後日談 鉄格子の向こうにある地獄
午前六時五十分。
けたたましいチャイムの音が、俺の鼓膜を容赦なく叩いた。
薄汚れた天井。カビ臭い畳の匂い。そして隣で寝ている中年の受刑者の、不快な歯ぎしりの音。
目を開けた瞬間、絶望が鉛のように身体にのしかかってくる。
ここは、俺がかつて見下していた「底辺」の世界。
北関東にある刑務所の一室だ。
「起床! 点呼!」
刑務官の怒鳴り声が廊下に響き渡る。
俺は反射的に飛び起き、布団を畳み始める。角を綺麗に揃えなければ、看守から罵声を浴びせられる。かつて大手商社の法務部で、数百億の契約書をチェックしていたこの指先が、今は安っぽい布団のシワを伸ばすために必死に動いている。
なんという屈辱だ。
俺は北村拓也だぞ。マグナ・ステラのエリート社員で、将来を約束された男だったはずだ。
それがなぜ、番号で呼ばれる家畜のような扱いを受けなければならないんだ。
「おい、新入り。動作がトロいんだよ」
同房の男が、俺の横腹を肘で突いてきた。
傷害罪で服役している、知性の欠片もなさそうな粗暴な男だ。シャバにいた頃なら、視界に入れることすら汚らわしい存在。
だが、ここでは彼の方が「先輩」であり、ヒエラルキーの上位にいる。
「す、すみません……」
俺は卑屈な笑みを浮かべて謝るしかない。
プライド? そんなものは、入所したその日に便器に流した。
ここでは、目立たず、逆らわず、ただ息を潜めて生きることだけが正解なのだ。
点呼を終え、朝食の時間になる。
配られたのは、麦飯と薄い味噌汁、そして僅かな漬物。
冷たくて、味気ない。
これを口に運ぶたび、俺の脳裏には、かつて玲子と食べた高級フレンチの記憶がフラッシュバックする。
あの芳醇な赤ワインの香り。とろけるようなフォアグラの舌触り。そして、目の前で頬を染めて俺を見つめる玲子の、間抜けで幸せそうな顔。
「……クソッ」
思わず悪態をつくと、前の席の男がギロリと睨んできた。俺は慌てて視線を逸らし、冷めた味噌汁を喉に流し込んだ。
あの贅沢な日々は、もう二度と戻ってこない。
俺の人生は、あの日の会議室で――剣崎壮一郎によって、完全に破壊されたのだ。
◇
裁判は、一方的な虐殺だった。
俺は当初、無罪を主張しようとした。「上司のパワハラによるストレスで判断能力を失っていた」「玲子に唆された」と、あらゆる言い訳を用意した。
だが、剣崎が集めた証拠はあまりにも完璧すぎた。
裏帳簿、送金記録、相沢リエとの会話録音、玲子とのMINEの履歴。
それらが一つ一つ法廷で提示されるたび、俺の弁護人は頭を抱え、裁判官の視線は冷ややかになっていった。
傍聴席には、剣崎の姿があった。
彼は一度も感情を露わにせず、ただ淡々と、事務処理を見届けるような目で俺を見ていた。
その目が語っていたのは、怒りですらなかった。
『哀れだな』
そう言われている気がして、俺は法廷で叫び出したくなった。
俺を見下すな。俺はお前より若くて、優秀で、お前の妻を寝取った勝者だったはずなんだ。
なのに、なぜ今、俺がこんな場所で晒し者にされ、お前が涼しい顔で座っているんだ。
判決は、懲役六年。
業務上横領、背任、虚偽告訴、名誉毀損。数々の罪状が積み重なり、実刑判決が下された。
弁済が全くなされていないこと、犯行が悪質で計画的であること、そして反省の色が見られないこと。それらが量刑を重くした。
「反省の色が見られない」だと?
