壊れたラジオ
3 壊れたラジオ
朝になった。
日が昇り、小鳥が囀り、そして夜の静寂が昼の喧騒へと移り変わろうとしている。
人々は起きだして1日の活動を開始する。生きるために生きるという事を始める。
カーテンのない窓から日の光が差し込み、それが眩しくて布団を被る。
静寂な世界、夢の世界、安息の時間、それを失いたくなくて小さな領域を作り抵抗する。
その時、突然目覚ましが鳴る。
安息の時間の終了を告げる非情な宣告、それが静寂で安息だった小さな領域に襲いかかる。
静寂は奪われた。安息の領域は失われた。だからもう抵抗できない、
羅冶雄は蒲団から出ると自分の安息の時間を奪った敵の姿を探す。
そしてボタンを押して敵の息の根を止める、その戦いが毎朝の日課になっている。
しかしこの日はボタンを押して彼が勝利することなく、なぜか敵の攻撃が止まる。
「な、何で」
そうつぶやいて部屋を見回す羅冶雄の視界に敵の息の根を止めた少女の姿が目に入る。
「うるさいの」
多舞はそう言いながら眠そうに目をこする。
その愛らしい姿を見て自分の代わりに敵の息の根を止めてくれたこの少女に不思議な感動を覚える。
誰にも認識されない美少女、その姿を認識出来るのは自分だけでなんか得した気分だ。
そして朝になっても消えていない多舞の姿を見つめ、
やっぱり幽霊じゃなかったんだ。こいつは俺の前からは消えないんだ。生きている存在なんだ。と思いなぜか安堵する。
羅冶雄に気づいた多舞はニッコリ微笑むと、
「おはようなの」
羅冶雄に声をかける。
「お、おはよう…」
その羅冶雄の返答に多舞はさらにうれしそうに微笑む、
羅冶雄はそんなやりとりに何か違和感を覚えその理由を考える。そして気付く、
よく考えてみると人に向かってこんな風にちゃんとした朝の挨拶をするのは久しぶりだ。誰も挨拶してこないから誰にも挨拶しない、今までそんな毎日だったから、
とびっきりの美少女が微笑んで朝の挨拶をしてくれる。羅冶雄にとってそれは今まで想像したことのない出来事だった。
今まで嫌いだった朝がなぜか今日は嫌いじゃない、それどころかなんか頑張るぞという気力が湧き上がってくる。
恐るべき力、それは美少女スマイル……
とにかく登校時間が迫ってきている。
学校には行きたくないがそれが羅冶雄の今の社会の役割、それに多少無理してでも行かなければならない訳もある。
部屋に備え付けの台所で洗面を済ませると着替えようと思いスエットを脱いで、そして体中に巻かれ包帯に気づく、それをほどこうとするが昨晩と同じでやはり全然ほどけない、第一ほどくための結び目が見当たらない、5分ほど格闘するがどうしてもほどけない、
どうなっているんだ?巻いた本人でなければほどけないのか?
そう思い炬燵に入ってテレビを勝手につけて見ている多舞に、
「おい、これどうやって巻いたんだ?ほどけないぞ」
仕方なく声をかける。
すると多舞は炬燵から出て立ち上がり、そして羅冶雄の傍まで来ると、
「こうするの」
そう言って羅冶雄の背中にある結び目をほどいて、その包帯を思いっきり引っ張る。
羅冶雄は独楽のようにくるくる廻る。部屋中が廻る。そして目が回る。
立っていられず布団の上に倒れ込み、くらくらしながら、
「違うぞ、バカ殿ごっこは男の方が回すんだ」
目を回しながらそう言うが、しかし言われた多舞はうれしそうに、
「ほどけたの」
ほどいた長い包帯を何故かきれいに巻き直している。
「……」
ぐるぐる回る目でその様子を見て羅冶雄は布団に突っ伏してしまう、情けないが今はつぶやく気力もない、
さっきときめいた美少女は夢のつづきの幻想でこいつはやっぱり厄病神か…
しばらくしてダメージが回復すると起き上がって体中に貼ってある効力のきれた湿布薬を剥がす。体中あちらこちらに痣ができているが痛みはほとんどない、あの多舞の治療は一応は効果があったみたいだ。
着替えようと思って部屋を見回すが昨日着ていた自分の学校の制服が見当たらない、
昨日意識を失った後に羅冶雄を部屋に入れて、そして手当するために服を脱がせたのは多舞のはずだ。
そう思い出して多舞に尋ねてみる。
「おい、俺の着ていた服はどうした」
包帯で球を作ってそれで遊んでいた多舞は部屋の隅のごみ箱を指さして、
「あそこなの」
そう言われ羅冶雄がごみ箱を見に行くと自分の制服が丸めて突っ込んである。
「俺の服はゴミかよ!」
思わずそう叫んで抗議するがしかし言われた多舞は涼しい顔で、
「汚れていたの、だから捨てたの」
それが当然のように言返してくる。その悪びれない態度にちょっとムッとして、
「汚れていたら普通は洗濯するだろ?そうしたら綺麗になる。だから別に捨てなくてもいいだろ」
そう言っても多舞はキョトンとした顔で、
「汚れたらもう着られないの、だから捨てるの、そして新しい服を着るの」
どうやら多舞には服を洗濯するという習慣はないみたいだ。
多舞はこんな風になってしまう前はどこかのお金持ちのお嬢様だったのかと思い。
「贅沢なんだなぁ、ちくしょう、いいなぁ金持ちはいつも綺麗な服を着て、どうせ俺は貧乏人だ。だから新しい服なんか買う余裕なんてないんだ」
そう皮肉を言ってから仕方なくに箪笥から替えの制服を出してそれを着ながら時計を見ると遅刻ぎりぎりの限界時間がとっくに超えている。
やばい!へたしたら走らないと遅刻だ。
そう思い焦り始める羅冶雄に多舞が、
「朝ごはんは食べないの」
平和そうに聞いてくる。
しかし羅冶雄はその普通では当然の事のような質問にいらつきながら、
「俺はいつも朝飯抜きだ」
そう答えると多舞は意外そうな顔をして、
「どうしてなの、朝ごはん食べないと大きくなれないの。そうおかあさんが言ってたの、食べなくちゃいけないの」
もう相手をするのが面倒になってきた。それにこれ以上かまっている時間もない、
「俺は貧乏だから食べるものが無いんだ。だから冷蔵庫の中はいつもカラッポだ」
そう言って机の引き出しから部屋の合鍵を取り出すとそれを多舞に手渡して、
「とにかく俺は学校に行く、おまえはここにいてもいいけど、もし腹がへって何か食べに行くならこの鍵を渡しておくからな、その時は鍵を閉めてから出て行ってくれ」
そう言ってからいそいで鞄を手にすると扉を開けて外に出る。
外は澄み渡る青い空で雲一つない、今日は快晴だ。
ひんやりとした空気が心地いい、しかし今はそんな感傷にひたっている暇はない急がないと遅刻だ。
羅冶雄は階段を降りると早足で歩き始めた。
その後をついて行く姿がある。
黄色いヘルメットを被ったその少女はさっきテレビで見て覚えたCMソングを口ずさみ、そして楽しそうにスキップしながら羅冶雄の後をついて行く。
