第八章
どこで近況を知ったのか、大学時代の友人から連絡が来たのはそれから二、三日経ってからの事である。珍しく貴子の携帯電話が鳴った。
「貴子、あんた旦那さんと別れたんだって?今どうしてるの?」
またおせっかいな奴が出て来たな、と貴子は内心辟易していたが、心配する友人を邪険に扱う訳にもいかない。
「そうよ。今は一人で暮らしてるわよ。私なら大丈夫だから、心配しないで」
貴子は素っ気なくそう言ったが、
「心配するわよ。あんた仕事は何してるの?」
と友人が畳み掛ける様に聞いてきたので、貴子は
「今探してるところ。自由気侭なフリーターよ」
と自嘲気味に答えた。すると
「ちょうど良かった。ねえ、今日暇?時間があれば今夜会わない?」
と友人は言った。突然の提案に貴子は困惑した。
「いいけど、何するの?」
目的もなく外出するのは、やはり貴子の中では不自然であった。
「何するって、食事に決まってるでしょ。まあ色々と話もあるし」
と友人が意味深な言い方をするので、貴子は
「話って何よ?ここでは言えないの?」
と続けざまに質問した。友人は半ば呆れて、
「もう、あんたほんとに変わってないわね。直接会って話したいの。じゃあ決まりね」
と言うと、場所と時間を指定し、電話を切った。すぐに詳細のメールが貴子の携帯電話に送られてきた。
「じゃあ今夜七時にこの場所で。ヨロシク~」
と、何故かハートの絵文字を付けて送られて来た。貴子は
「了解」
と無機質に返した。
その日の夜七時、貴子が指定された場所に向かうと、既に友人が来ており、笑顔で手を振ってくる。
「久しぶり~。あんまり変わってないね~」
「理恵も、変わってないわね」
この理恵という友人は貴子の大学時代の友人で、共に皮膚科の専門であった。大学時代の成績は貴子と違って良くなかったが、それでも何とか大学を卒業し、医師国家試験に合格した。その後東大医学部付属病院で実績を積み、今では独立して私立病院を経営しているらしい。貴子はその病院に行った事こそなかったが、なかなかの盛況ぶりで、最近になって病院を移転させ、持ちビルを構えたという事を噂では聞いていた。もっとも貴子にも詳しい事は分からない。理恵が独立したという話を聞いてから、実際に理恵と会うのはこれが初めてである。
二人は近くの韓国料理屋に入った。そこで食事をしつつ思い出話に花を咲かせた。理恵はマッコリという酒が口に合わないらしく、一口飲んだなりビールに鞍替えしてしまった。
「そうそう、仕事探してるんだって?どんなところ探してるのよ?」
チヂミをつまみながら、理恵が思い出した様に言う。
「具体的にはまだ決まってないわよ。まだ動き出したばかりだもの。まあ自分の知識とか経験が活かせて、なおかつやりがいの見出せる仕事が良いとは思うんだけどね」
と貴子が言うと、理恵は箸の先端を貴子に突きつける様にしてこう言い放った。
「何就活中の学生みたいな事言ってんの。そんな曖昧な基準じゃいつまで経っても見つかりゃしないわよ」
「しょうがないじゃない。私就職活動なんてした事ないもの。これも良い機会だと思って、自分を見つめ直してるわ」
貴子は遠い目をしながらそう言った。
「そうは言ってもねえ。もう歳も歳じゃない。いくら知識や経験があっても、このままだと道は狭くなるばかりよ」
網で焼いているカルビを返しながら話す理恵の何気ない一言が、貴子の心に突き刺さる。
「そんなにはっきり言われなくても、分かってるわよ。それに歳はお互い様じゃない」
貴子は少しむっとして答えた。そんな貴子を理恵はおかしがった。
「ふふ。そんな貴子ちゃんに提案なんだけどさ。うちのクリニックに来ない?」
この提案は貴子にとって思ってもない話だった。無論勤務医になるという選択肢は最初から貴子の中で除外されていたから、それを理恵から誘われる事になろうとは期待もしていなかったのであろう。
「悪いけど、私は勤務医になる気はないわよ」
