った自分は偉いんだという自己満足のため?」
啓介は言葉に詰まった。
何も答えられない啓介を前に少女は追い詰めていく。
「アナタは神や運命を胡散臭いと言い放ち、そんなものに人生を傾倒させていられないと言い放った。自分の力が及ばないことを神と言う空想の産物のせいにしているだけだと言い切った。でもね、神や運命が存在しないということを決めつける証拠は何もないじゃない?」
正論だ。神や運命と言う存在を啓介が勝手に“空想の産物”と決めつけているだけであり、存在を否定することが出来るような客観的証拠は何も存在していない。
「まぁ、元来から人間は堕天使の言葉には耳を傾けにくいから私の言葉を信じてくれないのは仕方ないとは言えるんだけどね」
自らを「堕天使」と名乗った少女は溜息を吐く。赤と黒の短いチェックスカートと腰のベルトにつけられた大量のチェーンがジャラジャラと音を立てる。
そして霧の中から紅く光る双眸が現れ、啓介をジッと見つめる。まるで獲物を見つけた猛禽類のような瞳だったが、そこに彼は少しばかりの恐怖と美しさを感じてしまった。
少女は白く細い手を伸ばして身動きの取れない啓介の顎を撫でるように触る。唐突過ぎる行動に目を開いて驚愕する啓介だったが、身動きが取れないために抵抗はできなかった。
「それでも心が揺らいでるってことは、可能性があるってことか。神からの妨害が少ないのはアナタが人類のはみ出し者であるからかな?」
「……はみ出し者ってどういうことだよ」
「その言葉、アナタが一番理解できてるとは思うけどね」
啓介は黙り込むしかなかった。啓介の弱点を的確に突いてこの少女が話を進めてく度に彼は自身の胸中から浮かび上がってきた筆舌に尽くしがたい感情をに苛立ちを覚えていく。
「堕天使の言葉に耳を傾ける時点で“はみ出し者”であることは違いない。それが使い捨てであろうと、希少品であろうともね。……アナタの不幸は、才能面ではなく精神面での異端が強調されてしまったという点かな。うん、才能面が追い付いていれば奇人変人の天才として生きることが出来たのかもしれないけど」
自分を格下と見据えたその言動に啓介は歯を食いしばる。まるで自分が嫌悪する存在と同じではないか。自分の深層意識から生まれた目の前の妄想はこんなにも自分の嫌いな存在に似ているというのだろうか、と啓介は苛立ちと不安に駆られた。
コンクリートのように冷たい床の温度を足の裏に感じながら啓介は何か言い返そうと口を開いた。
「自分を堕天使だなんて自称するような変人女にだけは異端児なんて言われたくねーよ。お前が俺ならわかってんだろ? 俺は──」
「いい加減に認めなよ、凡人」
冷たく言い放たれた言葉に啓介の口は止まる。
少女は両手の指を絡めて手遊びしながら面白くもない者を見る目で啓介を眺める。
「神に愛されて育った主人公でもなければ、主人公を持ち上げるための脇役でもない。主人公が活躍するための世界の歯車を動かすためだけに生きる凡人が何を言ってるのさ」
「な……」
「認めなよ。自分が“無能”なんだって。自分は努力しても天才に追いつけないんだって」
「っ……! それでも俺はッ! 俺は天才に追いつかねーといけないんだッ! お前なんかに俺は今までの自分を否定されたくなんかないッ!!」
啓介は心の底から叫んだ。怒りをぶちまけるような叫びだったが、少女は全く動ずることもなく、子供の癇癪を見るように啓介の叫びを聞き続ける。
「俺がここで天才に追いつくことをあきらめたら皆に顔向けできないし、俺だって嫌なんだよッ! お前にわかるってのかよ!! 俺が、俺が──!!」
「まぁ待ちなよ」
