第五章
それから様々な法的手続きを経て二人の離婚は成立し、貴子は智彦の家を出た。元々この離婚は貴子が言いだしたものであったから慰謝料の授受はなかったが、貴子は智彦から当分の生活費を受け取っていた。都内に一人暮らし用のアパートを借りており、引っ越しも済んでいたので、貴子は家を出てそこに向かった。家を出てすぐに、貴子が庭でオレンジ色の実をつけた蜜柑の木を見つめていると、甘い風の香りが家族との思い出を連れて貴子を包んだ。家の者から疎まれはしたが、夫は優しかったし、子供は利口で、いつも自分を慕ってくれた。無機質な自分の性格は変わらなかったが、それでもそんな自分なりに家族というものを育み、それに幸せを感じる事もあった。「愛情」という得体の知れぬものが、確かにそこにはあったのだ。そういう家族の思い出が詰まったこの家は、貴子にとって大切な場所に違いなかった。
(もう来る事もないわね…)
そう思うとうっかり涙が出そうになり、寒空の下コートの裾を翻し、貴子は足早に歩き出した。
新居のアパートは洋風な造りの九畳一間であり、一人暮らしの女性でも安心して住める、セキュリティーの整ったところであった。隣近所に挨拶をして回った後、貴子は伽藍とした部屋に籠り、一人静かに自分の行く末を考えていた。息子を亡くし、夫と離婚した三十二歳、無職の女の一人暮らし。どう考えても哀れな姿である。が、肌だけが絹の様な滑らかさを不気味に晒している。
貴子はふと、自分の母親の事を思い出した。あれは貴子が中学生の頃の事である。貴子の母親は自分を捨てて見知らぬ男と共に姿をくらましたのである。父親が早世したため、それまで貴子は母子家庭で育った。母親は貴子を女手一つで懸命に教育してきた。また母親は熱心な医学者でもあったので、多忙で夜遅くなる事も度々あったが、それでも貴子をなるべく不憫にさせないよう、出来るだけ多く貴子に接し、貴子がやりたいと言った事は何でもさせ、食事も殆ど自分で作っていた。当時から賢い子供だった貴子はそんな母親に心配をかけまいと、日々「良い子」を演じ、学校でも常に優等生であった。だが貴子が中学生になると、母親の様子が一変した。四六時中溜め息ばかりつき、元気がないのである。心配した貴子はなるべく母親に負担をかけないよう、家事は殆ど自分でこなし、母親の体調を気遣った。貴子が依頼心のない自立した女性であるのはこういう経緯によるものであろう。しかしその努力も虚しく、母親は日に日に衰弱していく様に見えた。遂に見かねた貴子は母親に精神科の診察を受ける事を勧めた。が、母親はそれを拒んだ。そしてふと溜め息をつき、こんな台詞を漏らした。
「しかし、女の幸せって何なのかしらね…」
貴子にはその時、その意味するところが今一つ分からなかった。父親はいないにせよ、母親は優秀な医学者としてキャリアを積んでいたし、貴子も少なくとも客観的には順風満帆の学校生活を送っていた。そんな自分たちに、何か不安でもあるのだろうか、と疑問に思っていたのである。そして貴子の疑問が解かれぬまま、母親は遂に家を出た。ある日忽然と姿を消したのである。貴子は特に寂しいとも感じなかったが、さすがに中学生一人では暮らしていく事が出来ず、後日親戚に引き取られ、そこで暮らした。母親と離れて暮らす事になった貴子を不憫に思い、親戚は貴子に惜しみない愛情を注ぎ、貴子に何一つ不自由をさせなかった。貴子がその親戚から母親の話を聞いたのは、それからずっと後の事である。
「お母さんね、仕事も辞めて男の人の所に行ったんよ…」
貴子はそれを聞いた時、一層不可解であった。娘を捨て、仕事を捨て、向かった男に一体どんな希望を託していたのだろうと。そしてその疑問はついぞ解決されないまま今に至るのである。
貴子は部屋で一人、母親の言葉を反芻していた。
「女の幸せって何なのかしらね…」
貴子は今、母親の気持ちが僅かながら分かる様な気がした。母親は、物質的幸福を捨てて、精神的幸福を求めたのではないか。勿論、母親がその後幸せになれたのかどうか貴子は知らない。それどころか夫や子供まで物質的幸福と見なした自分を鑑みると、その可能性は極めて薄いのではないかとすら思われる。ただ、何か一縷の望みを見出して新たな人生を選んだ母親の姿が、今の自分と重なって見えるのである。
貴子は、自分の手の甲を撫でながら感じていた。自分の痒みの正体とは、つまるところ「女」という性質ではないかと。だとすれば、何と厄介な性質であろう。所謂勝ち負けという男の幸福観の様に客観性がなく、誰にも答えを求められない精神的幸福などというものを追いかけて一生を過ごさねばならない。何物かも分からぬものを諦められずに生きる者の行く末など、不幸に決まっている。人間は幸福が諦められないから不幸になるのではないか。であれば女は結局不幸なのではないか。それを貴子が肌で感じていた時には、外は既に闇夜であった。暗い部屋で一人、貴子は孤独を感じた。