後日談 色褪せたルージュと消えない債務
午前四時三十分。
耳障りな電子音が、薄い壁のアパートの一室に鳴り響く。
百円ショップで買った安物の目覚まし時計を、私は乱暴に叩いて止めた。
重い瞼をこじ開けると、天井の隅に広がる黒いカビのシミが目に入る。五年。このシミは、私の生活が腐敗していく速度に合わせて、少しずつ、しかし確実に広がっていた。
「……痛い」
布団から体を起こそうとすると、腰に焼けるような痛みが走る。
椎間板ヘルニアの一歩手前だと医者には言われた。だが、手術をする金もなければ、休養を取る時間もない。
私は剣崎玲子。四十七歳。かつては大手商社マンの妻として、都内の戸建てに住み、エステとランチに明け暮れていた女。
今の私は、食品加工工場のパート従業員だ。時給千五十円で、来る日も来る日も弁当のバランを乗せたり、揚げ物を詰めたりしている。
洗面所の鏡の前に立つ。
そこには、老婆のような女が映っていた。
髪はパサつき、白髪が目立つ。かつて毎月美容院でトリートメントをしていた艶やかな髪の面影はない。肌は荒れ、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。
化粧水はドラッグストアで一番安いものを使っているが、砂漠のような私の肌には何の効果もない。
「……なんで、こうなったんだっけ」
毎朝繰り返す、無意味な自問自答。
答えは分かっている。五年前、私が夫である壮一郎を裏切り、部下の北村拓也と不倫をし、あろうことか冤罪事件に加担して彼を追い出したからだ。
その報いは、想像を絶するほど過酷だった。
北村の横領事件に関与していたとして、会社から請求された損害賠償。
北村から受け取っていたプレゼントや現金に対する、税務署からの追徴課税。
そして、壮一郎への慰謝料。
それらの総額は数千万円に及び、家を売った金など一瞬で消えた。
自己破産を申し立てようとしたが、悪質な不法行為に基づく損害賠償義務は免責されない可能性があると弁護士に匙を投げられた。
結局、私は莫大な借金を背負ったまま、利息を返すためだけに生きるマシーンとなったのだ。
冷たい水で顔を洗い、コンビニの袋に入った半額のパンを齧る。
これが朝食だ。
パンを飲み込みながら、ふと視線を部屋の隅に向ける。
そこには、娘の美奈が布団にくるまって寝ていた。
「美奈、起きなさい。今日こそバイト行くんでしょ?」
声をかけるが、布団の塊は動かない。
「うるさいな……昨日の夜中まで配信してたんだよ。寝かせろよババア」
布団の中から、ドスの効いた声が返ってくる。
二十二歳になった美奈は、大学進学を諦めた後、キャバクラやガールズバーを転々とし、今はネットカフェ難民のような生活を経て、この狭いアパートに転がり込んできている。
「Vtuberになって一発当てる」などと言って安い機材を買い込み、夜な夜なパソコンに向かっているが、収益が出ている様子はない。
「あんたねえ、家にお金入れないなら出て行ってよ。私のパート代だけじゃ、家賃と返済で手一杯なのよ」
「はあ? 誰のせいでこんな貧乏生活になったと思ってんの? ママが不倫なんかするからでしょ。私の青春返してよ。パパが生きてたら、今頃私は女子大生で、キラキラした生活してたんだからね」
「……パパは死んでないわよ」
「私の中じゃ死んだも同然なの! てか、ママが殺したようなもんでしょ、社会的にも家庭的にも! 被害者面しないでよね!」
美奈は布団を蹴飛ばし、私を睨みつけた。
その目は、五年前のあの日、壮一郎に向けられていた目と同じだった。
軽蔑と、嫌悪。
自分が一番可愛くて、自分の不幸は全て他人のせい。
そんな醜悪な精神性が、私という母親を通して、娘にも完全に遺伝してしまっている。
「……行ってくるわよ」
これ以上言い争う気力もなく、私は逃げるようにアパートを出た。
外はまだ薄暗く、生ぬるい風が吹いていた。
◇
工場の更衣室は、揚げ油と消毒液の混じった独特の臭いが充満していた。
白衣に着替え、髪の毛一本出さないようにネットを被る。
この姿を鏡で見ると、自分が「個」を失ったただの労働力になったことを痛感させられる。
「おい剣崎、遅いぞ! 今日は唐揚げ五千個だ。ライン止めたら承知しねえぞ」
