放課後のニューファミリー?
4 放課後のニューファミリー?
放課後になった。
今日の全ての授業が終わり、そして生徒たちは解放感に包まれる。
帰宅する者、クラブ活動に専念する者、皆は其々に自分の時間を満喫する。
羅冶雄は上機嫌で廊下を歩いている。
上機嫌な理由は2っある。
1っは今日は金曜日であるということ、だから明日から休日、それで2日もこの嫌な学校に来なくて済み、そうして、二日間も誰にも束縛されない自由な時間が訪れるのだ。
もう1っはさっきの体育の授業で羅冶雄は体育教師の言うようにトップで学校に戻ってきた。
それも学校新記録で、
ストップウオッチを見つめて体育教師は絶句する。
やがて羅冶雄がズルしているんじゃないかと色々因縁をつけてくる。
しかし各通過ポイントに置いてあった通行証をすべて差し出すと沈黙する。
こうして羅冶雄は体育教師の陰謀である赤点から逃れることができた。
だから羅冶雄を陥れようとした体育教師の鼻を明かしてやれて実に気分がいい、
「わっはっはっはっはっ」
上機嫌で笑いながら廊下を歩く、
その後ろを多舞がついて歩く、
やがて羅冶雄は放課後を過ごしているいつもの場所に到着する。
扉を開けて中に入り、そしてソファーに座る。その時、羅冶雄についてきた多舞が声をかける。
「ここは、どこなの」
そう言われて初めて気づく、いつもの癖でついこの部室にきてしまった事に、
「ここは休憩場所なんだ」
「ここは休憩場所なの?」
そう言って多舞は薄暗い部屋を見廻し、
「気持ちの悪い場所なの」
ぽつりと感想を呟く、
気持ち悪いと言われて羅冶雄も部屋を見廻す。
黒いカーテンで外の光が遮断されていて薄暗い部屋の中にはなにか得体のしれない魔術めいた置物や動物の剝製、それに何に使うのかよく分からない道具が棚に並べられていて、さらに壁には何が描いてあるのか理解できない抽象的な絵画が数点飾られている。
それらが醸し出す雰囲気はここが占い研究会というよりはむしろ黒魔術研究会の部室と言ったほうがピンとくる。
そんな何か怪しい雰囲気でも羅冶雄にとってはいつもの安息の場所だ。いまさら気にする必要はない、
「ここは暗くて寝るには最適なんだ」
そう言って羅冶雄はソファーに寝そべる。
多舞は居心地悪そうにまだキョロキョロと辺りを見廻している。
その時、部室の扉が開いて中に誰か入って来る。
入って来たのは占い研究会の会長の希美だった。
希美は、何か違和感を覚えフードを上げて部屋を見廻す。そうして、
「何かいる」
そう呟く、
「会長、俺だよ」
羅冶雄の存在に気がつかないのかと思いそう声をかける。
希美は羅冶雄の顔を見つめて、
「貴方じゃない、もっと別の何かが…」
そう言われて羅冶雄は自分以外のもう1人の存在に気づく、
今この部屋にいるのは俺と多舞だ。しかしこいつの存在を誰も見ることも感じることはできないし…でも会長は何かを感じている。ひょっとしてこいつの存在がわかるのか?
羅冶雄がそう思った時に再び部室の扉が開いてまた誰かが入ってくる。
入ってきたのは羅冶雄がよく知っている人物だった。
絵里は羅冶雄の姿を見るといきなり睨みつけてくる。そうして、
「赤石先輩、相談したい事があるんです」
そう言いながらも目は羅冶雄を睨んだままだ。
希美はフードをかぶり直して椅子に座り、そして手で絵里にテーブルの向いの椅子に座るように促す。
「相談事なの?いいわ、聞いてあげる」
そう言う希美の指示に従い羅冶雄を睨むのをやめて椅子に座った絵里は、
「私は2年B組の石江です。聞いて下さい私のクラスには問題児がいるんです。自分勝手で我儘ですぐに怒って人を傷つける。そうしていつもうるさい、そんな奴が…クラスのみんなも先生もいつも迷惑しているんです。今日もそいつにひどい目に遭ったという苦情がクラス委員長の私の下に届いているんです。川に落されたと言う、私はクラス委員長としてこの問題を放置できません、でもそいつは誰の言うことも聞こうとしません、どうしたらいいのかわかりません、それで先輩の評判を聞いて今日は相談に来たんです」
一気にそうまくしたてる。
「石江さん、貴女の悩みはわかったわ、でも助言するには占いが必要なの、まず貴女の事を占ってみるわ、そうして、アドバイスはその後よ」
そう言って希美はタロットカードを取り出す。
「貴女は何月何日生まれなの」
「7月21日です」
「そう」
希美はカードの中から節制のカードを選び出すとそれをテーブルに置く、そうして残りのカード繰りながら、
「1から7まで好きな数字を言ってみて」
「1です」
そう言われて希美はテーブルに伏せて置いたカードの1番上の1枚を手に取ってテーブルに並べる。
「2から8まで好きな数字を言ってみて」
「7です」
そうやって占いは進行していく、
テーブルの傍まで行きその様子を眺めながら不思議そうに多舞が、