羅冶雄のアパートから学校までは徒歩でおおよそ50分ぐらいの距離だ。
だから歩くには少し遠いがいつも貧乏な羅冶雄は登校のために貴重な金を払ってバスに乗ることなど当然出来ない、
そのため歩いて通学するしかなかった。
しかし今はその通学路を走っている。
駅前の商店街を駆け抜け歩道橋を駆け上がり駆け降りる。
既に越えてしまった限界時間を補うために、
そして走りながら腕時計を見る。
このペースで走ればまだ間に合う、そう思い気力を奮い立たせる。
「俺はマラソンランナーか?」
走りながら自嘲めいてそうつぶやく、そして嫌な事を思い出す。
今日の体育の授業は持久走だ。校庭を何周も走らなければならない…
急激に気力が萎えていく、しかし立ち止まることはできない、
「ちくしょう!ー」
思わずそう叫びながらやけくそになって羅冶雄は走る。
そのしばらく後を黄色いヘルメットを被った少女が自転車に乗ってついて走る。
覚えたてのCMソングを口ずさみながら、
「幸せぇ~の石、愛ぃ~の石、光り輝く奇跡のぉ石ぃ~エンゲージリング、その輪に囚われて、わたしはあなたの物にぃーなるのぉ~」
その好走の結果、羅冶雄は予鈴の30秒前に校門に到着する。
予鈴が鳴ったら門を閉める気満々の風紀委員や生活指導の教師がなぜかうかない顔をする。
「ちっ」
そう舌うちして、あと30秒後にこいつが来たらその時はすかさず捕まえて、そしてみっちり指導してやったのに、そう言いたげな顔で睨む体育教師の横を得意げに通り過ぎて校舎に入る。
「へっ、そうはいくもんか」
ニヤニヤ笑いながら昇降口で上履きに履き替える。
羅冶雄はこの学校では厄介者扱いされている。彼の言動、そして行動が集団生活を乱す要因になっていると指導する立場の者は考えているようだ。
予鈴の音を聞きながら階段を昇り廊下を歩き、そして教室の扉を開ける。
揃っていたクラスメイト達が一斉に羅冶雄を見て、そうして一斉に目を背ける。
それは毎朝の儀式、別に気にすることもない、
羅冶雄は窓際の一番後ろの席に鞄を置き、そして椅子に座って鞄から教科書を取り出す。
その時、羅冶雄に話しかけてくる者がいる。
「やあ、昨日は悪かったな、どうだ元気か?」
話しかけてきたのは自称、『学校便利屋』を名乗る宇藤拓実、羅冶雄がこの学校で話をする数少ない存在の1人だ。
『学校便利屋』それは学校内のさまざまな問題を金で解決する組織の別称、
その便利屋はこいつが会長である経済活動研究会が行っている研究活動だが、しかし会員が少ない、いや、ほとんどいない、そんな廃会寸前の同好会、そこでどんな研究をしているのかは知らないがそのテーマである経済活動をするためには人手がいる。だから随時に活動要員募集中なのだ。
それで羅冶雄は収入の少なさを補うために宇藤の持ってくる仕事を引き受ける。
こいつとはそういう関係だ。
「悪かったって?おまえ、あれはあまりにも酷すぎだぞ」
羅冶雄は昨日の重労働を思い出して抗議する。しかし宇藤は平然として、
「そうは言っても部室を移動するのに男手が足りないからと言って美人部長に泣いて頼まれたのだよ、男だったら引き受けない訳にはいかないだろう」
「演劇部が女所帯だって言うことは知っていた。それで困っている事も、でもそんな事はどうでもいい、いったいあの荷物は何だ?あまりにも多すぎるぞ」
「演劇用の衣装とかそんなのが多いからこそ僕の所に来た依頼だ」
「それを1人で運んだのは誰だ?そしてその報酬がたったの500円ではとても割が合わない」
「ちょっと待ちたまい、その困っていた演劇部の荷物を1人で運んだ君は言わば演劇部にとってヒーロ、きっと美人部長も感謝しているはず、そこに報酬以上の物がある。そう思わないか?」
「思わねぇよ!」
「労働とは奉仕、そして喜び、対価は少なくても満足できるとそう思って研究しているのに…おかしいな…」
「俺は労働に喜びなんか感じない、感謝されてもうれしくない、うれしいのは働いた分の金を受け取る時だけだ。だから報酬は等価だ。あれでは2千円もらっても割りが合ない、3千円ぐらいが相場だと普通はそう考える。そうだ!あれが500円だと言うのはどう考えてもおかしい、そんな安い金額でおまえの所に依頼が来るとは思えない…そうか!わかったぞ、おい、もうこれ以上何も言わないから黙って今すぐ残りを払え」
「人によって等価の基準には幅がある。どうやらまだ充分に研究する必要がありそうだ」
そんな問答の末にそう言って逃げるように宇藤は自分の席に戻って行く、
「ちょっと待て!おまえ演劇部からいくら貰った?どれだけピンハネした」
そう言って立ち上がり宇藤を呼び止めようとした時に教室に教師が入ってきた。
「ちっ」
水を差され思わず舌うちして羅冶雄は椅子に座り直す。
入ってきたのはクラスの担任の鈴木教諭だ。
彼は初老の男性で黒ぶちの眼鏡をかけ、そしていつもくたびれた背広を着ている。その風貌は教師と言うよりはむしろ定年前の窓際族で、しかも左遷された単身赴任中のサラリーマンと言った方がピンとくる。そんな見た目と同様この教師は教育あまりに熱心に取り組んだりしない義務的に授業を行い定年までの日数を指折り数えて過ごしそれまでは面倒事はごめんだと思っている、そういう男だ。
そんな教師の姿を見てすかさず隣の席のクラス委員長の絵里が、
「起立!」
と号令をかける。
みんなは自分の席に戻り、そして立ち上がって教師を迎える。
しかし羅冶雄だけは座ったままだ。
「礼、着席」
そう言いながら絵里は羅冶雄を睨むこれも彼の日課だ。
俺は誰の言うことも聞かない、そうしろと言われても自分にとって意味のない必要の無い事はしない、そう決めたんだ。
教師は人に物を教えるのが仕事、それを生業にして飯を食っている。言わば教えられないと飯が食えない、教えなければならない、そういう義務がある。そういう連中に授業の度にどうして頭を下げなきゃいけない、
そう思ってから一度も羅冶雄はこの儀式には参加していない、
鈴木はそんな羅冶雄を一瞥しただけで出欠を取り始める。
羅冶雄の順番が回ってくる。
「高石」
「はいっ!」
大きな声で返事する。
返事をしないと欠席扱いされてしまうためこれは無視することはできない、
やがて朝のホームルームが始まり鈴木が連絡事項を皆に告げていく、そしてプリントが配られる。
それは期末試験の日程表だった。
羅冶雄はそれを見て愕然とする。彼の苦手な科目の試験が2日目に集中している。
これでは得意の一夜漬作戦が実行できない、この日程は俺を陥れるための罠か?陰謀か?
