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冤罪で私を切り捨てた妻と娘へ。法務部長が隠し持っていた『破滅のカード』を切る時、君たちの地獄が始まる  作者: ledled


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第6話 新たな夜明け

季節は巡り、東京の街路樹が鮮やかな緑から、少しずつ色づき始める頃になっていた。

かつて私が絶望と共に連行されたあの朝から、半年近い月日が流れていた。

マグナ・ステラ本社ビルの最上階に近い役員応接室。私は革張りの椅子に深く腰掛け、窓の外に広がるパノラマを見下ろしていた。

眼下を行き交う人々、無数に走る車列。かつては、あの雑踏の中に紛れ込み、誰にも顧みられることのない一つの点に過ぎないと感じていた。あるいは、社会から弾き出された異物として、怯えていた時期もあった。

だが、今の景色は違って見える。


「失礼します。本部長、次回の取締役会で使用するコンプライアンスレポートの最終稿をお持ちしました」


ノックと共に現れたのは、新しく配属された若手の法務部員だった。

彼は緊張した面持ちで書類を差し出す。その視線には、明らかな畏怖と、それ以上の尊敬が宿っていた。


「ああ、そこに置いておいてくれ。後で目を通す」

「はい! よろしくお願いします!」


部下は直立不動で一礼し、足早に退室していった。

私は法務部長から昇進し、現在は法務本部長兼執行役員というポストに就いている。

北村の一件以来、社内の空気は劇的に変わった。不正を許さない厳格な姿勢と、冤罪被害から這い上がり、逆に会社を守り抜いた私の手腕は、伝説のように語られているらしい。

もはや、私を「オッサン」と侮る者はいない。それどころか、社内の引き締め役として、絶対的な権威を持つようになっていた。


私はデスクの上のタブレットを手に取り、弁護士事務所からの報告メールを開いた。

件名は『ネット誹謗中傷に関する発信者情報開示および示談状況のご報告(最終)』。


画面をスクロールすると、数百件に及ぶリストが並んでいる。


『HN:正義の鉄槌』→特定完了、示談金50万円支払い済み。

『HN:商社マン死ね』→特定完了、未成年のため親権者と示談交渉中、謝罪文受領。

『HN:MAGNA_OUT』→特定完了、名誉毀損で訴訟提起中。


あの日、私を社会的に抹殺しようと石を投げつけた顔の見えない群衆たち。彼らは今、現実に特定され、内容証明郵便を受け取り、震え上がっている。

「軽い気持ちだった」「みんなが書いていたから」という言い訳は通用しない。私が法務本部長として培ったノウハウと資金力を投入し、一人残らず追い詰め、代償を支払わせたからだ。

彼らが支払った示談金の総額は、弁護士費用を差し引いても相当な額に上っていた。もちろん、金が目的ではない。これは「責任」という重みを、彼らの人生に刻み込むための教育だ。


「……終わったな」


私はタブレットを置き、熱いコーヒーを一口啜った。

冤罪は完全に晴れた。私の名誉は回復され、むしろ以前よりも強固なものとなった。

北村は懲戒解雇の後、逮捕・起訴され、現在は拘置所で判決を待っている身だ。横領額が巨額であり、さらに組織的な隠蔽工作や私への虚偽告訴も加わっているため、実刑は免れないだろう。執行猶予のつく余地など微塵もない。