「なにしているの?」
そう羅冶雄に聞いてくる。
「占いだ。いや、俺を陥れるための陰謀かも」
「悪い巧みなの?」
恐ろしそうにそう言って多舞は羅冶雄の傍に戻ってくる。
やがてすべてのカードが揃いそれをじっと見つめた希美は、
「心配しないでいいわ、あなたの悩みは解消される」
その言葉を意外そうに聞いて絵里は、
「解消されるって?どうして」
「あなたを悩ませているその対象が変化するから」
「あいつが戒心すると言うの!」
絵里はそう言ってソファーに寝転んだまま事の成り行きを見ていた羅冶雄を指さす。
「対象は今は変化を促すそんな事態に直面している。それが対象の周りにいる人によい結果をもたらす。占いではそう出ているわ」
「信じられないわ」
「信じる、信じないは貴女の勝手だけど、でも今は何もしないでこのまま様子を見ていた方がいいわ」
絵里はしばらく考えて、そうして、
「わかりました。先輩の占いはよく当たると評判ですし、それに助言も適切だと、とにかく今の話を信じてみます」
そう言って絵里は立ち上がって歩きだし、もう一度羅冶雄を睨みつけると扉を開けて、
「ありがとうございました」
そう言って希美に頭を下げて部屋を出て行く、
そんな絵里を見送りながら羅冶雄はいまいましそうに、
「絵里の奴め本人を前にして言いたいこと言いやがって…改心するだと…悪いことしているわけでもないのにそんなのするわけないだろ」
怒りながらそうつぶやく、
その時、羅冶雄が寝そべるソファーの端に腰掛けて退屈そうに足をぶらぶらさせていた多舞が大きなあくびをすると、
「たいくつなの」
そう言って立ち上がると扉を開けて外に出て行く、
「あ、待てよ、どこに行くんだ」
そう言って慌てて立ち上がった羅冶雄は多舞の後を追いかけて部室を出て行った。
1人残った希美はフードを上げると部屋を見廻し、
「どうやらいなくなったみたい」
そう呟く、そしてコートのポケットから何かを取り出す。
取り出したのは金属製の金色の小さなケース、そのケースの表面には文字が刻印されている。
誰にも読めない文字が、その文字が読めるのはそれを必要としている者だけだ。
希美はケースの蓋をを開ける。
そこには小さな赤い石が納められている。
しかしその石はひび割れて欠けている。
でも、なぜかほのかに赤く光っている。
「石が反応している…」
しかし希美の見ている前でそのほのかな光は次第に小さくなり、そうして完全に消えてしまう、
「やはり希願者がここにいたのね」
奇跡の力を発揮している石に他の石も影響される。
赤い石が光っていたのはそのせいだろう、そうして希美はこの部屋にいた羅冶雄の他にもう1人の存在を感じた。
きっとその存在が奇跡の力を行使しているのだろう、
しかし自分では感じられるだけの存在を羅冶雄は完全に認識できているみたいだった。
彼はいつも独り言をぶつぶつ言っている。しかし今日は独り言ではなく明確に誰かと会話しているようだった。
「運命的な出会いはすでに果たされている。そういう訳ね、そうして…」
そう呟きながら希美はコートのポケットからもう1つを取り出す。
それは昨日の夜に道端で拾った黒い布の小さな袋、金の文字が刺繍してある。
「彼は石を持っている。間違いないわ、そうしていずれそれに願いをする。そのことが誰にとってもよい結果をもたらすように…そう願いたいわ」
希美はそう呟くともう一度、自分のひび割れた赤い石を見つめる。
しばらくそれを見つめていた希美はやがてケースの蓋を閉めて袋と一緒にポケットにしまい込み、そうして立ちあがって考え込みならが部屋を出て行く、
右足を引きずりながら。
「おい、ちょっと待てよ」
廊下をずんずん早足で歩く多舞に羅冶雄は後ろから声をかける。
その声に、しかし多舞は立ち止まりも振り返りもせず、
「たいくつなの、それにわたしは探しにいかないといけないの」
そう答えて歩き続ける。
多舞はいつもそうしてきたように今日もまた自分がこうなった理由を知るために両親を殺した男を探しに行くみたいだ。
「俺も一緒に探してやるから、だからちょっと待て」
その言葉に多舞はいきなりピタッとその場に立ち止まる。
「わっ!」
多舞が急に立ち止まると予想していなかった羅冶雄は止まれずにその背中にぶつかってしまう、
「きゃっ!」
悲鳴を上げる多舞と共に倒れて、そしてそのままもつれあって廊下を転がる。
「い、痛てて…ちくしょう、おまえが急に立ち止まるから」
そう言って顔を上げる羅冶雄のすぐ目の前に多舞の顔がある。
「!……」
じっと羅冶雄の顔を見つめる多舞のその美しい顔に見とれてしまってもう何も言えない、
しばらくして、
「重たいの」
そう言われて我に返る。そうして多舞の体の上に覆いかぶさっていることに気づく、
なぜか柔らかい感触がここちよい、
なんだ?どうしてこんなに柔らかいんだ?