そう思って思わず、
「なんだ、これはいったい誰が考えた日程だ。ひどすぎるぞ、ちくしょう!」
と大きな声でつぶやいてしまう、そうしてクラス中の視線が羅冶雄に集中する。
そうしてそこいらからひそひそ声が聞こえてくる。
「また壊れているなあのラジオ」
「今日はボリューム調整も利かないみたいだ」
「ときどき変な事を云うから面白いぞ」
「今日はどんな電波を受信するか楽しみだ」
「この前コンビニの利便性ついて、それをえんえん1人でぶつぶつ言っていたぞ」
羅冶雄の耳にそんな会話が聞こえてくるがこれもいつもの事、別に気にする必要もない、
しかし今日は何か突き刺すような視線を感じる、ちょっと気になり視線の主を探してみると隣の席の絵里が魔女の怨霊のような顔で羅冶雄を睨んでいる。
こいつに睨まれるのも慣れているし別に怖くないし、それにしても今日はまた一段と凄い形相だな…かわいい顔が台無しだ。
そう思い、そして睨み続ける絵里を無視して窓から外を眺める。
秋晴れの青い空、そこに飛行機雲が1本、その空を切り裂くように伸びていく、しかし空が大きすぎて境界線を造る事が出来ずに端から消えてゆく、あの大空は人の力では侵食できない聖域であるかのようだ。
そんな風景を眺めながら部屋に置いてきた多舞の事を考える。
あいつ部屋にいるのかな?腹減らしているんじゃないかな?俺の部屋にはまったく食い物ないし、まあ、その時はなんか買いに行って食べるだろうし大丈夫か…て、買うって?あいつ誰から物が買えるんだ?誰にも存在を認識してもらえないのなら買うことなんか出来ないぞ、いったいいつもどうやって食糧を手に入れているんだ?昨夜のシュークリームあれはどうやって手に入れた?それにあの医薬品、あれもあいつが持ってきた物だ。そう言えばあいつ変なこと言っていたな「持ってきた」って、あいつは誰にも見えない事を好いことにして泥棒しまくっているのか?そもそもあいつはどこに住んでいるんだ。いつもどこで寝ているんだ。今までどうやって生活してきたんだ?
まさに謎だらけの謎の少女だ。
そんな事を考えている間にホームルームが終わる。
そして羅冶雄が参加しない儀式が終わり担任が教室から出て行く、そして次の教科が始まるまでの束の間の自由時間が訪れる。
羅冶雄はこの隙に宇藤の奴をとっちめて、そして残りの金をふんだくってやろうと思い席を立って宇藤の所まで行こうとすが、
しかしそこに隣から声がかかる。
「ちょっと!ラジオ!あんたいい加減にちゃんと礼をしなさいよ!」
さっきの魔女の怨霊から地獄の女王に昇格したような顔で絵里がそうわめく、
これがクラスのアイドルか?…聞いてあきれる。
「あんなの面倒くさいんだ。それに誰にも迷惑かけてないんだから別にいいだろ?」
そう言って立ち去ろうとする羅冶雄の腕を地獄の女王の手が掴んで、
「ちょっと待ちなさいよ誰にも迷惑かけてないって?違うわ、委員長である私の所に苦情が殺到しているのよ、それはいい迷惑だわ」
「迷惑しているのはおまえだけか?じゃあすまないが我慢してくれ」
「我慢できないから言ってるのよ!」
腕を掴む女王の手の握力が増加する。
羅冶雄はそんな息巻く絵里をちょっとからかってやろうと思い、
「まあそう怒るなよ人間は忍耐力が重要だ。こんな世の中だ。だから嫌な事も多い、しかし人は我慢しないと生きていけない、そう思うだろ?だからおまえも忍耐力をつけてその怒りっぽい性格をなんとかしないといけない…そうだ!牛乳だ。牛乳を飲めよ、その中に含まれているカルシウムには怒りを抑える効果がある。それに他にもいろいろ効能があるみたいだしな…」
そう言って羅冶雄は絵里の発育途上の胸を見つめる。
「きーっ」
地獄の女王が終焉の破壊神に変貌する。
しまった。ちょっとやりすぎたか…そう思いこの場をどう取り繕うか考える。
しかしその時に運よく扉が開いて1時限目の教科の担当教師が教室に入ってくる。
そして羅冶雄の腕を放して終焉の破壊神から普通の女子高校生に一瞬で変貌した絵里が、
「起立!」
そうすました顔で号令をかける。
この儀式には参加しない、羅冶雄はそう思って椅子に座ろうとして異変に気づく、
教師の後ろから見知った存在が教室の中に入ってくる。
黄色いヘルメット…完全装備のコスチューム…多舞だ!
