↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

第1章 ふたつの朝(サンプル)

本章はサンプルです。X(https://x.com/JunMitane_novel)のお知らせをご確認ください。

 ギリシャ共和国、首都アテネの近郊に、ヴリアグメニという、エーゲ海のサロニコス湾に面した小さな町がある。

 人口五千人にも満たないが、アテネ・リヴィエラと呼ばれる、風光明媚な高級リゾート地として有名だ。欧米の政治家や財界人、学者などが集う、国際会議の舞台となることもある。

 十月上旬。半袖一枚でも汗をかかず、上着も要らない、一年で最も過ごしやすい時期を迎えていた。

 この閑静なリゾートに、今日は、三万人もの観光客が押し寄せ、ちょっとした騒動になっていた。

 彼らの目当ては、クリフ・ダイビングのプロツアー、今シーズンの最終戦だ。

 レッドエナジー・クリフ・ダイビング・ワールドシリーズ。

 元より、欧米で人気の高いエクストリームスポーツだが、今シーズンは近年にない盛り上がりを見せていた。特にいちじるしいのが、女性ファンの増加だった。その大きな理由は、今シーズンから参戦した、ある選手の存在にあった。

 その選手の名は、ミハリス・アンゲロプロス。地元、ギリシャの出身。

 昨年のオリンピック、水泳高飛込種目で金メダルを獲得し、今シーズンから、クリフ・ダイビングに転身した青年だった。


 ダイビング会場のヴリアグメニ湖の周囲には、観客がひしめき合い、足の踏み場もないほどだった。

 海水と、地下の熱水泉が入り混じる、小さな汽水湖。その湖面は、エメラルドグリーンの色をたたえ、そそり立つ石灰質の断崖を温かく映し出している。

 顔も体も赤銅色に焼けたミハリスが、黒一色のスイムブリーフだけを身につけ、崖の上、水面から二十七メートルの高さに設けられた飛込台に姿を見せる。

 その途端、他の選手の時よりも大きな、矢の束のような甲高い歓声が、いっせいにミハリスに向けられた。

 普段から体を鍛え、トレーニングを欠かさない選手たちの中でも、ミハリスの肉体は、明らかに次元が違っていた。それは、時に細身に見えるほどに、研ぎ澄まされたものだった。

 全身の、ひとつひとつの筋肉の密度が高い。くっきりとかたく盛り上がり、その間に深い谷を刻んでいる。引き締まった腰回りが、その逆三角形の体躯を、よりいっそう強調して見せた。

 ストイックなまでに追い込んだ戦士の肉体を持ちながら、彼の顔には、いまだ若さ、みずみずしさが残っていた。そのギャップと、貴公子のような端正なマスクもあって、女性たちの熱狂は、最高潮に達する。

 当のミハリスは、歓声に関心を示さず、真剣な表情を崩さない。他の選手のように、手を振って声援に応えることも、観客にエールを求めることもない。ただ静かに、腕を水平にして両足をそろえ、まぶたを閉じて精神を集中した。

 ミハリスが姿勢を作ると、鍛え上げた赤銅色の肉体が、ギラリと、太陽の光を鋭く反射させた。その姿は、見守る人々に、何か、神話的な存在と対峙しているかのような錯覚を抱かせた。

 声援がいっせいに止み、あたりが静まり返る。

 今大会で四回目、今シーズンでも最後のダイブだ。ミハリスは、フライング姿勢+抱え込み四回転+二回ひねりで挑む。

 潮気を帯びた金色の髪を、エーゲ海から吹く風が揺らした。

 かっ、と目を開けた瞬間、ミハリスは、台の上から斜め上に高くジャンプし、宙に飛び込むように身を躍らせた。

 彼のダイブスタイルは独特だった。

 湖面に落ちるまでは、わずか三秒ほどに過ぎない。着水までの短い時間に、いかに完成度の高いパフォーマンスを見せられるか。そこが勝負どころとなる。

 他の選手が、飛込台を踏み切った直後からひねりや回転に入るのに対し、ミハリスは、まず、腕を水平に、脚をそろえたフライングの姿勢を作り、空中で体の動きを止める。踏み切りで得た上向きの勢いが尽きるのを待ってから、回転やひねりのパフォーマンスを始めるのだ。

