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旅の続き

掲載日:2026/10/13

一 列車


 男は、いつも列車に乗っている。

 乗った駅のことは覚えていない。気がつくと窓際の席に座っていて、車窓には刈り入れの終わった畑が流れている。電光掲示板を見上げると、知らない町の名前が並んでいた。それでも、降りようという気にはならない。この列車は正しい方へ向かっている。理由はわからないが、それだけは確かだった。

 線路沿いに、新しいコンクリートの橋脚が並んでいる。終戦してから間もないのに目覚ましい復興だ、と男は感心した。今度の大統領はできる男だ。その脇に、黒く焦げた古い橋脚がひとつだけ残っていた。ああいう石の橋脚は見慣れたものだった。あの風景も、もうすぐなくなってしまうのだろう。

 少女に気づいたのは、三つ目の駅を過ぎたあたりだった。

 通路を挟んだ斜め向かいの席。金色の髪が、背中まで流れている。耳にはイヤホン。膝の上に紙の地図を広げ、ときどきスマートフォンを窓に向けて、外の景色を撮っていた。

 ひとりだ、と男は思った。あの年頃の子がひとりで遠出をするのが珍しいことなのかどうか、男にはそれもよくわからなかった。

 車掌がやってきた。携帯端末で少女の切符を読み取り、軽く頭を下げる。それから男の前を通り過ぎ、隣の車両へ消えていった。男は外套のポケットに手を入れかけて、やめた。そう言えば、切符を買った記憶がなかった。

 少女とは、それきりになると思っていた。

 次に乗った列車は、さっきよりも混んでいる。立っている客もいた。それなのに、男の隣の席だけが空いている。乗り込んできた客は、なぜかその席を避けて、通路の奥へ進んでいった。

 男は外套の袖口を、そっと鼻先に寄せてみた。血と硝煙のにおいが、まだ染みついているのかもしれない。軍の外套を着た兵隊の隣になど、誰も座りたくはないだろう。けれど袖からは、かすかに湿った土のにおいがするだけだった。

 ドアが開いて、金色の髪が見えた。

 少女は車内を見回し、空いている席がひとつしかないのを確かめると、男の隣に腰を下ろした。鞄を膝に抱え、イヤホンの位置を直す。

 一瞬だけ、目が合った。

 少女は小さく会釈をして、また窓の外へ目を向けた。男も会釈を返した。

 その次も、そのまた次も、男が乗る列車には必ず少女も乗ってきた。乗り換えの駅で見失ったと思っても、発車間際のドアから、金色の髪が滑り込んでくる。少女はいつも、同じ方向へ向かっていた。

 男と同じ方向へ。

 少女が何者かは知らない。ひとり旅の目的も、名前も知らない。



二 旅の目的


 少女が片方のイヤホンを外したのは、何度目に乗り合わせたときだったか。

 電光掲示板に、次の停車駅の名前が流れた。キュルケー。

 その文字を見たとたん、窯の熱と、焦げたチーズの匂いがした気がした。車内のどこにも、そんなものはないのに。

「次は、どこで降りる?」

 男が尋ねると、少女は少し考えてから答えた。

「キュルケー」

「プリンスホテル前のピザ屋がうまい」

 なぜそんなことを知っているのか、自分でもわからなかった。ただ、口が勝手に動いた。さっきの匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。