会社での戦いは終わった。社会との戦いも終わった。

そして、私にはもう一つ、確認しなければならない「戦果」があった。


          ◇


都心から電車で一時間半ほど離れた、郊外の古びたアパート。

築四十年は下らないであろうその木造建築の一室で、剣崎玲子は腐ったような生ゴミの臭いに顔をしかめながら目を覚ました。

薄い布団から這い出すと、腰に鋭い痛みが走る。

昨夜、深夜の清掃パートで無理な体勢を続けたせいだ。かつてエステで磨き上げていた肌は、安物の洗剤と過労で荒れ果て、指先はひび割れてガサガサになっている。


「……痛い」


呻くように呟き、六畳一間の狭い部屋を見渡す。

散らかった衣服、コンビニ弁当の空き容器、そして督促状の山。

これが、今の彼女の「城」だった。


「ちょっとママ、いつまで寝てんの? 腹減ったんだけど」


襖が乱暴に開けられ、娘の美奈が入ってきた。

髪はボサボサで、プリン状態になっている。かつて毎月美容院に通っていた艶やかな髪の面影はない。着ているのは、毛玉だらけのジャージだ。


「うるさいわね……冷蔵庫にパンがあるでしょ」

「あんなパサパサのパン、食えるわけないじゃん。千円ちょーだいよ。コンビニ行ってくるから」

「そんなお金ないわよ! 今日は家賃の支払い日なの! あんたもバイト代入ったんでしょ? 少しは家に入れなさいよ」


玲子が叫ぶと、美奈は舌打ちをして壁を蹴った。ドン、と薄い壁が揺れ、隣の部屋から「うるせえ!」と怒鳴り声が返ってくる。美奈はビクリと肩を震わせ、小声で毒づいた。


「チッ、貧乏くさい。マジで最悪。なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないわけ?」

「それはこっちの台詞よ! あんたが進学諦めて働くって言ったから、このアパートにしたんじゃない! なのにバイトはすぐ辞めるし、スマホ代ばっかりかかって……」

「だって店長がウザいんだもん! それに、こんな生活になったのはママのせいでしょ! ママがあの北村とかいう詐欺師と浮気したから、パパに捨てられたんじゃん!」

「っ……!」


美奈の言葉が、玲子の胸を鋭くえぐる。

あの日、壮一郎に家を追い出されてからの転落は、坂道を転げ落ちるように早かった。

家はすぐに売却され、手元には一銭も入らなかった。それどころか、北村の横領に関与していた(利益を享受していた)として、会社側から損害賠償請求を受け、さらには税務署から贈与税の追徴課税通知が届いた。

慰謝料、賠償金、追徴課税。その総額は、玲子が一生かかっても返せないほどの金額に膨れ上がっていた。

自己破産をしようにも、不法行為に基づく損害賠償義務は免責されない可能性があると言われ、今は弁護士に相談する費用すら惜しい状況だ。


持っていたブランド品や貴金属は全て売り払ったが、借金の利子に消えただけだった。

親権は玲子が持ったものの、養育費は美奈が成人するまでの最低限度額のみ。それも借金返済に回さざるを得ない。

優雅な専業主婦だった彼女は、今や昼はスーパーのレジ打ち、夜はビルの清掃員として働き詰めの日々を送っている。


「……パパ、今頃どうしてるかな」


美奈がふと、寂しげに呟いた。

彼女の手にあるスマホの画面には、ニュースサイトの記事が表示されている。

『マグナ・ステラ、過去最高益を更新。法務部門の改革が奏功』

記事の中には、壮一郎の名前も記載されていた。


「執行役員だってさ。年収、いくらくらいなんだろ。二千万とか? 三千万とか?」

「やめて……見せないで……」


玲子は耳を塞いだ。

逃した魚の大きさ、失った幸福の大きさに押し潰されそうになるからだ。

もし、あの日。

壮一郎が冤罪を訴えた時、信じてあげていれば。

もし、北村の甘い言葉に乗らず、家族を大切にしていれば。

今頃は、まだあの広い家で、何不自由ない生活を送っていたはずだ。壮一郎の出世を共に祝い、老後は安泰だったはずなのだ。


「ねえママ、パパに連絡してみなよ」


美奈が提案してきた。その目には、卑しい欲望の色が宿っている。


「もう半年も経ってるし、パパも寂しくなってるんじゃない? 私たちがいなくて。謝れば、許してくれるかもしれないじゃん。ほら、親子なんだし」

「で、でも……着信拒否されてるし……」

「MINEなら送れるかもよ? 新しいアカウント作ってさ。泣き落とししなよ。ママ、そういうの得意じゃん」


娘の言葉に、玲子の心が揺れた。

そうだ。壮一郎は優しい人だった。一五年間も連れ添った情があるはずだ。

今のこの惨めな姿を見せれば、同情してくれるかもしれない。

「悪かった、戻ってこい」と言ってくれるかもしれない。

わずかな、あまりにも虫のいい希望が、玲子の中に芽生えた。


「……そうね。やってみる価値はあるわね」


玲子は震える指でスマホを操作し、新しいMINEアカウントを作成した。

プロフィール画像は、昔家族で撮った、まだ幸せだった頃の写真にした。

そして、推敲に推敲を重ねたメッセージを打ち込んだ。


『壮一郎さん、お久しぶりです。玲子です。

突然の連絡ごめんなさい。あれからずっと反省しています。

北村くんに騙されていたとはいえ、あなたを傷つけてしまったこと、本当に後悔しています。

今、私と美奈はとても苦しい生活をしています。美奈は進学も諦めました。あの子の未来を思うと、不憫でなりません。

一度だけでいいので、会って話せませんか?

