「さあ、恋を始めようか」と言われましたがお断りです
「さあ、恋を始めようか」
もし自分の婚約者から言われたらあなたならどうしますか? ときめいて恋を始めますか? ちなみに私はお断りです。
♢♢♢
「イザベル、この課題レポートをやっておいてくれ。今日はコレットと街に出て流行りのカフェでケーキ食べにいくんだ」
私の婚約者のダリウス様は腕にコレット嬢をぶら下げたまま、放課後に教室に残っていた私に課題の資料を差し出してきた。
「お前ならできるだろ」
コレット嬢はダリウス様の腕をさらに胸に押し付けながら不敵に微笑んでいた。
『流行りのカフェ』、ですか。私も王都に来てすぐの学園入学前は、ダリウス様と行っていたけれど、最近は誘っても断られる。
悔しくて、悲しくて、きゅっと抱きしめるように、書きかけの魔道具の論文を胸に抱えて、下にうつむいた私は、なぜこうなったんだろうと考えていた。
領地が隣り合う伯爵家同士で両親が仲良くしていたこともあって、同い年のダリウス様とは交流があり、私達が12歳のとき婚約が決まった。
ダリウス様のお顔立ちはとても整っていて、調子に乗るところもあるけれど、優しくて少し引っ込み思案な私をひっぱってくれる、少年のような純粋さもある人だった。私は出会ってすぐから好きだった彼と婚約が決まって本当に嬉しかった。
私はこれまで趣味でやっていた魔道具研究の勉強よりも優先して、マナーや淑女教育に加えて他国の言葉や経営学など、伯爵家の嫡男であるダリウス様を妻として支えるため必死に学んできた。
そんな毎日は大変だったけど、『イザベル、無理しないでね、大好きだよ』っていう応援で頑張れた。
手紙だけでなく月に一度お互いの領地でデートしたり、君に似合いそうだからと言ってプレゼントもよく渡してくれて私を見てくれてると幸せだった。
私も恥ずかしくてあまり言えなかったけど『私も好きです』と伝えてきた。
そんなダリウス様は王立学園に入学してから変わった。まず一ヶ月間、私を避けるようになった。その後、会話するようになったかと思えば、今目の前にいるコレット嬢だけでなく数多くの女性たちを周りに引きつれて、課題を私に押し付けてデートを重ねていた。
私は悲しさや嫉妬心などごちゃまぜな気持ちで、何度も『ほかの女性と過剰な交流はしないでください』といったが、ニヤニヤ笑っているだけだった。
「ちょっと、いいかな?」
声が聞こえてぱっと顔を上げると、侯爵家の次男である同じクラスのアルベルト様が人好きする笑みを浮かべて割り込んできた。
「なんだ、婚約者同士の会話に割り込んできて。侯爵令息とはいえ失礼じゃないか?」
不快を顔いっぱいに出したダリウス様はアルベルト様に言った。
「そうだったかい? イザベル嬢との話は終わったように見えたけれど。ねえ、イザベル嬢、君の書いたその論文を途中までだけど読んだよ。すごく新しい視点で勉強になった。とくに魔石消費量の効率化部分が良くてね」
「ほ、本当ですか? アルベルト様にそう言われると嬉しいです!」
私は魔道具研究部という部活に属していて、そこでの有望株であるアルベルト様にそう言っていただけて本当に嬉しくて声を震わせてしまった。
「うん。論文の書き方なら私も教えられるし、部活の時に教えるね」
「……ありがとうございます! でもよろしいんですか?」
「もちろんだよ! 頑張っている人は応援すべきだ。それじゃ部活が始まる時間だし一緒に行こうか」
そう言ってアルベルト様は微笑んで私を連れ出そうとしてくれた。
「待て! イザベル! 話は終わっていない。この課題レポー……」
焦ったように慌てて引き止めようとするダリウス様をアルベルト様は牽制した。
「それは君がすべきだよ。伯爵家の嫡男の君がこれから領地を切り盛りする立場なんだから」
ぐうの音が出なくなったダリウス様は侯爵家のアルベルト様に意見することもできず、とても悔しそうに引き下がった。
アルベルト様に連れられて廊下にでた私は、助けてもらって彼に感謝しつつも安堵した。ダリウス様とは『これで本当にいいのかしら』と今まで思いもしなかった考えが頭の片隅にあり、何をしていてもそれが離れることはなかった。
♢♢♢
「さあ、恋を始めようか」
あの教室での一件があって一週間後、昼休みの学園の中庭のベンチで一人ランチを食べていた私にダリウス様は『どうだ!』と言わんばかりに胸をはって告げてきた。
珍しく今日はコレット嬢だけでなく他の御令嬢たちを引き連れていない。
何をおっしゃっているの? ダリウス様は。
確かに少し調子に乗るところもあったけれどこんなにキザではなかったわ。そして上からの発言に聞こえるのだけど。
そして恋を始める? まだ私との恋は始まってなかったというの? 『大好きだよ』っていってくれたあの日々はなんだったの?
