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石の秘密

5 石の秘密


 外は雨が降っている。

 人々の活動を制限するように、そうして出歩くことを思い止めるように、でも生活しないわけにはい

かない、人々は傘をさして空を見上げる。皆は其々に恨めしそうな顔で。


 昨日の残りのカレーで多舞と一緒に朝食を済ませる。

 いつも朝食を摂らない羅冶雄だが、しかし多舞に促されて、しかたなしに今日は食べる。

「さてと」

 食事の後片付けを終えた羅冶雄は、そう言ってハンガーに吊るしてある上着に手をかける。

「どこかにいくの?」

 炬燵に入ってテレビを見ている多舞がそう声をかける。

「ああ、この石の事を色々調べなければいけない、だから図書館に行く」

 今日は休日、その時間を利用して石の事が書かれた文献がないか図書館で調べてみる予定を立てていた。

 石の秘密を解き明かすために少しでも情報がほしい、

「わたしもいくの」

 多舞はそう言って炬燵から出て立ち上がる。

「おまえはここにいてもいいんだぞ」

 外を出歩くよりもこの部屋にいる方が多舞にとっては安全なはず。

「ついていったらだめなの」

 つまらなさそうな顔で口を尖らせて多舞がそう言う、

 そんな多舞を見て羅冶雄は、

 この部屋に置いていくより一緒にいるほうが安心できるか、それに勝手にどこかに行かれる方が心配だしな、とそう思い、

「わかった。一緒に行こう」

「お出かけなの」

 多舞はそう言ってうれしそうに微笑み、そしてテレビを消して羅冶雄に駆け寄る。

「行こう」

 そう言って部屋の戸を開けると雨音が大きくなる。

 扉の横に置いてある傘を手にしてふと気付く、そう言えば傘はこれ一本しかない。

 多舞の分の傘がない。

「傘が一本しかない、悪いがおまえやっぱり部屋にいてくれ」

「傘なんて必要ないの」

「どうして?」

「傘を差して歩くとあぶないの、よく車やバイクに引っかけられるの」

 誰にも認識されない存在の多舞は人や車に避けてもらえない、そのため道を歩くときは始終周りを警戒して歩かなければならない、傘を差すと視界が悪くなり、さらに接触される場所が増えて危険が倍増してしまう、

「危ないのはわかった。でもずぶ濡れになるぞ、がからやっぱり部屋にいろ」

 多舞は子供のようにその場で飛び跳ねながら、そして口を尖らせ、

「わたしもいくの!置いてきぼりはいやなの!」

 そんな駄々をこねる多舞を見て、

 こいつは本当に子供なんだな、しかし子供なら言い出したら聞かないだろうし、それに人の言うことを聞かない超マイペースな奴だし、だから置いて行っても勝手についてくるだろうし、しかたないなとそう思い、

「わかった。俺と一緒にこの傘に入ろう、そうすれば濡れないしそれに安全だ」

 羅冶雄を恨めしそうに見てぴょんぴょん飛び跳ねていた多舞は急にそれをやめて、

「やったの、ラジオとあいあい傘なの」

 そう言ってうれしそうに微笑む、

 あいあい傘と言われて羅冶雄は急に恥ずかしくなる。

 女の子と1つの傘に一緒に入る。今までそう言うシチュエーションを想像したことはあったが経験するのは初めてだ。

「こ、今回は緊急処置でしかたなく一緒に入るんだ。そのうちおまえは雨の日に傘を差して歩けるようになる。そうなったら別々だ」

 赤くなってそう言う羅冶雄の顔を不思議そうに多舞が見つめる。

「行こう」

 そう言って羅冶雄は傘を開く、

雨の中を傘の下の2人は道を歩く、しかしすれ違う人達の目には変な角度で傘を差し、そのせいで肩が濡れているのにそれをまったく気にしない、そんな変った少年がいるだけにしか見えない。

 雨はまだしばらくやみそうにない。



 駅前のバスターミナルからバスに乗り羅冶雄は図書館前に到着する。

 いつもなら金を払ってバスに乗ることなんてしない、しかし今日は特別だ。

 雨の降る中を図書館までの長い距離を多舞と一緒に歩くわけにはいかない、羅冶雄はいくら歩いても平気だが多舞が疲れてしまう、それにどんな危険が待ち構えているかわからないしバスに乗った方が安全で速い、だから背に腹は代えられない、しかも多舞の分のバス代は払わなくて済む。

 図書館前のバス停でバスを降りた2人は門をくぐる。『福石市立図書館』入口にそう書かれている。

 休館日は月曜日、だから今日は開かれている。

 入口に置いてある傘袋に傘を入れて羅冶雄は館内に入る。雨のせいか図書館にはそんなに多く人はいない。

「ここはどこなの?」

 羅冶雄の横を寄り添うように歩く多舞がそう尋ねる。

「ここは本を読む所だ。調べ物も、それに勉強も出来る」

「絵本もあるの」

「ああ、沢山ある」

 羅冶雄は児童書や絵本が置いてあるコーナーに多舞を連れて行く、ここにいればきっと退屈しないはず。 

 多舞は棚に並べられた絵本を見てうれしそうに目を輝かせる。

「おまえはここにいてくれ俺は調べることがあるからあっちにいく」

「わかったの」

 そう言って多舞は一冊の絵本に手を伸ばす。タイトルは『きえてしまったおんなのこ』

「……」

 誰が書いたんだ!こんな絵本。

 心の中でそう突っ込んで歩き出そうとしてふと気付く、

「おい多舞、おまえ昨日のあの袋持っているか」

「もってるの」

「ちょっと貸してくれないか、それの事を調べるから」

 多舞はベストのポケットから袋を取り出すと、はいと差し出す。

 それを受取って、

「悪い、ちょっと借りる。必ず返すから」

 そう言うが、しかし絵本を熱心に読み始めた多舞はもう返事をしない、

 そんな多舞をしばらく見つめて、それから羅冶雄は歩き出す。語学書コーナーに向かい。



 石の秘密を解き明かす。その作業は難航していた。

 袋の文字は判らない。

 語学書コーナーで世界各国で使われている文字と照らし合わせてみても該当する文字はない、だから今は使われていない文字かと思い、そして考古学コーナーで古代文字と照らし合わせてみても、そこに合致する文字はない、それなら石の事が書かれた文献はないか、そう思い鉱石図巻から民話、伝説、ファンタジー小説まで調べるがあの石と合致する記述はどこにも書かれていない、