ふざけるな。俺はいつだって被害者だ。
玲子が「もっといい暮らしがしたい」なんて言わなければ、横領なんてしなかった。
剣崎があんなに堅物で隙のない人間でなければ、冤罪なんて仕組まなかった。
俺はただ、少しばかり人生をショートカットして、楽に生きたかっただけだ。
運が悪かっただけなんだ。
◇
午前の刑務作業は、木工工場での単純作業だった。
小さな木片にやすりをかけ続ける。ただそれだけの作業を、延々と四時間繰り返す。
粉塵が舞い、喉がイガイガする。手は荒れ、指紋がすり減っていくようだ。
俺の隣では、詐欺で捕まった男が、慣れた手つきで作業を進めている。
「よう、エリートさん。手が止まってるぞ」
工場担当の刑務官が、背後から声をかけた。
「あ、はい。すみません」
「お前、まだ自分が商社マンだと思ってるのか? ここじゃお前はただの番号だ。ノルマを達成できなきゃ、昼飯抜きだぞ」
刑務官の嘲笑に、俺は唇を噛み締めてやすりを動かした。
商社マン。
その響きが、今は呪いのように俺を苦しめる。
マグナ・ステラ法務部。同期の中でも出世頭だった。上司の信頼も厚く、部下からも慕われていると思っていた。
だが、逮捕された瞬間、全てが手のひらを返したように崩れ去った。
実家の両親からは、逮捕直後に絶縁状が届いた。
『お前のような恥知らずは、我が家の人間ではない。二度と敷居を跨ぐな。死んだものと思うことにする』
厳格な父の筆跡で書かれたその手紙には、俺への愛情など微塵も残っていなかった。
親戚中から後ろ指を指され、田舎にいられなくなった両親は、住み慣れた土地を離れてひっそりと暮らしているらしい。
それもこれも、全部俺のせいだと言うのか。俺だって必死だったんだ。会社のために働いて、ストレスが溜まっていたんだ。家族なら、そこを理解して支えてくれるべきじゃないのか。
友人も、恋人も、誰も面会には来なかった。
唯一来たのは、国選弁護人だけ。それも控訴の手続きが終われば、二度と顔を見せなかった。
俺は世界中から孤立した。
たった一人、狭くて暗い檻の中に放り込まれ、社会のゴミとして処理されたのだ。
昼休み。
作業の手を止め、食堂へ向かう列に並ぶ。
前の受刑者たちが話している内容が耳に入ってきた。
「おい、見たか? 今週の週刊誌」
「あー、あの記事か。マグナ・ステラの」
心臓がドクンと跳ねた。
マグナ・ステラ。俺の古巣。
俺は聞き耳を立てた。
「あの会社、最近すげえ調子いいらしいな。法務本部長のインタビュー載ってたけど、ダンディでカッコよかったぜ」
「剣崎って人だろ? あの人、冤罪被害から復活したっていう伝説の男じゃん。ドラマ化の話もあるらしいぜ」
「すげえよな。それに比べて、あいつを嵌めた部下の男……なんだっけ、名前も忘れたけど、クズだったよな」
「ああ、いたなそんな奴。バカだよなー、あんな優秀な上司を敵に回すなんてさ」
彼らは笑いながら、俺のことを「名前も忘れたクズ」と評した。
俺の顔が熱くなる。恥ずかしさと、どうしようもない悔しさで、視界が歪んだ。
剣崎壮一郎。
奴は今、法務本部長になっているのか。
俺を踏み台にして、さらに出世したというのか。
俺が地獄でやすりをかけている間に、奴はスポットライトを浴びて、称賛されている。
『北村くん、君は詰めが甘いんだよ』
かつて仕事でミスをした時、剣崎に言われた言葉が蘇る。
あの時の奴の、静かで、どこか哀れむような目。
そうだ。奴はずっと俺を見ていた。俺が不正に手を染め、妻に手を出し、破滅へと向かっていく様を、高みから見下ろしていたんだ。
俺は踊らされていたピエロだった。
食欲が失せ、俺は配膳されたパンをちぎって口に押し込んだ。
パサパサで、喉に詰まる。
まるで砂を噛んでいるようだった。
◇
その日の午後、珍しく面会の呼び出しがあった。
弁護士ではない。家族でもない。
一体誰だ?
微かな期待と不安を抱えながら、面会室へと向かう。
もしかしたら、玲子かもしれない。
彼女なら、まだ俺のことを愛しているかもしれない。
「待ってるわ」と涙ながらに言ってくれるかもしれない。そうすれば、この地獄のような日々にも、少しは希望が持てる。
俺は身だしなみを整えようとしたが、作業着の埃を払うことくらいしかできなかった。
アクリル板の向こうに座っていたのは、玲子ではなかった。
スーツを着た、冷徹そうな男。
見覚えがある。会社の顧問弁護士だ。
「……北村拓也ですね」
男は事務的に俺の名前を確認した。
「何の用ですか。会社の手続きなら、もう終わったはずじゃ……」
「今日は、会社としてではなく、債権回収の件で来ました」
弁護士は鞄から書類を取り出し、アクリル板越しに提示した。
「あなたが横領した四千五百万円、および会社に与えた損害に対する賠償請求です。裁判所の判決に基づき、あなたの資産の差し押さえを行いましたが、到底足りません。ご実家のご両親とも交渉しましたが、相続放棄の手続きをされており、回収は不可能でした」
「だ、だから、ない袖は振れないって言ってるだろ! 俺は今、一文無しなんだ!」
俺は声を荒らげた。
金を返せと言われても、刑務所にいる人間に何ができると言うんだ。