「ダリウス様、それはどういう意味でしょうか」
「ん? 言葉通りだけど」
言葉通り? コトバドウリ…。全く理解できない。
これは私の理解力がないの?
「君と僕は新たな関係を築くんだよ、今日がその始まりの日だ」
「――新たな関係ですか?」
必死に理解しようとしているけれどわからない。ダリウス様に何が起こったの?
ダリウス様はまだ何かを言っているけどショックでうまく聞き取れない。
新しい関係ってなに? すでに婚約者なのに?
「はぁ、君は美人で頭がいいのに鈍いね。じゃ、そういうことだから。今日は一緒に帰ろうね」
「…………はい」
私はダリウス様の言葉にうなずくことしかできなかった。
♢♢♢
ダリウス様が去ってからベンチでどのくらい放心していただろう。
突然目の前が暗くなったのでなんだろうと顔をあげるとアルベルト様がそこに立っていた。
「イザベル嬢、どうしたの? かなりぼんやりしているけど」
「アルベルト、様」
アルベルト様はいつもはキリッとさせている眉を少し下げて、ベンチに座る私の前にしゃがんだ。
「……いいえ、なんでもありません。あっ! 侯爵家の方にしゃがませるなんて、申し訳ございません」
私はさっきのダリウス様の言動について、男性の意見を聞いてみたかったけれど、躊躇した。
「目線を合わせたいからいいんだよ。……ごめんね、言いたくなかったならいいんだ。でも吐き出した方が楽になるよ」
「本当になんでもないんです。少しこの場所が暑かったのでぼんやりしてしまいました」
「――婚約者の彼のことだよね。君はとても正直な女性だから、顔に出ているよ」
今まで顔に出てるなんて言われたことはないわ。私は淑女教育で表情に出さない教育をうけて合格点をもらっているわ。どうしてこの方はわかったのだろう。ダリウス様含めて今まで気づいた人はいないし、必死に言い繕ったのにどうして。
「隣、座ってもいいかい?」
うなずいた私に彼は軽く微笑むと、一人分くらいのスペースを空けて座った。
私が話し出すまでかなり時間がかかったけれど辛抱強く彼は待ってくれた。
「先ほど婚約者から『さあ、恋を始めようか』と言われました」
「……えっ!?」
ぽつりぽつりと私はさっきのことをアルベルト様に話しはじめた。
小さな声で聞き取りにくいだろうに、聞き返すことなく、アルベルト様はうなずきながら聞いてくれた。
「新たな関係ってなんなのでしょうか。今までの関係を仕切り直したいってことですかね」
アルベルト様はかなり真剣な顔で黙りこみ、少し経ってから怒りをにじませた声で口を開いた。
「正直、彼が何を考えて君を傷つける愚かな発言をしたのかわからないし、理解したくもない。でも彼なりの何か根拠があるんじゃないかな」
「根拠、ですか」
「そう、例えばこの前の教室での一件、あのとき彼は他の女性と話しながらも、下を俯いてしまった君を何度も見ていた」
「……何度も、見ていた?」
「あとなんだか君がどんな反応をするのかを気にしている態度だったよ。そして君と一緒に教室を出ようとする私を睨みつけていた」
何度も見ていた、どんな反応をするのか気にする、アルベルト様を睨みつける。
どこかでこの行動に既視感があるわ。なにかしら? なにかわかりそうなんだけれど。
私はそう思いながら愛犬の刺繍が施された巾着ポーチを見てハッと気づいた。
そういえば実家の愛犬もご飯を食べない、服を引っ張るなどしていた。それと似ているんだわ。考えれば考えるほどそれとしか思えなかった。
「――まさか試し行動……でしょうか?」
「……ああ、確かにそれに似ているね」
彼が「さあ、恋を始めようか」とか言い出した理由はいまだにわからない。
