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自傷癖  作者: 北川瑞山
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第三章

ある日の午後、良く晴れた空の下、淳一の通う小学校の駐車場に貴子の運転するBMWが止まっていた。この界隈ではこのような高級車は珍しくない。小学校の駐車場には他にもベンツ、ボルボといった高級車がずらりと並んでおり、まるで何かのモーターショーの様な華やかさである。当然警備も厳重であるが、車の中にいる貴子には警備の目は向けられていない。そろそろ生徒達の下校の時刻である。青天を映し出すフロントガラスの奥で、貴子はぞろぞろと出てくる小学生達を注意深く目で追っていた。切れ長の目が落ち着き、呼吸は静かで規則正しい。が、手はハンドルを硬く握りしめている。校門付近をはしゃぎながら歩き通り過ぎる小学生の群れの中、一人とぼとぼと歩く淳一の姿が貴子の目に留まった。

(淳一…)

貴子は瞬きをし、淳一をそのまま見送った。貴子の目的は淳一ではない。青木である。貴子は青木への報復のため、ここで青木を待ち伏せているのである。貴子の心に迷いはないものの、淳一の姿を認めた時には胸が締め付けられる様な感覚を覚えた。母親がここで待ち伏せをしている事などつゆ知らず一人で下校する淳一の背中を見て、「淳一を守らねば」という使命感と、「淳一に黙ってここへ来てしまった」という罪悪感が複雑に貴子の中で混じり合った。もっともそれで怯んでしまう貴子ではなかった。復讐の炎は未だ貴子の中で燃え盛っているのである。

 淳一が校門を通り抜けてから二十分ほど経った頃、六人の小学生の集団が何やら笑い声をあげながら貴子の目の前を通り過ぎた。彼らの中に見覚えのある顔が混じっている。その中に、紛れもない青木の顔があった。坊ちゃん刈りで色の黒い、狐目といったかなり印象的な容貌である。屈託のないその笑顔も、貴子の目にはこの上なく下品な皺の塊に映った。憎しみを押さえつつ、彼らの姿が見えなくなるまで、貴子はその場を動かなかった。

 青木を含むその集団が日の当たらない路地に入りその半ばまで来たとき、後ろから来た貴子の車がその集団を追い越していった。勿論それが淳一の母親の運転する車であろうとは、青木を含め誰も気が付かない。車は路地の向こうの交差点で右折し、見えなくなった。青木達がその交差点に辿り着くと、その集団のうち三人は青木と分かれ、青木を含む残り三人は談笑しながら別の道を歩いていった。暫く三人が歩いていると、そこにまた貴子の車が止まっていた。三人は特に気にもせずにそこを通過していく。貴子は三人が突き当たりの丁字路で曲がって見えなくなるまでそれを見届け、次の瞬間また車を走らせた。貴子の車が丁字路を曲がるとき、丁度青木がその他の二人と別れるところであった。貴子はそれを見届けると、二人と別れた青木を追い越して路地の左側に車を止めた。貴子はバックミラーで青木がこちらに一人で歩いてくる事を確認する。青木は何も知らずに貴子の車の脇を通り過ぎようとした。その時、車の助手席のドアが開き、青木の行く手を阻んだ。通行人の一人もいない、閑静な住宅街の一角で、青木は悲鳴をあげる間もなく車から伸びて来た白い手に引きずり込まれた。

 助手席のドアが素早く閉まると、状況の飲み込めない青木は貴子の顔を見つめた。恐怖で固まった青木の目は、静止画の様に焦点が動かなかった。貴子は右手で青木の髪を引っ掴むなり、穏やかな口調でこう言った。

「淳一の写真、持ってるわよね?よこしなさい」

青木は口を半開きにして恐れ戦き、言葉も出ない。すると貴子の左手の拳が勢い良く青木の腹部に命中した。青木は口の中で嘔吐した。自己防衛本能に従って群れ、異物を排除する者には本能に訴えるしかない。貴子の暴力はその為の手段であった。

「聞こえた?」

貴子が言うなり青木は慌てて、

「出します。出しますから」

とうわずった声で叫んだ。青木はバッグからデジタルカメラを取り出した。貴子は内心安堵していた。青木がカメラを自宅に保管していた場合、「渡さないと学校に連絡する」と脅し家にまで取りにいかせる予定だったが、どうやらその必要はないらしい。貴子は青木からデジタルカメラをひったくると、中の写真を確認した。するとそこには雑草の生い茂る黒い土の上に倒された、全裸の淳一の姿があった。淳一の手足は上級生達に押さえ付けられ、目は虚ろに天を仰ぎ、表情には望みを捨てた様な脱力感があった。同じ様な写真が念入りに何枚も撮られている。貴子は吐き気を催し、反射的に隣にいる青木の腹部を裏拳で殴った。青木は

「うおえっ!」

という声を上げ、シートの上でうずくまり、嗚咽しだした。貴子は眉間に皺を寄せ、歯を食いしばり、青木を睨んだ。貴子にはこの青木という少年が、もはや人間には見えなかった。「餓鬼」という言葉が相応しく思えた。貴子は青木の肩に手を回し、

「これをやった人の名前を一人残らず言いなさい。一人でも言い残してごらんなさい。この事を学校に報告するわよ。そうしたらあなたは退学ね」

と脅した。「退学」という言葉に青木は一瞬ピクッと反応した。その後青木は俯いたままおずおずとその者達の名前を次々に挙げた。貴子はそれを密かに録音機で記録していた。これで全て証拠が揃った訳である。

 その後、貴子は突き放す様に青木を解放し、車で走り去っていった。残された青木は暫く呆然としていたが、やがてとぼとぼと帰路についた。青木にはこの出来事を親に報告する事が出来なかった。自分の悪事が親に知れてしまう事を恐れた為である。しかしそれはすぐに知れてしまう事になる。没収したカメラや青木の証言の入った録音機を証拠として、貴子が学校側に訴えたのである。これには学校側も言い逃れのしようがなく、下手な対応をしようものなら裁判沙汰にまで発展しかねない状況を悟った。結果青木をはじめ淳一を痛めつけた生徒は一人残らず退学処分となった。勿論、貴子が青木に暴力を振るった事も同時に明るみに出た。退学になった生徒の親達はその暴力を非難したが、貴子は悉くこれを論破した。自分の行いが報復行為でなく、あくまで名誉を毀損される事を事前に阻止した正当防衛である事を主張したのである。またそういう親達も自分の息子の醜聞が広まる事を恐れ、貴子の暴力に対し法的手段に訴える事はできなかった。

 貴子はこうして目的を果たした。が、悲劇はここからである。貴子がこの一件に決着を付けた一週間後、淳一は自室のクローゼットで首を吊って死んでいた。淳一、僅か八歳であった。遺体のそばには、こんな手紙が遺されていた。


     *


 お母さん。ありがとう。お母さんはいつも僕の事を一番に考えてくれていた。お母さんは僕を助けてくれた。普通の大人ならあんな事はしないと思う。でもお母さんはそれをやった。そんな大人は僕の周りにお母さんしかいなかった。みんなが見て見ぬふりをしている中で、本当にすごい事だと思う。でも僕はお母さんのように強くなれない。僕はお母さんがいないと生きていけないんだ。僕は一人で何も出来ない、自分の弱さがいやだ。自分が情けない。だから僕が死ぬのは僕のせいだ。誰も責めないでほしい。そして弱い僕を許してほしい。本当にごめんなさい。さようなら。

淳一


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