「ちくしょう!」

 そうつぶやいて大量の本が積み上げられたテーブルを叩く、

 そうつぶやいたのも何度目かわからない、最初そな羅冶雄を白い目で見ていた他の閲覧者達も次第に羅冶雄の周りから別の場所に移動して、今はもう誰も周りにいない、いやなぜか1人だけ、そんな羅冶雄を後ろの席からじっと見つめる者がいる。

 そんな視線のあることには気づかずに羅冶雄は見ていた本を閉じて本の山に積み上げる。

 やはり石の秘密を解き明かす事は容易ないこと、

「どうすればいいんだ」

 そうつぶやいて頭をかかえる羅冶雄に声をかける者がいる。

「高石じゃないか勉強か?」

 その声に振り向くと知らないおやじが立っている。しかしよく見るとそのおやじは羅冶雄の担任の鈴木だった。

 今日はいつものよれよれの背広姿ではなくセンスのいいジャケットを着込み頭にベレー帽を被っている。その印象がいつもと違うため、なんだか鈴木が偉い学者のように見える。

「あんたか…勉強じゃなくて調べ物だ」

 無愛想な声でそう返事する。

「調べ物か?でも意外な所でお前に会うな」

 羅冶雄はムッとした顔になり、

「俺だって図書館ぐらい利用する。あんたは何しに来たんだ」

 不釣り合いな場所に自分がいる事を指摘され、さらに無愛想な声でそう返事する。

「先生は本を借りに来たんだ。文字研究の本だ」

 鈴木はそう言って手にした本を示して見せる。

 何が先生だ!このエセ教師、そう思いながら鈴木の手にした本を見て思い出す。

 そう言えばこの鈴木は高校の国語教師の身でありながら文字の研究で博士号を持っているとか絵里が言っているのを聞いた事がある。ひょっとしてこいつならこの袋の文字が解るかもしれない。

 羅冶雄は急に愛想ある声で、

「あの、先生、先生は文字に詳しいそうですね、これに書いてある文字、何か解りますか」

 そう言って袋を差し出す。

「え、何?」

 鈴木は袋を受け取り、そして眼鏡を直してその金色の文字を見つめる。やがて、

「高石、これは文字ではない模様だ」

「模様!」

 驚いて羅冶雄はそう叫ぶ、

「そうだ。でも模様にも文字同様意味がある。形を表すものそれには必ず意味がある。絵を簡略化したものが模様だ。記号のひとつ前の段階だ。一つの記号には意味がある。しかし記号が集まると一つだったその記号の意味が変化する。たとえば三角形と四角形そして五角形、それが順番に並んでいる。それを見て何を想像する?」

 そう言われて羅冶雄はしばらく考える。そして答える。

「増えて行く、あるいは減っていく」

「そう言うことだ。形を現す模様、それが文字の原点だ。文字は全てのことを表現する」

「模様が文字の原点…」

「そうだ。世界で使われている文字その1つ1つには必ず意味がある。アルファベットだってその1文字に起源がある。元はみんな模様だったんだ」

 そう言いながら鈴木は羅冶雄の手に袋を渡す。

 羅冶雄は鈴木から返された袋を見つめて、

「それならこの模様の意味が解るのは模様を描いた奴だけか?」

「そういう事になる。その形の意味を書いた人以外はその意味はわからない」

「これは何かの暗号か?」

「そうであるとも言えるしそうでないとも言える。模様は絵のようなもの、それが集まれば見る人の解釈によってその意味は変化する」

 羅冶雄は袋の金色の刺繍を見つめて、

「文字だと言うイメージ以外、何も解釈出来ない」

「文字だと言うイメージがあるならきっとそうなんだろう、しかし伝えたい、その理由がわからない限り理解することはできない」

「先生、これは本当に文字じゃないのか?」

「私は世界中で使われている。そして使われていた文字を全て把握している。だから言える。それは文字ではなく模様だと、もしその文字を宇宙人が使っているか、あるいは未開のジャングルの奥地の原住民が使っているのなら話は別だが」

「あんたはどうして世界中の文字を知っていると言えるんだ」

「文字の研究、それが私の生きがいだ。そこの本、それは私が書いた」

 そう言って鈴木は羅冶雄が積み上げた本の中の1冊を指さす。

 羅冶雄はその本を手にして著者名を見る。鈴木隆と書かれている。本のタイトルは『世界の文字の起源と発展』

「…文字じゃないんだったら調べようがないじゃないか!」

 羅冶雄はそう言って手にした本を乱暴に机に置く、

「まあそう言うな研究熱心な事はいい事だ。しかし先生は学校でそれと同じ形の模様の並びを見た事があるかもしれない、何か若者の間でその模様はやっているのかな?」

「別にはやってなんてねぇよ、でもこれと同じものを見たって…どこで見たんだ」

 羅冶雄がそう尋ねると鈴木は上を向いて腕を組みしばらく考え込んで、やがて、

「そうだ!黒いコートの女の子、彼女の持っていた物にその模様が描かれていた」

「黒いコート…」

 あの学校で黒いコートと言えば1人しかいない、

「会長、いや、赤石希美、あの人が持っているのか」

「赤石?……そうだ。彼女が落とした入れ物を拾ったことがある。落としたその場ですぐ返したがあの入れ物にもこれと同じ模様が描かれていた」

 羅冶雄は袋を見つめて考える。石を持つ者は必ずこの模様の描かれた物を持っている。羅冶雄も多舞も、ひょっとして希美も石を持っているのか?もしそうなら石の事を知っているかもしれない希美に聞けば石の事が何かわかるかもしれない、