 今、ミハリスの下に、湖面だけがある。彼の体を支えるものは、空気の密度だけ。崖をかけ登ってくる風に、体全体が、持ち上げられるような感覚がある。

 飛込台からの上昇が終わり、重力に引かれて落下に転じる、その一瞬に生まれる、無重力。

 実際は、フライング姿勢をとっている間も、ミハリスの体は、腹を重心として、ゆるやかに回転している。だが、見上げる観客の目には、まるで、空中で静止しているように見えるのだ。

 ミハリスは、無重力が生まれたその瞬間を逃さず、先に下降を始めた足を追い抜くように、頭を下に潜り込ませる。逆さになったところから、己の筋力と、空中でのバランス感覚のみを頼りに、膝を胸に引き寄せ、抱え込み、伸ばしていた体を一気に小さくした。

 すると、腹を中心に続いていた緩やかな回転が一気に加速し、まるで車輪になったかのような、フォワードの回転が炸裂する。

 静止と、爆発的な高速回転の落差。これがミハリスの持ち味だった。シリーズの総合優勝争いに名を連ねるトップ選手たちの誰も、ミハリスの、このパフォーマンスを真似ることはできなかった。

 だが、最初にフライング姿勢を取ることにより、回転とひねりに使える時間が短くなる。滞空時間は他の選手よりも長くなるが、その差は、わずか、コンマ何秒かに過ぎない。失った時間を、体を高速回転させることで補う格好になる。

 さらに、着水するギリギリまで体をひねっているため、危険度も増す。

 着水時のスピードは、時速約八十五キロにも達する。腕を体に密着させ、手を股間の前にしっかり組み、足から着水するのが鉄則だ。それでも、時に気を失う選手が出る。頭や胴体から着水すれば、最悪、即死だ。助かっても大けがは免れない。

 観客は、ミハリスのパフォーマンスを期待する反面、彼のスタイルが、常に危険と隣合わせであることを知っていた。ダイブの最初から最後まで、固唾を飲んで見守り、中には、無意識のうちに両手を組む者もいた。

 ミハリスは、空中静止から回転へ切り替えるタイミングが、わずかに遅れたことを自覚していた。

 抱え込み回転から、体を展開するのと同時に、ひねりに切り替える。予定していた回転とひねりは何とか終えたが、体を湖面に対して垂直にし切るための時間が足りない。股間の前に両手を固定し、わずかに角度がついた状態で、足の指先から湖面に突入する。

 判断の遅れが、生死に直結する。

 足先が触れた瞬間の湖面は、まるでコンクリートの壁だ。ドンッ、という、足が圧縮されてしまいそうな衝撃を感じた時には、すでに、ミハリスの体は、水と泡の中に没していた。遅れて、衝撃が体全体から、脳内まで突き抜けていった。

 浮上したミハリスに、観客から拍手と声援が送られる。それは、地鳴りのように響いて、水面に頭だけを突き出したミハリスまで届いた。

 だが、ミハリスは、ガッツポーズもせず、手を振って観客に応えることもなかった。着水地点で待機していたレスキューダイバーに、無事なことを身振りで伝える。足をつつき回す魚にかまわず、ボートに乗る五人の審判員へと目をやった。

 採点ボードの最高得点は8.5、最低が7.5。

 ミハリスは四位。またしても表彰台を逃し、初参戦のシーズンは、総合五位で終わることが、この瞬間に確定した。

 ゆっくりと泳ぎながら引き上げるミハリス。そのポーカーフェイスの中に、納得がいかない口惜しさが、わずかににじみ出ていた。


 他の出場選手と握手やハグを交わす間、ミハリスの表情は少しだけゆるむが、歯を見せて笑うことはまったくなかった。

 それは、不本意な成績で終わったからではない。ミハリスは、いつもそうなのだ。ギリシャ陸軍の空挺旅団にいた経歴もあって、他の選手たちに「スパルタ人」とあだ名をつけられたほどだった。