しかし誰も多舞の姿を見て騒ぎ出す者はいない、やはり誰にも見えていないみたいだ。
「礼、着席」
絵里はそう言うが羅冶雄は座れない、なぜか体が動かない、
その多舞は教師と同じ教壇に立って何か探すようなしぐさをしてから、そうして立ちすくんだまま動けない その多舞は羅冶雄を見つけるとうれしそうに微笑んで駆け寄ってくる。
「探したの、やっと見つけたの」
しかし羅冶雄は駆け寄る多舞を見つめたまま金縛りみたいに動けない、
「え…なぜここに」
そうつぶやいてただ立ち尽くす羅冶雄を訝しげに教師が、
「おい高石、もう座ってもいいぞ」
そう声をかけてくる。そのおかげでようやく金縛りが解ける。
「あ、はい」
そう言って椅子に座る羅冶雄に彼の席まで来た多舞が、
「やっぱり朝ごはんは食べないといけないの」
そう言ってベストのポケットからシュークリームを取り出して差し出す。
「これが朝めしか?って…そんなことよりおまえなんのためにここに来た」
羅冶雄がそう問い詰めると、
「ついてきたの、でもこれを取りに行ったら見失ったの、でも同じ恰好の人がここに入っていったからここだとわかったの、でも門が閉まったの、だから乗り越えて入ったの、そして探したの、ようやく見つけたの」
「そうじゃなくてだな、おまえがここに来た目的を聞いているんだ」
問い詰める羅冶雄に多舞はニッコリ微笑んで、
「朝ごはんは食べないといけないの」
そう言って手にしたシュークリームを羅冶雄に手渡すと、さらにポケットから次々取り出して机の上に積み上げていく、
多舞がここまで来た目的は羅冶雄に朝ごはんを食べさせることみたいだ。
羅冶雄は多舞の積み上げたシュークリームを机の端に除けながら、
「俺は朝めしは食わないんだ。だからもう帰れよ」
そう大きく叫んでからクラス中のまた始まったか、という視線に気づく、
そしてその視線は羅冶雄の机の上に集中する。
机の上の大量のシュークリームに、
それを見かねた教師が、
「高石、それはなんだ?」
不思議そう聞いてくる。
羅冶雄は咄嗟に言い訳を考えて、
「い、いや、昼飯に食べようと思って、それで、か、数が、幾つあるか確認して」
それを聞いた教師はげんなりした顔になって、、
「今は授業中だぞ、そんなことは休憩時間にしろ、だから早くそれをしまえ」
「はい」
そう返事してシュークリームを机の中に入れる羅冶雄に不思議そうな顔をした隣の席の絵里が、
「ラジオ、一体それどこから出したの」
不思議そうに聞いてくる。
「ああ、これは異次元から取り出したんだ」
羅冶雄はどう返事していいかわからず適当に返事する。
「異次元?なんか突然現れたみたいだけど…最初は1つで、そして急に増えて…何かの手品なの?」
そう尋ねられても説明するのが、いや説明できないのが面倒になり、
「おまえのために異次元から取り寄せたんだ。これも立派な乳製品、さあどうぞ」
そう答えて、そしてシュークリームを1つ絵里に投げる。
「きーっ!」
そう言って飛んで来るシュークリームを絵里が手の平で打ち返す。
はね返されてそれは羅冶雄の顔にぶっかる。
「いたっ!」
思わずそう言う羅冶雄に、
「いらないわよ」
絵里はそう言ってそっぽを向く、どうやらもう追及する気はないようだ。
「怒られたの?」
そんな様子を見て不思議そうな顔をした多舞がそう尋ねて来る。
「お前のせいだ」
誰にも聞こえないように小さな声でそう答えても多舞は不思議そうな顔のままだ。
「授業中は飲食禁止、先生にそう言われなかったか」
何もわかってないのかと思いそう言うと多舞は辺りを見廻してから急にハッとして、
「ここは学校なの?勉強しているの?」
いまさら気づいたみたいにまた訪ねてくる。
「そうだ。勉強中だ。だからおまえはじゃまだから帰ってくれ」
そう言う羅冶雄の言葉を何も聞いてない多舞は目を輝かせて、
「学校に来るの、久しぶりなの、わたしも勉強したいの」
「勉強するなら小学校に行け」
皮肉めいてそう言っても多舞は気にした様子もなく、そして絵里の机の教科書を手にするとそれを読み始める。
その時、教師が、
「おい、石江、120ページ読んでくれ」
絵里に教科書の朗読をするように指示する。
しかし絵里はキョトンとした顔で教師を見つめて、
「教科書?この授業に教科書ってありましたっけ、わたしは持っていませんけど…」
「なんだ、忘れてきたのか、だったら誰かの借りて読んでくれ」
教師の言葉に絵里は不思議そうに周りを見廻す。
その時、絵里の教科書を読んでいた多舞が、
「読めない字が多いの」
そう言ってその教科書を羅冶雄の机の上に置く、
羅冶雄がそれを手にすると突然、絵里が羅冶雄の手の自分の教科書を見つけて、
「ちょっと、ラジオ、何で私の教科書をあんたが持っているのよ」
そう言われてもどう答えていいか分からず、咄嗟に、
「い、異次元人がくれたんだ」
そう返事する羅冶雄を絵里は睨みながら、
「返してよ」
そう言って教科書をひったくると教師の指定したページを朗読し始める。
その様子を眺めながら羅冶雄は考える。
今、絵里は完全に教科書の存在を忘れていたぞ、どういうことだ?多舞が読んでいたからか?こいつの手にした物はこいつ同様認識されない存在になってしまうのか?そして手放すと存在が元に戻るのか?そう言えば多舞の着ている服、これは多舞のように認識されない存在ではないはずだ。多舞には物の存在を無効化してしまう、そんな能力があるのか?