「ありがとう」

 少女はそれだけ言って、キュルケーで降りていった。

 次に乗り合わせたとき、少女は男の顔を見るなり言った。

「ピザ屋、なくなってたんだけど」

「そうか」

「携帯ショップになってた」

「残念」

 男は首をひねった。つい最近まで、確かにあったはずなのだ。だが「最近」がいつのことなのか、考えようとすると頭の中に霧がかかった。

 それからも、二人は乗っては降り、降りてはまた乗り合わせた。そのたびに、少しずつ言葉を交わした。

「次は?」

「ヴェルン」

「駅の裏に古本屋がある」

「本当に?」

「店主は無愛想だが、品揃えはいい」

 次に会ったとき、少女は鞄から薄い文庫本を一冊取り出して見せた。

「あった。おじさんの言うとおり、無愛想だった」

 男はなぜか、それが嬉しかった。

 その次の町で教えた川沿いの食堂は、駐車場になっていた。その次の町の公園は、まだあった。当たったり外れたりする男の案内を、少女は面白がっているようだった。

「おじさん、ずいぶん古い旅行ガイドみたい」

「そうかな」

「そういえば、名前は?」

 男は口を開きかけて、そのまま止まった。

 名前。自分の名前だ。当たり前に知っているはずのものが、どこにもなかった。手を伸ばしても、指先に何も触れない。

「……さあ」

 少女は眉をひそめた。それから、肩をすくめた。

「じゃあ、おじさんでいいや」

「君は?」

「知らない人には教えない」

「これだけ会っているのに」

「それでも」

 少女は窓の外に目をやった。ませた口をきく子だ、と男は思った。けれど、不思議と腹は立たなかった。

 列車はしばらく黙って走った。刈り取りの済んだ畑の向こうに、低い山並みが続いている。

「君は、なぜ旅をしているんだい」

 ずっと聞きそびれていたことを、男は口にした。少女はすぐには答えなかった。膝の上で、地図の端を指でなぞっている。

「人を探してるの」

 その言葉が、男の胸の奥のどこかに引っかかった。

 人を探している。

 そうだ。自分もまた、誰かを探していたのではなかったか。だからこうして、列車に乗り続けているのではなかったか。

「私も、人を探している」

 少女が顔を上げた。

「誰を?」

 男は答えられなかった。名前も顔も浮かばない。ただ、探さなければならないという気持ちだけが、確かにそこにある。

「探してる人のことも忘れたの?」

「どうやら、そうらしい」

「変な人」

 少女はしばらく男の顔を見ていた。値踏みするような目だった。やがて地図を畳み、鞄にしまう。

「次はエルストに行く」

「そうか」

「どうせ、おじさんも同じ電車に乗るんでしょ」

「私が乗っている電車に、君が来るんじゃないか」

「じゃあ、そういうことにしといてあげる。隣の席あけといたげる。変なことしたら、駅員さんを呼ぶからね」

「肝に銘じておく」

 少女は少しだけ笑った。その笑い方の奥に、何か固いものが残っているのを、男は感じた。それが何なのかはわからなかった。

 窓に西日が差し込んで、少女の金色の髪を淡く光らせた。男はなぜか、その色から目を離せなかった。



三 エルスト


 エルストは、首都から特急で二時間ほどの町だった。

 駅前のロータリーは新しく、タイルの色もまだ鮮やかだった。けれど、少し歩くと空き地が目立つ。雑草の間に、焦げた基礎のコンクリートがのぞいていた。

 少女はスマートフォンの地図を見ながら、迷いなく歩いていく。男はその半歩後ろをついていった。

「ネットで探したりはしないのかい」

「したよ。尋ね人の掲示板にも書いたし、Xでも呼びかけた。来たのは『見つかるといいですね』ばっかり」

 少女は鞄の外ポケットを、上から軽く押さえた。角の擦り切れた封筒が、少しだけのぞいている。

「手がかりは、古い手紙に書いてあった住所だけ。首都の住所」

 少女は封筒を半分だけ引き出してみせた。宛名の横に、【宛先不明】の判が赤く押されている。少し右に傾いた、几帳面な字だった。

 どこかで見た字だ、と男は思った。けれど、それ以上は何も思い出せなかった。