 インタビューを受けている間も、ミハリスは終始、軍人のような固い表情を崩さない。

「来シーズンは、もっと上位を目指したいと思います」

 言葉少なに、最低限のことだけを答えるミハリス。

 常にこの調子だ。だが、ミハリスを「生けるギリシャ彫刻」ともてはやすファンにとっては、それすらもチャームポイントだった。口の悪い競技ファンが、彼のダイブスタイルを、墜落するイカロスに例えようとも、熱心なファンの耳には入らない。

 インタビューの最中、ミハリスが、濡れた、無造作な金髪をかきあげる仕草や、まつげの長い目で、何気なく周囲を見回す様に、彼女たちは熱狂する。

 その時、当のミハリスは、これまでの経験から、女性ファンに取り囲まれて、身動きが取れなくなることを、秘かに予想していた。

 公言はしないが、ミハリスが所属していた部隊は、空挺旅団の中でも最精鋭である特殊空挺隊だった。敵地潜入の猛特訓を受けてきたミハリスにとって、自分の気配を消すことは、体に染みついた習性のようなものだった。

 他の選手の影に隠れて動かず、自分を、景色の一部にする。目の焦点を一点に絞らず、呼吸の速度も落とし、じっと、撤収の時を待つ。

 表彰式が行われる。

 総合優勝はイギリスのルイス・モルガン。湖面に立ったかのように、九十度の角度で正確に着水する様子から、「ザ・タワー」との異名を持つ、クリフ・ダイビングの絶対王者。シリーズを戦い抜く抜群の安定性と、機械のような正確なダイブが持ち味で、最後のダイブでも、満点を叩き出し、見事に一位をもぎ取ってみせた。

 準優勝は、ブラジルのディエゴ・サントス。リズミカルなダンスを彷彿とさせる、回転とひねりを融合させた華麗なスタイルが特徴の選手だ。髪を後ろで結わえ、ひげをたくわえた、いかにもラテン系な好男子。気さくで陽気な性格もあって、女性の人気が高い。

 三位はオーストラリアのニキータ・ソロコフ。ロシア系移民の二世。色素の薄い、銀色にも見える、短く刈り込んだ髪と、体のタトゥーが目を引く、ミハリスよりも若い青年。飛込台をジャンプした直後から、ミハリスを上回る超高速で体を回し倒す、そのスリリングなダイブスタイルと、過激な物言い、ファッション、すべてを含めて、新時代のアイコン的な存在だ。

 来シーズン、乗り越えなければならない手強いライバルたち。

 表彰台の上で、彼らがシャンパンを浴びせあう光景を、ミハリスは、目立たないように、拍手をしながら見届ける。

 それが終わると、観客たちは、続々と引き上げてゆく。

 夕闇が迫り、あたりが薄暗くなってきた頃になって、ミハリスはようやく動き出す。

 レッドエナジーの公式キャップを目深にかぶり、誰とも目を合わさぬよう、気を配りながら、すっ、と、大会関係者用に借り上げたホテルの裏手に回る。

 裏口からホテルに入り、選手の更衣室としてあてがわれた部屋で、手早く、Tシャツとジーンズに着替える。

 しばらくの間、更衣室の中で、そのまま待機する。

 左腕のデジタルの腕時計が、一八時ジャストを示したのを機に、ミハリスは、再び行動を開始した。

 そっと、用心しつつ、裏口のドアを開け、外に出る。樹木の陰に隠れながら、駐車場の目立たぬ位置に駐めた黒いポルシェ992GT3に近づく。素早く、運転席に滑り込み、エンジンをかける。