でも動物や子供なら試し行動もかわいいけれど、成人した男性の試し行動は許せないわ。どうしよう……ダリウス様とこれから先結婚してやっていける気がしない。
あら? 少し引っ込み思案だったのにこんな攻撃的になるなんて……。
今まで好きだから支えたいと思った気持ちや、他の女性への嫉妬心などの彼に対するさまざまな気持ちがすぅっと泡のように消えていった。
残ったのは嫌悪からの危機回避だけだった。
ムリムリムリムリ、無理です。この相手を支えて生きていくのは無理です! お父様ーーーーーー。
「もう、無理です! ダリウス様と婚約を解消いたします。今までのことも両親にすべて報告します」
鳥肌を立てながらそう宣言してアルベルト様を振り返った。
「アルベルト様、邸にいる父に急ぎ報告とお願いをしなければいけませんので、今日は早退いたします。申し訳ございませんが、先生には体調不良で早退したとお伝えいただけますでしょうか」
「えっ? それは構わないけれど、どうやって帰るの? 迎えの馬車はまだ来ていないよね」
「辻馬車でも構いません。一刻も早く父に伝えなくてはいけません」
アルベルト様は少し目を見開いていた。
落ち込んでいたのに突然邸に帰ると言い出したから驚いたのかもしれないけれど、私は嫌悪感が酷く、できる限り早くダリウス様と縁を切りたかったので仕方ないわ。
「それなら、私の家の馬車を使うといい。案内するよ」
学園では侯爵家以上は馬車をずっと待機させることができるため、それを私に使わせてくれるそうだ。本当は遠慮するところかもしれないけれど、ありがたく使わせてもらうわ。
「ありがとうございます!」
アルベルト様と私は馬車どめまで歩いていった。当然『今日は一緒に帰ろう』とかのたまわっていたダリウス様は置いて帰った。
♢♢♢
早速邸にもどり私は父である伯爵に相談した。
家族はダリウス様の行動を知っていて、父母は私がいつ言い出すかと思っていたし、領地にいる兄夫妻は抗議するべきだといってくれていて見守っているという状況だったらしい。
父と母に婚約は「なんとかするから大丈夫だ」と言ってもらえて安心した私は、その日夢もみず穏やかに眠った。
それから三日後、ダリウス様とその両親である伯爵夫妻が我が邸にやってきた。
こちらの要望は婚約解消。
父母はあちらの伯爵夫妻とは友人同士のためあまり拗らせるのは私の希望ではなかったし、瑕疵がついた私は魔道具研究の方へ進みたいと考えていた。
「なぜあの日先に帰ったんだ! あの日が僕たちの始まりの日だったんだぞ」
侍女が応接間にお茶を全員分だしたあと、どう出るかお互いの家族が考えて静まり返った中、ダリウス様は言い放った。それを聞いた私を含め両親と伯爵夫妻は驚きに満ちた顔をした。
「ダリウス! 何をわけのわからないことを言ってるんだ! お前の一連の行動が問題となっているんだぞ。お前はそのことを謝罪し、できれば婚約の継続をお願いをしにきたはずだ。お前は解消させたいのか!」
「何をいっているんですか? 父上。僕はイザベルと結婚します」
この場にいるダリウス様以外の人間は全員一瞬止まるなか、ダリウス様は本気でわからないという顔をしながらいった。
「周囲に女性を侍らせていたことも問題だが、一番問題なのは『恋を始めよう』とか馬鹿なことをいったことだ! なぜこんなことを言った? 現在イザベルをなんとも思っていない言ったと同義だぞ。」
ダリウス様の父親であるおじさまはここにいる全員の思っていることを代弁した。
「違います、僕はイザベルを愛しています。イザベルとは学園入学前までありふれた普通の婚約者同士でした。そのためイザベルにもっと好かれたいと思いました。足りないのはドラマだった、だからこその言葉です」