「首都の?」

「行ってみたら、知らないビルが建ってた。だから、近所の古い人に聞いてまわったの。この人を覚えていませんかって」

 少女は指を折ってみせた。

「キュルケーで一人。ヴェルンで一人。少しずつ話をつないで、やっと今ここ」

 住宅街の角を二つ曲がったところで、少女の足が止まった。白い壁のマンションが建っていた。エントランスの植え込みが、きれいに刈り揃えられている。

「……ここみたい」

 少女は画面と建物を見比べて、小さく息を吐いた。

 男はマンションを見上げた。胸の奥が、かすかにざわついた。

「前は、木造のアパートだった」

 少女が振り向いた。

「来たことあるの?」

「……わからない。けれど、きっとそうだ」

 エントランスの前で、作業着の男が箒を動かしていた。管理人らしい。少女はそちらへ歩いていき、軽く頭を下げた。

「すみません。以前この場所に住んでいた、ホランドさんという方を探しています」

 その名前が耳に入った瞬間、男の視界が揺れた。

 泥の匂い。雨。誰かの背中の、骨ばった感触。揺られるたびに、腹の傷が焼けるように痛む。耳元で、荒い息と一緒に、低い声が繰り返している。もう少しだ。もう少しだからな。

「ホランド……ヴァイス。ホランド・ヴァイス」

 男は呟いた。少女の肩が、わずかに動いた。

 管理人は箒を止めて、少女を見下ろした。

「ホランドさんねえ。ここは八年前に建て替えたんだよ。その前は古いアパートでね」

 管理人の目は少女にだけ向けられていた。

「前の大家さんから聞いた話だけど、首都から疎開してきた先生がいたって。でも、ここにも長くはいなかったらしい。親戚を頼って、山のほうの村へ移ったとか」

「村の名前は、わかりますか」

「たしか、ラウエだったかな。ずいぶん奥のほうだよ」

 少女は礼を言って、地図アプリにその名前を打ち込んだ。

 駅へ戻る道を、二人はしばらく黙って歩いた。

「おじさん」

 少女が前を向いたまま言った。

「さっき、ホランドって言った」

「ああ」

「知ってる人なの?」

 男は自分の手のひらを見た。あの背中の感触が、まだ残っている気がした。

「私が探していたのは、その人だ」

 少女が立ち止まった。振り返った顔には、警戒とは違うものが浮かんでいた。何かを、ひどく知りたがっている顔だった。

「どういう人?」

 ホームに列車が滑り込んでくる音がした。

「……乗ってから話そう」

 車内は空いていた。少女は男の向かいに座り、今度はイヤホンをつけなかった。

 男は窓の外を見ながら、ゆっくりと話した。言葉にするたびに、記憶がひとつずつ形を取り戻していった。

 戦争だった。自分は兵士で、ホランドは同じ隊にいた。撃たれたのは自分のほうだった。部隊とはぐれ、ホランドは自分を担いで、三日かけて基地まで歩いた。

「夜になると、焚き火をした。あの人は、本を読んでくれた」

「本?」

「戦争の前は、国語の教師だったそうだ。鞄に一冊だけ入れていた。私が眠りそうになると、声を大きくするんだ。眠るな、生きろ、と言いながら」

 少女は黙って聞いていた。膝の上で、両手を固く握っている。

「それで、おじさんはその人に会って、どうするの」

「礼を言う。それから……」

 男は言葉を探した。礼だけではなかった。もっと何か、伝えなければならないことがあったはずだ。けれど、それはまだ霧の向こうにあった。

「……まだ、思い出せない」

 少女はしばらく男の顔を見つめていた。それから、ぽつりと言った。

「おじさんのほかにも、誰かその人を探してたりしていなかった?」

「さあ。どうだろう」

「そう」

 少女はそれきり口を閉ざし、窓の外に目を向けた。ガラスに映った少女の横顔は、何かを確かめようとしているように見えた。

 列車は山のほうへ向かって走っていた。



四 山あいの列車


 エルストから先は、二両編成の小さな列車だった。

 線路は川に沿って、山のあいだを縫うように延びていた。トンネルを抜けるたびに、窓の外の紅葉が濃くなっていく。乗客はまばらで、老人がひとり、前のほうの席で居眠りをしていた。