 ゆっくりと、アイドリングで滑らせるように、ポルシェを前進させる。

 その頃には、ミハリスの読みどおり、大会会場は、人影もまばらになっていた。

 ミハリスは、サロニコス湾に沈みゆく夕陽を左に、国道九十一号線を、アテネ市内に向けて走り始めた。

 水温が上がってきたところで、アクセルを強く踏み込むと、バックミラーの中、ヴリアグメニの街が、瞬く間に小さくなっていった。


 翌日の朝。アテネ市内にあるホテルの一室。

 ダブルベッドのシーツから、金色と、茶色の髪の頭が、覗いていた。

 若い女性たちだった。二人とも、死んだように眠りこけている。ベッドの下には、彼女たちが身に着けていた服や下着が、ミハリスのものといっしょくたになって散乱している。

 彼女たちは、ミハリスの熱狂的なファンだった。ファン、というより追っかけ、いや、ミハリスと関係を結ぶことを望んでいた、という意味では「グルーピー」だ。

 ミハリスは、名前も知らない彼女たちを寝かせておいて、ひとり、シャワーを浴びながら、考えた。

 昨日、ワールドシリーズ最終戦を終えた後、アテネ市内に戻った。特に疲労も感じておらず、腹ごしらえをしてから帰宅しようと、馴染みのレストランに入った。そこで待ち構えていたのが、この二人だった。

