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自傷癖  作者: 北川瑞山
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第四章

言うまでもなく、貴子は悲嘆に暮れた。一生分の涙を流した。貴子はこれまで人前ではおろか、一人の時にも涙は流したことはない。だがこの時ばかりは、四六時中大声を出して号泣した。淳一の葬儀の時など、棺の前で突然泣き叫び、その場に崩れ落ちた。そこから二度と立ち上がれない様な絶望で、危うく貴子は気を失いかけた。その後もどす黒い目眩が度々貴子を襲い、その度に貴子はこの現実が夢であることを願った。この悪夢から覚めて欲しい、淳一に再び自分のもとに駆け寄ってきて欲しい、という期待を捨て切れずにいた。

 そうして涙も希望も枯れた頃、貴子は自分の愚かさを呪った。復讐によっては、人の心の傷は癒えないのだ。自分が復讐をしたところで、淳一が喪失した自信は戻らなかったのだ。戻らないばかりか、更に遠のかせてしてしまった。それなのに自分は「淳一の為」等と言って復讐を企て、実行した。だが今思えば、それは他ならぬ自分の為ではなかったか。淳一を守る為ではなく、淳一を守る義務を背負った自分の為ではないか。貴子はそう考えた。そしてその考えを裏付けるものは貴子の例の痒みであった。以前の推論によれば、精神的幸福が物質的幸福に追いつかない時、貴子の体は痒みを発してそれを欲するはずである。だが精神的にどん底であるはずのその時の貴子には全く痒みがなかった。その理由は一つしか考えられない。貴子にとって、淳一は物質的幸福でもあったという事である。家や車と同じ、物質的幸福。それは偏に他人と比較する為の幸福である。つまり貴子にとって淳一は淳一本人の為の存在ではなく、自分の虚栄心を満たす為の存在であったということである。だからこそ、物質的幸福を傷つけられた貴子はあれほどまでに復讐心に燃えたのであろう。その事実に、貴子は一層の自己嫌悪に陥った。そうしてこの自責の念は長い間貴子を苦しめた。

 自分を責める貴子を気遣って、智彦は始終貴子に優しく接した。

「お前は何も悪くない。お前は正しいことをしたんだ。辛いのは分かるが、自分を責めたりしないでくれ」

だが、そうした智彦の言葉は貴子の頭上を掠めるだけであった。自分を責めるという行為を止めてしまったら、自分の精神は崩壊してしまうだろう。と貴子は思うのである。自分を責めるという自傷行為。とにかく貴子は自分を責めることによって何とか心の均衡を保っていた。恐らく、人間の自責の念とは自分を責める事自体が目的ではないのであろう。自責の念に駆られた自分を演じることで自分を慰め、納得させることこそ目的である。いわば一種の自己欺瞞である。そのようにして自分を傷つけ、一時の精神的充足を得ようとする意味で、自責という行為は貴子の体を引っ掻く、熱湯を浴びるといった自傷行為となんら変わらない。つまり貴子は自責の念を以て精神的幸福を全身全霊でかき集めていたのである。

 もっとも、貴子の自傷行為はこれだけに止まらなかった。貴子が仕事に復帰して一カ月程経ったある日の夜である。診察を終え自宅に戻ると、何かを決心したような表情で、貴子は智彦の部屋へ向かった。

「私たち、別れましょう」

智彦は面食らって、唐突なその提案を鼻で一笑した。

「何言ってんだ。本気なのか?」

貴子はつられて笑う事もせず、表情は微動だにしない。

「ええ、本気よ」

「ちょっと待て。成り行きがまるで分からん。どういう事なのかちゃんと説明してくれ」

「この家に私は必要ないわ。私も一人になりたいの。ただそれだけ」

貴子はそう言ったが、本音のところは貴子にこそこの家が必要ないという事であった。貴子には淳一のいなくなったこの家にいる意味はなかったし、何より精神的に不幸である状態のまま仕事だけが順調である事が許せなかった。その不安定さに耐えられなくなったのである。そしてその証拠に、貴子の肌は徐々に疼き始めていた。が、智彦にそれが分かろうはずもない。

「さっぱり分からん。お前がそう考える理由は何だ?淳一を亡くして自暴自棄になっているんだろう?お前らしくもない。少し頭を冷やせ」

智彦はうろたえているのか、いつになく早口である。

「私にはもう何を求めて生きればいいのか分からないのよ。だから一人になって考え直したいの」

無論、貴子はそれ程に生きる意味を見失っている。このまま同じ生活を続けていても、それが見つけ出せるとは思えなかったのであろう。だがその奥にある真意、すなわち物質と精神の安定という真意はやはり智彦には伝わらない。

「ほら見ろ。自暴自棄になっているだけじゃないか。お前は少し休んだほうがいい」

「そんなんじゃないわ。ただこのままじゃいけないと思うのよ。このままじゃお互いが不幸になる」

「不幸になるのは別れたって同じだ。淳一を亡くした不幸は俺たちが一生背負っていかなければならないんだぞ」

「そうよ。だからこそ私は幸福を探さなければいけないわ。物質的幸福と同時に、精神的幸福をね」

一瞬、智彦は何を言われたか分からなくなったのか、怪訝な表情で貴子を睨んだ。

「精神的幸福を探す?じゃあ俺といる事は物質的幸福なのか?」

貴子は一瞬俯いた後、再び智彦を見据えてこう言い放った。

「どうやらそうだったみたい。あなたといても、私には満たされない何かがあるのよ」

貴子もさすがに「淳一も物質的幸福であった」などとは言いだせなかったが、それでも智彦を失望させるのには充分だった。智彦は掌で額を覆い、力を失った様に溜め息をつきながら言った。

「それでも俺には分からないよ。俺に何か足りないものがあったとしてもだ。精神的幸福などというものはそれほど大それたものなのか?そんなものは日常を生きているうちにふと気が付くと感じているものではないのか?」

「そうとも限らないわ。私にとっては物質的幸福よりもむしろ精神的幸福を得る事の方が難しく感じる。今になってその事にやっと気が付いたのよ」

「そうか。物質的幸福を投げ打ってまでそれを求めるんなら、それはよほど価値のあるものなんだろう。お前がそこまで言うなら俺に止められはしないさ」

智彦はうなだれながら、諦めた様な微笑でそう言った。息子を失い、妻をも失おうとしている智彦。そんな智彦の内心を察すると、さすがに貴子も胸が痛む。

「本当にごめんなさい。私の勝手であなたを不幸に陥れてしまった。私って本当に自分の事しか考えられない人間ね。最低だわ」

だがそう言うのはやはり貴子の自傷癖であろう。そしてこの言葉を以て、貴子の自傷行為がまた一つ完成した。離婚という悲劇も、貴子にとっては幸福を求めるためのプロセスでしかなかった。「毒を食らわば皿まで」という言葉が貴子の脳裏を過った。


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