あっけに取られてダリウス様を全員みつけているにも拘らずそれを歯牙にかけることなく、熱にうかされたかのような目をしたダリウス様は胸を張って言い切った。
話を聞くと私とダリウス様の婚約にはドラマがないため、彼はその状況を打破しようとしたらしい。その名も『嫉妬は恋のスパイス』作戦。この作戦イベントを経て二人の絆は強くなり、ドラマ性が生まれるそうだ。
そして私の知らない間にダリウス様とそのイベントを着実に消化していたらしい。
最初は距離をとって無視、その次は嫉妬と。そして総仕上げが『さあ、恋を始めようか』だった。ここから私とダリウス様は恋の階段をのぼり、最高のドラマが作られるらしい。
どんどん、彼への好感度が減っていく。婚約破棄するって決めた時にもうなくなったと思ったのだけれど、まだ下があったみたい。あんなに好きだったのに、不思議なものね。嫌悪感を無理やり押し込んで、ダリウス様に尋ねた。
「あの、ダリウス様。冷たくされていたのはなぜですか?」
「女性はギャップに弱いと読んだ」
「『嫉妬は恋のスパイス』作戦と先ほどおっしゃっていましたが、どうしてたくさんの御令嬢を周りに置いていたのですか?」
「包容力がある男性がいいとあった。あと軽い嫉妬は恋を盛り上げるのにいいそうだ。だから多くの令嬢をそばに置いた。愛しているのはお前だけだ」
「『恋を始めようか』と言ったダリウス様なりの経緯はわかりました。なぜそのお言葉だったのですか?」
「恋の主導権を握ったほうがいいと読んだ。それを実践した」
……あった、読んだ、って何? もしかしてアルベルト様がおっしゃられてた『根拠』って――。
「この馬鹿息子が! すまない、婚約解消ではなく我が家有責の破棄にしてくれ。イザベルの責任はまったくない。すべてこの馬鹿が悪い。それでも瑕疵が残らないとはいえないが多少は和らぐはずだ。そのくらいのことはさせてもらえないか」
「なんて考え方をしているの!? 娘のように思ってきたイザベルに申し訳がたたないわ! 本当に申し訳ございませんでした」
母親であるおばさまはハンカチで目元を拭いながら嘆いているわ。
お母様は私の背中を優しくさすってくれたし、お父様は気遣うような目で私を見ている。
私に同情的な雰囲気だし、これで婚約を破棄できると胸をなでおろしていると、彼が滝のような涙を流しながらグスグスと鼻をすすっていた。
「うぅ……いやです、絶対にいやです。婚約破棄なんていやです! イザベルど結婚じまずー! うわぁーーん!!!!!」
初めて見るダリウス様の大号泣だった。その言葉を言った後ダリウス様は胸から手帳を取り出してきた。
「ここです! ここ見てください! 第一条『女性はギャップに弱い』、第六条『嫉妬は恋のスパイス』、第九条『女性は包容力のある男性が好き』、第十条『恋の主導権を握れ』!!!! 僕ばごの通りにじだだけなんでずーー!!!!!」
鼻が垂れそうになっているけど大丈夫かしら。号泣で美形が見る影がないくらい顔をくしゃくしゃにしているわ。
そしてこの手帳は一体何なのかしら。パラパラとおじさまは手帳のページをめくる。
「……すごい書き込みだな。この条文はなんだ?」
「うぅ、うぅ……イザベルとの恋の進展に悩んでいるとき王都の本屋で見つけた『恋する男性のミカタ!恋を叶えるエッセンス』恋の魔術師・カトリーヌという著者がかいた本に書かれていた条文でず。ずずっ。もうやめるがら! 破棄じないでぐだざい!!! 許じでぐだざい!!!」
『恋する男性のミカタ!恋を叶えるエッセンス』著:恋の魔術師・カトリーヌって昔からある低評価ばっかり聞く有名な恋愛マニュアル本じゃない。それを実践したというの?