 考える羅冶雄を見つめていた鈴木はやがて、

「先生はもう行くよ勉強も頑張るんだぞ」

 そう言って背中を向けて歩きだす。その背中に、

「先生、ありがとう」

 思わず羅冶雄はそう声をかける。

 鈴木は立ち止まり、そして振り返って、

「お前にありがとうと言われるのは初めてだな、そんな言葉を使えるんだ」

 確かに羅冶雄が感謝の言葉を言う事は少ない、いや、ほとんどない、どうしてそんな事を言ったのかわからない、

「と、特別な時にしか言わない」

「今日は特別だったんだな」

 そう言って鈴木は微笑むと右手を上げてそこから歩き去る。

 羅冶雄はその背中を見送りながら、

「ちくしょう」

 思わずそうつぶやく、そうして机の上の本を返却せず放置したままそこから歩きだす。

 まだ調べ物は残っている。

 それをするために。



 後ろから羅冶雄を見つめていた人物は携帯電話を取り出して電話をかける。

「もしもし、私です。情報があります」

 周りに人がいないのにも関わらずその人物は小さな声で話す。

「指示されたように図書館を見張っていたら願字を調べている者がいました。ええ学生風の若い男です」

 電話をしながら男はしきりに辺りに気を払う、

「はい、石の事を知っているか、あるいは持っているか、その可能性はあります」

 男は電話をしながら立ち上がって羅冶雄の居た席まで行き、そこに残された本を眺める。

「はい、彼の行動を監視します。身元?それは調べればすぐわかります」

 そう話しながら男は羅冶雄が残した本の中から鈴木の書いた本を掴みあげる。

「では、また後で連絡します」

 通話を終えた男は携帯電話を背広のポケットにしまうと笑顔を浮かべる。

 その笑顔はまるで獲物を見つけたハンターが浮かべる。そんな冷酷な笑みだった。



 羅冶雄はコンピュターの前に座っている。検索しているのは地元新聞の三面記事、10年前の殺人事件、羅冶雄はそれを探す。

新聞なんかのデータは図書館のこのパソコンで見る事が出来る。

 マウスを操作していた羅冶雄の手が止まる。

 10年前の12月5日の日付の夕刊、その記事の見出しに目が奪われる。

 12月5日、それは羅冶雄にとって一番嫌な日付だ。

 その日の新聞には見たくない記事が掲載されている。しかも新聞の一面に、

「よりによってこの日かよ」

 そうつぶやいてモニター画面からしばらく目をそらす。

『夫妻銃殺、強盗か?』

 そしてその日の大きな記事を見ないようにして、その見出しから始まる記事を読んでいく、

 『5日の朝、上石町4番地の石野さん宅を訪れた近所の主婦が自宅の居間で血を流して倒れている石野さん夫妻を発見し警察に通報した。死亡していたのはこの家に住む石野伸一さん(34)とその妻の褌希さん(32)警察が死因を調べた所、銃殺されていると判明、さらに家内を物色された跡が残されていて警察は強盗殺人事件として捜査を開始した』

 人が2人も殺されているのに新聞にはその短い文章が書かれているだけだ。

 そうして多舞の事はどこにも書かれていない、

 これではこの事件が多舞が遭遇した事件かどうかわからない、

 羅冶雄はマウスを操作してその後の新聞記事を検索する。

 しかしこの事件の続報はもうどこにも書かれていない、

 他の新聞を検索するが結果は同じだ。

 事件の詳しい内容を知るには新聞社か警察に問合わせなければならない、しかしその時必ず事件の事を調べている理由も聞かれるだろう、その理由は説明できない、

「ちくしょう」

 そうつぶやいて立ち上がりパソコンの前から離れる。

 多舞が巻き込まれた事件、その真相を知るには多くの人に話を聞く必要がある。しかしそれでも多舞の両親を殺した男の事がわかるとは思えない、また続報がないということは事件が迷宮入りしている可能性は高い、 犯人はまだ捕まっていない、警察の捜査でも見つけられないその男をただの高校生にすぎない自分が見つけ出すことなど出来る筈がない。

「ちくしょう」

 頭を抱えてまたそうつぶやく、そして無力感に苛まれる。

 今まで1人で生きてきた。人の力は借りない借りたくないとそう思い、そうして人を睨んで生きてきた。だから差し伸べられる手はなかった。

 1人でならそれでよかった。1人でも生きて行けた。生きるだけの力があるとそう信じいた。

 でも今はもう1人じゃない。

 頭を抱える羅冶雄の耳に図書館の閉館時間を伝えるアナウンスと音楽が聞こえてくる。

「俺は無力な存在だ」

 そうつぶやいて、そして羅冶雄は歩き出す。

 自分と同じ無力な存在の元に。



 図書館の児童書コーナー、その閲覧席の机の下で平和そうな顔で多舞が眠っている。

 その周りには大量の絵本が散乱している。

 羅冶雄は絵本を手にするとそれを積み上げて本棚まで運んで返却する。そうして全ての絵本を片づけると、

「おい、起きろよ」

 そう言って机の下の多舞を揺さぶる。

「うぅ~ん」

 多舞はそう呻いて、そして薄目を開けて周りを見る。

 やがてその瞳は羅冶雄を見つける。

 そうしてにっこり微笑む、

 その安心と信頼、友愛と絆、そんな感情が込められている笑顔を見て羅冶雄の胸が締め付けられる。

 俺にその笑顔を受ける資格があるのか?何も出来ない、してやれない、ちっぽけな存在のこの俺が…

 その笑顔を見つめたまま、しばらく羅冶雄はその場に凍りつく、

 急に多舞が幽霊なんかよりもっと恐ろしい、そんな存在に見えてくる。

 全てを投げ出して逃げ出したい、そんな衝動に思わずかられる。

 その衝動に耐えようと冷汗を流しながら頭を抱えてその場にうずくまる。

「どうしたの、寒いの」

 心配そうな多舞の声が聞こえる。

「いや、大丈夫だ…」

 そう言って震える羅冶雄に、

「こうすればあたたかいの」

 そう言って多舞が抱きついてくる。

 羅冶雄の体に多舞の温もりが伝わってくる。

 その温もりを感じて不安な心が次第に落ち着いて、いつしか体の震えが収まる。

 俺と同じちっぽけな存在、いや俺以上に孤独だった少女、その少女は俺以上に無力だ。だから、力になる。守ってやる。一緒にいる。大切にすると、そう約束したんだ。こんな最初で怖気づき、そうして挫けてどうする。俺の大馬鹿野郎!しっかりしろ、