そう思い、密着している部分を見て、
「わっ!」
そう叫んで羅冶雄は飛びあがって多舞から離れる。
なぜだか顔が真っ赤になっている。
そんな羅冶雄を不思議そうに見ながら多舞も起き上がり、
「どうしたの?顔が赤いの、熱があるの?」
「なんでもない、なんでもない、なんでもない」
とりあえず惚けるしかなかった。
羅冶雄は気を取り直してから、
「怪我してないか?」
そう尋ねると多舞は着ている服をパンパンと叩いて、
「だいじょうぶなの、いつもぶつけられるの、だからそなえてあるの」
そう言ってなぜかガッツポーズを取る。
多舞の重装備にはそんな理由があったのかと納得するが、しかしいつも人にぶつけられて転倒する多舞の姿を想像して、なぜかやるせない気分になってしまい思わず、
「俺がおまえをぶつけられないように守ってやる。だから俺といる時は安心して歩いていいぞ」
その言葉に多舞は目をパチクリさせて、
「守ってくれるの」
そう聞き返してくる。
「そうだ」
腰に手を当てて威風堂々そう答える羅冶雄を繁々と眺めて多舞は、
「ナイトさまなの」
「…いや、そんな大層なもんじゃ…」
しかしそれが気にいったのか多舞はニッコリ微笑むと、
「ラジオは多舞のナイトなの、わたしを守ってくれるの」
そう言ってうれしそうに羅冶雄の周りをぐるぐる周る。
「ああーもう!わかった。ナイトでもヤイトでもサイトでもなんでもいいよ!」
こうして美少女を守護する騎士、羅冶雄卿がなぜか誕生した。
そうして今度は二人並んで廊下を歩く、これでもうぶつかる心配はないし、さらに前から人が来ると羅冶雄は多舞の前に出る。こうすれば多舞は誰にもぶっけられない、
そうやって昇降口まで来て上履きを履き替えている時に羅冶雄に声をかける者がいる。
「おいラジオ」
振り向くとそこには石崎鉄男がいた。
彼も羅冶雄がこの学校で話をする数少ない存在の一人だ。
しかし今はこいつに係わっている暇はない、それに係わると絶対にろくな事にならない、
「今は忙しいんだ。用があるなら今度にしてくれ」
ぶっきらぼうにそう返事する。
「お前は今日の体育の時間に江崎の奴をやったんだってな」
しかし羅冶雄の思いとは裏腹に、そう言って石崎は無表情な顔で校舎の中から歩いて羅冶雄の傍まで来る。
まるで女生徒が男子の制服を着ているような風貌、しかしその容姿に騙されてはいけない、彼はこの学校で一番危険な人物だからだ。
「ああ、なめたまねしやがるからきっちり返してやった」
そう言う羅冶雄を人形のような無表情の顔の目を細めて見ながら石崎は、
「気をつけろよ、さっき陸上部の部室の前を通りかかった時に中から声が聞こえてきた。どうやら奴らはお前をとっちめる相談をしているみたいだぜ」
羅冶雄を快く思わない連中とのいざこざは日常茶飯事だ。いまさら深刻に考える理由もない、
「ああ、その時はまとめて返り討ちだ。こんどこそ思い知らせてやる」
石崎はそう言う羅冶雄をじっと見つめ、そうして作ったようにニヤリと笑うと、
「その根性は大したもんだ。俺が見込んだだけはある。ヤバィと思ったら言ってこい、いつでも加勢してやるぜ」
石崎鉄男、彼は羅冶雄と同じこの学校の厄介者だ。しかしその理由は羅冶雄とは違い彼が異常に好戦的であると言う事であり石崎は常に暴力的な争いの中に身を置きたがる。そうして戦闘を殴り合う事を流血沙汰を楽しんでいる。そうとしか言えない、そのため常にトラブルをかかえている。いや、それがなければ作ってでも起こす。そういう非常に危険な奴なのだ。
すぐカッとなる性格の羅冶雄は挑発されて1年生の時に何度も石崎とやり合った。
石崎は強かった。しかし羅冶雄も体調が万全なら負けなかった。
頭に血が昇ると見境がなくなるというその狂戦士的な資質が羅冶雄を強くしていた。
さらに子供の頃から殴られ蹴られ続けてきた事が羅冶雄を打たれ強くしていた。
倒してもまた起き上がってかかってくる。そんな羅冶雄に石崎はいつしか手を出すのをやめて、そうして、なぜか羅冶雄が抱えているトラブルに積極的に介入してくるようになる。
しかしよくある少年マンガみたいに二人の間に友情が芽生えたりはしていない、そもそもあんな戦闘機械のような男に友情なんていう感情があるはずないと羅冶雄は思い、さらに友情と言う、その歯の浮くような言葉が大嫌いだった。
そのため石崎が羅冶雄の手助けめいた事をするのはそうすることで手っ取り早く戦いを楽しめるためだと、羅冶雄はそう思っている。
「自分のケツぐらい自分で拭ける。言っても無駄なんだろうが、余計なことはするな」
そう言う羅冶雄に石崎はまるで女のように整った優しい顔の唇を歪めて作ったようにニヤリと笑い、
「自分だけ楽しむなよ、一人占めはなしだぜ」
そう言ってウインクしてくる。
その仕草に思わずのけぞりそうになりながら、
「き、気色悪い真似するな、ちくしょう、何を言ってもどうせいつもみたいに勝手にやるんだろ、だから好きにしろ」
石崎は唇を持ち上げてまた笑顔を作ると、
「ああ、好きにさせてもらうよ」
そう言って背中を向けて校舎の中に歩きだす。
「おい、少しは手加減してやれよ」
