第二章
淳一がある日学校から帰ってくると、半ズボンからのぞく脚に無数の痣があった。その日は休診日で居間にいた貴子は、すぐにそれに気付いて声をかけた。
「脚の痣、どうしたの?」
淳一は殆ど気にもかけない様子で、
「何でもないよ。ちょっと怪我しちゃっただけ」
と言った。貴子はそんな淳一の様子が逆に気になった。
「怪我をしたのは見れば分かるわよ。その原因を聞いているの」
すると淳一は珍しく焦って
「ちょっと転んだだけだよ。大した事ないから大丈夫」
と、見え見えの嘘をついた。
「転んだだけでそんなに沢山痣はできないわよ。それに大した事がないかどうかはその理由に因るわ」
貴子がそう言うと、淳一は下を向いて黙ってしまった。貴子は淳一の手を両手で包んで優しく言った。
「淳一、事実は事実のまま話さなきゃ駄目よ。勿論話したくないのならそれもあなたの権利。自己主張はあくまで正直にしなさい」
それ以降、淳一は伏し目がちにぽつりぽつりと話しだした。
淳一の話によればこうである。学校で行われた試験の答案返却の後で、あるクラスメイトが淳一のそばまで寄って来てこう言った。
「淳一君、テストの結果どうだった?」
淳一の試験の結果はいつも通り、ほぼ満点に近い点数であった。
「ああ、まあまあかな」
と、淳一は答えた。
「またそんな事言って。どうせ良い点数なんだろ。俺の点数も教えるから、教えてよ」
このクラスメイトはどうやら淳一に対して対抗心を燃やしているらしかった。淳一の試験の結果が知りたくてしょうがない様子である。しかし淳一もさる者である。ほぼ満点を取っている自分が負けている可能性は殆どないし、それ以前に自分が意識もしていない相手が自分に対抗心を燃やしている事が、既に淳一の自尊心を満たしていた。
「いいよ。人と比べてどうかじゃないだろ」
と言った淳一の微笑に、勝者の驕りが見られた。クラスメイトは敗北感に苛まれたようであった。こういったクラスメイトは、彼一人ではなかった。学年中の秀才が、挙って淳一のもとに試験の結果を聞きにくるのである。またその度に淳一は先と同じ様な対応をしていた。当然、と言うべきか、淳一は彼らの反感を買う様になった。彼らも淳一同様、嫉妬深い性格なのであろう。更に言えば、彼らは勉学では勿論の事、運動やクラス内での人望、異性からの評判など、どこを取っても淳一に敵わなかった。そして極めつけは家柄である。この学校には代議士や弁護士、あるいは大物タレント等の子息が少なからずいたが、そういう者は大概苦労知らずであるため、大した努力をせず、勝利にも執着しない。淳一のもとに寄ってくる秀才達は、彼らに比べれば庶民的な家柄であり、その分実力では負けまいとする執念が強かったのである。ところが淳一にだけは家柄でも実力でも勝つ事が出来ない。この事が何より彼らの自尊心を傷つけた。彼らはまだ敗北の経験のない年頃であり精神的に未熟であったから、なおのことその怨念が深かった。そういう未熟な精神の矛先がどこへ向かうかと言えば、やはり自分よりも弱い者であった。秀才達は次第に群れる様になり、自分よりも学力、体力、容姿等において劣っている者をけなし、からかい始めた。しかもそれが徐々にエスカレートし、身体的暴力にまで及ぶ様になった。誰もこれを止める者はおらず、あろう事か教師まで見て見ぬ振りをしていた。クラスの不祥事を恐れる教師など何の抑止力にもならなかったのである。そんな矢先、淳一が彼らを窘めたのである。彼らが寄って集って一人のクラスメイトに嘲笑を浴びせていたところに落ち着き払った淳一が一言、こう言った。
「やめろよ。見苦しいぞ」
この一言ほど彼らを絶望させたものはなかった。弱い者をいじめ抜くことで辛うじて保っていた彼らの自尊心を悉く粉砕したのである。自分が道徳心ですら淳一に敵わない事を思い知らされた絶望。それがどす黒い悪意に変わり淳一を襲うのにそう時間はかからなかった。ある日一人で下校していた淳一を、人気のない路上で複数の上級生達が襲った。どこの学校にも不良というのはいるもので、彼らは学校中で有名な落ちこぼれの集まりであった。淳一は彼らから殴る蹴るの暴行を加えられた。いつの間にか淳一と同学年の秀才達がそれに加わっているのを見て、淳一は殴られながらもそれが彼らの差し金であろう事を察した。その後淳一は脇にある雑木林に連れ込まれ、全裸にされた上デジタルカメラで写真を撮られた。群れる事ほど思考を鈍らせるものはない。一人ではとても出来ぬであろう残虐の限りを、彼らはけたたましい笑いとともにやってのけた。彼らは淳一に唾を吐き、
「チクったら写真をネット上に公開するからな」
と捨て台詞を吐き、その場を立ち去ったと言う。
淳一は言葉少なにではあったが、涙一つ見せずにそれを語り終えた。貴子は終始黙っていたが、次第に口元の片側だけがつり上がる様な不気味な笑みを浮かべる様になった。こういう表情の貴子はおおよそ何を考えているのか分からない。生来の素質として彼女に秘められた攻撃性に火がついた瞬間であったろう。