 心の中で自分を叱責する。

 そうして羅冶雄は顔を上げる。目の前に心配そうな多舞の顔がある。

「だいじょうぶなの?」

 そう言う多舞に羅冶雄は笑顔を作り、

「もう、大丈夫だ」

 そう答える。

「よかったの」

 そう言って多舞はまたあの微笑みを浮かべる。

 しかし羅冶雄は今度はその笑顔を受け止める。

 この笑顔をいつも見ていたい、いやそれ以上の笑顔を見たい、そう思うから、

「もう閉館時間だ。帰ろう」

 そう言って多舞の手を握る。

「うん」

 手を繋いだ2人は図書館の出口に向かい歩きだす。閉館を告げる名も知らない音楽がなぜか郷愁を醸し出す。

 図書館の外に出るともう雨は止んでいる。

「雨があがったの」

 そう言って多舞が水たまりを蹴ってバシャバシャと水音を立てる。

 その時羅冶雄は気づく、傘を忘れてきたことに、そして立ち止まり取りに戻ろうかと振り返るが、しかし首を振って前に歩きだす。

 後戻りはしない、したくない、そんな気持ちだったから。



 駅前のバスターミナル、その待合所のベンチに2人は座っている。

 コンビニまで行って買ってきたそれぞれの大好物を手に持って、

「おいしいの」

 口の周りにクリームをつけた多舞がそう言う、

「うまいな」

 口の周りにケチャプとマスタードをつけた羅冶雄がそう言う、

 2人は顔を見合せて笑い合う、

 通り過ぎる人達、バスを待つ人達が訝しげに羅冶雄を見つめる。

 その人々の目には1人で笑みを浮かべている。気味の悪い少年がいるようにしか見えないだろう。

 でも、もう羅冶雄は気にしない、人の目を気にする必要なんか最初から無かったのだ。

 今までいつも変な目で見られてきた。だから別に何も変わらない。

 やがて2人は手を繋いで歩きだす。

 歩きながら羅冶雄が尋ねる。

「多舞、おまえ両親の名前覚えているか」

「おぼえているの、お父さんはしんいちなの、お母さんはみつきなの」

「そうか…」

 つぶやくような声でそう答える羅冶雄の顔を見て多舞は首を傾げる。そして、

「どうしてそんなこと聞くの」

 そう尋ねる。

「いや、ちょっと気になっただけだ」

 羅冶雄はそう言って多舞から目をそらすように空を眺める。

 風に流れる雲の隙間から星と、そして爪先のように尖った三日月が見え隠れする。

 雲に隠れてもそこにあることを示すように光り輝いて、

 その時2人が歩く道を突風が吹き、そして多舞の長い髪が揺れる。

 その冷たい風に思わず2人とも、

「寒いな」

「寒いの」

 そう声をあげ、そして互いに顔を見合わせる。

「早く帰ろう」

「帰るの」

 そうして2人は安息の場所へと帰る為に歩き出す。



 翌日の日曜日、羅冶雄は1人で県庁所在地のオフィス街、その1つのビルの前に立っている。

 今日は多舞と一緒じゃない、部屋に置いて来た。多舞にあの事件の事を調べている事を知られたくないし事件の事を思い出して悲しむ多舞を見たくない、そう思うから。

 『FH新聞社』入口にそう表示された建物に羅冶雄は入って行く、入口に立っている警備員が胡散臭げに羅冶雄を見る。

 1階のホールで羅冶雄は受付を探す。

 しかし日曜日のせいか見つけた受付には誰もいない、『御用の方はここに連絡して下さい』、

 電話の前にその表示が立てられている。

 その表示には問い合わせたい内容ごとに番号が書かれている。

 羅冶雄は受話器を手にすると指示された番号をプッシュする。

 数回のコールの後電話がつながる。

「もしもし、こちら資料課、ご用件は」

 無愛想な男の声がそう聞いてくる。

「あ、あのう記事の事で聞きたいんだけど」

「記事の事?苦情か?」

「いや、そうではなく、10年前の殺人事件、その記事を書いた人に話を聞きたいんだけど」

「10年前の殺人事件?話が聞きたい?何を言っている?あんた寝ぼけているのか」

 無愛想な声に面倒くささを込めて男はそう言う、

「10年前に起きた殺人事件だ。人が2人も殺された。でも記事の内容は簡略なもので続報もない、これではその事件がどうなったかわからない、だから事件の事をもっと知るためにここまで話を聞きに来たんだ」

 羅冶雄は受話器を叩きつけたい衝動と戦いながらそう言う、

「10年前、人が2人、続報がない…」

 受話器の向こうの男はそう言ってしばらく沈黙する。やがて、

「それは石野夫妻銃殺事件の事か?」

 男は急にまじめな声でそう聞いてくる。

「そうだ」

 受話器の向こうはまた沈黙する。

 しかし今度の沈黙は少し長い、痺れを切らせて呼びかける。

「もしもし、もしもし、そこにいるのか?おい…」

「あんたは誰だ?どうして事件の事を調べている?」

 羅冶雄の呼びかけを遮るように唐突に男がそう聞いてくる。

「えっ、ああ、俺は高石、高校生だ。学校のクラブ活動の研究で俺の住む街で起きた殺人事件を調べている。事件の起きた顛末をまとめ、それを集めて一冊の本にする。そんな事をやっている。しかしこの事件の顛末はわからない、だからここまで話を聞きに来たんだ」

 あらかじめ考えておいた事件の事を調べている理由を聞かれた場合の回答を言う、

 電話の男はまたしばらく沈黙した後、

「高石だと…学校のクラブ活動の研究?嘘だな…まあいい、お前に興味がある。目の前にエレベーターがあるだろう、それに乗って5階まで上がれ、そしてエレベーターを降りたら右に進め、そうしたら資料課の入口がある。そこまで来い、そこで話を聞いてやる」

 そうして電話が切れる。

 羅冶雄はしばらく手に持った受話器を睨む、そしてそれを乱暴に電話機に置くとエレベーターの前まで行きボタンを押す、そうしてエレベーターに乗り込み5階を目指す。

 ビルの5階、そこは節電のためか照明の大半が消された薄暗い廊下の先に資料課の入口があった。

 羅冶雄はドアを叩く、

「入れ」

 さっきの電話の男の声が中から聞こえる。

 ドアを開けて中に入るとそこにはうず高く積まれた大量の段ボール箱を背にして男が一人デスクに座っている。

 年齢は30代の半ばぐらいで不精髭をはやして長髪でスーツの上から作業着のようなジャンバーをはおり、そして首に社員証の名札をぶら下げている。

「お前が高石か?」

 胡散臭そうな顔の男はそう言って羅冶雄の顔を値踏みするように眺める。

「そうだ」

 そう答えながら羅冶雄も値踏みするように男を見る。

「高校生?まだガキだな、でも気に入ったぜ」

 そう言って男はニヤリと笑う、

「話を聞いてくれるんじゃないのか?」

 羅冶雄は男の横柄な態度にむかついて、眉を吊り上げてそう言う、

「そうだったな、まあ慌てるな、まずは俺の自己紹介をさせてもらおう、俺は新庄拓也だ。社会部の新聞記者だ」

「新聞記者?あんたはこの倉庫の倉庫番じゃないのか?」

「今日はここにいるだけでいつもはちゃんと取材をしている。今の世の中、どこの会社でも経費削減、コストダウンだ。人件費削減だとよ、だから貧乏くじを引いた奴が交代でここの番をする。そういうシステムなのさ」