と貴子は理恵の提案を一蹴した。が、理恵の説得は続いた。
「まあまあ、ずっと勤務医を続ける事になるとは限らないよ」
理恵の話によればこうである。理恵の経営するクリニックは勿論皮膚科であったが、その中でも美容に特化した主に女性がターゲットの皮膚科であった。アンチエイジングなどの気運が高まり、昨今急速に市場が拡大しているという。市場が成長期にあるとは言え、まだまだ飽和状態というほどには成熟しきっておらず、新規参入の余地は充分にある。市場がなかなか成熟しきらない要因は、その参入障壁にある。その市場に参入するには、医師免許を取得していなければならないのは勿論の事、皮膚科の専門医である事、更に美容にまつわる研究、テクノロジーについて一通りの見識を持っている事が最低条件となる。加えて主たるターゲットが女性であるから、医師が女性である事が望ましく、それも若ければ若いほど有利であると言う。普通医者という職業はいかにも経験のありそうな年配の医者の方が信頼されるものであるが、こと美容という分野においては見た目の若い医者の方が助言も説得力を増すのであろう。皮膚科について大方の知識、経験があり、かつ若い女性の医師と言えば、貴子にはもはや合致しない条件などない訳である。
「だけどね、いきなり独立開業しようと言っても、ノウハウがない訳でしょ。だから少しの間うちに来て色々勉強してから独立するのがいいと思ったわけ」
理恵の滔々とした説得は非の打ち所のない様に、貴子には思えた。確かに美容皮膚科の分野は近年になって大分脚光を浴びて来ており、切ったり貼ったりする美容外科の安全性を懸念する女性からはかなりの支持を得ているらしい。まだ新しい市場である分潜在的な顧客はそこら中に眠っていそうなものであるし、しかもある程度先駆者がいてくれるお陰で後発の優位性を保ちつつ経営に乗り出せそうである。だがそう易々と誘いに乗る貴子ではない。
「どうして私を誘おうと思ったの?私が独立開業してしまえば、あなたの商売敵になるのよ?」
確かに、理恵が単なる友情の為に貴子に救いの手を差し伸べたという事もあろう。あるいは一定期間有能な助手を雇えるという利点もあったかも知れない。しかしそれだけでは動機として幾分弱い様な気がしてならなかったのである。
「それはね」
理恵はグラスに残ったビールを飲み干すと、溜め息混じりに行った。
「独立開業したとは言っても、一匹狼ではいられないのよ。この世界でも横の繋がりが大事なの。医師会だとか研究会だとかまあ色々あるけど、孤立を避けるために医者同士も連帯するのが普通なのよ。その方が最新の情報なんかも入り易いしね。ところがこの市場ってまだ発展途上なもんだから、横の繋がりが薄くてね。孤立無援の不安な経営を強いられる訳よ。それについては私も例外じゃなくて、一刻も早くこの孤軍奮闘状態から抜け出したい訳」
要するに、貴子をこの市場に引き入れる事で、ノウハウを共有するなどあらゆる面で協力して経営していく事が出来れば、理恵にとっても心強いという訳である。貴子はそれに一応は納得したが、それでもすぐさま理恵の提案を承諾することは出来なかった。
「大事な話だから、少し考える時間をちょうだい」
と言ってその場を終えた。だがこの時貴子の心は既に九割程度まで答えを出していた。「考える」などというのはある程度時間を置いてみて心変わりしない事を確かめる為の口実に過ぎなかった。何しろ自分のこれまでのキャリアが活かせ、なおかつ成功すればある程度の経済的成功も得られる事が期待できるのである。もっともそれで肝心の精神的幸福が得られるかどうかについてはよく分からなかった。残りの一割とはそれである。しかしそんなものはやってみなければ分からないし、悩んでいても答えなど出そうにない事がここ最近の貴子の「自分探し」によってはっきりしていた為、貴子がここで一歩を踏み出そうという決心を固める事はそう難しい事ではなかったのである。