第十章
最終出勤の日、貴子は白衣に身を通しながら感慨に耽っていた。
(三年間なんてあっという間ね)
働き始めたばかりの頃は広く見えた院内も、今はごく手狭に感ぜられた。貴子はこの日を最後にこのクリニックを退職し、代官山に構えた自身の店舗で開業する事になっていた。開業資金は銀行から借り入れた。貴子のキャリアと事業計画を以てすれば、融資担当者による審査を通過する事はそう難しい事ではなかった。加えて経営に関する事は理恵から助言を受ける事にしていた。クリニックを成功させているところを見ても、どうやらこの分野に関して言えば理恵に一日の長がある事は貴子の目にも明らかであった。
この日の診療を終えると、スタッフの一人が貴子のもとに駆け寄って来た。
「貴子先生、お疲れ様でした。今夜は先生の壮行会をやりますので、よろしくお願いします」
「ああ、そうだったわね。こっちこそよろしくね」
その日の壮行会は、近くにある日本料理屋で催されるらしかった。理恵とスタッフ五、六名が参加予定であった。ちなみにこのクリニックのスタッフは全員女性で、貴子よりも歳の若い者ばかりである。貴子は自身のクリニックを設立するにあたって、この中のスタッフの一人を引き抜き、新しく雇ったスタッフの教育係に充てるということで理恵と話がついていた。つまり正確に言えば貴子とそのスタッフ一名の壮行会である。
宴会の席は、壮行会というのは名ばかりで、二ヶ月に一度ほどの周期で行うクリニックの飲み会と何ら変わらなかった。最後の挨拶は貴子が行う事になっているのだろうが、それすら毎度の事であり、特に目新しい事ではない。それぞれが近くに座った者と雑談に興じており、貴子も理恵と酒を酌み交わしながら話をしていた。
「貴子、お疲れ様。だけどこれからが勝負ね」
理恵がその日初めて労いの言葉を口にした。
「そうね。でも私はまだクリニックの経営に関して分からない事ばかりだわ。不安六割、嬉しさ四割ってところかしらね」
「あはは、あんたでも弱気になる事があるのね。ま、経営の事なんて大して難しい事じゃないわよ。おおざっぱな数字を把握して、資金繰りさえ上手くやってれば、難しい事なんて専門家に任せておけば良いのよ」
「理恵はビジネスの才覚があるからね。いっその事留学してMBAでも取ってみたら?」
「ふふ、無理無理」
理恵は笑いながら、杯に口をつけた。そして貴子から目を逸らしたままこう付け加えた。
「でもね、一つ言えるとすれば、独自色を出していくことじゃないかな」
「独自色?」
「そう、美容皮膚科って今でこそ珍しいかも知れないけど、今後市場が飽和してくれば生き残りが難しくなってくるわ。そこでどれだけ自己の強みを持てるかっていう事よね。まあこれは貴子のところだけじゃなく、うちにも言える事だけど」
「自己の強みね…」
「何か思いつくものある?」
理恵は大した期待もせずに聞いた。が、貴子は一つの出来事を思い出していた。
「大分前だけど、私の患者さんの中にね、若い女の人がいたのよ。彼女が言うには、お付き合いしている彼がいるんだけど、付き合って何年も経つし、そろそろ結婚の話を切り出したいんだって言うのよ。でも今の自分には自信が持てなくて、切り出せそうにない。だから綺麗になりたいんだって。結局いろんな治療を施して、彼女は綺麗になったの。そうして後日フィアンセを連れて私を尋ねて来たんだけど…」
「へえ、良い話じゃない」
「そう、良い話なんだけど、結局彼女にとって幸せだった事って、彼と婚約できた事ではなくて、自分に自信を持てた事だと思うの。自信のないまま求婚して、例え運良く婚約できてたとしても、恐らく彼女の中で物足りない何かが残ってたと思う。要するに今の自分には魅力がないという事を自覚して、それを克服したところに価値があると思うのよね」
「目に見える幸せより、心の幸せかあ…」
「そう。それは自分の不幸に真剣に向き合う事で得られるものだと思う。私はそういう人の手助けをしてあげたい」
貴子がそういうと、理恵は感心したように言った。
「それは立派な志ね。そういう志は貴子の強みだわ」
「強みっていう程じゃないけど、そういう患者さんの意志を分かってあげられる医者になりたいわね」
「立派な強みよ。医者だって結局は客商売だもの。どんな技術よりも人間的魅力が最後にはものを言うわ」
いつにない真剣さで自分を励ます親友が、貴子には心強く思えてならなかった。
「理恵、ほんとに色々ありがとうね」
つい貴子は生真面目な台詞を口にしてしまった。
「馬鹿!これからじゃないの、私たち」
理恵がそう言うと二人は弾ける様に笑い、時折目頭を拭った。