第3話 反撃の狼煙
翌朝、リビングの空気は澱んでいた。
昨夜、玲子は結局帰ってこなかった。朝帰りだ。
私がコーヒーを淹れていると、玄関のドアが乱暴に開く音がして、玲子が上機嫌な足取りで入ってきた。その首筋には、ファンデーションで隠しきれていない赤い痕が残っている。北村と会っていたことは明白だった。
「あら、まだいたの? 早起きね」
玲子は私を見るなり、鼻で笑った。その手には、昨日私がサインした離婚届が入った茶封筒が握られている。
「これから役所に行ってくるわ。あなたも早く荷物をまとめてちょうだいね。今夜には北村君……じゃなくて、業者を呼んで家具の配置を変えるつもりだから」
彼女は既に、この家から私の存在を完全に消去するつもりでいる。新しい男を招き入れるための準備に余念がない。
私はコーヒーカップを置き、努めて冷静な声で彼女を呼び止めた。
「玲子、待ってくれ。その離婚届の提出だが、数日待ってもらえないか」
「はあ? 何言ってるの。往生際が悪いわね。サインしたじゃない」
玲子は眉を吊り上げ、ヒステリックに叫びそうになる。私はすかさず、彼女が最も食いつくであろう餌を撒いた。
「金の話だ」
その一言で、玲子の表情がピタリと止まる。
「……金?」
「ああ。今、私は会社で懲戒解雇の審議にかけられている。もし懲戒解雇になれば、退職金はゼロか、出ても寸志程度だ。だが、もし私が自主退職という形で会社と折り合いをつけることができれば、数千万円の退職金が満額支払われる」
私は嘘をついていない。理論上は正しい。ただし、私が狙っている結末は全く違うものだが。
「離婚の財産分与は、婚姻期間中に築いた資産が対象だ。退職金もその一部に含まれる。今すぐ離婚届を出して私が『懲戒解雇された無職の男』になれば、君が受け取れる金は激減する。だが、私が会社と交渉し、退職金を確保してから離婚すれば……君の手取りは桁違いに増えるはずだ」
玲子の目が、計算機のディスプレイのように動き始めた。
彼女にとって、私はもう夫ではなくATMだ。そのATMから最後にどれだけの現金を引き出せるか、それだけが彼女の関心事なのだ。
数秒の沈黙の後、玲子は封筒をバッグに戻した。
「……そうね。確かに、みすみす損をするのは馬鹿らしいわ」
彼女は腕を組み、上から目線で私を見下ろした。
「分かったわ。猶予をあげる。でも、長引かせるのは無しよ。来週いっぱいが限度だからね。それまでに会社とカタをつけて、お金を確保してちょうだい」
「ああ、約束する。会社との決着は、数日中につける」
「期待してるわよ、元・法務部長さん」
玲子は機嫌を直し、鼻歌交じりに二階へ上がっていった。シャワーを浴びて、また出かけるつもりなのだろう。
私は小さく息を吐いた。
これで時間は稼げた。
離婚が成立する前に、北村と玲子の不貞、そして北村の犯罪を公にする必要がある。そうすることで、有責配偶者としての責任を彼女に負わせ、財産分与どころか、慰謝料を請求する側に回るためだ。
この離婚届は、彼女が墓穴を掘るためのスコップになる。
◇
午後、私は帽子を目深に被り、マスクをして自宅を出た。
謹慎中ではあるが、どうしても会わなければならない人物がいる。
向かった先は、都内の雑居ビルにある一室。『冴島総合調査事務所』。
大学時代の同期であり、かつては警視庁の公安にいた冴島という男が経営している興信所だ。私は一年半前から彼に調査を依頼し、妻の不倫に関する証拠を集めさせていた。
「よお、時の人。大変だったな」
事務所に入ると、紫煙の漂う部屋の奥で、冴島がニヤリと笑って出迎えた。
無精髭を生やし、だらしない格好をしているが、その眼光は鋭い。彼は私の現状を面白がっているようだが、仕事に関しては超一流だ。
「茶化すな。こっちは人生がかかってるんだ」