ダリウス様はハンカチで鼻をかんでいる。女性を侍らせ放題だったダリウス様のこんな姿を見るとは思わなかった。
「そんな怪しげな本に書いてあることをそのままやったのか……。自分の息子がこんなにも愚かだとは思わなかった。自分で真意を調べず、人の言いなりになるのでは、うまくみえる儲け話に騙される」
おじさまは、大きくため息をついて、何か大きな意思を固めたようだ。
「はあ……我が伯爵家をお前に継承させたら没落が目に見えてる。お前を後継から外して、親戚から養子を迎える」
全員がぎょっとしたようにおじさまを見た。ダリウス様も一瞬涙が止まったみたい。おじさまは言葉を重ねる。
「――お前は領地で文官のひとりとして過ごせ。その何かを盲信する考え方は養子となってくれる子の害になるから邸に置いておけない」
あっという間に一人息子だったのに後継から外されてしまった。
おじさまは判断が早いわ。学園を卒業させる意味もないから退学させて、少ししてから領地に送るそう。
私はこれだけはダリウス様に伝えて終わりにしたかった。数日前までは将来を考えていた大好きだった人だったから。
「ダリウス様、私はずっとあなたをお慕いしていました。そのマニュアルよりも、私を信じていただきたかったです。もう二度とお会いすることはないと思いますが、元気でお過ごしください」
これを聞いたダリウス様の大号泣はギャン泣きに変わった。あの泣き方の上があったのね。
結果的に婚約は慰謝料なしの破棄。両親は絶交はしないようだけれど今までのような交流はなくなるんじゃないかしら。
婚約破棄から少したったある日、私の傷が多少癒えたと思ったのか、父が執務室に私を呼び出しためらいがちに口を開いた。
「イザベル、この次の婚約についてだが、どうするつもりだ? 希望はあるか? ……もしないのなら、侯しゃ――」
「お父様、私は将来的には魔道具研究の道を歩みたいと思います。ですのでお相手の方にその理解が得られないなら独身でいたいと思っています。そもそも瑕疵もございますし」
「瑕疵は気にせずとも――いや、そうだな。好きにするといい」
「言葉を切って発言してしまい申し訳ございません。ですが私の意思を理解していただきたかったのです」
私は大好きだった魔道具研究に邁進するわ!
引っ込み思案な私はもういなくなっていた――。
♢♢♢
「アルベルト様、ここの魔道具内での魔力安定化の中和式についての内容についてどう思いますか?」
部活にきてみんなに挨拶してから、窓辺に座って本を読んでいたアルベルト様に尋ねた。
アルベルト様は顔をあげてやさしげな顔で受け取り、論文のその部分を熟読した。
「なるほど、余った魔力を熱として逃がすのか。効率的でいい発想だな」
「本当ですか? アルベルト様にそういってもらえて安心いたしました」
私は返してもらった論文を眺めた。もっといい論文を書きたいわ。
「君は、随分表情が明るくなったね」
あの衝撃の婚約破棄を経て、引っ込み思案が消えたからかしらね。私はうなずいて笑顔をみせた。
アルベルト様は私を見て少し顔を赤くしたかと思えば、目をキョロキョロさせて言ってきた。
「今度の休日に君の論文の参考になりそうな公聴会があるんだ。一緒に二人でいかないか?」
「はい! ぜひ一緒に行かせてください。でも、参加できる部員たちみんなでいったほうがよくないでしょうか?」
周りにいる部員たちを見回すと、みなさん首をすごい勢いで振っている。あら都合が悪いのかしら?