 少女は窓際の席で、文庫本を開いていた。ヴェルンの古本屋で買った、あの本だった。

 男は何気なく表紙に目をやって、息を止めた。

 『渡し守の娘』。

 タイトルが炎の色に染まって、焚き火のはぜる音がした気がした。ページをめくる指。煤で汚れた表紙。眠るな、と言いながら読み上げる、低い声。

「その本は」

「知ってるの?」

「……あの人が、読んでくれた本だ」

 少女は本から顔を上げて、男を見た。長年の謎が解けたみたいに目を丸くして、けれど、すぐに顔を伏せた。

「……そう」

 小さく、そうつぶやいた。それきり、また本に目を落とした。

「どこまで読んだ?」

「主人公がソフィーと再会するところまで」

 ソフィー。

 その響きが、胸の奥の、どこか柔らかいところに触れた。男は理由のわからない痛みに、少しだけ顔をしかめた。

 少女は何も言わずに、本を読み続けていた。列車がトンネルに入り、また抜けた。窓の外を、紅葉の斜面がゆっくりと流れていく。少女の指は、ページの端にかかったまま動かなかった。

「ねえ、この二人って、結局くっつくの?」

「それは、読んでの楽しみにしておいたほうがいい」

「ケチ」

 少女は唇をとがらせて、ページをめくった。

 列車が小さな無人駅に停まった。錆びたベンチがひとつ置いてあるだけだった。

 ドアが開いて、兵士がひとり乗り込んできた。男と同じ、くすんだ緑色の外套を着ている。顔はひどく青ざめて、雨も降っていないのに、外套の裾が濡れていた。血だった。

 少女が本から顔を上げて、兵士に小さく会釈をした。兵士は誰にも目を向けず、男の向かいの席に腰を下ろした。

 故郷に帰る途中だろうか。階級は同じなのだろうが、見ない顔だった。

「すみません、同じ部隊の人を探しているんですが……」

 ホランドのことを知っているか聞いてみても、首を横にふるだけだった。少女は本に顔をうずめたまま、何も聞かなかった。

 ドアが閉まり、列車はまた動き出した。少女は何事もなかったように、本の続きを読んでいた。

「学校は、いいのかい」

「秋休み。それに、ちゃんと届けも出してきた」

「しっかりしてるな」

「お母さんがうるさいの」

 少女は本を伏せて、スマートフォンを取り出した。

「あ、連絡しなきゃ。毎晩しないと怒られるんだった」

 画面を叩く少女の指を眺めながら、男はふと、窓に明かりのともった家を思い浮かべた。誰かが台所に立っている。誰かが、玄関の戸が開くのを待っている。

 その誰かの顔が、思い出せなかった。

「……待っている人がいるのは、いいことだ」

「おじさんにはいないの?」

「いた気がする」

 少女の指が止まった。けれど、何も言わなかった。

 川幅が広くなり、列車は谷の開けたところに出た。刈り入れの済んだ田畑の向こうに、すすきの原が広がっている。

 その中に、錆びた看板が一枚、傾いて立っていた。赤い文字は色あせて、ほとんど読めない。それでも男には、そこに何と書かれているのかがわかった。

 地雷注意。

 首筋に、冷たいものが触れた。男は思わず窓から目をそらした。理由はわからなかった。ただ、あの看板のある方へは行きたくない、と体のどこかが言っていた。

「どうしたの?」

「いや。何でもない」

 少女はしばらく男の横顔を見ていた。それから、窓の外のすすきの原へ目をやった。

 日が傾きはじめていた。山の影が谷に落ち、車内が少しずつ暗くなっていく。

 トンネルをひとつ抜けると、向かいの席は空になっていた。あの兵士がいつ立ったのか、男は気がつかなかった。



五 ミルデンの宿


 ラウエ行きのバスは、その日はもう出たあとだった。ミルデンの駅前には、商店が数軒並んでいるだけだった。シャッターの下りた店のほうが多い。