床に座り込んで朗読する絵里を眺めながらポケットから取り出したシュークリームを食べている多舞に羅冶雄は小さな声で聞いてみる。
「おい、多舞、おまえはそのシュークリームをどこから持ってきた」
多舞は羅冶雄の方を見てニッコリ微笑むと、
「お店から持ってきたの、たくさん置いてあるの」
「金は払ったのか?」
「お金は払えないの、でも持って行っても誰もなにも言わないの」
「それって、泥棒してるんじゃないのか」
しかし口の周りをクリームでベトベトにした多舞はその口を尖らせて、
「ちがうの、泥棒じゃないの、わたしの持った物は消えてしまうの、なくなるの、はじめからないことになるの、だから誰も気にしないの、盗られたと思わないの」
やはり多舞には物の存在を自分同様に消してしまう能力があるみたいだ。
しかし多舞は人に触れても感じてもらえないし殴っても蹴ってもそうなった事にはならない、あくまでも物限定の能力だ。
その多舞は教師の古文の解説を退屈そうに聞きながら羅冶雄の方を見て、
「なに言っているのかわからないの、面白くないの」
「ここは小学校じゃない高校だ。レベルが違うんだ」
羅冶雄がそう答えると多舞は立ち上がり歩き出す。
「おい、どこに行くんだ」
思わずそう言う羅冶雄に、
「たいくつなの、お散歩してくるの」
そう言い残して扉を開けて教室から出て行く、
扉が開いたのに誰も注意を払う者はいない、
羅冶雄は出て行く多舞を追いかけたいという衝動にかられるが今は授業中で教室を出る訳にはいかない、
「あいつは誰にも認識されない存在だから問題を起こしたりしないだろう、いや起こしたくても起こせない、だから大丈夫だ」
そうつぶやいてからひとまず多舞の事はこのまま放置しておく事にする。
そうして羅冶雄はそんな多舞の事をいろいろ考えて1人でぶつぶつ言い始めた。
古文の授業は滞ることなく進行していく、そしてもう誰も1人でぶつぶつ言っている羅冶雄に注意を払う者はいない。
4時間目が終わり昼休みになった。
羅冶雄は休憩時間のたびに校内を歩いて多舞を探した。しかしその姿を見つけることは出来なかった。
多舞はもうこの学校にはいないんだ。
そう思いこの時間はもう多舞を探すのをやめてシュークリームを頬張りながら、今度は弁当を食べている宇藤の席に向かう、
「おい、残りの金を払え」
唐突にそう言う羅冶雄を宇藤は弁当を食べながら上目づかいに見て、
「その話はもう済んだんじゃないのかな?」
すぐに話を終わらせようとする。
「済んじゃいねぇよ、残りの金を払わないとどうなるか分かっているんだろうな」
羅冶雄は凄んで宇藤の机を叩く、
「君は借金の取り立て屋か?あの依頼は500円で引き受けてその金をそのまま君に渡した。それだけだ。僕はピンハネなんかしていないよ」
言い張る宇藤に羅冶雄はニャニャ笑いながら、
「500円で依頼を受けただと?さっきの休憩時間に廊下で演劇部の美人部長に会ったぜ、そして頭を下げられありがとうと言われたよ、それで聞いたんだ。おまえにいくら払ったのかを」
「……」
宇藤は黙り込んで下を向いている。そして弁当の卵焼きを箸で摘んでは落す。また摘んでは落す。その行為を繰り返す。
「さぁ残りを払え」
そう言ってまた机を叩く羅冶雄に宇藤は淡々とした口調で、
「同好会を廃会にしろと生徒会から言われているのだ。会員が少ない、研究の成果が見えない、よく問題を起こす。そういう理由でね、しかしすべての問題を金で解決する我が同好会はこの問題も金で解決しなければならない、そのためには資金が必要だ。同好会がつぶれたら依頼が来ない、そしてもう君に仕事を依頼できなくなる。そうなったら君も困るだろう?だから同好会存続のためにここは引いてもらえないか…」
その話を聞いて羅冶雄はフンと鼻で笑ってから、
「今度は生徒会長に話を聞いてこようか」
生徒会長は宇藤の双子の姉がやっている。そのためにこいつはこの学校でやりたい放題だ。便利屋稼業ができるのもその姉のおかげだ。だから生徒会が廃会を通告するなんてありえない、その図式を知っている羅冶雄は宇藤の今の話なんてまったく信用できるはずはない、
「……」
宇藤は黙って手持ち金庫を鞄から取り出すとそれを開けて紙幣を取り出し、そして数を数えて羅冶雄に差し出す。
羅冶雄はそれをひったくると数を数え始める。
「ひぃ、ふぅ、みぃ…おい、おまえ演劇部の部長から5000円もらったんだろ?だから枚数が足りないぞ」
しかし宇藤は金庫を閉めながら、
「残りは仕事の斡旋料だ。僕は仕事を手配する。その手数料はもらって当然だ」
どうやらこれ以上宇藤をつついても、もう1銭も払う気はないみたいだ。
昨日の分と合わせて3500円、一応これでようやくあの労働に見合った報酬になった。
「とりあえず今回はこれで勘弁してやる。また依頼があればいつでも引き受けてやるぜ、その仕事に見合った報酬ならな」
受け取った金を財布にしまいながら、そう言って教室を出て行こうとする羅冶雄の背中に、
「ああ、しかし当分君に仕事の依頼はないかもしれないが…」
宇藤の声が飛んでくるが羅冶雄は振り返らずニヤリと笑い、
「強がってもみても泣きついてくるのはいつもおまえの方だろう」
そう言い残して教室を後にする。
実際に宇藤の所に来る依頼は女子更衣室覗きの常習犯を捕まえろ、だとか、部室にできた蜂の巣をなんとかしてくれ、とか、そんなろくでもない依頼しか来ない、そしていくら金為とはいえやはりその依頼引きける奴は少ない
そんな依頼を随時引き受けている羅冶雄は宇藤にとって貴重な存在、だから蔑にはできないはずだ。
そう思いながら廊下を歩き羅冶雄がいつも昼休みを過ごしている場所へ行く、
占い研究会、その部屋の入口にはそう表示がしてある。
この学校の生徒はみんな必ずクラブか同好会に所属しなければならない、クラブ活動なんてしたくない、そう考える羅冶雄がとりあえず何もしなくてもいい、そんなクラブを探して所属したのがこの同好会、実際、羅冶雄は昼休みと放課後の暇な時間にいつもここにいるだけで別に何もしていない、そもそも占いなんかに興味はない、ただ所属しているだけのそんな同好会だ。
黒いカーテンで外の光が遮断されいて、いつも薄暗いそんな部屋には先客がいた。
椅子に座り黒いコートを着てフードを下している。何か魔術師めいたそのいでたちはこの同好会の会長の赤石希美、3年生だ。
彼女はいつも制服の上からコートを着込み、そして夏でもそのスタイルは変わることはない、この学校では極めて特異な存在だ。
希美の占いはよく当たる。そのためにこの同好会に悩み事や相談事を持つ生徒が放課後に頻繁に訪れるが、その応対をするのはいつも希美、羅冶雄はここにいるだけで特になにもしない、希美はそんな羅冶雄に何も言わない、そして幽霊部員の集まりのこの同好会でこの部屋にいつも居るのはこの人と羅冶雄ぐらいのものだ。