年下の工場長が怒鳴り声を上げていた。
彼は私が元商社マンの妻だろうが、借金まみれのオバサンだろうが関係ない。ただの使い捨てのコマとして扱ってくる。
「すみません、すぐに……」
ペコペコと頭を下げ、持ち場につく。
ベルトコンベアが動き出し、次々と流れてくる弁当箱に、規定の量の唐揚げを詰めていく。
単純作業。思考停止。
だが、油断すると熱々の油が跳ねて火傷をする。私の腕には、無数の小さな火傷跡があった。
(あの日、あの時……)
作業中、脳内ではいつものように後悔のフィルムが再生される。
もし、北村の誘いに乗らなかったら。
もし、壮一郎の無実を信じていたら。
もし、離婚届なんて突きつけずに、家族として支えていたら。
今の壮一郎はどうしているのだろうか。
風の噂では、マグナ・ステラでさらに出世したと聞く。
一度だけ、ネットニュースで彼の名前を見たことがある。「法務本部の改革」という記事だった。
記事の中の彼は、精悍な顔つきで、自信に満ち溢れていた。私と暮らしていた頃の、疲れた顔をした彼とは別人だった。
彼は私という重荷を下ろし、本来の輝きを取り戻したのだ。
「痛っ!」
指先に激痛が走る。
考え事をしていたせいで、揚げたての唐揚げを素手で触れてしまった。
「何やってんだババア! 商品ダメにする気か!」
工場長の罵声が飛ぶ。
私は涙をこらえ、「すみません」と繰り返した。
指先がジンジンと痛む。だが、心の痛みはその比ではなかった。
私は、あの優しかった夫を、あたたかい家庭を、自らの手でドブに捨て、代わりにこの油まみれの地獄を選んだのだ。
◇
昼休み。
食堂のパイプ椅子に座り、自分で握ってきた梅干しだけのおにぎりを食べる。
周りのパート主婦たちが、ワイドショーを見ながら世間話に花を咲かせていた。
「ねえ見て、この雑誌。マグナ・ステラの特集だって」
一人が広げた週刊誌の表紙を見て、私は心臓が止まりそうになった。
『独占取材! V字回復の立役者、剣崎壮一郎専務が語る企業法務の未来』
そこには、オーダーメイドのスーツを着こなし、高級腕時計を身につけた壮一郎が、穏やかに微笑んでいる写真が掲載されていた。
専務……。
彼はまた昇進していたのか。
法務本部長から、ついに役員の中枢へ。年収は数千万円、いや、億に近いかもしれない。
「カッコいいわよねぇ、この人。独身なんですって」
「えー嘘、こんないい男が? バツイチ?」
「そうそう。なんでも、前の奥さんが酷い人で、部下と浮気して旦那さんを追い出したらしいわよ。冤罪まで着せて」
「うわぁ、最低! バカな女もいたもんねぇ。こんな素敵な旦那さん手放すなんて、一生の不覚じゃない?」
彼女たちは笑い合っていた。
その「バカな女」が、すぐ隣でおにぎりを食べているとも知らずに。
私は俯き、震える手でおにぎりを握り潰した。
耳を塞ぎたい。叫び出したい。
私がその妻だったのよ。私がその隣に座っていたはずなのよ。
あの高級時計も、あのスーツも、私が選んであげられたはずなのに。
「……ごちそうさま」
私は逃げるように席を立ち、ゴミ箱におにぎりを捨てた。
食欲など、とうに失せていた。
その日の帰り道。
私は衝動的に、都心へ向かう電車に乗った。
作業着のような服に、安いスニーカー。場違いなのは分かっていた。
でも、一目だけでいい。生身の彼を見たかった。
もしかしたら、私を見て「やつれたな」と声をかけてくれるかもしれない。
彼の中に、まだ一五年の情が残っているかもしれない。
そんな、虫のいい、腐った妄想が頭をもたげていた。
マグナ・ステラの本社ビル前。
夕暮れ時のオフィス街は、洗練されたビジネスマンたちで溢れていた。
私はビルの植え込みの陰に隠れ、通用口を見つめ続けた。
警備員の視線が痛い。不審者だと思われているのだろう。実際、今の私は不審者そのものだ。
一時間、二時間。
足が棒になりかけた頃、黒塗りのハイヤーがエントランスに横付けされた。
回転扉が開き、数人の取り巻きを引き連れて、彼が現れた。
壮一郎だ。
雑誌で見たよりもずっと若々しく、オーラがあった。
背筋が伸び、歩き方一つにも自信がみなぎっている。
隣には、秘書らしき美しい女性が寄り添い、何やら楽しげに話しかけている。彼はその女性に穏やかな笑みを向け、何か言葉を返した。
