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自傷癖  作者: 北川瑞山
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第十二章

 次の日には、貴子は寝不足をものともせずに診療に勤しんでいた。たださすがに疲れが残っているのか、気分は優れない。こうして日々の業務に忙殺されている事が貴子の救いであるかも知れなかった。その時の貴子にはもはや仕事にしか精神的幸福を得るよすがはなかったのである。それは一つには自分の存在価値を仕事にのみ発見できたという事、もう一つには仕事に忙殺される事により余計な事を考えずに済むという事であった。しかしこの日はそうもいかない事件があった。それは診療時間も終わりに近づいて来た頃であった。

「先生、最後の患者さんです」

スタッフが貴子に声をかけた。

「そう、じゃあ入って来てもらって」

貴子がそういってしばらくした後、診察室に若い男が入って来た。もっともこの頃になると貴子のクリニックには男性も多く訪れる様になっていたので、これ自体は珍しい事ではなかった。

「こんにちは」

若い男は頭を下げた。

「こんにちは。お座りになってください」

貴子がそういって男の顔を見ると、何だか見覚えのある様なない様な、そんな顔であった。色が黒く、少し目がきついが、落ち着いた風貌である。すると男は急にこんな事を口にした。

「先生、お久しぶりです」

「は?」

貴子は突然の出来事に、男の顔を凝視した。

「覚えていらっしゃいますか。私です。青木です」

その瞬間貴子は雷に打たれた様な衝撃を受けた。忘れもしない、貴子が淳一の為に報復した当時のあの小学生である。貴子はその風景が歪む様な衝撃に、言葉を失った。

「先生、ずっとお会いしたかったんです」

男がそういうと、貴子はやっと我に返り、

「お帰りください…」

と、男から目を逸らし、震える声で言った。

「先生、私の話を聞いてください」

「帰ってください!」

貴子は再度語気を強めて言った。貴子はもはや青木に腕力では敵わないだろう。貴子はただ下を向いたまま肩を震わせている。だが青木の発した次の一言で貴子の震えがぴたりと止まった。

「私の母は、あの後自殺しました」

貴子ははっとして青木を見上げた。

「私はあの頃、両親に過剰な期待をかけられ、そのプレッシャーに苛まれていました。しかしどう努力しようにも淳一君には勝つ事が出来なかったのです。私は情けないやら両親に申し訳ないやらで次第に追い込まれていき、終いには淳一君を疎ましく思う様になりました。そこで私は冗談半分であの計画を仲間に打ち明けました。その時は誰も相手にしないと思っていたのです。ところが周りは一斉に私に賛同し、あろう事か上級生にまでその計画が広まっていたのです。私は恐ろしくなり、引っ込みが付かなくなりました。そして私とその仲間は事に及んだのです。あの事件の後にも、私が発案者という事で、カメラを持たされました。私は恐ろしくて仕方がありませんでした。夜も眠れませんでした。しかしそこに先生が現れ、そんな日々に決着をつけてくれたのです。あの後私は退学処分となり、公立の小学校に編入しました。しかし私の母は私に失望し、自殺してしまったのです。私は深い悲しみとともに、自責の念に苛まれました。私のせいで母が死んでしまったと。しかもその時に私は淳一君の死をも知りました。私はその時に、自分も命を絶つべきだと思いました。ただ私にはその勇気がなく、実行には至りませんでした。そうして私は他人と接する事が恐ろしくなり、学校でも孤立した状態でした。そんな私は酷いいじめに遭いました。私にはそれが当然の報いである様に思われ、暫くは耐えていましたが、遂には不登校になりました。そんな時に私は先生の事を思い出しました。もし先生の様な大人がいてくれたら、私は学校に通い続けられたのではないか。私をいじめた連中に制裁を下してくれていたのではないかと、私は考えました。私は今、高校に行かずに働いています。私の行いが許される事はありません。私は淳一君を殺してしまったのです。私に弁解の余地がない事は分かっています。ただ、私がいじめられていた時にも、先生の様な正義が現れてくれればどれだけ良かったか。そういう正義を見せてくれた先生が、今も私の心のよりどころなのです。先生に感謝の言葉を言いたい。そして改めて謝罪したいのです」

青木は訴える様にそう言うと、真剣な眼差しから一滴の涙をこぼした。

「お帰りください…」

貴子は、今度は力なくそう呟いた。

「突然にすみませんでした。では失礼します」

青木はそう言うと、涙を拭いてすっと立ち上がり、毅然と帰っていった。この時には、貴子の頭の中は真っ白であった。青木が帰った後、スタッフが診察室に来て

「先生、本日の診察は終了です」

と言ったが、貴子には返事すら出来なかった。

 だが暫しの時間が過ぎると、貴子には不意にある勇気が湧いてきた。それは過去の不幸な自分と決別する勇気である。

(そうよ、私は悪くない)

貴子は過去の自分を肯定した。

(私は何も悪い事をしていない。正しい事をしただけ。私はこれで良かったのよ。確かに子供を亡くし、夫と別れた。だけど結果的に私は幸せを掴んだじゃない)

「結果的には」という言葉で全ての辻褄を合わせ、過去の不幸に目をつむったのである。

 しかしその刹那、貴子の体が熱を帯びた。かと思うと、その体が真っ赤に腫れ上がり、この世のものと思えぬ程の痒みを発した。皮膚という皮膚、爪の裏、体内の粘膜、骨の髄、脳の奥までがその痒みに冒された。貴子はその場にうずくまり、白衣の上から胸元に爪を立てた。そして人間の出し得る声の中で最もグロテスクな悲鳴を挙げ、喘ぐ口元からこう漏らした。

「幸福が、幸福がむず痒い!」

 精神的幸福とは、過去の不幸に拠って立つ者にのみ追求を許されるものであった。精神的幸福にはそれによって埋められる過去の傷が必要だからである。それはまるで貴子が初めて感じた酒の味の様に。ところが貴子は自己の不幸を肯定した。それは言わば負の自傷行為であった。その瞬間に、貴子が今まで求めてきた精神的幸福は磁石の針が振れる様に物質的幸福に転化したのである。その証拠に、貴子が「結果的に私は幸せを掴んだ」と思った時の「幸せ」とはもはや他人との比較によって成り立っていた。貴子の痒みはその表れであったろう。

 貴子はよろめき、狂気の化身のごとく壁に頭を打ち付けた。スタッフが貴子の悲鳴を聞いてそこに駆けつけた時には、貴子は頭から血を流し、気を失って倒れていた。


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