 彼女たちは、すぐにミハリスのテーブルまでやってきて、勝手に座り、話しかけてきた。事前に、ミハリスの出入りする場所を把握して、張り込んでいたのは明白だった。

 言葉からして、彼女たちはアメリカ人と思われた。ミハリスは、適当に話を合わせ、サインをして、食事だけおごって、その場は帰ってもらった。

 ミハリスは、集合住宅にある自宅のワンルームを突き止められないよう、念のため、ホテルに泊まることにした。だが、二人は、偶然を装い、そこまでもつきまとってきた。

 ホテル内のバーで、ワインを開け、彼女たちと飲んだ。今度こそ帰ってもらうつもりだった。

 しかし、飲んでいるうちに、それがどこかに飛んでいってしまった。

 昨日の自分は、どうかしていたと思う。

 ワールドシリーズでの総合成績は仕方ないとしても、せめて、昨日のダイブで表彰台を、と思っていた。

 意識していなかったが、いらだちがあったのかもしれない。

 ミハリスは、彼女たちを部屋に連れ込み、二人まとめて抱いた。一度や二度では、満足できず、二人が疲れ果てて眠り込むまで、止めなかった。

 いったい、何度交わったか。よく覚えていない。ため息が出た。軽率だったと、うなだれる。

 シャワーを出て、服を拾い集め、手早く着る。

 彼女たちが起きないうちに帰ろうと、ドアの前まで来た時、はたと気づいて、部屋の中に引き返した。

 ベッドのかたわらに、ゴミ箱が置かれていて、その中に、使用済みのゴムが何個も放り込まれている。

 二人は、ただのファンではない。まさかそこまでは、とも思うが、ゴムの中に残った精液を「使用」する心配が、どうしても拭い切れない。

 自分の忌まわしい血が、知らぬところで増殖するなど、考えるだけでおぞましい。

 ゴミ箱から、ビニール袋を回収する。口を結わえたゴムを、六つまで数えて、それ以上はやめた。また、ため息が出る。

 起こさないよう、そっと、彼女たちがかけている毛布をはがして、念のため、回収していない使用済みのゴムが残っていないか、確認する。

 白い裸体が二つ、丸まっている。

 昨日の自分が、獣のようにこの体を貪ったことを思い出すと、何て不用意なことをしてしまったんだと、また、恥ずかしくなってくる。

 だが、彼女たちは、なぜ、赤の他人である自分を、わざわざ追いかけるのだろう。

 ミハリスには、理解できなかった。

 単に、金メダリスト、というだけでなく、公にしていない、自分の出自のせいもあるのだろうか。金目当てか。玉の輿に乗れる、とでも勘違いしているのか。

 嫌悪と疑いとが、ぐるぐると回り始める。それを頭から追い出そうと、ミハリスは首を振った。

 二人に毛布をかけ直し、ゴミ袋ごとゴムをスポーツバッグの中に放り込み、ミハリスは部屋を後にした。

 フロントで三人分の宿泊料を清算してから、ホテルの地下駐車場へエレベーターでおりる。

 ポルシェ992GT3の運転席に収まり、ミハリスはホテルを後にした。

 窓を開けると、市内の喧騒とともに、地中海性の乾燥した空気が入ってくる。

 太陽は、すでに高いところに昇っていた。



 少し湿り気を帯びた、秋の青空。

 日本列島には、まだしつこく残暑が張りついていたが、朝夕はだいぶ涼しさが増してきた。来週あたりから、一気に秋めいてくる、そんな気配があった。

 季節は本格的な秋に向かっているが、東京都内にある撮影スタジオの中は、その半年も先の時間が流れていた。

 スタジオ内の貸し部屋の一室。すでに来春の新作ランジェリーの撮影が行われている。照明や、機材が発する熱のせいで、室内はいまだ真夏のような暑さだった。

 白い家具やベッドが並べられ、洋風の寝室を模した造りになっている。

 ベッドの上に、寄り添う恋人同士のように、若い、下着姿の男女が、腕を絡めながら、並んで座っていた。

 女性のほうは、プロのモデルだった。

 花柄があしらわれたレースの黒いブラとショーツを身に着け、カメラに向かって表情を作る。時にほほ笑み、時に、男女の関係に慣れ親しんでいるような、妖艶な、余裕のある表情を浮かべる。

 一見して、人目を惹く美貌の持主だった。長いまつげが作る影と、少し煙ったような印象の黒い瞳。鼻筋は、すーっ、とまっすぐにとおり、その下に、ほどよく肉感的な唇があった。肌色は透きとおったように白く、ミディアムウェーブの黒い髪と、黒いランジェリーとの間に、はっきりとしたコントラストを作っていた。

 彼女の名前は、桐島愛奈といった。

 ボクサーブリーフをはいた男のモデルは、アルバイトの大学生だった。愛奈の美貌とバランスが取れるように、端正な顔立ちの青年が、モデルを紹介する会社から派遣されていた。

 愛奈は汗ひとつかいていないが、大学生のほうは、顔を赤らめ、汗ばんでいた。

 カメラを構え、二人に向かって声をかけながらシャッターを切る男は、モデルの二人よりも、ずっと若く見える。

 周囲に、高校生くらいか、と思われがちな彼だが、彼の年齢は、愛奈よりもひとつ下の二十五歳で、アルバイトの大学生より、むしろ年長だった。

 フリーの、プロのカメラマンで、浅井瞬といった。

 瞬の指示を、愛奈は、なかば先取りするかのように、大学生に話しかけ、緊張をほぐしながら、瞬の意図どおりのポーズと、求める表情を作ってゆく。

 愛奈と瞬の間には、阿吽の呼吸のようなものがあった。

 最初は固かった大学生の表情も、愛奈のリードもあって、次第に自然なものに変わっていった。

 大学生が、愛奈を後から抱きしめ、愛奈の前に腕を回す。愛奈は少し頭を傾け、彼に甘えて、もたれかかるような形を作る。

 フラッシュがたかれる。

「OK。今日は、ここまでにしようか。お疲れさま」

 澄んだ響きを持つその声。声変わり前の少年のような高さが、どこか残っていた。

「浅井さんも、お疲れ様」

 そう言って、ほほ笑む愛奈の目は、自然と瞬に向けられている。

「君さ、明日の午後、予定は空いてるかな?」

 瞬は、大学生に声をかけた。

「えっ、ええ、大丈夫っす。多分」

 大学生は、身体を愛奈と反対側へ向け、少し前かがみになりながら、ハンドタオルでしきりに汗を拭った。


 撮影が終了したのは、午後五時少し前だった。

 瞬は、カメラなどの撮影機材を、愛車のジムニーに積み込みながら、愛奈を待った。

 少し、空に雲が多くなってきた感があった。

 白いブラウスと、グレーのパンツに着がえ終えた愛奈が、スタジオ前の駐車場に出てきた。背を自然に伸ばし、地面に引かれた見えない線を両足で踏むようにして、まっすぐに、顔を上げながら近づいてくる。