「ええ、承知しています。ですが、債務名義は確定しています。あなたがここを出た後も、この借金は消えません。利息も膨らみ続けます。一生かけて、働いて返していただくことになります」
弁護士は無表情に告げた。
一生。
その言葉の重みに、俺は眩暈がした。
ここを出たら終わりではない。ここを出てからが、本当の地獄の始まりなのだ。
まともな職には就けないだろう。日雇い労働で食いつなぎ、その僅かな給料すら差し押さえられる。
死ぬまで、マグナ・ステラの奴隷として生きる未来。
「それと、もう一つ」
弁護士は別の封筒を取り出した。
「これは、個人的にお預かりした手紙です。本来なら渡す義理はないのですが、ご本人の強い希望がありましたので」
封筒には、見覚えのある丸文字で『北村拓也へ』と書かれていた。
玲子の字だ。
俺は震える手で封筒を受け取った。
やはり、玲子は俺を気にかけてくれていたんだ。
きっと励ましの言葉が書いてあるはずだ。
弁護士が立ち去った後、俺は独房に戻り、隠れるようにして手紙を開封した。
便箋が一枚。
そこには、俺の期待を粉々に打ち砕く言葉が並んでいた。
『北村。あんたのせいで私の人生めちゃくちゃよ。
家も追い出されたし、借金取りには追われるし。
全部あんたのせい。
あんたがあんなに脇が甘いから、壮一郎にバレたのよ。
もっと上手くやれなかったの? エリートとか言ってたけど、口だけだったじゃない。
私が今、どんなボロアパートに住んでるか分かる? 毎日カップラーメンよ。エステも行けない。
私の輝かしい未来を返してよ。
あんたなんかと出会わなければよかった。
二度と私の前に現れないで。死んでも呪ってやる。』
読み進めるうちに、手が震え、紙がクシャクシャになった。
愛の言葉など一つもない。
あるのは、責任転嫁と罵倒。
「……ふざけるな」
俺は低い声で唸った。
「ふざけるなよ! お前が! お前が俺を煽ったんじゃないか!」
『もっといいバッグが欲しい』『たまには高いワインが飲みたい』『壮一郎なんてケチな男、別れたい』。
そう言って俺を焚きつけたのは誰だ。
俺はその期待に応えようとして、リスクを冒したんだ。
それなのに、失敗した途端にこの言い草か。
「出会わなければよかった」だと? それはこっちの台詞だ!
お前みたいな金食い虫の女と関わらなければ、俺は今頃、まだマグナ・ステラのオフィスで、コーヒー片手に部下に指示を出していたはずなんだ。
「畜生……畜生ぉぉぉ!!」
俺は手紙を引き裂き、床に叩きつけた。
同房の男が驚いて目を覚まし、「うるせえぞ!」と怒鳴ったが、俺は止まらなかった。
涙が溢れてくる。
悲しみではない。悔しさと、怒りと、どうしようもない惨めさで、胸が張り裂けそうだった。
俺にはもう、何も残っていない。
金も、地位も、名誉も。
家族も、友人も、恋人も。
そして、心の支えにしていた「過去の栄光」さえも、この手紙によって「口だけのエリート」と否定された。
俺は空っぽだ。
ただの、番号で呼ばれる肉の塊だ。
◇
夜。消灯時間が過ぎ、房内は静まり返っていた。
引き裂かれた手紙の破片は、まだ床に散らばったままだ。
俺は硬い布団にくるまり、壁の染みを見つめていた。
窓の外には、鉄格子越しに四角く切り取られた夜空が見える。
月が綺麗だ。
かつて玲子と六本木のホテルから見た月と同じ月だとは、到底思えない。
「……もしも」
無意味だと分かっていても、想像してしまう。
もしもあの日、電車に乗らなかったら。
もしも横領に手を染めなかったら。
もしも剣崎に土下座して謝っていたら。
いや、もっと前だ。
もしも、あの飲み会で玲子と出会わなければ。
俺の人生の分岐点はどこだったのだろう。
どこで間違えたのだろう。
考えても答えは出ない。ただ、戻れない過去への後悔が、潮のように押し寄せては引いていく。
ふと、昼間に聞いた受刑者たちの会話を思い出す。
『剣崎って人、伝説の男じゃん』
『あいつを嵌めた部下の男、クズだったよな』
俺はこれからも、ずっとそう語り継がれるのだろうか。
「優秀な上司を嵌めようとして自滅した愚かな男」という教訓話の登場人物として。
誰も俺の本当の名前など覚えていない。
「北村拓也」という人間は、もうこの世に存在しないも同然なのだ。
これから六年。
長い、あまりにも長い時間だ。
三十五歳で出所して、借金まみれの前科者。
這い上がる術など、どこにもない。
「……寒いな」
俺は体を小さく丸めた。
季節は春に向かっているはずなのに、俺の周りだけが凍りついているように寒かった。
この寒さは、きっと一生消えないだろう。
俺は目を閉じた。
夢の中だけでも、あの栄光の日々に戻りたかった。
高級スーツを着て、タワーマンションから街を見下ろし、「俺は勝者だ」と笑っていたあの日々に。
だが、瞼の裏に浮かぶのは、冷ややかな目で見下ろす剣崎の顔と、鬼のような形相で罵る玲子の顔だけだった。
「う……うぅ……」
嗚咽が漏れる。
俺は枕に顔を押し付け、声を殺して泣いた。
誰にも同情されず、誰にも届かない、敗北者の涙。
鉄格子の向こうで、フクロウが鳴いたような気がした。
夜は深く、そして俺の夜明けは、永遠に来ないことを告げているようだった。




