第5話 家庭での審判(玲子へのざまぁ)
夕暮れの空は、血が滲んだように赤黒く染まっていた。
会社での「処刑」を終え、私はタクシーで自宅へと戻った。車を降りると、いつもの閑静な住宅街が広がっている。どこかの家からカレーの匂いが漂い、子供のはしゃぐ声が聞こえる。
一見すると平和な日常だ。だが、私の家の周りだけは、目に見えない重苦しい空気が澱んでいるように感じられた。
玄関のドアを開ける。
「ただいま」とは言わなかった。もう、その言葉を向ける相手はこの家にはいない。
靴を脱ぎ、リビングへと向かう。ドアの向こうからは、玲子の苛立った声が漏れ聞こえてきた。
「もう、拓也ったらどうして電話に出ないのよ……。MINEも既読にならないし」
リビングに入ると、玲子はソファに座り、スマホを耳に当てていた。何度も発信しては切る、という動作を繰り返しているようだ。その表情には焦燥感が滲んでいる。
ダイニングテーブルでは、美奈がスナック菓子をボリボリと食べながら、タブレットで動画を見ていた。
私が部屋に入ったことに気づくと、玲子はスマホを下げ、露骨に不機嫌な顔を向けた。
「なによ、帰ってたの。音くらい立てなさいよ、気味が悪い」
「……おかえり、とは言わないんだな」
「は? 何言ってるの。これから他人になる人に、挨拶なんて必要ないでしょ。それより、会社はどうなったの? 退職金の話、ちゃんとまとめてきたんでしょうね」
玲子は腕を組み、私を値踏みするように見た。
彼女の頭の中は、金のことしかない。私が今日、会社でどんな目に遭ったか、懲戒解雇を免れたのかどうか、そんなことには興味がないのだ。ただ「金が入るか否か」、それだけが彼女の関心事だ。
「ああ、話はついてきた。金の問題も、これからの身の振り方も、全て決まったよ」
私は淡々と答え、持っていた鞄をテーブルの上に置いた。
ドサリ、という重い音が響く。
美奈が鬱陶しそうに顔を上げた。
「ねえ、デカい音立てないでよ。今いいとこなんだから」
「美奈、お前も少し聞け。大事な話だ」
「えー、ヤダ。パパの話とかどうせ説教でしょ? ママだけ聞いてればいいじゃん」
美奈はイヤホンを耳に押し込もうとする。
私はその手を掴むことなく、静かにリモコンを手に取り、リビングの大型テレビの電源を入れた。
「何すんのよ!」
美奈が抗議の声を上げるが、私は無視してチャンネルをニュース番組に合わせた。
ちょうど、トップニュースが報じられているところだった。
『――次のニュースです。大手総合商社「マグナ・ステラ」の社員が、数千万円を着服した疑いで逮捕されました。業務上横領の疑いで逮捕されたのは、同社法務部所属の北村拓也容疑者(29)です』
画面には、ブルーシートに囲まれて警察署へと連行される男の姿が映し出された。
顔は俯いていてよく見えないが、その体格、髪型、そして着ているスーツ。
見間違えるはずがない。
北村拓也だ。
「え……?」
玲子の動きが止まった。
彼女はスマホを取り落としそうになりながら、画面を凝視した。
口が半開きになり、目は限界まで見開かれている。
『警察の調べによりますと、北村容疑者は架空のコンサルティング会社を利用し、約一年半にわたって会社の資金およそ四千五百万円を横領していた疑いが持たれています。また、同社の上司に対する痴漢冤罪事件を画策した疑いでも捜査が進められており……』
キャスターの無機質な声が、リビングに響き渡る。
「痴漢冤罪事件を画策」。その言葉が流れた瞬間、美奈も食べる手を止め、画面と私の顔を交互に見た。
「嘘……嘘よ……」
玲子が震える声で呟いた。
彼女はふらふらとテレビの前に歩み寄り、画面の中の北村に手を伸ばすような仕っ草をした。