羅冶雄は部屋に置いてあるソファーに寝転び考え事をする。それが彼の日常になっている。
希美は占いをする時以外は寡黙な人でそんな羅冶雄に話しかけてくることはほとんどない、ここはこの学校内で唯一孤独が好きな羅冶雄が平穏を得ることができる場所なのだ。
しかしこの日は違った。
「貴方の事を占っていたの」
いつも何も言わない希美がめずらしく話かけてきた。
「ええ?…」
予想外の出来事に思わずソファーから身を起してそう言う羅冶雄に希美はテーブルに並べたタロットカードを見て、
「貴方は」
そう言って逆位置の隠者のカードを指さす。さらに、
「運命的な出会いをした」
そう言って死神のカードを指さす。
「そうして試練が訪れる」
彼女は逆位置の塔のカードを指さす。
「その試練に打ち勝つには犠牲を払い、それに耐えなければいけない」
そう言って吊られた男のカードを指さし、
「それには力が必要」
さらに力のカードを指さして言い、
「そうすれば望みは叶えられる」
最後に星のカードを指さし、そして希美は沈黙する。
「な、何を言ってるんだ?会長、どういうことだ?」
そう言って詰め寄る羅冶雄の顔をフードを上げて希美は見つめる。
噂では顔にひどい傷があるからいつもフードを被っている。
そう言われている希美の、でもそんなことは全然ない、そのよく整った美しい顔を羅冶雄に向け、
「今はわからない…でも、そのことは貴方が一番よく知っていると思う…違うかしら?」
真剣な眼差しで希美は言う、
そう言われてみれば思い当たる節がある。多舞の事だ。
「それが貴方を変える、そうとしか言えない」
そう言ってフードを被り直した希美はカードをしまい、そして立ち上がって部屋から出て行こうとする。
その後ろ姿に、
「待ってくれ会長、俺はどうすればいいんだ?」
そう問う羅冶雄に希美は手にしたタロットカードの中から運命の輪のカードを探し、そしてそれを示して、
「貴方のしたいようにする、それが運命、誰にも止められない」
そう言い残すと希美は部屋を出て行く、右足を引きずりながら、
「……」
立ち去る希美を無言で見送りながら羅冶雄は考える。
会長の占いはよく当たる。俺はそれをいつも見て知っている。だから今言った事もたぶん戯言じゃないんだろう、でも会長はどうして俺の事を占ったりしたんだろ、いや、そんな事より…
運命的な出会い?確かにそうかもしれない、そもそもあの多舞には誰も出会えない、そういう存在だ。しかし俺は出会ってしまった。それが運命というなら…たぶんそうなんだろう、
多舞を普通の存在に戻してやる。
昨夜にそう約束した。勢いに任せてそう言った。
しかしその事の容易ないことにいまさらながら羅冶雄は気づく、
「試練が訪れるって?」
そうつぶやいてからまた考える。
あの石の、その秘密を解き明かす。そうしないと多舞のあの状況を変えることはできない、しかしそれは容易ないこと、それが試練なのか?
いくら考えても答えなんて出ないそれが運命だと言うのならなるようにしかならないはず。
「今はもう考えるのはやめだ」
そうつぶやくと羅冶雄はソファーに寝転び目を閉じて、そしてやがて鼾をかいて昼寝を始める。
午後の授業は体育だった。
その内容羅冶雄の予想どおりに持久走、しかし校庭を女子がソフトボールで使用するために校外マラソンにその内容は変更された。
野球とか、サッカーとかそういう団体で行う競技が大嫌いな羅冶雄にとって個人競技のマラソンなんかは歓迎すべき内容のはずだが、しかし昨日から何かと体を酷使しているため長距離を走らなければならないその授業内容に思わずげんなりしてしまう、
そんな羅冶雄の様子を見て目を光らせた体育教師が、
「おい高石、お前はこの前のサッカーあれ立っているだけだったな」
いじわるそうに聞いてくる。
「団体競技は苦手なもんで」
そう答える羅冶雄を目を細めて見ながら体育教師は、
「それなら個人競技は得意なわけだ。マラソンなんてお手の物だろ?このクラスでトップになれる。そういうことだろ?」
「いや、別に得意というほどじゃ、それに今日は体調が…」
そう返事する羅冶雄の言葉を無視して体育教師は、
「トップになれ、そうしないと今学期の体育の成績は赤点だ」
そう言って羅冶雄の前から立ち去ろうとする。
「そんなのって…あんまりだ。一方的だ。横暴だ。ひどすぎる」
立ち去ろうとする教師にそう抗議するが体育教師は振り向いてニヤリと笑い、
「簡単なことだ。トップになる。それだけでいいんだ」
そう言ってクラスの皆の前まで歩いて行くと、
「みんな聞いてくれ、高石はこのマラソンでトップになる自信があるそうだ。その高石を押さえてトップになった者に先生は特別に高得点を付けてやる。いや高石より上位になった者全員が高得点だ」
その話を聞いて今までだらけムードだったクラスの男子達の眼の色が変わる。
そしてその視線が羅冶雄に集中する。
それは仇敵を見るようなそんな視線だ。
「うっ…」
その視線の圧力に耐え切れずに羅冶雄は思わず一歩後ずさる。
「よし、みんな位置につけ」
その時、体育教師が皆に号令をかける。
皆はスタートラインに並ぶ、羅冶雄も並ぶ、そして、
「大変な事になってしまった…」
そうつぶやく、
羅冶雄は全ての教科で平均以上の成績をとっておかなければならないという事情がある。
成績が下がったりすると後見人の叔母が部屋にやってきて、そして何時間にも及ぶ説教が始まるのだ。
そうならないために一応はその対策と努力はしてきている。しかしいきなり赤点なんてとんでもない、これはいじめだ。パワハラだ。
そう思ってももはや、いかんともしがたい、
羅冶雄は般若のような形相で彼を睨み、そして同じ話をえんえんと繰り返す叔母の姿を想像して思わず身を震わす。
そんな羅冶雄を他所にクラスの男子達は囁き合い、そして目配せし合っている。
その時、
「用意、スタート!」
ストップウオッチを手にした体育教師がそう号令をかけて、そして皆が一斉に走り出す。
羅冶雄も走り出そうとして、その時に足に何かが引っ掛かり転倒してしまう。
「ははっ悪く思うなよ」
そう言ってクラスの1人の江崎が走り去る。
どうやらあの江崎が足をかけて羅冶雄を転倒させたようだ。
「ふざけやがって!」
羅冶雄はそう叫ぶと猛然と立ち上がり、そして江崎の後を追い始める。
羅冶雄は自分を不幸にした者には容赦できない性質なのだ。
「あの野郎めとっちめてやる」
そう言ってすごいスピードで走り続けて先行するクラスの面々を追い越すがなぜか江崎の背中が見えてこない、
そう言えば江崎は確か陸上部の長距離の選手だったはず。競技会でいつも1番でゴールテープを切るその姿からある製菓メーカの名前があだ名になっていたな、そんな奴に追いつけるのか?