 少女はスマートフォンの地図を見ながら、坂道を上っていった。その先に、古い木造の宿が建っていた。軒先の提灯に、もう明かりが入っている。

 玄関の引き戸を開けたとき、男は足を止めた。

 上がり框のすり減った木目。帳場の奥から漂ってくる、煮物の匂い。二階へ続く階段の、三段目だけが軋む音。

 知っている、と思った。

 どうして知っているのかは、わからなかった。

「いらっしゃい」

 奥から出てきたのは、六十がらみの女将だった。前掛けで手を拭きながら、少女を見て目を丸くする。

「おや、お嬢さん。ひとり?」

 少女は一拍だけ間を置いて、答えた。

「ひとりです」

 男は少女の隣に立っていた。けれど、何も言わなかった。

 女将は宿帳を差し出しながら、少女の荷物の小ささに首をかしげた。

「こんな山奥まで、何の用事で」

「人を探しているんです。ラウエに住んでいる、ホランドさんという方を」

「ホランド先生?」

 女将の顔が、ぱっと明るくなった。

「知ってるよ。今もラウエにいる。月に一度は町に降りてきて、うちでお茶を飲んでいくんだ。もう足も弱ってきたけど、口のほうは相変わらずでね」

 男は息を吐いた。生きている。あの人は、まだ生きている。

 女将は宿帳に目を落としたまま、ふと手を止めた。

「そういえば、十年前にも、あの人のことを尋ねてきた人がいたね」

 少女の背中が、かすかにこわばるのがわかった。

「その人のことは、何か知りませんか」

「ホランド先生のことを、恩人だと言っていたよ。たぶん、兵隊さんだったんだろうね。くたびれた軍の外套を着て、ずいぶん遠くから歩いてきたみたいだった」

 男は、自分の袖口に目を落とした。

 擦り切れた、くすんだ緑色の布。

 軍から支給された外套だった。同じものを着た兵隊なら、いくらでもいた。

「うちに一晩泊まって、翌朝、ラウエへ歩いていった。あの頃は戦争が終わったばかりで、バスもなくてね」

 女将は顔を上げて、少女を見た。

「お嬢さんは、その人も探しているのかい」

 少女は男のほうを見なかった。まっすぐに女将を見て、けれど、その声は男に向けられているように聞こえた。

「父です。十年前に家を出たきり、帰ってきていないんです」

 帳場が静かになった。柱時計の音だけが、やけに大きく響いた。

 女将はしばらく少女の顔を見て、何も言わなかった。

「……でもね、お嬢さん。あのあと先生が町に来たとき、話したんだよ。兵隊さんがあんたを訪ねていったよって。そしたら先生、誰も来てないって」

 少女は黙って、宿帳の端を見つめていた。

「あの頃は、峠の道で……」

 女将は言いかけて、口をつぐんだ。前掛けの端を、ぎゅっと握った。

「ごめんよ。余計なことを言った」

「いいえ」

 少女は首を振った。

「教えてくれて、ありがとうございます」

 その声は静かで、少しも震えていなかった。

 女将に案内されて、少女は二階へ上がっていった。三段目が、軋んだ。

 男は帳場の前に、ひとり残っていた。

 玄関の格子戸の向こうに、峠へ続く道が見えていた。夕闇の中で、その道だけが白く浮かび上がっていた。

 その道を見て何かを思い出そうとすると、男の頭のなかで、チカチカと音が鳴った。



六 宿の夜


 夜が更けても、少女は眠らなかった。

 布団の上に座って、膝を抱えている。枕元の行灯が、金色の髪の端を橙色に染めていた。窓の外は暗く、峠の稜線だけが、星明かりの中にかすかに浮かんでいる。

 男は窓際の柱にもたれて、その姿を見ていた。

「眠れないのか」

「うん」