最後にそう声をかける羅冶雄に振り返らず左手を上げた石崎の背中は廊下を曲がって見えなくなる。
今の一部始終を見ていた多舞が不思議そうに
「男の人なの?いい人なの?」
そう聞いてくるが羅冶雄は首を振り、
「男でも女でもいい人でもない、いや、そもそも人間じゃない、あれは誰にもコントロール出来ない壊れた戦闘ロボットだ」
「ロボットなの」
「ああ、制御不能の暴走マシンだ。しかも血に飢えた」
「機械なの?でもラジオも機械なの」
そう言って多舞は羅冶雄を指さす。
「俺は人間だ。機械じゃない昨夜そう言っただろ」
しかし羅冶雄の反論を無視して多舞はちょっと考え込んで、
「友達なの?」
そういきなり聞いてくる。しかしその唐突な質問に驚いて思わず、
「な、なにっ!」
叫んでしまう、あんな奴と友達になった憶えはない、なぜか断ち切れないそういう関係ではあるが…そもそも羅冶雄には今まで友達と言える存在は一人もいなかった。
人間が嫌いだから、人といるといつも傷つくから、だからいつも一人でいた。
「あんな奴と友達になるぐらいなら三日も何も食べてない飢えたライオンと友達になるほうがよっぽどましだ。少なくても食われずに済むからな、それに俺には友達なんて必要ない」
「友達はいらないの」
「ああ、わずらわしいだけだ」
その言葉に多舞はちょっと悲しそうな顔になり、
「わたしは友達じゃないの?」
そんな悲しそうな多舞を見て、しまった!と思っても後の祭り、なんとか言い繕って多舞を納得させなければならない、
「お、おまえは、友達と言うより…そうだ!妹だ。そういう感じだ。だから守ってやりたいと思うんだ。おまえは俺の妹だ」
「いもうと…なの?」
「ああ、そうだ」
多舞はそう返事する羅冶雄を指さして、
「おにいちゃんなの」
そう質問する。しかしその言葉になぜか背筋がゾクリとする。
「い、いや、そういう感じなだけで、別にそう呼ばなくても…」
「おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃんなの」
しかし何が気にいったのか多舞はその言葉を連呼する。
そしてその言葉を言われる度になぜか力が抜けて行き、いつの間にか羅冶雄は座りこんで頭をかかえている。
多舞はその周りをぐるぐる走り回り、そしておにいちゃんを連呼し続ける。
羅冶雄はなぜだか自分の中に不思議な感情が芽生えてきて目の前がピンク色になる。
やばい、このままだと俺はアブノーマルな嗜好の持ち主になっちまう、
そう思い顔を上げて、そして頭を振って目の前のピンク色を振り払うと、
「妹はやめです。それはかなり危ないです。だからもうそう呼ばないで、お願いします」
頭を下げてそう多舞に哀願する。
それで走り回るのをやめた多舞は残念そうに、
「いもうとじゃないの」
口を尖らせてそう言う、
多舞はなぜか残念そうだがしかしまたあの攻撃をされたらたまらない、
「ああそうだ。でもなにか絆がある関係、そうだ。家族的な関係、そんな感じだ。それでいいだろ?」
立ち上がってこの話をうやむやにしようと思いそう言うが多舞は納得できないようで、
「家族なの?パパなの?」
「…いや、それは別の意味でもっとかなりヤバイような…」
「じゃあママなの?」
「残念ながら俺は男です。ゲイバーにも勤めていません」
「じゃあ旦那様なの?」
「え……」
「旦那様はいつも疲れて帰ってくるの、『めし』『ふろ』『ねる』しか言わないの、でも家族のことを一番大切に思っているの、いつもかずちゃんがやっていたの」
「かずちゃん?やっていた?なにそれ?」
「おままごとなの、かずちゃんは男の子だけどいつも一緒に遊んでくれたの」
どうやら多舞は家族と聞いてままごと遊びを連想しているようだ。
なんだか段々馬鹿らしくなってきて、
「ああ、もうそれでいい…俺は家族のことを一番大切に思っている旦那様だ。だからおまえの事も大切に思ってやる。でも旦那様なんて呼ぶなよ、人が聞いたら勘違いする…いや、聞けないかも…とにかく俺を呼ぶ時はいつものように羅冶雄でいい」
「ラジオは多舞の旦那様なの」
「ああ」
こうしてなぜか、おもろい夫婦?が誕生した。
多舞はうれしそうにニッコリ笑うとラジオの手を握る。
「な、なんだ?」
「テレビで言ってたの、旦那様と歩く時は手をつなぐの」
多舞の手のぬくもりと、その柔らかさに思わず顔が赤くなる。
なぜだか恥ずかしくて、なぜだかドキドキときめいて、そしてなぜだか安心して、
俺はなんで安心してるんだ。
それを訝しく感じ、そう思って考える。
人の事を大切にしたい、守ってやりたい、力になりたい、助けてやりたい、そう思う感情とは今まで無縁だった。
人には嫌われて、うとまれて、笑われて、蔑まれて、そうして馬鹿にされ続けて来た。
だから自分もそうする事にした。
そうして毎日が平穏でない平穏な日々になった。
自分の手を握る小さな手を見つめてさらに考える。
いったいどうしてこいつを助けたい、守りたい、大切にしたいと思ったんだ。
目を閉じるとそこに多舞の笑顔が浮かんでくる。
目を開けるとそこに多舞の笑顔がある。
俺はいつもこいつの笑顔を見ていたいのか?
なぜ?