そう思っても江崎をとっちめないと羅冶雄の怒りは収まらない、
「ちくしょう!」
そう叫んで速度をあげてさらに2人のクラスの男子を追い抜く、
羅冶雄に追い抜かされた2人は顔を見合わせて、そしてニヤリと笑い合い、
「うまくいったな」
「ああ、うまくいった」
「あいつ怒り出すと見境がなくなるからな、あのままグリコを追いかけて、そして最後にへたばってしまうはずだ」
「そうなったらリタイヤ、そしてあいつ以外のクラスの全員が高得点」
2人はもう1度顔を見合わせ、そして、
「はははははっ」
「はははははっ」
笑い合う、
恐るべしクラスの男子達、スタートまでのあの短時間でこんな計略を考えていたとは、そして羅冶雄はまんまとその計略にはまってしまったようだ。
しかしクラスの男子達のそんな計略があることなど知らずに羅冶雄はひたすら江崎の後を追う、
マラソンのコースは学校周辺の住宅地からこの街の中を流れる一級河川の堤防の上に差しかかる。
この堤防を次の橋まで走り、その橋を渡って反対側の堤防をまた走り、そしてまた次の橋を渡って住宅地を抜けて学校に戻る。そのコースの距離はだいたい15㎞ぐらいだ。
クラスの大半は追い抜いた。あと残るのは江崎だけだ。
直線コースになって遠くにその江崎の背中がぼんやり見える。
どうやら江崎は羅冶雄の500mぐらい先を走っているようだ。
恐るべき男江崎は陸上部のエース、羅冶雄が全力で走っても差は縮まるどころか逆に開いていくみたいだ。
その江崎の背中を睨んでなんとか追いついてやろうと思い足を速く動かそうとするが、しかし羅冶雄の思いとは裏腹に足は速くは動いてくれない、
「!?」
異変に気付いて驚いても後の祭りで全力疾走の果てについに羅冶雄の体力は急激に失われているみたいだ。
急に息が荒くなり、そしてガタガタと膝が笑いだす。
体中の関節に激痛が走り、そして冷汗が出て走っていて暑いはずなのになぜか悪寒がする。
ついに羅冶雄はもう走れなくなって立ち止まるとその場に座り込んでしまう、
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ」
荒い呼吸をなんとか整えようとするが、しかし失った酸素を求める体は羅冶雄の思い通りにはならない、
そんな羅冶雄の横をさっき追い抜いた2人の生徒が通り過ぎ、そして顔を見合わせニヤリと笑い合う、
クラスの男子達の計略はまんまと成功したみたいだ。
「ちくしょう…江崎の野郎」
荒い息でそうつぶやくが気力はあっても体力がもう限界、もはやどうにもならない、
「このままでは赤点確実、そして」
朦朧としながら、またそうつぶやく、そんな羅冶雄の目の前に突然、般若のような叔母の姿が現れる。
その姿を見て思わず羅冶雄は震えだす。
叔母は蛇のような冷酷な目でじっと羅冶雄を見つめて、そうして口を開き羅冶雄に話かけてくる。
「なにしているの」
「わっ!しゃべった!」
羅冶雄は驚いてそう叫び思わず頭をかかえて丸くなってしまう、そうして、
「ごめんなさい次は必ずがんばりますから許して下さい」
そう言って許しを乞う羅冶雄に、
「だれにあやまっているの?」
もう1度声がかかる。
「誰にと言われても…叔母様に…」
「わたしはおばさまじゃないの」
叔母さんじゃない?じゃあいったい誰だ?