その笑顔。
かつて私に向けられていた、しかし私が蔑ろにし、踏みにじった、慈愛に満ちた笑顔。
「……壮一郎」
声が出た。
私はふらふらと植え込みから飛び出した。
「壮一郎! 壮一郎さん!」
周囲の視線が集まる。
薄汚れたオバサンが、大企業の役員に向かって叫んでいる。異様な光景だ。
壮一郎が足を止めた。
彼はゆっくりと顔を向け、私を見た。
目が合った。
心臓が早鐘を打つ。
気づいてくれた。私だ。妻だった玲子だ。
私は必死に笑顔を作ろうとした。頬が引きつり、卑屈な笑みになっていたと思う。
「壮一郎さん……私、玲子よ。会いたかった……」
私は彼に歩み寄ろうとした。
しかし、すぐに屈強な警備員が立ちはだかり、私の行く手を阻んだ。
「下がってください! 近寄らないで!」
「離してよ! 私はこの人の妻だったのよ! 他人じゃないの!」
私が喚くと、壮一郎は眉一つ動かさず、隣の秘書に短く何かを告げた。
そして、私を一瞥した。
その目は、空虚だった。
怒りも、憎しみも、哀れみさえもない。
まるで、道端の石ころや、風景の一部を見るような、完全なる無関心。
彼は私を「認識」しなかったのだ。
私という存在は、彼の記憶から、人生から、完全にデリートされていた。
「……行きましょう」
彼は静かにそう言い、背を向けて車に乗り込んだ。
重厚なドアが閉まる音が、私の人生の終わりの鐘のように響いた。
「待って! 壮一郎! 謝らせて! 私、こんなに反省してるの! お金もなくて、毎日辛いの! 助けてよ! お願いだから!」
走り去るハイヤーのテールランプに向かって、私は絶叫した。
涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになる。
プライドも羞恥心もかなぐり捨てて、私はただの「物乞い」になり下がっていた。
「奥さん、いい加減にしなさいよ。警察呼びますよ」
警備員に腕を掴まれ、私は地面に崩れ落ちた。
アスファルトの冷たさが、膝を通して全身に伝わる。
遠ざかる車の光が、滲んで消えていく。
終わったのだ。
五年前に終わっていたことが、今、改めて死体検分されたに過ぎない。
彼はもう、雲の上の人だ。
そして私は、地を這う虫だ。
二度と交わることはない。
◇
深夜。
私はとぼとぼとアパートに帰った。
部屋に入ると、相変わらずカビ臭い空気が迎えてくれた。
美奈はパソコンに向かい、奇声を上げながらゲーム実況をしている。
「あー! マジふざけんなよ! 死ね!」
画面の中の敵に向かって吐く暴言。それはまるで、私の人生そのものへの罵倒のように聞こえた。
私はキッチンの隅に座り込み、安酒のパックを開けた。
ストローで吸い込むと、アルコールの刺激が胃を焼く。
酔わなければ、眠れない。
眠らなければ、明日が来るのが怖くてたまらない。
テーブルの上に、一通の封筒が置いてあった。
差出人は弁護士事務所。
中身を見なくても分かる。北村の件だ。
あいつは刑務所の中で、何をしているのだろうか。
噂では、刑期を終えて出所したらしいが、多額の賠償金を抱えて行方をくらませたとも聞く。
どうでもいい。あんな男、野垂れ死ねばいい。
でも、私も同じだ。
野垂れ死ぬのを待つだけの人生。
輝かしい未来、優しい夫、愛しい娘。全てを持っていたはずなのに、自分の浅はかな欲望で全てをドブに捨てた。
「……寒い」
酒を飲んでも、体の芯が凍りついたままだ。
私は膝を抱え、嗚咽を漏らした。
テレビも家具もない殺風景な部屋で、私の泣き声だけが虚しく響く。
瞼を閉じると、今日の壮一郎の冷たい目が浮かぶ。
あの目は、一生私を呪い続けるだろう。
「お前はもう、俺の世界には存在しない」と。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰にともなく謝り続ける。
しかし、許してくれる人はもういない。
壁の向こうから「うるせえぞ!」と隣人の怒鳴り声が聞こえ、ドンと壁が叩かれた。
私はビクリと体を縮め、声を押し殺した。
これが、私の選んだ結末。
色褪せたルージュと、消えない債務。
そして、死ぬまで続く孤独な後悔。
夜明けは遠く、私の人生に太陽が昇ることは、もう二度とない。