 その歩き方は、まさしくプロのモデルだが、高級ブランドの広告に出てくるトップモデルのそれとは違う。普通の人々にとって、浮世離れした世界の人間とは思わせない自然さが、彼女にはあった。

 多くの働く女性が、愛奈の姿に、自分なりの価値観を持ち、自分の足でしっかり歩く、大人の女の理想像を見る。

 その内実を、何も知らずに。

「お疲れ、愛奈」

 瞬は、愛奈の顔を、少しだけ見上げるようにしながら声をかけた。裸足なら、二人の目線の高さはほとんど変わらないが、愛奈は今、ハイヒールをはいている。

「瞬もね」

「外も、まだ暑いな」

「そうね。撮影中よりはマシだけど、体が火照るみたい」

 瞬は、半袖のTシャツに、ポケットがあちこちについたカメラマンベストを羽織っているだけだ。それでも、暑がりの瞬は、まだ夏の名残が、体にまとわりついているように感じるのだ。

 瞬が、撮影機材を積み終わり、運転席に乗り込んでも、愛奈はいっこうに、助手席のドアを開けようとはしなかった。

「乗らないの?」

「ええ……」

「……」

 二人の間に、沈黙が入り込んだ。

「今日、遅くなると思うから、瞬は先に、食べてて」

 そう言った愛奈の右手が、胸に押し当てられている。伏せ気味のまぶたと、まつげに隠れて、愛奈の瞳は見えない。

 瞬は、しばらく愛奈の顔を見つめてから、ため息をつき、笑顔を作った。

「わかった。でも、気をつけろよ」

「うん」

「何かあったら、知らせてくれ。すぐ行くからさ」

「うん、ありがとう」

「……じゃあ」

 サイドブレーキを解除し、少しアクセルをあおってから、クラッチをつなげる。

 去り際、愛奈が口から漏らした、かぼそく、消えてしまいそうな、

「ごめんね……」

という言葉が、耳について、尾のように後をひいた。

 バックミラーに、スタジオの中へと戻ってゆく愛奈の後ろ姿。

 瞬が窓を開けると、少し湿っぽく、冷たい、南からの風が、車内に吹き込んできた。


 自宅のアパートに戻った瞬は、パソコンで、スタジオで撮影した写真を確認する。

 愛奈が、他の男と下着姿で体を密着させているのを見ると、いつも、ちくり、と心が痛む。だが、これは仕事だ。割り切るしかない。

 通販の、ランジェリーカタログに載せるための写真だ。単に、着用状態がはっきり視認できるだけでは、訴求力不足だ。

 クライアントの要望は、はっきりしている。購入を検討している人が、この写真を見た瞬間に、下着姿の二人が「恋人」であり「男女の関係にある」と、自然に想像できなければならない。キャッチフレーズも同じコンセプトに基づいて決められる。だが、さじ加減は難しい。過剰ではいけないし、まして、下品なのは不可だ。

 幸い、愛奈のリードのおかげで、最初は緊張していたバイトの大学生も、写真を追うごとに、自然な表情になっている。

 しかし、瞬は、クライアントに納品できるかどうか、ギリギリのところだな、と判断していた。

 大学生の紅潮した顔と、ボクサーブリーフの前に張った「テント」が、最後まで完全には解消されなかったからだ。

 モデル経験が豊富、ということで、派遣されてきたはずなのだが。

 ブリーフの前が大きくなっていることは、愛奈の体で隠れている写真を選べば、何とかなる。問題なのは、顔の紅潮のほうだった。

 パソコンの中には、写真加工用のソフトも入っている。それを使えば、修正は容易にできる。だが、それによって、写真から空気感が失われ、微細な違和感が生まれる。できるだけ、使わずに済ませたい。