それがわからない、
なぜか自分の中にある感情が言い表せない、
しかしなぜかわかっているその言葉を認めたくない、
それは自分には必要のない言葉だと思っていたから、
「どうしたの」
考え込む羅冶雄に多舞が声をかける。
「ああ、いや、なんでもないもう行こうか」
そうして握る手を振りほどけず、いや、なぜか逆に離したくないと思い、
手を繋いだ2人は校門から街に出て行く。
私鉄の駅に続く歩道橋の上、そこで2人は並んで街を眺めている。
駅に出入りする人達、バスを待つ人達、買物のために商店街に向かう人達、そんな人々をただ眺めている。
「おまえは毎日ここでこうして人を眺めていたのか」
「探しているの」
多舞は毎日ここで1日中、ただ人々を見つめていた。
自分となんの関係もなくなった人々を、そんな人々の中からたった1人を探し出すために、
よほどの偶然がない限り多舞のその望みは叶えられない、
羅冶雄はその行為が何か不毛な事のように感じられて、
「探すにしてもだ。もっと別の方法があるだろ?こんな事をしていても時間の無駄だぞ」
そう言って多舞の横顔を見つめる。
「わたしは誰にも聞けないの、誰も教えてくれないの、見るしかできないの」
多舞は人々を見つめながら小さな声で呟くように言う、
その言葉になぜかやるせない気持ちになり、
「おまえの代わりに俺が人に聞いてやる。おまえが探している男はどんな顔をしているんだ」
「黒い服を着ているの、それから眼鏡をかけているの、黒い眼鏡なの」
「黒い眼鏡?それってサングラスじゃ」
「そうしてマスクをしているの、白い大きなマスクなの」
どうやら多舞がその男を見つけ出す可能性は限りなく0%に近いみたいだ。
「行こう」
なぜだか腹立だしい気分になり、そしていきなり多舞の手を掴んで歩きだす。
「どこにいくの?」
引きずられるように歩きながら多舞がそう問いかける。
「帰るんだよ家に、そうして考えるんだ。その男を見つける方法を」
「家ってどこなの?」
そう言われて羅冶雄は立ち止まる。
あの部屋は自分にとっては家かもしれない、でも多舞は…
「おまえに家ってあるのか」
多舞は首を横に振り、
「住んでいた家はもうないの、工事の人が来て潰してしまったの」
「それなら、おまえは今はどこに住んでいるんだ…」
「どこにも住んでいないの、安全な場所を探すの、そうして寝るの」
「安全な場所って?」
「誰もわたしに気づかないの、寝ていたらいつも踏まれるの、蹴っ飛ばされるの、だからそうならない場所を探して寝るの」
誰にも認識されない存在の多舞にとって無防備であれば人間は無意識に危害を加える。
下手したら寝ている間に殺されてしまうかもしれない、
だから多舞は今まで人がいない、人が来ない、そんな場所を探してそこで寝ていたんだろう、でも決して安心して眠れない、そんな場所で。
安息の場所さえない、そんな生活を十年間も続けて来たのか、それは地獄だ…
「おまえの家は俺の家だ。そこでならいつも安心して眠れる。だから行くぞ」
「あそこにいていいの?」
「家族なんだ。一緒に暮らして当然だ」
多舞はそう言う羅冶雄の顔をしばらく見つめて、そうしてにっこり微笑むと、
「奥様なの」
そう言って羅冶雄の腕にしがみつく、
「え…」
「奥様はいつも旦那様の帰りを家で待っているの、そうして旦那様のお世話をするの、多舞はラジオの奥様なの、だからお世話をするの」
腕を介して伝わる多舞の柔らかさに思わず顔を赤くしながら、
またままごと遊びか?でもそれも悪くないかも、
羅冶雄はそう思いながら歩きだす。
寄り添うように歩く二人は歩道橋を降りて行く、
多 舞はうれしそうに微笑んで羅冶雄の顔を見つめる。彼女には10年ぶりに安息の場所が与えられたのだ。しかしそんな幸福そうな多舞の姿を見る者はどこにもいない、彼女のその小さな幸せを祝福してやれる者はどこにもいないのだ。
商店街の中のスーパーで羅冶雄は買物をする。
あの部屋には今は食べるものがほとんどない、だから食糧を買って帰らないと晩飯にありつけない、
いつもはコンビニなんかの弁当で食事を済ます羅冶雄だが、今日は久しぶりに自炊することにする。
多舞と二人でコンビニの弁当をつつき合うのもなぜか侘しいし、それに家庭的な雰囲気を味わってみたい、なぜかそういう思いもある。
スーパーの買い物カゴをぶら下げながら隣の多舞に尋ねる。
「おまえ,何か食べたいものあるか」
多舞はしばらく考えて、そうしてにっこり笑うと、
「シュークリームが食べたいの、あまくてとてもおいしいの」
多舞の主食はやはりシュークリームのようだ。
「あれは晩飯にならないぞ、単なるスイーツだ。食後に食べるデザートみたいなもんだ」
「ごはんじゃないの」
「あんな物をいつも食べていても腹の足しにもならない、もっと力のつくものを食べないと」
「おいしいのに」
多舞は口を尖らせてつまらなさそうに言う、
「もっと晩飯らしい物を食べよう、なにがいい」
多舞はもう一度考えて、そうして、
「カレーライスが食べたいの、おかあさんが作ってくれたカレーはいつもおいしかったの」
「お嬢様のくせにやけに庶民じみてるんだな、まあいい、それにしょう」
高級料理をリクエストされても今の羅冶雄には食材を買う金もない、結局は羅冶雄にとって多舞のリクエストはありがたい内容だった。
2人は店内を巡り材料を揃えて行く、これがいい、こっちの方がいいと言い合いながら楽しそうに、でも他の買い物客の目にはなぜか1人でぶつぶつ言いながら買い物をする。奇妙な学生がそこにいるだけだった。
すべての材料を揃え終えて羅冶雄はレジに向かう、しかし横を歩いていた多舞が急に足を止める。