 少女は膝に顎をのせたまま、男を見上げた。

「ねえ。おじさんは、どうしてホランドさんを探しに出たの」

「礼を言うためだと、話しただろう」

「そうじゃなくて」

 少女は言葉を探すように、少し黙った。

「どうして、そのときだったの。おうちに、誰かいたんでしょう」

 男は答えようとして、口をつぐんだ。

 階段の三段目が軋む音が、耳の奥でした。誰も上がってきてはいないのに。いつかの夜も、自分はこの部屋で、こうして峠のほうを見ていたのではなかったか。

 思い出すというより、固く結ばれていたものが、ほどけていくようだった。

「ラジオで聞いたんだ」

 男はゆっくりと言った。

「戦争が終わる少し前だった。首都が、ひどい空襲を受けたと」

 少女は黙って聞いていた。

「あの人の学校は、首都にあった。手紙を書いても、宛先不明で戻ってきた。戦争が終わって、電車がまた動きだしたとき、私は簞笥の奥から外套を出して、それを着た」

 男は袖口に目を落とした。擦り切れた、くすんだ緑色の布。

「妻は止めなかった。止めても行くと、わかっていたんだろう。子どもはまだ小さかった。玄関まで追ってきて、いつ帰るのかと聞いた。すぐだ、と答えた」

 二人の顔は、霧の向こうにあった。ただ、玄関の戸を閉めたときの手応えだけが、指先に残っていた。

「首都の学校は、焼けてなくなっていた。あの人の行方を知っている者もいなかった。疎開したらしいという噂だけを頼りに、町から町へ歩いた」

「キュルケーとか、ヴェルンとか?」

 男はうなずいた。窯の熱と、焦げたチーズの匂い。駅裏の、無愛想な店主。あれは、ホランドを探していたときに歩いた町だったのだ。

「行ってみると、もう別の町へ移ったあとだった。その町でも、また次の町へ。追いつきそうで、いつも一歩遅かった」

 そうしてたどり着いたのが、エルストの木造アパートだった。そこでラウエの名前を聞いた。この宿に一晩泊まって、翌朝――

 その先を考えると、頭の奥でまた、チカチカと音が小さく鳴った。どうしても思い出せなかった。

 少女は、膝を抱えた腕に顔を半分うずめていた。

「……家族を置いてまで、会いたかったんだ」

 控えめな声だった。責めているのか、ただ確かめているのか、男にはわからなかった。

「あの人がいなければ、私には帰る家もなかった」

 男は言った。

「だから、どうしても伝えなければならないことがあった」

「何を?」

 男は口を開きかけて、止まった。それはまだ、霧の向こうにあった。手を伸ばせば届きそうなところで、形にならない。

「……もう少しで、思い出せそうなんだが」

「そう」

 少女はそれきり、何も聞かなかった。

 しばらくして、規則正しい寝息が聞こえてきた。いつの間にか、少女は布団の中に横になっていた。肩までずり落ちた掛け布団から、細い腕がはみ出している。

 男は柱から背を離して、そっと掛け布団を引き上げてやった。

 少女の髪が、枕の上に広がっている。行灯の明かりの中で、それは淡い金色に光っていた。

 どこかで、同じことをした気がした。小さな寝顔に、同じように布団をかけてやった夜が。

「おやすみ」

 男は呟いた。

 行灯の火を落とすと、窓の外の峠が、ほんの少しだけ近くなった気がした。

 暗闇にいると、チカ、チカ、と音がした。さっきよりもはっきりと。



七 峠道


 朝の帳場で、女将が少女に紙切れを渡した。

「ラウエ行きのバスは、九時十分。一日に二本しかないから、乗り遅れないようにね」

「ありがとうございます。でも、歩いていきます」

 女将の手が止まった。

「歩いて? 峠を越えるんだよ。二時間はかかる」

「大丈夫です」