「あんたの会社の事情なんてどうでもいい」

「けっこうきついんだぜ、1日中こんな埃臭い部屋にいるのも、暇で、暇で」

 そう言って新庄は大きなあくびをする。

「俺はあんたの暇つぶしのために来たのか?」

「まあそう言うな、あの事件の事が知りたいんだろ、教えてやってもいいぜ」

 そう言って新庄はジャンバーのポケットから煙草を取り出して火を着ける。

「あそこに書いてある字が読めないのか?」

 羅冶雄は壁に貼ってある禁煙と書かれた注意書きを指さす。

「ああ、あれは喫煙と書かれているな…」

 そう言って新庄は口から煙を吐き出して輪を作る。

「もういい、事件の事を教えてくれるんだったら早くしてくれ」

 新庄は口にくわえた煙草の煙に目を細めながら、

「クラブ活動の研究と言うのは嘘だろ、あれは殺人事件じゃないからな」

 そう言って羅冶雄の顔を横目に見る。

「殺人事件じゃない?どう言うことだ!」

 驚いてそう叫ぶ羅冶雄の顔をにやけ顔で見ながら新庄は、

「あれは心中事件、警察がそう発表した」

「心中事件?そんな…馬鹿な!」

「ちょうどその日に他に大きな事件が起きてな新聞はその報道のために大きく紙面を割いていてね、だからあの事件の事を大きく取り上げるスペースがなかった、その大きな事件の続報のためにあの事件の続報は掲載されなかった。そう言う事情だ」

 石野夫妻は心中なんてしていない確かに殺された。それを見ていた者がいるのだ。

 多舞が嘘をつくはずがない、嘘をついているのは警察だ。でも、なぜ?

「おい、どうしてこの事件の事を調べようと思った。なぜ心中じゃないと思っている、そう思える何かを、お前は知っているのか?」

 煙草を灰皿でもみ消しながら新庄が茫然と立ちつくす羅冶雄にそう聞いてくる。

「知っている。でもその事は証明できない」

 羅冶雄はそう言って首を横に振る。

「何を知っているんだ。いいから話せ」

 新庄は立ち上がると羅冶雄の前まで歩いてくる。

「石野夫妻には子供がいた。女の子だ」

 羅冶雄は、ぽっりとそうつぶやく、

「子供?あの夫婦には子供はいなかった。子供が欲しいと思うあまり奥さんは頭が変になり、そして子供用の部屋、洋服、学校の勉強道具、そんな物を揃えて架空の子供を育てていた。そんな妻を見かねて旦那は心中に走った。警察はそう発表した」

 そう言いながら新庄は羅冶雄の目を覗き込むように見つめる。

「子供はいた!かわいい女の子だ!その子に聞いたんだ!両親が殺されたと」

 目をそらすように上を向き羅冶雄はそう叫ぶ、

 新庄は羅冶雄の肩に手を置いて、

「あの事件には確かに不自然な事が多い、何かおかしい、俺はそう思った。調べようとした。でも上から取材の許可が下りない、だからあきらめた。しかし今でも真実を知りたい、俺もそう思っている」

「真実は話せない、話す事ができない、わからないから…だから探すしかない」

 羅冶雄はそう言って肩に置かれた手を振り払うと、そこから立ち去るために歩きだそうとする。

「待てよ何がしたいのか知らないが、聞きたい事があるのなら俺に聞け、力になってやる」

 そう言って新庄は名刺を取り出して羅冶雄に手渡す。

「力になるって?」

 羅冶雄は手渡された名刺を見つめる。

「お前は高石羅冶雄だろ、お前とは初対面じゃないんだ。前に会った時にもそう言ったよ」

「前に会った…あんたと?」

「お前に取材した事があるんだ。10年前にお前の親父が起こした事件の取材だ」

 思い出したくない、知られたくない、そんな過去の嫌な記憶を呼び覚まされて羅冶雄の顔が青ざめる。

「10年前の12月4日未明、あの事件は起きた。石野夫妻の事件と同じ日だ。何か関連があるのか?いや、まあいい、あの事件の取材のためお前の住む団地まで行った。母親は会ってくれなかったが公園のベンチに1人で座っているお前を見つけた。お前に親父の事を色々尋ねたが何も答えない、最後にお父さんなんていない、そう言ってお前は走って行った。そう言うことだ」

「そんな事件のことは知らない…それにもう終わったことだ」

 下を向いて堪えるように羅冶雄はそうつぶやく、

「終わっただと、いいや何も終わってないぜ、容疑者であるお前の親父はまだ逃亡中だ。事件の真相もわからず全ては闇の中だ。お前は殺された遺族の前で終わったなんて言えるのか?」

 羅冶雄は両手の拳を握りしめ、そして吐き出すように、

「被害者の償いのために母は身を粉にして働き、そうして体を壊して死んだ。俺はひどい目にあった。いや、今もあっている。もう終わりにしたい、毎日そう思う、でも終わりはない…俺が死ぬまで」

 新庄はまた煙草を取り出すと火を付ける。そうして煙を吐き出しながら、

「お前本当はこんな所には死んでも来たくなかっただろ、ここにはあの事件を知っている人間が多くいるからな、名前を言えばあの事件の容疑者の子供だとすぐにわかる。そんなお前を動かすだけのもの、それがあの石野夫妻の事件にあるのか?どうして?何のためにここまでする」