「拓也が……逮捕? 横領? ……冤罪を画策?」
「見ての通りだ、玲子」
私は背後から声をかけた。
その声は、自分でも驚くほど冷徹だった。
「北村は終わったよ。今日、私が会社の会議で全ての証拠を突きつけた。横領も、私への痴漢冤罪も、全て彼が仕組んだことだと証明されたんだ。彼は今頃、冷たい取調室で泣き喚いているだろう」
玲子はバッと振り返った。その顔は蒼白で、唇は血の気が引いて紫色になっている。
「あ、あなたが……あなたがやったの!?」
「やった、ではない。法務部長として、不正を正しただけだ。当然の報いだと思わないか?」
「ひどい! ひどすぎるわ! 拓也くんは将来有望なエリートだったのよ!? それを、あなたが嫉妬で潰したんだわ!」
玲子は半狂乱になって私に掴みかかろうとした。
私はそれを片手で軽く払い除けた。
彼女はまだ状況を理解していない。北村を擁護することが、自分にとってどれほど致命的か分かっていないのだ。
「嫉妬? 笑わせるな。犯罪者に嫉妬する人間がどこにいる」
私はテーブルの上の鞄を開き、中から黒いファイルを取り出した。
バサリと、数枚の写真と書類をテーブルに広げる。
そこには、ラブホテルから出てくる玲子と北村の写真、二人の生々しいMINEのやり取りの履歴、そして北村の口座から引き出された金で買われたブランド品のリストが並んでいた。
「これを見ろ」
玲子の視線がテーブルに落ちる。
自分の恥ずかしい姿が写った写真を見て、彼女は息を呑んだ。
「あ……これ……」
「一年半前から知っていた。お前たちが不倫関係にあることも、北村が横領した金で豪遊していることもな。このバッグも、先月買った時計も、全て盗まれた会社の金で買ったものだ」
私は玲子の腕にある高級腕時計を指差した。
彼女は慌てて腕を隠そうとしたが、もう遅い。
「い、嫌だ……盗まれた金だなんて、私は知らなかった! 拓也くんが、投資で儲けたって言ってたから……」
「知らなかったで済むと思っているのか? 税務署や警察はそう甘くないぞ。お前は横領された金と知りながら、あるいは未必の故意で、継続的に利益を享受していた。場合によっては共犯、あるいは盗品等関与罪に問われる可能性もある」
「そ、そんな……犯罪なんて……」
玲子はガタガタと震え出した。
「犯罪者の妻」になることをあれほど嫌っていた彼女が、今や自分自身が「犯罪者の情婦」であり、共犯の疑いをかけられる立場に転落したのだ。皮肉と言うほかない。
「それに、税金の問題もある。北村から受け取ったプレゼントや現金、総額で一千万円は超えるだろう。これには贈与税がかかる。当然、申告していないだろうから、無申告加算税や延滞税もセットで請求されるはずだ。数百万単位の追徴課税が来るぞ」
「払えないわよ! そんなお金、あるわけないじゃない!」
玲子は悲鳴を上げた。
彼女の貯金など、たかが知れている。私の稼ぎを湯水のように使ってきたのだから。
「払えないなら、差し押さえだ。この家にあるブランド品、貴金属、全て没収されるだろうな」
「嫌! 絶対に嫌! これは私のものよ!」
玲子は子供のように地団駄を踏んだ。
そこへ、今まで黙っていた美奈がおずおずと口を開いた。
「ねえ……パパ。じゃあ、パパは無実だったの?」
美奈の顔色は悪い。状況が飲み込めてきたようだ。
母親の不倫相手が犯罪者で、母親もそれに巻き込まれている。そして、自分が「キモい」と切り捨てた父親が、実は被害者であり、正義の側に立っていたこと。
「ああ、無実だ。警察からも謝罪があったし、会社からも正式に名誉回復のプレスリリースが出る。Twotterでの誹謗中傷に対しても、これから開示請求を行って徹底的に訴えるつもりだ」