そう思い、そしてその声に聞き覚えのある事に気づいて顔を上げると、そこには般若の叔母ではなく自転車に乗った多舞が不思議そうな顔で丸くなる羅冶雄を見下ろしている。
その平和そうな姿に思わず憤りを感じて、
「おまえか!まぎらわしいことするんじゃねぇ」
そう怒鳴る羅冶雄を多舞はさらに不思議そうに見つめる。
考えてみると多舞は何も悪くない、疲労のせいで叔母の幻覚を見て勝手にあやまっていたのは羅冶雄で多舞を怒鳴りつけるのはお門違いだ。悪いことをした。そう反省して、
「ごめんなさい」
そう言って羅冶雄は多舞に頭を下げる。
「だれにあやまっているの?」
「もういいよ…」
なんだか面倒くさくなる。
「なにしているの」
多舞はもう1度そう聞いてくる。
そんな多舞の姿を見て、
こいつ教室から出て行ってから今までどこにいたんだ。心配させやがって、そう思うが、
しかしその見慣れてしまった姿にまた逢えた事になぜか安堵してしまう、そうして、
「マラソンをしているんだ」
そう答える。
すると多舞はさらにもっと不思議そうな顔になり、
「でも走ってないの?」
そう言って首を傾げる。
「疲れてしまって、もう走れないんだ」
多舞とやりとりしている羅冶雄の横をクラスの男子達が走って通り過ぎて行く、
それを見た多舞は羅冶雄を指さして、
「ラジオはだらしないの、みんな走っているの」
そう多舞に叱責されても羅冶雄にはもはや走るだけの体力がない、
「ここまで全力で走ったんだ。仕方ないだろう」
苦し紛れに言い訳をする。
「走らないと怒られるの」
多舞はそう言ってえらそうに腕を組み、そして体を後ろに反らせる。
その時、多舞の乗っている自転車に走ってきたクラスの男子がぶつかる。
「きゃっ!」
バランスを崩された多舞は転倒しまいとして必死にハンドルにしがみつく、
その様子を見て笑いながら羅冶雄は、
「はははっ、えらそうにするから罰があたったんだ」
そう言ってからかうように笑う、
多舞は口を尖らせて、
「ばちなんてあたってないの、誰もわたしが見えないからいつもぶつけられるの、それだけなの」
そう言ってそっぽをむく、
「でも、ぶっつけられたのは自転車だろ」
そう言ってから羅冶雄は多舞の能力の事を思い出す。
そう言えば多舞の手にした物はこいつ同様誰にも認識できない存在になってしまうんだ。着ている服も、となるとこいつの乗っている自転車も存在が消えてしまっているのか、だから見えてないからさっきぶつけられたのか?
羅冶雄はそこまで考えて、ハッと思いつく、
赤点からのがれられ、そしてうまくいけば江崎の奴に一泡吹かしてやれる、その方法が目の前にある。
羅冶雄は立ち上がると多舞の乗っている自転車の荷台に飛び乗る。そうして多舞に、
「悪いがこのままマラソンコースを走ってくれ」
そう声をかけが、しかしそう言っても多舞は動こうとはしない、
「おい、頼んでいるんだぞ」
「ズルはいけないの」
そう言って多舞はまたそっぽを向く、
どうやら多舞を走らすためにはうまく言いくるめなければならないようだ。
羅冶雄はしばらく考えてから、
「これはズルじゃないんだ。俺はもう走れない、でも走らないと怒られる。それで困っていた。そこに友達のおまえが来てくれたんだ。その困っている友達を助けるために、そうなんだろう?」
そんな羅冶雄の言葉に多舞はキヨトンとした顔になり、、
「わたしはお散歩していただけなの」
「でも困っている友達を放っておけない、違うか?」
すかさずそう言う羅冶雄の言葉を聞いて多舞はしばらく考えてから、
「ほっておけないの」
そう答える。
「じゃあ、お願いする。頼むよ」
「まかせるの」
そう言って多舞は猛然とペダルを踏み込む、
羅冶雄を乗せた多舞の自転車は颯爽と堤防の上を疾走して行く、そして羅冶雄を抜いていったクラスの男子達を次々と追い抜いて行く、
男子達は驚愕する。
完全にへたばって道端に座り込んでいた羅冶雄がなぜか復活して、そして目の前をものすごいスピードで駆け抜けてゆく、駆け抜ける?しかし足は全然動いていない、まるで地面に浮いて…
その姿はまるで飛んでいるように見える。
飛んでる羅冶雄は皆の前から遠ざかって、そしてみるみる小さくなっていく。
「フン、楽勝だぜ」
独走を続ける江崎はいい気分に浸りきっていた。
「クラスでトップになれる自信があるだって?」
あの壊れたラジオはやはり壊れているとしか言いようがない、あいつがトップになる。そんなことはありえない、なぜならこのクラスには俺がいるからだ。高校駅伝の予選で区間記録を更新したこの俺が、誰も俺についてこない、俺は速い、そうして俺はオリンピックを目指す。天才なのだ。金メダル確実だ。そしてそんな俺をどこの大学も目を付けている。俺には入試なしで推薦で入れる大学がいっぱいあるんだ。あんなラジオとは出来が違うんだ。
そんな自己陶酔にふけりながら走る江崎に声をかける者がいる。
「おい江崎」
横を見るとそこにはあの壊れたラジオがいる。
ありえない事が目の前にある。そして江崎は驚愕する。
「な、何ぃっ、ラジオ…なんでお前が!」
「追いかけて来たんだ。おまえをな、そしてこれがさっきのお返しだ!」
そう言って羅冶雄は思いっきり江崎を突き飛ばす。
突き飛ばされた江崎は脚がもつれバランスを崩して転倒し、そうして土手を転がって最後は川に落ちる。
ドボンと心地よい音が羅冶雄の耳に響く、
「ざまぁみろ、はっはっはっは」
そう言って高笑いする羅冶雄はふと異変に気づく、
多舞が自転車をこぐのをやめて立ち止まり、そうして羅冶雄の顔を睨んでいる。
「どうした?まだ学校に着いていないぞ」
そう言う羅冶雄に多舞は怒りの表情を浮かべて、
「悪いことをしてはいけないの、そうして助けてあげないといけないの」
抗議の言葉を投げかけてくる。
下を見ると江崎は川からはい上がってよろよろと土手をよじ登っている。
「ほっときゃいいんだ。あいつは悪い奴だ。悪い奴を俺はやっつけたんだ」
「悪い人なの?」
意外そうな顔になり多舞がそう尋ねてくる。、
「そうだ、俺を走れなくした張本人、それがあいつだ」
「でも川に落としたらいけないの」
「そんな目に遭っても不思議のないそんな極悪人だ。だから気にするな、それより急がないと」
追いすがってくるクラスの男子達の姿を目で捉えて羅冶雄はあせりだす。
「もっと悪い連中が追いかけてくる」
「逃げるの?」
「全員を相手にしていられない」
「鬼ごっこなの?」
「そうだ。学校に着いたら俺たちの勝ちだ」
「頑張るの」
そう言って再び多舞は力一杯ペダルを踏み込む、そうして自転車に乗った2人は疾風のように堤防の上を駆け抜けて行く。