「何のためかわからない、でも、あいつの、あの笑顔をいつまでも見ていたい、そう思ったんだ!」

 羅冶雄は下を向いたまま叫ぶようにそう言う、

「いったい誰のために?」

「誰にも見えない女の子だ。俺にしか見えない、だからあいつのためにしてやれるのは俺だけだ!」

 煙草を咥えて訝しげに羅冶雄を見ながら新庄は、

「なんだ?幽霊にでも憑かれたのか」

「そうかもしれないし頭が変になったのかも、でも多舞は存在する。俺はそう信じる」

 新庄は煙草を床に落とすとそれを足で踏み消し、

「まあ、やりたいようにすればいいさ、さっき言ったようになんなりと力になってやるから」

 羅冶雄は顔を上げて新庄を睨むと、

「あんたの力はもう借りない」

 そう言って歩きだす。その背中に新庄が、

「お前の親父だが最近お前に連絡とかあったか?」

 そう聞いてくる。

「俺に親父はいない!」

 振り返らずそう叫んで、そして羅冶雄は部屋から走って出て行く。



 デスクに戻りふんぞり返った格好で椅子に座った新庄は目を閉じて考え込む、10年前の同じ日に起きた2つの事件、しかし関連性は薄い、だから同一犯の犯行ではないだろう、

 そうして、その一つの事件の事を思い出す。

 石野夫妻心中事件、しかしその事件は当初は殺人事件と断定されて捜査が開始された。

 しかしその日の夜に警察から心中事件だったと発表があり捜査は終了した。

 拳銃で心中?この国では不自然な死因に疑問を感じて新庄は調べてみた。

 何度も警察に足を運んでも誰も何も言ってくれない、

 多くの人に話を聞いてそして得た結論は、何かおかしい、それだけだった。

 やがて部長から取材禁止の通達が来る。

 公に出来ない理由を秘めた事件、新庄はその真実が知りたかった。

 記事にする為ではない、個人的な好奇心からだ。自分の係わった事の全てが知りたい、

 新庄はそういう性格の持ち主だった。

「俺の知らない事が起きている」

 そう呟くと新庄はポケットから煙草を取り出す。

 しばらくそれを見つめ2つに折って投げ捨てる。

 高石羅冶雄、奴は何か知っている。事件の根幹にせまる秘密を…それを知らなければならない、いや知らずにおけない、

 新庄は立ち上がると部屋から出て行く、

 今はこんな所にいる場合ではない調べなくてはならない事が出来たのだ。



 私鉄電車の車両の中で乗り込んでからずっと羅冶雄はぶつぶつつぶやいている。

 車内は混んでいるのに羅冶雄の周りには誰もいない、

 羅冶雄はさっきからずっと石野夫妻の事件の事を考えている。

 そして考えている事が自然と口からあふれ出す。

「事件のことを闇に葬る。その隠蔽しなければならない理由とは?」

 そうつぶやいて羅冶雄はポケットの中の石を握りしめる。

「この石のせいで人が殺される。それしか考えられない、これにはそんな価値があるのか?」

 そうつぶやいた時に電車が駅に到着してアナウンスと共に車両の扉が開く、そして人が降り、そして乗り込んでくる。

「ラジオじゃない?あんた何してるの」

 乗り込んできた1人が羅冶雄に声をかける。

 その声に顔を上げるとそこには両手に紙袋を4つも提げた絵里が立っている。

 考え事をしているのに話しかけてくるなと思い、迷惑顔で、

「ああ、ちょっと用事だ」

 ぶっきらぼうにそう言って顔を背ける。

「用事?まあいいわ、あんたのおかげで座れるし」

 そう言って絵里は羅冶雄の隣に腰掛ける。

「俺のおかげって?どう言うことだ」

「あんたの周りには人が寄り付かない、そんなエンガチョ野郎だからよ」

「だったらおまえもどこか行けよ」

「私はなれているから平気なの」

 そう言って絵里は笑う、

 その笑顔を見つめて、

 なんだ。こいつもこんな風に笑えるんだ。

 そう思う、いつも怒った絵里の顔しか知らなかったから、

「買い物か?」

 絵里の足元の紙袋を見てそう尋ねる。

「バーゲンよ、安かったのよだからつい買いすぎちゃった」

「服か?まあそれなら買いすぎても困らないな」

 そう言って羅冶雄は絵里の服装を見つめる。そのセンスのいいファッションスタイルは絵里の容姿にマッチしている。学校の制服を着ている時以上に絵里がかわいく見える。

 多舞もこんな恰好をしていたらあのかわいさがもっと引き立って見えるのに、

 絵里の姿に多舞をかさねてじろじろ見つめていると、

「何見てんのよ」

「ああ、すまない服のセンスがいいものだから」

 取り繕うようにそう言うと絵里はまた笑顔になり、

「そう思う?私はファッションコデ―ネターを目差しているの、その人に合ったファッションスタイルを演出する。そんな仕事がしたいの」

「きっと成れるさ」

 そう言う羅冶雄の顔を見つめて絵里は、

「あんた、ちょっと変わった?」

「え…」

「人の事なんかどうでもいい、そんな奴だったじゃない」

「べ、別に何も変わってない」

 絵里はそう言う羅冶雄の顔をしげしげと眺めて、

「なんかいつもと雰囲気が違うし」

「いつもどういう雰囲気なんだよ」

「そうね、いつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えている。みたいな雰囲気かな」

「それはどういう例えなんだ?俺は危険人物か、じゃあ今はどうなんだ」

「タイマーが解除された時限爆弾を持っている。だからちょっと余裕がある。そんな感じかな」

「どっちにしても爆弾を持っているのか?そんな物騒な物持ってないぞ」

「あたりまえじゃない、爆弾があるのは心の中よ、だから捨てることは出来ないわ、消し去るしかないの」

 心の中に爆弾を持っている。そうかもしれない、どれだけの威力があるのか、いつ爆発するのかわからない、そんな爆弾を、だから人と一緒にいられない、人間が起爆装置だから、爆発すると人を巻き込んでしまう、人を傷つける。だから今まで1人だったんだ。孤独だったんだ。

 羅冶雄は向かいの席の窓から流れゆく車外の景色を見つめる。

 永遠に続く住宅地、その1つ1つに人が暮らしている。

 そこには平和で平穏な生活がある。いや、そう見えるだけだ。心に爆弾を持っているのは俺だけじゃない、 いや、もっと恐ろしい物を抱えた人間もいるだろう、人はそんな存在の脅威にさらされて生きているのか、そうして俺も人の脅威となる存在だったのか?