「皆は都合が悪いみたいだよ」
「そうみたいですね、残念です。それでは寂しいですが二人でいきましょう」
ああ、公聴会……! すごく楽しみだわ。私は心を弾ませて笑みを深くしつつ、少し浮ついた声で答えた。
「……その、それでなんだけどよかったら、公聴会が終わった後はパンケーキを食べにカフェにいかないか?」
そう言ってアルベルト様は目線を少し逸らして言い淀んだ。
「私は甘いものが好きなんだが、男性一人で入るのは躊躇してしまって、ね。一緒に行って食べてくれると嬉しい。ちなみに『子犬が踊るふわふわパンケーキ』なんだが」
――『子犬が踊るふわふわパンケーキ』!! 犬好きな私のためにあるようなパンケーキ。絶対に食べたい……! そしてふわふわなのよね、美味しいに決まっているわ。
何度かダリウス様に流行りのカフェに連れて行ってもらったけどこんなに心躍ったことはないわ。
「はい、喜んでご一緒させてください!」
「か、かわ……ごほん。いやなんでもない」
アルベルト様はさっきよりもますます顔を赤くさせて何かを言いかけた。いつもは理知的で柔和な微笑みのアルベルト様もこんな顔をされるのね。なんだかかわいらしいわ。あら? 今、胸が高鳴ってるかもしれない。
そういえばダリウス様の恋愛マニュアル本に『女はギャップに弱い』ってあったわ。あの本、内容が悪くて低評価だったけれど、間違ってなかったのかしら。解釈次第なのかもしれないわね。
魔導具研究に邁進に固執するのではなく、自分の素直な気持ちを大事にしたいと思った。まだ未来はわからないのだし。
空気の読める優秀な魔道具研究部の諸君は『甘酸っぱいぞ、もっとやれ』という共通認識でニヤニヤしていたのであった。
♢♢♢
――数年後。
ダリウスは実家の風光明媚な領地で文官として、虚ろな状態で仕事をしていた。
イザベルと婚約破棄して以降、ダリウスはボサボサの髪、痩せこけた頬、隈のある目元をして目をぎょろぎょろさせる男となっていた。
領主の息子だと聞いているがあまりの酷い風貌で女性たちから避けられていた。
狭い家と職場を往復するだけの毎日。楽しみなんてなにひとつない。
そんなある日の朝、無気力に家で新聞をチェックしていたダリウスは、驚愕して手を止めた。
『魔道具研究の常識を覆す理論の大発見!』『発見者は侯爵家の補佐もこなす麗しい夫婦』『学生時代から育んだ二人三脚の研究』見たくもない文字や写真がダリウスの目にはいってくる。
写真には微笑んで座っているお腹を大きくした女性とその女性の肩を抱くようにして穏やかな顔でそばにたたずむ男性。二人はお互いを信頼し合っているという顔をしていた。
そこにあった名はかつて婚約者だったイザベルとアルベルトの名だった。
僕はその新聞を強く握りしめて、グシャっとさせた。
自分がドラマ性を作るなんて余計なことをしなければ、イザベルの隣にいたのは僕だった。
なんで『嫉妬は恋のスパイス』なんて馬鹿なことをしたんだ。なんでイザベルの言う通り、本でなくイザベルを信じなかったんだ、なんでなんで……。
なんでっていう言葉しか浮かばない。もっと相手をきちんとみるべきだったと後悔をした。本当に彼女を愛していた。
一筋の涙を流した。あの婚約破棄のときのような泣き方はできない。
後悔はずっと消えないし、一生燻るだろう。
イザベルと再会できた時にみっともない姿はみせたくない。彼女と笑って再会したい。
自分もそろそろ前を向くべきときが来たのかもしれないと思いながら窓ガラスに映った自分を眺めた。
酷い有様だ、まずは改善できるところからだな。……髪を整えてみるか。
そのまま立ち上がって窓をあけた。
太陽の光を浴びたのは久しぶりな気がした。
最後までお読みいただきありがとうございました!
「さあ恋をはじめようか」というパワーワードなセリフからストーリーを膨らませていったら、マニュアル男が爆誕してました。
キザな男性になるはずだったのに不思議なものです。
でもイザベルがお断りなのは、はじめから決めてましたので満足しています!
※ダリウスの終盤の濁点は誤字ではなく仕様です