私は美奈を真っ直ぐに見据えた。
「お前が心配していた『学校での立場』だが、これからは『冤罪被害者の娘』として同情されるかもしれないな。ただし、母親が『横領犯の愛人』だったという事実が広まれば、また別の意味で注目されるだろうが」
美奈は顔を引きつらせた。
「そ、そんなの最悪じゃん……。ママ、どうすんのこれ! ママのせいで私まで白い目で見られるじゃん!」
美奈の矛先は、瞬時に母親へと向いた。
「ママが北村さんと浮気なんかするから! しかも犯罪者の金とか、マジでありえないんだけど! 私の人生どうしてくれんの!?」
「うるさいわね! ママだって被害者なのよ! 騙されてたのよ!」
「騙される方がバカなんじゃん! パパがいるのに浮気とか、キモいのはママの方だったんじゃん!」
醜い罵り合いが始まった。
昨日まで私を攻撃するために結託していた二人が、今や敵同士となって噛みつき合っている。
私は冷めた目でその光景を眺めていた。
これが、私が守ろうとしてきた家族の実態だ。
絆などない。あるのは保身と利害だけだ。
「……さて」
私は声を張り上げ、二人の喧嘩を遮った。
「今後の話をしよう。玲子、離婚届はまだ出していないな?」
玲子はハッとして私を見た。
「だ、出してないわ! ね、ねえ壮一郎、考え直さない? ほら、北村くんのことだって、私は本当に知らなかったの。出来心だったのよ。あなたが忙しくて寂しかったから……つい魔が差して……」
玲子は私の腕にすがりついてきた。
涙を流し、上目遣いで私を見る。かつてなら、この涙に絆されて許してしまったかもしれない。
だが、今の私には、その涙が爬虫類の粘液のようにしか感じられなかった。
「離せ」
私は冷たく彼女の手を振り払った。
玲子は床に尻餅をついた。
「出来心? 一年半も続く出来心があるか。それに、お前は私の冤罪を知った時、何と言った? 『火のない所に煙は立たない』『私の人生の汚点』。そう言い捨てて、離婚届を突きつけたのはお前だ」
「そ、それは……気が動転してて……本心じゃないわ!」
「いいや、あれが本心だ。人間、窮地に陥った時にこそ本性が出る。お前は私を信じず、切り捨てた。それが全てだ」
私はテーブルの上の離婚届――玲子が書いて渡してきたもの――を手に取った。
「この離婚届は、私が預かっておく。ただし、条件が変わる」
「じょ、条件?」
「ああ。以前は財産分与だのと言っていたが、今回の件で状況は一変した。お前は有責配偶者だ。不貞行為に加え、私の社会的信用を毀損する行為に加担した。よって、慰謝料を請求する」
「い、慰謝料……?」
「相場なら三百万程度だが、悪質性を考慮すればもっといくだろう。それに加えて、北村の横領事件に関連して会社からお前に損害賠償請求が行く可能性も高い。私が法務部長として、その辺りは徹底的にやらせてもらう」
玲子の顔が絶望に染まる。
金を得るどころか、莫大な借金を背負うことになる未来。
優雅な専業主婦生活から、借金取りに追われる極貧生活への転落。
「待って、待ってよ壮一郎! お願い、許して! 私たち家族じゃない! 十五年間も一緒にいたじゃない! 美奈だっているのよ!?」
玲子は床に頭を擦り付けて懇願した。
プライドの高い彼女が、なりふり構わず慈悲を乞うている。
だが、私の心はピクリとも動かなかった。
「家族? お前が壊したんだろ」
私は短く告げ、美奈の方を向いた。
美奈は怯えたような目で私を見ている。
「パ、パパ……」
美奈は媚びるような笑みを浮かべ、私に擦り寄ってきた。
「私、パパのこと信じてたよ? 本当だよ? ママが怖くて言えなかっただけだもん。ね、パパ? 私、パパと一緒に暮らしたいな。ママとは暮らせないよ、こんなことになったら」