 もう一度撮影を行えば、それだけ費用も膨らむ。それでうまくゆくとも限らない。

 改めて、写真を見る。

 大学生が、顔を赤らめていた原因は、間違いなく、愛奈だ。

 これまで、何人ものモデルを撮影してきた瞬から見ても、愛奈の美貌は群を抜いていると思う。美しさと、可憐さと、どこか陰がある色香。それが、男たちの目を、知らずに惹きつける。

 愛奈は、大学生の欲情が、体に触れてくるのを感じながら、撮影に臨んでいた。そのことを思うと、瞬の胸の中に、ドス黒いものが、もやもやと立ち込めてくる。

 そばに置いてあるスマホを見る。愛奈からの着信はない。通知もない。

 どうにも、落ち着かず、瞬は、両腕を頭の後ろで組み、背伸びをした。作業をいったん切り上げて、コーヒーを淹れる。

 窓の外を見る。街の灯りが、雨粒でにじんでいる。いつから雨が降り出したのか。

 今日と同じく、時々、愛奈が帰ってこない夜がある。

 そんな夜、瞬は、いつもこうして窓際に立ち、大好きな酒も飲まず、眠らずに愛奈の帰りを待つ。愛奈が、嫌な思いをこらえながら、何とか自分を保とうとしているのに、それを止めてやることもできない、窓に映る無力な男の顔を眺めながら。


 薄暗い早朝、アパートの階段を登ってくる靴音。すぐに愛奈だとわかった。

 ドアを開けると、愛奈の、疲れた顔があった。

「おかえり」

「ただいま……」

 ブラウスの肩が濡れている。愛奈はうつむいたまま靴を脱ぎ、部屋に上がってくる。ただ疲れているだけでない、酒の匂いがするわけでもないのに、どこか、ふわついた歩き方。

 瞬は、愛奈が、帰り道のどこかで、医者から出された白い錠剤を飲み下し、不安を紛らわせてから、ここに戻ってきたことを、知っている。

 愛奈は、瞬と目を合わせない。着替えのニットセーターを持って、そのまま洗面所に行き、ドアを閉める。うがいの音。少しして、シャワーの音が聞こえてくる。

 愛奈がシャワーを浴びている間に、瞬は、二人分の朝食を作る。パンとサラダ、愛奈が好きな目玉焼きを用意した。

 ドライヤーも使わず、タオルで拭いたままの髪で、愛奈は洗面所から出てきた。

「食べようか」

 瞬は、そう、つとめて明るい声をかけた。愛奈は、すぐには座らず、まず冷蔵庫の前にゆく。飲むヨーグルトを取り出し、パックに直接口をつけて、ごくごくと、勢いよく飲む。

 愛奈の口の端から、白い液体が、つーっ、と少し垂れた。

 ヨーグルトを冷蔵庫に戻した後も、愛奈はテーブルに座ろうとせず、ふらふらとソファーまで歩き、どさっ、と脱力したように腰を下ろした。

「大丈夫か」

「……うん」

 瞬が隣に座ると、愛奈は、瞬の肩にもたれかかるように、抱きついてきた。愛奈の腕が、瞬の背中に回る。瞬も、愛奈の体を優しく抱きしめ、背中をなでてやりながら、じっと、愛奈が口を開くのを待った。

 隠し事はしないこと。あったことは包み隠さず話すこと。

 それが、二人で同棲を始めた時に決めたルールだった。

「……他の男の人と、してきました」

「そうか」

「……ごめんなさい」

 瞬の胸に顔を埋める愛奈。

「あやまらなくていい。愛奈は、悪くない」

「撮影でいっしょだった、バイトの子と。また、ダメだった……だから、あの子を誘って……」

「もう、いいよ。無理して話さなくても」

 愛奈が、すすり泣いている。今、瞬にできることは、黙って、愛奈を受け止めることだけだった。

「……怒ってよ」

 瞬の胸に顔を押しつけながら、愛奈が、そう漏らした。

「……」

 瞬は、それには答えず、ただ、愛奈の背と、頭をなでた。

 外の雨は、まだ止まない。秋の始まりを告げる雨音が、室内に染みていた。


(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。