洋菓子売り場に並べられたシュークリームに目が釘付けになっている。
「おい」
羅冶雄が声をかけても返事はない、
やがて多舞は手を伸ばしてシュークリームを1つ掴むとベストのポケットに入れようとする。
「だめだ」
羅冶雄は思わずその手を掴む、
「盗んでいるんじゃないの」
羅冶雄の顔を見つめて多舞がそう言う、
「わかっている。でも今はだめだ」
そう言って多舞の手のシュークリームをカゴの中に入れる。
「買ってくれるの?」
「こんな物を買うぐらいの金はある。行くぞ」
そう言って多舞の手を握ると引きずるようにレジに向かう。
羅冶雄に引きずられながら多舞は呟く、
「1つじゃ足りないの」
左手に鞄、右手にスーパーの袋をぶら下げた羅冶雄は道を歩く、その右腕に多舞がしがみついている。
多舞の歩くペースと自分のペースが噛み合わずはっきり言って歩きづらい、しかも時々多舞の頭のヘルメットが顔に当たって痛い、それに人や車が横を通る度に多舞を庇うため移動速度が遅くて中々部屋に帰れない、ずっと我慢していたが、しかしそろそろ限界だ。
「あのう、多舞さん、そろそろ離れて歩かないか」
しかし多舞は立ち止まってそう言う羅冶雄の顔を意外そうに見つめて、
「どうしてなの、家族は寄り添って歩くの、読んだマンガに書いてあったの」
どうやら誰にも何も教えてもらえない多舞は本屋なんかで読んだマンガの内容を真実だと思い込んでいるようだ。
羅冶雄は多舞の世間ずれした知識を正しく教育し直す必要があると思い、
「マンガに書いてあることはみんな嘘なんだ。話を面白くするために適当なことを本当のことみたいに書いてあるんだ。騙されてはだめだ。別に家族だという理由でこんな風に寄り添って歩く必要はないんだぞ、ほら、向こうから来る夫婦、あれはどう見ても家族だが別に寄り添って歩いてないだろ」
多舞は二人の横を歩いて通り過ぎて行くウオーキングの熟年夫婦をじっと見つめて、
「きっと若くなくなったら寄り添わないの、マンガの人も若かったの、それに街でよく見かけるの、若い二人が寄り添っているの、とても幸せそうなの」
どうやら多舞は街中で人目もはばからずいちゃつきあう男女を家族だと誤解しているみたいだ。
「あれは家族じゃないぞ、たぶんそうなる前の可能性の段階だ。世間ではああゆう奴らのことをバカップルと呼ぶんだ」
「バカップルなの、バカなの?」
「そうだ、俺たちが別にあんな奴らの真似をしなくてもいいんだ」
「どうしてなの」
「人に見られたら奴らと同じように馬鹿だと思われるだろ」
しかし多舞はなぜか安心した表情になると、
「だいじょうぶなの、わたしは誰にも見られないの、バカだと思われないの」
そう言って一層強く羅冶雄の腕にしがみつく、
「……」
こうなったら負けを認めて本当のことを言うしかない、
「すいません、実は両手に荷物を持っているこの体勢でしがみつかれたら歩きにくいんです。お願いだから離れて下さい」
そう言って丁寧に説明してお願いする。
「歩きにくいの」
「ああ」
多舞は羅冶雄の手のスーパーの袋を掴むと、
「わたしが持つの」
そう言って羅冶雄の手から取り上げて、そうして空いている手で今度は羅冶雄の手を握る。
事情を理解してくれたとは思えないが、しかしこれならさっきよりましか、
そう思って歩きだそうとしてふと気づく、ここが昨日の惨劇の場所だと、あの男に襲われて、そしてひどい目に遭った場所だと、
「そういえば昨日ここでひどい目にあったんだ」
そうつぶやいて、そして重要な事を思い出す。
羅冶雄はキョロキョロと周りを見回す。
「どうしたの」
そんな羅冶雄に多舞が声をかける。
「いや、昨日ここで落としたみたいなんだ。おまえも知ってるだろ?あの石が入っていた袋だ」
「知っているの、ここでなくしたの」
「ああ」
「探すの」
そう言って羅冶雄の手を放すと多舞は地面を見つめて歩きだす。
羅冶雄も地面を見つめて周囲を歩きまわる。
頭を下げて地面を見ながらうろつくが、しかしあの袋はどこにも落ちていない、
風で飛ばされたのか?それとも誰かが拾って持って行ったのか?しまった!こんな事なら朝にちゃんと回収しとけばよかった。でも遅刻寸前だったし、それに今まで忘れていたし、何やってんだ。俺は…
迂闊な事で石の秘密を解く鍵を無くしてしまったことに自分自身に怒りを感じて、
「ちくしょう」
思わずそうつぶやいた時、
ゴッンと頭に何かがぶつかる。
「痛ぇ」
どうやら頭を下げて歩いていて多舞に気づかずそのヘルメットに頭をぶつけてしまったようだ。
「だいじょうぶなの」
多舞は心配そうに羅冶雄を見る。
「ああ、大丈夫だ。でもあの袋はどこにもないな」
そう言うと多舞は今度は残念そうな顔になり、
「どこにもないの、みつからないの、ラジオの大切なもの」
そう言って今度は悲しそうな顔になる。
「ああ、あれは大切な物だ。石の秘密を解くのに必要なんだ。それに死んだ母さんから貰った物でもあるし…でも、もういいんだ。もう気にするな」
悲しそうな多舞を見るのが嫌で羅冶雄はそう言う、しかし多舞は、
「死んだお母さんから貰ったの?わたしも貰ったの」
そう言ってベストのポケットから何か取り出す。
多舞が取り出したのは紺色の小さな袋、金の文字が刺繍してある。
それは色が違うだけで羅冶雄の持っていた袋とそっくりだ。
「どうしてそれを持っているんだ!」
驚いてそう叫ぶ、
「おかあさんから貰ったの、このペンダントが入っていたの」
そう言ってあの光る青い石の付いたペンダントを取り出して羅冶雄に見せる。
石とこの袋は必ずセットになっているのか?