美奈は玲子を見捨て、私という「安全な船」に乗り移ろうとしている。
その計算高さは、まさに玲子譲りだ。
だが、甘い。
「美奈。お前も言ったよな。『パパのせいで学校行けない』『キモい』『金づる』と」
「そ、それは……冗談だよ! 本気なわけないじゃん!」
「Twotterで私の悪口を拡散していたアカウント、あれはお前の裏垢だな?」
「え……」
美奈の顔が凍りついた。
「調査済みだ。自分の父親をネタにして、インプレッション稼ぎをしていた。『親父が逮捕されて草』『慰謝料で焼肉行きたい』。……全部読んだよ」
「ち、違う、あれは……友達に頼まれて……」
「言い訳はいい。お前ももう十七歳だ。善悪の判断くらいつくだろう。お前は私を父親として見ず、ATM兼サンドバッグとして扱った。その対価を払う時が来たんだ」
「パパ、やだ……捨てないで……私、大学行きたい……留学もしたいの……」
美奈は涙を流して私の服を掴んだ。
だが、そこにあるのは「夢を絶たれる恐怖」であって、「父親を失う悲しみ」ではない。
「大学? 自分で働いて行けばいい。奨学金という制度もある。私の金でお前を養う義務は、もう感じない」
私は美奈の手を外し、一歩下がった。
二人の女が、リビングの床で泣き崩れている。
かつて愛した妻と娘。
だが今は、ただの醜い他人に見えた。
「私はこの家を出て行く」
私が告げると、玲子が顔を上げた。
「えっ……? じゃ、じゃあ、この家は私たちが住んでいいの?」
一縷の望みにすがるような目。
どこまでも図々しい女だ。
「勘違いするな。この家は売却する」
「ば、売却!?」
「ああ。私の名義だからな。ローンの残債もあるし、慰謝料代わりにお前にくれてやる義理もない。即刻売りに出して、清算する。来週中には査定業者が来るから、それまでに出て行く準備をしておけ」
「そんな! 住む場所がなくなるじゃない!」
「実家に帰るなり、アパートを借りるなり、好きにしろ。北村が出所するのを待って、一緒に暮らすのもいいかもしれないな。まあ、彼が出てくるのは数年後だろうが」
「ひどい……悪魔よ……」
玲子は怨嗟の声を漏らした。
悪魔。そうかもしれない。だが、私を悪魔に変えたのは、お前たちだ。
「荷物はまとめてある。今夜からホテルに泊まるから、もう戻らない」
私はテーブルの上の離婚届と、証拠ファイルを鞄に戻した。
もう、この家に用はない。
「待って! 行かないで! お願い!」
「パパ! パパぁ!」
背後から追いすがる二人の声。
悲鳴にも似た絶叫。
だが、私は一度も振り返らなかった。
玄関を出て、重い鉄の扉を閉める。
カチャン、と鍵がかかる音が、私の過去との完全なる決別を告げた。
外はすっかり夜になっていた。
夜風が熱った頬に心地よい。
空を見上げると、星が輝いていた。
あんなに星が綺麗だったことに、私は今の今まで気づかなかった。
重荷を下ろした背中が、羽が生えたように軽い。
スマホを取り出すと、冴島からMINEが入っていた。
『お疲れ。北村の件、ネットでも大盛り上がりだぞ。「ざまぁwww」の大合唱だ。お前の名誉も回復されつつある』
私は小さく笑った。
ネットの掌返しも早いが、まあ、悪くない気分だ。
「……さて」
私はタクシーを拾うために大通りへと歩き出した。
これから始まるのは、誰のためでもない、私自身のための人生だ。
まずは一人で、最高に美味い酒を飲みに行こう。
誰にも邪魔されず、誰の顔色も窺わず。
それが、今の私にできる最高の贅沢だ。
背後の家からは、まだ微かに泣き声が聞こえているような気がした。
だが、それはもう、遠い世界の出来事だった。
私は一歩一歩、確かな足取りで、新しい夜明けへと歩き出した。




