最終章
気が付くと、貴子は病室のベッドの上に寝かされていた。頭には包帯が巻かれ、まだ少し痛んだ。が、皮膚の状態は何事もなかったかの様に元に戻っていた。クリニックのスタッフの一人が起き上がろうとする貴子に声をかけた。
「あ、先生、気が付かれましたか?安静にしていてください。傷はまだ癒えていませんから」
貴子は微笑んでスタッフの手を制した。
「大丈夫よ、大した事ないわ」
そう言うと、貴子はクリニックの心配をした。
「クリニックは今どうなってるの?」
「ええ、今は一時休業という形で閉めています。理恵先生も既に手一杯で、とても手が回らないと仰っていたので。予約されていた患者さんには連絡を入れて、謝罪をしています」
「そう。早く退院して仕事に戻らないとね。お客さんを待たせる訳にもいかないし」
「でも先生、ご無理はいけませんよ。きっとよっぽど疲れていらっしゃったんですよ。先生、壁に頭を打ち付けて倒れていらっしゃったんです。少し休まれた方がお体にもよろしいですよ」
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えてそうさせてもらうわ。皆には私の事は心配ないって伝えておいてちょうだい」
「はい。では先生、私食事を取ってきますから」
スタッフはそう言って病室から出て行った。一人になると、貴子はベッドに仰向けになり、天井を見つめて溜め息をついた。天井の模様が、自分を嘲る皮肉な薄ら笑いに見えた。貴子は考えた。
(私は幸せになんてなれないのかも)
結局、幸福とは自分にとってこの上なく求めることの難しいものであった。勿論、この先仕事を続けていく過程で、自分は物質的にも精神的にも豊かになってはいくだろう。しかしそれは幸福ではあり得ず、単なる癒しに過ぎないのだろう。生きる事の苦痛を癒す為の手段としての豊かさ。しかしそれに振り回されて生きる事もまた苦痛である。本当のところ、幸福などあり得ないのではないか。強いて言えば生きる事の苦痛から解放される事が唯一の幸福かも知れない。その幸福を得んが為に人間が故意に、あるいは自然に行う自傷行為。それは死である。物質的幸福を傷つけ精神的幸福を得て、その精神的幸福が知らぬ間に物質的幸福に転化してはまた自傷行為を行う。そんな虚しいサイクルを繰り返しながら、人間は着実に死という真の幸福に向かっている。
(じゃあ何の為に生きるの?)
そこまで来ると、貴子にも答えが出なかった。病室の窓から憂鬱な空を一瞥して、貴子は寝返りを打った。水を得た様に清らかな肌が布団に心地よく擦れる。貴子は再び女になった。