「ちょっと、どうしたのよ考え込んで」

 無言で考え込む羅冶雄を不審に思って絵里が話しかける。

「ああ、ちょっと考えごとをしていた」

「爆弾とか言ったから怒ったの」

「そうじゃない、いや、おまえのおかげで気づいた。逆に感謝したいぐらいだ。ありがとう」

 そう言うと絵里は驚きの表情で羅冶雄の顔を見つめる。

「どうした?」

 驚かれるのを不審に思いそう尋ねると絵里は真顔に戻り、

「あんたやっぱり変わったわ、人に感謝したり、そんな言葉を口にするなんて今までなかったじゃない」

「今まで感謝するような事がなかっただけだ」

 絵里は羅冶雄の顔をまじまじと見つめて聞いてくる。

「あんたを変えるような事って…いったい何があったの?」

「死神かもしれない天使と出会ったんだ」

 羅冶雄はそう言って顔を背ける。本当の事を話しても信じてもらえないしその天使の姿を見る事が出来るのは羅冶雄だけだから、そうして絵里の言うようにその出会いの後に確実に自分は変わった。そう感じる。何が変わったのかわからないが、

「死神?天使?なにそれ、でも赤石先輩の占いはやっぱり当たるのね」

「どうして?」

「彼女が言ったようになっているからよ」

「……」

 そんな事はない、そう否定したいが否定できるものがどこにもない、だから羅冶雄は黙り込むしかなかった。

 そのとき電車が速度を落として駅に到着する事を知らせるアナウンスが流れる。そこは羅冶雄が降りる駅だった。

 羅冶雄は降りるために立ち上がり振り返って座ったままの絵里を見る。

「あれ?降りないのか?」

「私が降りるのはもう一つ先の駅よ」

「そうか、じゃあな」

 電車が止まり扉が開く、そして降りようとする羅冶雄の背中に絵里が、

「また明日ね、それから始業の礼はちゃんとするのよ」

 そう声をかけてくる。しかし羅冶雄は振り返らず。

「ああ気が向いたらな」

 そう言って電車から降りる。ホームから歩き出そうとしたその時、車両の扉が閉まる。

 振り返って窓越しに車両内を見ると、こっちを見つめている絵里の姿が見える。

 視線が合って、やがて絵里は微笑んで右手を上げて左右に振る。

 思わず羅冶雄も手を振り返す。

 電車は動き出し絵里の姿は見えなくなる。羅冶雄は思わず振ってしまった手を見つめて立ち尽くす。

 絵里はいつも小言を言ってくる。そんな奴だったじゃないか、言わば敵のような存在、そんな奴に心ゆるしたようになぜ手を振った。なぜ?

「ちくしょう!」

 羅冶雄は大きくそうつぶやいて上着のポケットに手を突っ込んで歩きだす。

 ポケットの中の石を握りしめて。

 そんな羅冶雄を見つめる視線がある。視線の主の男は携帯電話を取り出して話しながら羅冶雄の後ろをついていく、

「どうやらあの事件の事を調べているみたいです。理由?解りませんが、どうします。行使しますか、ええ、わかりました。まだしばらく泳がせます」

 携帯電話をスーツのポケットに仕舞いながら男は残虐な笑みを浮かべる、先延ばしにした方が楽しめる。そう言いたげに。



 スーパーで買った食料の入った袋をぶら提げて羅冶雄は部屋の扉を開ける。

「ただいま」

「おかえりなさいなの」

 今までこの部屋に羅冶雄の帰りを待つ人はなかった。1人きりの孤独な空間、外と何も変わらない、でも、今は違う、そこには自分の帰りを待っていてくれる人がいる。

 部屋に入った羅冶雄はしかし異変に気づく、部屋の中は切り刻まれた紙屑が散乱している。

「なんだこれは?」

 紙屑を手にして見つめるとそれは見覚えのあるグラビアの1部だった。

「な、なにっ!」

 驚いて部屋の奥を見るとそこには健全な青少年の秘蔵コレクションを鋏で切り刻むかわいい魔女の姿がある。

「何しているんだ!多舞、おまえ」

 そう叫ぶ羅冶雄を見て多舞はにっこり微笑むと、

「エッチな本は悪い本なの、教育上よくないの、PTAのおばさんが言ってたの、だから見られないようにして捨てるの」

「やめろ!」

 そう叫んで多舞に駆け寄り手にした本を奪い取ろうとするが、それより早く多舞は手にした本を器用に切り刻む、

「これで最後なの」

「……」

 苦労して集めた秘蔵コレクションの残骸の中に倒れ込み、そして羅冶雄は絶句する。

 勇気を出して本屋で購入した本も、動労の対価として手に入れた本も、落ちているのを拾った本も、全て紙屑と化してしまった。

 エロ本の残骸を握りしめて顔を上げて多舞に言う、

「あのう、多舞さん、これは健全な男の必需品なんですが、どうしてこんな仕打ちを…部屋に置いていった事を怒っての狼藉ですか?」

 しかし多舞はキョトンとした顔で、

「別に怒ってないの、悪い本を見つけたから処分しているの、でも必需品?何に使うの」

「……」

 その質問には答えられない…羅冶雄は立ち上がりゴミ袋を取り出すと秘蔵コレクションの残骸を中に入れ始める。

「怒っているの、なにか悪いことをしたの」

 無言で掃除する羅冶雄に多舞が不安そうにそう尋ねる。

「別に怒ってないよ、それにこれはもう必要ない、だから捨てようと思っていたんだ。丁度よかった。だから気にしなくてもいい」

 そう言って笑ってみせる。

「よかったの」

 そう言って多舞は手にした残骸をゴミ袋の中に入れる。

 羅冶雄は『ちくしょう』とつぶやきたいのを必死に堪える。

 1人じゃないと言う事は相手のために我慢が必要、離婚する夫婦がいる理由がわかったような気がする。

 羅冶雄は笑いながら涙を流して部屋を奇麗に掃除する。



 羅冶雄は夕食を済ませた後で炬燵の上に石を置き、それをずっと見つめている。

 多舞は炬燵の中に潜り込み顔だけ出してテレビを見ている。その番組はサスペンス劇場、1人の少女が事件に巻き込まれる内容の話だ。

 テレビを見る気のない羅冶雄は石を見つめて考える。たぶんこの石の事を知る者は少ないと思う、これが真に価値のあるものならその事を人に話したりしないだろうし誰もが石を求める。そうして奪い合いが始まるから、この石をめぐり血が流される。石野夫妻はその犠牲になったのか?偶然手にいれた石を価値あるものだとは気づかずに娘に渡し、しかしその事に気づいた石を求める何者かによって殺されたのか?その石を求める者は権力にも干渉できるだけの力を持っているのか?石を持っている俺も誰かに狙われているのか?今すぐ何者かがこの部屋に乱入してきて俺を撃ち殺し、そうして石を奪って行く、そんな事が起きるのか?やっぱりこれは呪いの石なのかもしれない、そうなる前に、一刻も早く石の秘密を知る必要がある。

 母さんはこの石の事を何か知っていたはずだ。しかしその全てを話さず死んでしまった。話す必要がなかったのか、話せない事情があったのか、今はその理由はもうわからない、しかしどうしても石の秘密を知らなければならない、そうしなければ石によってあんな存在になっている多舞を元に戻す事が出来ない、