 女将は何か言いかけた。昨夜と同じように口をつぐんで、それから、少しだけ笑った。

「今はもう、ちゃんとした道になってるからね。気をつけて行っておいで」

 玄関を出たところで、少女は男のほうを振り返らずに言った。

「父さんが歩いた道を、歩きたいから」

 それが少女の旅の仕方だった。

 これまでも、少女は父親の足取りをたどっていたのだろう。

 同じ列車に乗り、同じ町で降り。そうして二人で旅をしていたのだ。

 男は黙って、その隣に並んだ。並んでいるべきだと思った。

 峠への道は、きれいに舗装されていた。黒いアスファルトに白線が引かれ、谷側にはガードレールが続いている。カーブのたびに、真新しい標識が立っていた。

 けれど、歩きはじめてしばらくすると、男の目には別の道が重なって見えはじめた。

 ぬかるんだ土の道。深く刻まれた轍。踏みしめるたびに、靴底に泥がまとわりつく感触。

 男は足元を見た。そこにあるのは、乾いたアスファルトだけだった。

 頭の中のあの音が、チカッ、チカッ、と、少しずつ大きくなってくる。

 山の端から、朝日が差し込んできた。

 隣を歩く少女の髪が、光を受けて輝いた。金色の糸が、風にほどけて揺れる。

 その瞬間、男の中で何かがつながった。

 窓辺に立つ女。同じ色の髪を、片手で耳にかけている。こちらを振り返って、困ったように笑う。その腕の中に、小さな子どもが抱かれている。同じ色の、柔らかい髪。

 小さな寝顔に、布団をかけてやった夜。

 男は足を止めかけて、かろうじて歩き続けた。

 あの子は四つだった。目の前の少女は、十四か、十五か。

 なくなっていたピザ屋。建て替えられたマンション。舗装された峠道。

 十年。

 その数字が、喉元までせり上がってきた。男はそれを、無理やり飲み込んだ。

 違う。この子が、未来から来たのだ。何かの間違いで、大きくなったあの子が、自分の隣を歩いている。そう考えるほうが、ずっと気が楽だった。

 男は少女の横顔を見た。名前を呼びたかった。

 口を開いた。けれど、何も出てこなかった。

 名前が思い出せない。

 あの子の顔も、妻の顔も、今はこんなにはっきり見えるのに。名前だけが、どこにもなかった。

「ねえ」

 少女が前を向いたまま言った。

「やっぱりあの本の結末、教えてくれる?」

 男は、かろうじて返事をした。

「読んでの楽しみだ」

「ケチ」

 少女は笑った。昨日と同じ言葉だった。けれど、その声は昨日より少しだけ細かった。

 しばらく、二人は黙って歩いた。鳥の声がしなかった。動物の気配がない。風が、すすきの原を渡っていく音だけが聞こえる。

「おじさん」

「うん」

「ホランドさんに会ったら、何を言うの?」

 男は空を見上げた。

 礼を言う。それだけではなかった。もっと伝えたいことがあった。それが今、霧の向こうから、少しずつ形を取りはじめている。

 あの人に救われた命で、自分は故郷に帰った。それから――

「……会ったときに、言うよ」

「そう」

 少女はそれ以上、聞かなかった。

 道が大きく右へ曲がった。カーブを抜けると、視界が開けた。

 谷の向こうに、小さな集落が見えた。瓦屋根がいくつか、朝の光の中に寄り添っている。煙突から、細い煙が一本立ちのぼっていた。

 ラウエだ。

 あそこに、あの人がいる。

 カーブの外側の、すすきの原の中に、錆びた看板が一枚傾いて立っていた。赤い文字は、ほとんど消えかけている。

 少女の足が、少しずつ遅くなった。やがて、男の半歩後ろを歩くようになった。

 男の目には、もうアスファルトは見えていなかった。

 ぬかるんだ土の道。轍。鳥の声のしない朝。十年前と、同じ朝。