解らない、しかし石の謎を解く手がかりはここにまだある。
この袋に書かれている文字が読めればきっと秘密を解くための情報が手に入るはず。
「その袋は大切にしまっておいてくれ、さあ、もう帰ろう」
「もう探さないの」
「探しても見つからないし、それにその必要ももうなくなった」
しかし多舞は不服そうな顔で、
「死んだお母さんから貰った大切な物なの」
「母さんに貰ったのは袋じゃなくてその中身だ。それは持っている。おまえが拾ってくれた。大切な物はなくしてないしだからもういいんだ。帰ろう」
羅冶雄は多舞の手を握ると促すように歩きだす。
その手に引きずられながら多舞は悲しそうに小さく呟く、
「羅冶雄のお母さんも死んだの、もういないの」
いつの間にか辺りは薄暗くなってきている。日暮れが近いようだ。しかし昨日みたいな夕焼けは見られない、空はいつの間にか厚い雲に覆われているから。
羅冶雄の部屋の中、その備え付けの台所の前に多舞が立っている。
不安そうな顔の羅冶雄がそれを見つめている。
多舞が羅冶雄のために夕食を作ると言い張るからだ。
「おい…本当に大丈夫か?」
ついに不安を抑えきれなくなり多舞に声をかける。
「奥様は旦那様の世話をするの、だからだいじょうぶなの」
何が大丈夫なのかわからない、
多舞は人参をまな板の上に置く、そしてしばらく考える。
「おい、先に洗って、それから皮を剥かないと」
多舞は包丁を手にするとそれを大上段に振りかぶり、そしてまな板の人参を叩き切る。
ズゴッと音を立てて人参が左右に吹っ飛び、そしてまな板に包丁が突き刺さる。
多舞はそれを抜こうとするが中々抜けない、そのまま包丁と一緒にまな板が持ち上がる。
羅冶雄はその光景を茫然と見つめていたが、しかし我に返ると。
「お、おまえ、料理したことってあるのか?」
そう言われて多舞は振り返る。手にした包丁が刺さっているまな板がその時抜けて床に落ちる。
「わっ!」
羅冶雄はいきなり包丁を突き付けられて、そう叫んで後ろに飛ぶ、
「料理はしたことないの、いつもおかあさんがしてくれたの、でもいつも見ていたからできるの」
羅冶雄は多舞の手の包丁を取り上げるとまな板を拾い、
「見るだけで出来るなら誰も失敗しないぞ、出来ると言えるのは成功させてからだ。見ていろ、料理は俺がする」
「お世話をするの」
多舞はそう言って口を尖らせる。
「奥様は旦那様のお世話をするんじゃなくて手助けをするんだ。じゃあ手伝ってくれ、教えてやる」
そう言って吹っ飛んだ人参を拾うと水で洗い器用に皮を剥き始める。
「すごいの、上手なの、お母さんみたいなの」
「一人暮らしが長いからな、必然に料理するのもうまくなる」
「わたしもずっと1人だったの、でもできないの」
羅冶雄はそう言う多舞を見つめて、
「必要なかったから、それだけだ。それより、その鍋に水を半分ぐらい入れてくれ」
「わかったの」
そうやって多舞に教えながら夕餉の支度は進む、人と一緒に食事を作る。それは今まで羅冶雄が経験したことのない事で自分が食べるだけなら作りも味も適当になる。でも今日は一緒に食べる人がいる。その人が喜ぶ顔が見たい、そう思うと作る料理に熱が入る。
そうやって、いつしか羅冶雄の部屋にカレーの匂いが漂い始める。
「ごちそうさまなの、おいしかったの」
そう言って多舞は手にしたスプーンを空っぽの皿の上に置く、
「もういいのか、まだあるぞ」
羅冶雄はおかわりした2杯目のカレーを食べながら多舞を見る。
「もうお腹いっぱいなの」
そう言ってニコニコ笑うその口の周りにはカレーがべったり付着している。
「おい、口の周りを拭けよカレーがついてるぞ」
そう言って多舞にティシュの箱を渡す。
そしてティシュを取り出して口の周りを拭く多舞を見つめながら、
こいつは奥様というよりまるで子供だな、俺は旦那様というよりこいつの父親になったような気分だ。
そう思いながら自分のカレーを平らげると口を拭き終えてコップの水を飲んでいる多舞に、
「おい、食器を台所に運んでくれ、後で洗うから」
そう言いながら立ち上がり箪笥を開けて中からタオルや着替えを取り出す。
食器を運び終えた多舞が羅冶雄の傍にきて声をかける。
「なにしているの」
「ああ、風呂に行こうと思ってな、今日は走りまくったせいで汗をかいて体がベトベトして気持ち悪いし」
羅冶雄の部屋にはトイレと台所は付いているが風呂はない、そのため週に3回ぐらい入浴のために近くにある銭湯に行く必要がある。
意外と綺麗好きな羅冶雄は本当は毎日風呂に入りたい、しかし経済的にゆとりがないため我慢するしかない、そのため銭湯に行くことは羅冶雄の生活の楽しみの1つになっている。
「お風呂屋さんに行くの?」
「そうだ。おまえも行くか?」
「わたしもいくの」
「よし、一緒に行こう」
そう言ってもう1つ風呂桶を取り出す。しかしその時問題に気づく、
タオルや石鹸やシャンプーなんかは2人分用意できるが、しかし多舞の分の着替えがない、羅冶雄は男の一人暮らし、この部屋に女性用の下着なんかあるわけない、もしあるのなら羅冶雄はかなり危ない奴になってしまう、
多舞のためにどこかで購入する必要があるが、しかし男の羅冶雄が女性用の下着を買うにはかなりの勇気が必要だ。エロ本を買うとき以上に度胸がいる。
ランジェリーショップの女の店員に変質者の類と思われて、そしてどん引きされることは必至だ。
そんな事にはなりたくない!