貴子は一応、智彦に首尾を報告した。もっとも貴子は助言を求めていた訳ではない。報告をしなければ、後から一家に何を言われるか知れたものではないからである。智彦は憤慨した。
「学校側は何をやっているんだ。高い学費を払ってるんだ。最低限の教育を保障する義務がある。そんな輩のいる学校に淳一はやれない」
貴子は頷いた。
「そうね。でも非のない淳一が学校を辞めるのは間違っているわ。その連中を学校から退かせるべきよ」
智彦は
「ああ、分かってる。俺に任せろ。学校に電話を入れてやる」
と自信ありげに言った。智彦は勇敢な人間であったが、元々人がいいため、性善説でものを思考する傾向にある。そんな智彦の発言を聞いて貴子は
(これだからお坊ちゃまは)
と思わずにいられなかった。貴子は冷静にこう返した。
「駄目よ。そんな事をして学校側に中途半端な対応をされたら、淳一がまたひどい仕打ちを受けるわ。もし本当に写真をネットに公開されでもしたら、淳一は一生残る心の傷を負う事になるのよ」
智彦は少し考える様な素振りで
「じゃあどうする?その悪ガキどもを退学させるのはあくまで学校側だ。学校側に訴える以外にそれをさせる手立てなどあるのか?」
貴子は苛立った。
(何を生温い)
やはりこの男には家族を守っていく能力などないのだと確信した。
「いいわ。この件に関しては私がどうにかする。口出しはしないでちょうだい」
貴子はそう言うとさっと立ち上がり、その場を去ろうとした。
「おい、どうにかするって、どうするつもりだ?こういう事はきちんと話し合って…」
智彦が言い終わらないうちに、貴子は溜め息でそれを遮った。
「私にはね、あの子を守る義務があるの。のんびり話し合っているうちに取り返しのつかない事になったらどうするの?」
「のんびりなんかしてない。ただ大きな問題だから、最善の策を施さねばいかんと言ってるんだ」
「最善の策なんて必要ないわ。要は目的を果たせば良いだけ。私が目的を果たせなかった事なんてあるかしら?」
貴子が目尻をつり上げてそう言うと、智彦は黙ってしまった。貴子は颯爽と智彦の部屋から出て行った。
貴子は病院の広い廊下を歩いた。その表情に迷いの欠片もない。貴子は既に三十を超えていたが、大抵実年齢より若く見られる。貴子の引き締まった肢体が風を切る様に歩くと、見る者に凛とした印象を与える。その時の貴子には一層そういう風采があった。それは貴子の内に静かに燃える闘争心の表れであったに違いない。
貴子がここまで闘争心を燃やした理由は、無論淳一のためであったが、同時にそれは自身の幼い頃の記憶にもあった。貴子は子供の頃から勝つ事に拘泥し、そのための努力を惜しまない性格であった。そのお陰で貴子は学校の中ではどの分野においても飛び抜けて優秀であった。だが、そんな貴子はいつも集団から遠ざけられた。何か特別悪態をつかれた訳ではなかったが、その場の「空気」とでも言うべきものが貴子を集団から排斥し、近づく事を許さなかったのである。貴子はそのせいで絶えず心中に孤独を抱いていた。貴子の周囲の人間は、
「貴子ちゃんは何でも出来ていいわね」
等と言って貴子の孤独を分かろうともしなかったし、教師の行う授業などはおおよそごく平均的な大多数の生徒に向けられており、貴子のためではなかった。いかなる時も「出来て当たり前」の貴子を誰も応援してはくれなかったのである。そういった日常が貴子を一層孤独にした。まるで自分だけが違う世界の住人の様に感じていた。そういった幼少時代を経て、貴子が描いた集団の性質とは次の様なものであった。集団はおおよそ一割の劣等生、八割の凡人、一割の優等生で構成されている。それは中央が大きく盛り上がった標準偏差で表される。その標準偏差の両端の人間を、中央の人間が排斥する。中間層の人間は自分より弱い者を力で、強い者を数でねじ伏せ、自己の正当性を主張して止まない。そういう集団の性質を、貴子は激しく嫌悪していた。自分の生き写しである淳一にも同じくその「集団の論理」が降り掛かって来ているのであろうと思うと、余計に貴子の復讐心は勢いを増すのである。
貴子は淳一から主犯格と見られる同級生の名前を聞いていた。青木という少年だった。その名前を聞いてすぐ、貴子にはすぐに顔が思い浮かんだ。青木は一度、複数の友人に混ざり淳一の家に遊びに来た事があり、貴子に挨拶をした事もあった。その人懐っこそうな笑顔からは、とても先の様な悪事を働く邪気は感じられなかった。が、貴子は妙に納得していた。卑劣な者ほど所謂善人の顔をしている。群れる事を処世術とする者にとって、その人当たりの良さが最大の武器なのである。と、経験上貴子はそのような卑怯者の特性を理解していた。