 頭の中でますます大きく鳴り響く、チカッ、チカッ、という音。

 あと少しだ。あと少しで、あの人に会える。

 男は一歩、足を踏み出した。

 靴の裏で、何かが小さく鳴った。


 カチッ



八 伝言


 爆発の音は、聞こえなかった。

 ただ、世界が白くなった。足元から突き上げてきたものに、体が持ち上げられる。空と地面が入れ替わり、すすきの穂が、ゆっくりと宙を舞った。

 気がつくと、男は仰向けに倒れていた。

 背中に、冷たい泥の感触があった。ぬかるんだ土の道。轍の溝に、雨水が溜まっている。見上げた空は、低く垂れこめた灰色だった。

 十年前の空だ、と男は思った。

 体のどこが痛むのかもわからなかった。ただ、ひどく静かだった。

 ああ、そうか。

 自分の旅は、ここで終わっていたのだ。

 あの人に会うことはなかった。家に帰ることもなかった。この泥の中で、誰にも気づかれず、誰にも名前を知られないまま、自分は終わっていた。それからずっと、終わったことにも気づかずに、同じ道を旅し続けていたのだ。

 顔の横に、誰かが膝をついた。

 少女だった。乾いたアスファルトの上に、膝をついている。服にも、髪にも、泥ひとつついていない。朝の光が、その肩に落ちていた。

 二人は、違う道の上にいた。

 男は自分の手を見た。指先の輪郭が、光の中にほどけはじめていた。痛みはなかった。ただ、もうこの先へは行けないのだということだけが、はっきりとわかった。

「頼みがある」

 少女は何も言わずに、男の手を取った。その手は温かかった。

「ホランドさんに、伝えてほしい」

「うん」

「あなたのおかげで、私は故郷に帰れました」

 少女の手に、少しだけ力がこもった。

「結婚しました。子どもが生まれました。名前は――」

 男は言葉を切った。

 霧が晴れるように、それは戻ってきた。生まれたばかりの小さな手。初めて抱き上げたときの重さ。妻と二人で、何度も呼んだ名前。

「名前は、ソフィー」

 少女は唇を引き結んだ。

 男は少女の顔を見上げた。

 少女の目の縁が、赤くなっていた。けれど、涙はこぼれなかった。

「それだけだ」

 朝の光の中で、金色の髪が揺れていた。男はそれを、最後まで見ていたかった。

「必ず、伝えます」

 少女の声は、少しも震えていなかった。ませた子だ、と男は思った。こんなときまで。

 体が、軽くなっていく。背中の泥の冷たさが遠のき、灰色の空がゆっくりと青く澄んでいく。


九 終章


 ソフィーが膝をついていたぬかるんだ道は、アスファルトの道路に戻っていた。ラウエの名を記した道路標識が立ち、木立が秋の日差しを浴びていた。

「父さん」

 誰もいない道に向かって、ソフィーは一度だけ、そう呼んだ。

 返事はなかった。アスファルトの上を、風が渡っていく。すすきの穂が揺れて、どこかで鳥が鳴いていた。

 まだ道は続いていた。ソフィーは少しだけ泣いて、やがて、手の甲で目をこすって、立ち上がった。

 スマートフォンを取り出す。母とのやりとりの画面を開いて、指を止めた。

 父さんと会えた、と打って、しばらくその字を見て、消した。

 もう少ししたら帰る、とだけ打って、送った。

 ソフィーは顔を上げた。

 谷の向こうに、ラウエの屋根が見えていた。煙突から立ちのぼる一本の煙が、朝の空にまっすぐ伸びている。

 鞄の外ポケットから、角の擦り切れた封筒を取り出した。宛先不明の判を、指先でそっとなぞる。十年かかって、ようやくここまで来た手紙だった。

 ソフィーは、旅の続きを歩き出した。

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