「もしも石を奪いに来た奴がいたら、その時は逆に捕まえて石の事を聞けばいいんだ」

 そうつぶやいて強がって見る。

 しかし拳銃を持ち躊躇なく人が撃ち殺せる奴にどう立ち向かえばいいんだ?しかもそんな奴が一人だけだという保証もない、どうすればいいんだ。

 羅冶雄は見えざる巨大な敵の姿を想像して身震いする。

 そんな奴らがやってきてもただの高校生にすぎない自分が敵う訳がない、おとなしく石を渡してお引き取り願うのが得策か、でも…

「ああ、もういい、そんな起きてもいない事なんてどうでもいい」

 そうつぶやいて石をポケットにしまう、

 とにかく今出来ることは石の事を知っている可能性がある。赤石希美と話をする。それだけだ。

 そう思った時に羅冶雄は異変に気づく、今まで炬燵に入りテレビを見ていたはずの多舞がいつのまにか炬燵から出て立ち上がり、そうして部屋の壁を見つめている。

「どうした?」

 そう声をかけて尋ねても返事はない、やがて、

「おとうさん、おかあさん、おとうさん、おかあさん」

 多舞は呟くようにそう言い始める。

 その言葉がだぶって聞こえてテレビを見ると画面の中の少女が両親の遺体にすがりつき泣いているシーンが目に映る。

 ひょっとしてこの前のシーン、この両親が殺されるシーンを見て多舞はショックを受けて、それで…

 羅冶雄は多舞を落ち着かせようと思い立ち上がり傍に行こうとする。

「こないで!こっちにこないで!」

 しかし虚ろな目をした多舞はそう言って後に下がる。ペンダントの石を握りしめて、

「まてよ落ちつけ」

 そう言いながら羅冶雄は途方に暮れる。

 これは心の病の発作だ。あのテレビドラマの内容が多舞の心の傷に触れ、そしてスイッチを入れてしまった。そうなったら簡単には治まらない、俺はそのことをよく知っている。俺自身がそういった状態になったことが何度もあるからだ。暴れるだけ暴れる。そうして我に返る。そんな発作を何度も起こしたから、だからその発作を起こしたら手がつけられない、しまった。迂闊だった。

 目の前で両親が殺される。そのショッキングな事件を目にして正常な精神でいられるはずがない、多舞がパニック症候群のような心の病にかかっている。その可能性は充分にあった。

「誰もわたしを見ないで!誰もわたしに気がつかないで!誰もわたしを見つけないで!」

 そう叫んで多舞は涙を流し始める。そうして、

「わたしは消えてしまってもいいの」

 そう言って多舞はその場に座り込み、そうしてすすり泣く、

 しばらくそんな多舞を見つめて、やがて羅冶雄は、

「消える必要はない、なぜならおまえを必要にしている者がいるからだ」

 つぶやくようにそう話しかける。

「どんなに消えてしまいたいと願っても俺の前からは消える事は出来ない、いや、絶対に俺が消さない、力になる。助けてやる。守ってやる。大切にする。そう決めたから、だからいつも一緒だ。つらいことも、悲しいことも、嬉しいことも、楽しいことも、全部一緒に感じるんだ。だから、もう泣かなくていいんだ。替りに俺が泣いてやるから」

 そう言ってすすり泣く多舞を背中から抱きしめる。

 多舞はびくっと体を震わせて、

「完全に消えてしまいたいの、消えないから苦しいの、悲しいの、寂しいの」

 怯えたようにそう呟く、

「だめだ。おまえが消えたら俺が悲しくなる。俺のために消えないでくれ」

 そう言っても多舞は泣きやまない、やがてそのまま泣き崩れるようにして多舞は眠る。

 羅冶雄は多舞を抱きかかえて蒲団まで運ぶとそこに寝かせる。

 そしてその寝顔を見つめて考える。

 10年間にも及ぶ真の孤独の中で多舞は人知れず何度もこんな発作を起こしたんだろう、気にかける者も、心配する者も、なんとかしてやろうと思う者も無い中で、ずっと1人で苦しんできたんだ。恐怖と喪失、そして絶望、その後の孤独が追い打ちをかけて、心の傷は大きく広がり、そして今も血を流し続けている。でも、多舞は俺と出会って、そうして笑ったんだ。嬉しそうに、楽しそうに、自分が抱えている苦しみを感じさせない、そんな笑顔をいつも浮かべているんだ。無理をしているのか?心から笑っていないのか?いくら笑顔を作っても心の傷のせいでその笑顔は陰ったものになってしまう、俺は最初から気づいていた。知っていたんだ。あの事件の後の母さんの笑顔が同じだったから、悲しい顔をした母さんが見たくない、そう思ってふざけたり、おどけたりして見せた。母さんは笑ってくれた。でも俺はその笑顔にいつも違和感を覚えた。俺はその違和感がない笑いを求めて頑張ってみた。でも、ついにそれを見る事ができなかった。違和感の理由、それは今わかった。そうして多舞の笑顔に惹かれた理由も…

「俺はこいつの本当の笑顔が見たいんだ」

 そうつぶやいてポケットの石を取り出し握りしめる。

 俺の力では無理だろう、心の傷を完全に癒す事など出来ない、でも誰か他の人達が手助けしてくれれば、多舞はこんな風に苦しまなくて済むようになるかもしれない、そして多舞の笑顔も変わると思うしでも今の俺では人の協力を得る事なんてできない、俺がいくら頼んでも誰も話すら聞いてくれないだろう、でも、それは俺が悪かったんだ。そうなるように自分でしてきたんだ。だから俺自身も変わらなくてはいけない。

 握りしめた手を開き石を見つめて、

「俺がきっと助けてやる」

 そうつぶやいて、そして多舞の寝顔を見つめてその安らぎのない苦しそうな寝顔に向かい、

「だから安心して眠れ」

 そう言って立ち上がると押入れから毛布を取り出しそれにくるまると多舞の横に座り込む、多舞がまた苦しまないように見守り、そうなったらすぐに対応できるように羅冶雄は目を光らせて多舞を見つめる。

 やがて夜が更けていく。

 明かりのついたままの部屋の中で寄り添うように眠る2人の姿がある。

 安心したように穏やかな表情を浮かべる。そんな寝顔の2人の姿が、

 夜は静寂に2人を見守る。






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