少女が平坦な声で静止する。どう考えても怒る啓介を抑えることが出来るような声ではなかったが、啓介の声はピタっと止まった。まるで外部から強制的に干渉されたかのような静止だった。
「私は何もアナタに“無能”を告げるためだけに下界に降りてきたわけじゃない。私の話最後まで聞いてくれないと」
その背筋を冷たくするような恐怖をチラつかせる紅き眼光に啓介はたじろいだ。不良の集団に絡まれた時のような恐慌状態でも、目の前で人身事故が起きた時の恐慌状態でもないもっと別の恐ろしさを秘めたていた眼光は啓介の動きを止め続ける。まるで、蛇に睨まれた蛙。そう、人間よりも上位の存在が現れたときのような感覚。エイリアンと遭遇した人間の状態とでも表現すれば良いのだろうか。啓介はそんな感覚に襲われていた。
「私は“努力を信じている純情な人間”を貶めるためにアナタに運命論と神の存在を話したわけじゃない。一応、堕天使ではあるけれども私はそういうことは好まないし、どっちかというと平和主義者だし」
「…………」
堕天使。運命論。神。まるで自分を人外だと称するような言動を前に啓介は停止していた。いつの間にか口の中が乾き、声が出なくなってしまっている。流石に震えるような醜態までは晒さなかったが、彼は目の前の少女に“コイツは人間じゃない”という確信を抱いていた。彼女の紅き眼光の前に顔を逸らす事も出来ず、身体も動かせない。恐らく生物としての本能が目の前の存在を上位存在だと認識し、思考が停止してしまっているのかもしれない。
「私は、アナタに契約を持ちかけるために降りてきたの」
少女は左足を一歩だけ前に出す。子供のように細く幼い雰囲気を纏わせながらも色気を感じさせる足がはっきりと啓介の目に映る。
「アナタの努力は報われない。でも、アナタは努力し続ける運命を与えられている。努力紙を結ばないのに努力させ続けられる運命。学校の成績で高得点を収めようと努力しても、モテようと努力しても、お金持ちになろうと努力しても……全ては報われない」
顎を触れていた手が離れていき、右足が霧の中から姿を現す。ぼやけていた彼女の姿が徐々にはっきりと啓介の目に映っていく。
「……仮に、俺が先の運命を知って、嫌ったとしてもそれは変える事が出来ないんだろ? 絶望して自殺しようと思っても死ねない。必ず、努力する辛さと失敗したときの絶望を味わい続けていかなければならないんだろ?」
「だからこその“堕天使との契約”なんじゃないの?」
完全に相手のペースに乗せられていたが、啓介はそれでも口を開いて抵抗の意思を見せた。
しかし、それを一蹴して少女は自分の左手の指をペロリと舐めて言い放った。妖艶な微笑みは少女の雰囲気を、幼い人形のような儚さを消し去っていた。
「私は“堕天使”。神の嫌いなことは何でもするような種族の生物。……神は自分の玩具を横取りされるのが大嫌いだからね」
完全に姿を現した少女の全貌を前に啓介は唖然とする。霧の中で見たライトブルーよりも美しく鮮やかな髪に人外を感じ、これが明晰夢なのか現実なのか分析できずに益々混乱していく。
「私達なら、“堕天使”なら、“悪魔”なら……運命を変える事が出来るよ?」
かつて神に仕えた神より生み出された神の下僕。神に並ぶ力を手にした存在は啓介に抱き着いた。啓介の逞しくもない胸板に少女の顔がこすり付けられる。
「“悪魔”は人間の欲望を満たす事が存在意義。アナタの欲望は“運命からの開放”。……叶えてあげるよ? 私の名前を、アリエルという名を呼んで願いを叶えてくれるように望めば、アナタに本当の自由を与えてあげる。だからさぁ──」
アリエルは啓介の顔を見上げると肩を掴んで啓介の耳を寄せる。
そして、他の生物の気配が全く感じられないこの場所でアリエルは啓介に囁きかけた。
「私と契約して、超能力者になってよ」