「お、おい、おまえ、着替えって持っているか?」
焦った羅冶雄は期待してないが一応は多舞にそう聞いてみる。
「もってるの」
多舞はそう言ってベストのポケットから布を取り出しそれを広げて見せる。
三角形の苺のプリント柄のその布を突き付けられて羅冶雄の顔が赤くなる。
「上のもあるの」
そう言ってまた取り出そうとする多舞の手を掴み、
「わ、わかった、もういい…行こう」
これ以上は健全な青少年にそんな目に毒な物を見せつけられたらたまらない、
羅冶雄は多舞の手を握り、そうして扉を開けて外に出る。
「これはおまえの分だ」
そう言ってタオルの乗った風呂桶を多舞に渡す。
アパートの階段を降りながら空を見上げる。
今日は星のない真っ暗な夜だ。
この前まで聞こえていた秋の虫の声も今はもう聞こえない、ただ冷たい空気はもう冬を感じさせる。
そんな寒くて暗くて静かで寂しい道を2人は手を繋いで歩く、
2人でいたら寂しくない、そう言いたげに、いつしか2人は寄り添い合って夜道を歩く。
羅冶雄は銭湯の暖簾をくぐり多舞に言う、
「これは入浴券だ。これを番台に渡したら中に入れる」
しかし多舞は首を横に振る。
「わたしには必要ないの」
「そうだったな」
誰にも認識されない存在の多舞は開かれている場所ならどこにでもフリーパスで入る事が出来る。
そんな多舞から入浴料を取ろうなんて番台のおばちゃんも思わないだろう、
「おまえはいいな、ただで入れて」
そう言って羅冶雄は戸を開けて銭湯の中に入り、そして番台に入浴券を差し出す。
「いらっしゃい」
愛想のない声でいつもの番台のおばちゃんがそれを受け取る。
「今日は空いてるな」
入浴客は羅冶雄を含めて3人ぐらいだ。
今日は金曜日、おそらくもっと遅い時間に混むのだろう。
脱衣所に入った羅冶雄は脱衣籠を取り出すと服を脱いでその中に入れ始める。
パンツ一丁になった時、突然後ろから声がかかる。
「そういうふうにするの?」
振り向くとそこには服を脱いで籠に入れ始めている多舞がいる。
「わっ!」
羅冶雄は驚いて飛び上がる。
「な、何をしてるんだ」
「お風呂に入るの、だから服を脱いでいるの」
多舞は服を脱ぎながら、そう言って下着だけになる。
その白い肌が目に眩しい、
「こ、ここは男湯だ。女湯はあっちだ」
羅冶雄は慌ててそう言って目をそむけ、そうして仕切りの鏡の向こうを指さす。
「別々にはいるの?」
「あたりまえだ」
「どうしてなの」
「そういうシステムだ。昔から」
「わかったの、そうするの」
多舞は脱いだ服の入った脱衣籠を持ち上げると番台の前の通路を通って女湯に行く、
羅冶雄は茫然とその姿を見送りながら、なぜか残念な気分になる。
多舞の姿を誰も見る事は出来ない、男湯にいたって問題はないはずだ。
もし問題があるとすれば、それは……
羅冶雄はパンツを脱ぐと風呂桶を掴み浴場に駆け込み、そうしていきなり水風呂に飛び込む、
冷たい水がなぜか心地よい、
何にのぼせているのかわからない、しかし今はその熱を冷まさないと、
のぼせていいのは全てを取り戻してから、それがあの少女にしてやれる最善の事、その時は胸を張れる。
そうすれば自分の思いを伝えられる。
言葉にできない言葉を噛みしめながら羅冶雄は水の中で震える。
自分にはそれが出来ないかもしれない、そんな不安に襲われながら。
「おい、こっちの布団で寝ていいんだぞ」
「ここの方が安心できるの」
多舞はそう言って炬燵に潜り込む、
寝るための安全な場所を求めていつしか多舞は狭い場所に身を置くことで安心を得ていたのだろう、
「風邪をひくぞ」
「だいじょうぶなの、今まで病気になったことないの」
そう言って多舞は完全に炬燵の中に潜り込む。
明かりを消して羅冶雄も布団に潜り込む。
「おやすみ」
「おやすみなの」
炬燵の中から多舞が返事する。
その言葉になぜか安心感を覚える。
六畳一間の彼の部屋、いつも1人だった孤独な空間、1人で何かをつぶやいてみても返事をする者はいない、でも今は違う、
昨日出会って、そうして拒んで、さらにひどい目に遭って、でも話をして、そうして笑顔に惹かれて、その少女はいつしか自分にとってかけがえのない存在になっている。
「これって、やっぱり幽霊に取り憑かれたってことか」
布団の中でそうつぶやく、
もし多舞が本当に幽霊で、そうして自分を殺すために現れたのだとしても今は構わない、そうなることで多舞が笑えるんなら…
「俺はやっぱり壊れちまった」
布団の中で頭をかかえてそうつぶやく、
今まで散々人から壊れたラジオと呼ばれて馬鹿にされてきたが、しかしとうとう本当に壊れてしまったんだろう。
「それでもいいか」
そうつぶやいて耳をすますとかすかに多舞の寝息が聞こえる。
その寝息を聞いていると穏やかや気分になり、いつしか羅冶雄は眠りに落ちる。
昨日まで孤独だった少年は、もう、1人じゃない、
昨日まで孤独だった少女も、もう、1人じゃない。