あなたの好きなハンバーグを作って待っています。

家族として、もう一度やり直したいです。愛しています。』


送信ボタンを押す。

シュッ、という音と共にメッセージが飛んでいく。

玲子と美奈は、固唾を飲んで画面を見つめた。

既読がつくのを待つ数分間が、永遠のように長く感じられた。


          ◇


夜の帳が下りた西麻布。

看板のない雑居ビルの地下にある会員制バー『ノクターン』は、選ばれた大人だけが立ち入ることのできる隠れ家だ。

ジャズピアノの旋律が静かに流れる店内。琥珀色の照明が、グラスの中の氷を美しく照らしている。


私はカウンターの隅で、二十五年物のシングルモルトを揺らしていた。

隣には、興信所の冴島がいる。彼もまた、バーボンを片手にリラックスした表情を浮かべていた。


「……で、北村の求刑は懲役六年か。妥当なところだな」


冴島が氷をカランと鳴らして言った。


「ああ。弁済が全くなされていないからな。情状酌量の余地はない。あいつの実家も勘当したそうだ。出所したところで、待っているのは地獄だろう」


私は静かに答えた。

北村に対する感情は、もう怒りすら湧いてこない。ただの処理済みの案件だ。


「しっかし、お前も人が悪いよな。あいつが泣きついてきた時、示談の条件として『全額一括返済』を突きつけるなんてよ。できるわけないのにな」

「当然だ。一円たりともまける理由がない。一生かけて償わせる」


グラスを傾け、芳醇な香りを鼻孔に満たす。

この半年、走り続けてきた。

家族を切り捨て、会社を正し、自分の尊厳を取り戻すために。

その結果が、今のこの静寂だ。

孤独かもしれない。だが、以前のような「家族に搾取される孤独」ではない。

自分の意志で選び取った、高貴な孤独だ。


「それにしても、モテるようになったんじゃないか? 執行役員様」


冴島がニヤニヤしながら私のスマホを指差した。

カウンターの上に置いたスマホの画面が明るくなり、通知が表示されていた。

差出人は知らないアカウントだが、アイコンは見覚えのある写真だ。美奈がまだ小学生だった頃の、家族旅行の写真。

そして冒頭の文章。『壮一郎さん、お久しぶりです。玲子です』。


「……亡霊からの手紙か」


私は溜息交じりにスマホを手に取った。

メッセージを開く。長文の謝罪、生活苦の訴え、美奈をダシにした同情作戦、そして「愛しています」という白々しい結び。

全てが予想通りであり、全てが不快だった。

彼女はまだ、私がかつての「都合の良い夫」だと思っているのだろうか。

「ハンバーグを作って待っています」だと?

私の好物はハンバーグではない。それは美奈の好物だ。一五年間一緒にいて、私の好物すら覚えていなかったことの証明でしかない。


「元奥さんか?」

「ああ。金の無心だよ。復縁というオブラートに包んでいるがね」


私は冴島に画面を見せることなく、淡々と操作した。

返信はしない。

既読をつける価値すらない。

だが、このまま通知が来るのも鬱陶しい。


指先一つで、彼女の存在をデジタル空間から抹消する。

『ブロック』。そして『削除』。

確認のポップアップが出る。『このユーザーをブロックしますか?』

躊躇いはなかった。


「はい」、と心の中で答え、画面をタップする。

リストから彼女の名前が消えた。

これで、本当に終わりだ。彼女の声が私に届くことは、二度とない。


「冷たいねえ。少しは揺らいだりしないのか?」

「揺らぐ? 何をだ。腐った果実をもう一度口にする趣味はない」


私はスマホを伏せ、グラスを持ち上げた。


「俺は自由になったんだ、冴島。金も、時間も、未来も。全て俺のものだ」

「違いない。……乾杯するか」

「ああ。新たな夜明けに」


カチン、とグラスが触れ合う澄んだ音が、店内に響いた。

ウィスキーの熱が喉を通り、胃の腑に落ちていく。それは、勝利の味だった。


          ◇


一時間後、私は店を出た。

深夜の空気はひんやりとしていて、アルコールで火照った頬に心地よかった。

見上げれば、ビルの谷間に月が輝いている。

冴島とは店先で別れた。彼は次の仕事があると言って、夜の街に消えていった。


私は一人、大通りを歩き出した。

タクシーを拾おうかとも思ったが、もう少しこの風を感じていたかった。


スマホにはもう通知はない。

かつて私の心を蝕んでいた「義務感」も「責任感」も、今はもうない。

明日も仕事がある。会社に行けば、難解な案件や重要な決断が待っているだろう。

だが、それは苦痛ではない。自分の能力を存分に発揮できるフィールドだ。


ふと、遠くでサイレンの音がした。

どこかで誰かが、人生の歯車を狂わせているのかもしれない。

かつての私のように。

あるいは、今の玲子や北村のように。


アパートの一室で、既読がつかないスマホを握りしめ、絶望に暮れているであろう元妻と娘の姿が、一瞬だけ脳裏をよぎった。

「なんで既読にならないのよ!」「パパに見捨てられた!」と泣き喚く声が聞こえるような気がした。


だが、私は立ち止まらなかった。

後ろを振り向く必要はない。

彼女たちが選んだ道だ。その先に待っているのが茨の道であろうと、断崖絶壁であろうと、私には関係のないことだ。

因果応報。

種を蒔いた者が、その果実を刈り取る。ただそれだけの、宇宙の法則だ。


私はジャケットの襟を正し、大きく息を吸い込んだ。

肺いっぱいに満ちる、自由の空気。

ポケットの中で、私は自宅の鍵――今度は一人暮らし用の、都心の眺めの良いマンションのカードキー――を握りしめた。


「さて……」


私は口元に微かな笑みを浮かべ、歩調を早めた。

夜はまだ深いが、私の心には既に眩しいほどの朝日が昇っていた。

人生はこれからだ。

法務部長・剣崎壮一郎の、本当の物語はここから始まるのだ。


ネオンサインが煌めく東京の街を、私は確かな足取りで、未来へと向かって歩き出していった。

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