語られなかった理由
図書館を出ると、空は夕暮れに染まり始めていた。
昼間よりも人通りが少なく、街全体が一段落したような気配をまとっている。主人公は、無意識のうちに行きつけのバーへ向かっていた。
木の扉を開けると、馴染みの匂いと静かな音楽が迎えてくれる。カウンターに腰を下ろし、いつものカクテルを注文した。グラスの中で氷が触れ合う音が、頭の奥に残っていた緊張を少しずつ溶かしていく。
あの女性の表情が、何度も脳裏に浮かんだ。
言葉ではなく、沈黙で拒まれた感覚。
グラスに口をつけたとき、隣の席から年配の男性たちの話し声が聞こえてきた。
「……図書館も、よく続いてるよな」
「昔の館長がいなきゃ、あそこはもう無くなってた」
思わず耳を澄ませた。
「横領事件のせいで、全部ダメになったみたいに言われたけどさ」
「違うよ。あの人、相当無理してた。街の予算が削られる中で、最後まで抵抗してたんだ」
男性たちは、それ以上深く語らなかった。思い出話の一つとして、自然に別の話題へ移っていく。
何も言えなかった。
昼間に読んだ文章と、今聞いた言葉。そのどちらが正しいのか、分からない。ただ、同時に存在していることだけは確かだった。
数杯飲んで、バーを後にした。
夜風に当たりながら歩く道すがら、図書館の静けさが思い出される。あの場所には、まだ何かが残っている気がした。
翌日も、休日だった。
理由ははっきりしない。ただ、確かめたいという気持ちだけが残っていた。主人公は再び、図書館へ向かった。
館内は昨日よりも人が少なく、いっそう静かだった。受付は相変わらず無人で、AI端末が淡々と稼働している。あの女性の姿は、どこにも見当たらなかった。
迷わず郷土史の棚へ向かう。
昨日手に取った本を戻し、その前後の冊子を抜き取っていく。事件の記事より前のページには、この街が財政難に陥っていた時期の記録があった。公共施設の統廃合が検討され、図書館も文化会館へ転用される予定だったことが、簡潔に書かれている。
だが、計画は実行されていない。
理由は、どこにも記されていなかった。
本を閉じ、周囲を見回す。読書スペースの掲示板に、一枚の張り紙が目に入った。今の市長による地域活性化の取り組みだ。若者を呼び込むイベント、AIを活用した行政改革。明るく前向きな言葉が並んでいる。
再び郷土史の棚へ戻った。今度は、別の本を抜き取る。
前市長の政策をまとめた記録があった。
AI推進計画。そして、その計画を巡り、当時の館長と対立していたことが、短く触れられている。
そこで、手を止めた。
ここから先を追えば、きっと一つの物語が形を持ってしまう。
誰かを悪者にし、誰かを正しい存在として語る物語が。
だが、それをしても、この街の過去は変わらない。
図書館は今もここにあり、人々は静かに本を読み続けている。
本を棚に戻した。
帰り際、アンケート用紙が目に入った。
少し考えてから、ペンを取り、一行だけ記す。
「とても良い図書館です」
それ以上、何も書かなかった。
外に出ると、夜空が広がっていた。ふと見上げると、星がいつもよりはっきりと見える気がする。理由は分からない。ただ、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ静まっているのを感じた。
そのまま歩き出した。