「分かってるよ。お前がただで転ぶようなタマじゃないこともな。……ほらよ、頼まれてた『追加調査』の結果だ」
冴島はデスクの引き出しから、分厚い黒いファイルを放り投げた。
ドサリ、と重い音がする。
これこそが、私が待ち望んでいた最後のピースだ。
「結論から言うと、お前の読み通りだ。今回の痴漢騒動、完全に黒だぜ」
冴島はファイルを開き、数枚の写真を指差した。
「この女、見覚えあるか?」
写真には、派手なメイクをした若い女性が写っている。私に痴漢の濡れ衣を着せた、あの「被害者」の女だ。
「ああ、忘れるわけがない」
「こいつの本名は相沢リエ。六本木のキャバクラに勤めてる。そしてな、この写真を見てみろ」
次に示された写真を見て、私の血管に冷たい怒りが走った。
そこには、路地裏で相沢リエに分厚い封筒を手渡している男の姿があった。
北村拓也だ。
撮影された日時は、事件の前日になっている。
「北村は、自分の愛人であるお前の奥さん……玲子さんとの関係を続けるために、邪魔なお前を社会的に抹殺しようとした。相沢リエには50万円で示談金目的の美人局を持ちかけたが、実際は痴漢で逮捕させてお前の地位を奪うのが目的だったってわけだ。この写真は、俺の部下が張り込んで撮った決定的瞬間だ」
「……やはり、そうか」
予想はしていた。だが、実際に証拠を目の当たりにすると、吐き気がするほどの悪意に目眩がした。
部下として可愛がっていた男が、私の妻を寝取り、会社の金を盗み、さらには冤罪まで仕組んで私を地獄に落としたのだ。
これは、もはや人間としての許容範囲を超えている。
「それだけじゃないぞ。北村の横領についても、裏が取れた」
冴島は別のページをめくった。そこには、北村名義の隠し口座の入出金記録と、架空請求書がコピーされていた。
「奴さん、かなり杜撰だな。取引先の架空会社を作って、そこへの外注費として毎月数百万をプールしてやがる。総額で言えば、この一年で四千万円近く抜いてるぞ。その金のほとんどが、女遊びとギャンブル、そしてお前の奥さんへの貢ぎ物に消えてる」
「四千万……。監査部は何をやっていたんだ」
「お前が信頼して任せてたから、ノーチェックだったんだろ。灯台下暗しってやつだ」
冴島の言葉が胸に刺さる。
私の管理責任は免れない。だが、今はそれを悔やんでいる時間はない。この事実を武器に変え、彼らを叩き潰すことだけが、私に残された使命だ。
「ありがとう、冴島。これで十分だ。これで奴らを法廷に引きずり出せる」
「法廷? 生温いこと言うなよ。お前がやろうとしてるのは、そんな上品なもんじゃないだろ」
冴島は煙草を灰皿に押し付け、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「法務のスペシャリストが、法の抜け穴を知り尽くした上で、全力で相手を追い詰める。……『倍返し』の準備は整ったって顔をしてるぜ、お前」
私は思わず口元を緩めた。
鏡を見なくても分かる。今の私は、きっと酷薄な笑みを浮かべているはずだ。
「ああ。倍返しじゃない。十倍にして返してやるさ」
私はファイルを受け取り、立ち上がった。
その重みは、私の怒りの重みであり、同時にこれから始まる逆転劇への確信の重みでもあった。
報酬を弾むことを約束し、私は事務所を後にした。
◇
その頃、都内の高級フレンチレストランでは、北村拓也と剣崎玲子が昼下がりのランチを楽しんでいた。
窓際の席からは、東京の街並みが一望できる。
テーブルには、一人三万円は下らないコース料理と、ヴィンテージのワインが並んでいた。
「乾杯、僕たちの未来に」
北村がキザな仕草でグラスを掲げる。
玲子は頬を紅潮させ、うっとりとした表情でグラスを合わせた。
「ああ、美味しい。こんな贅沢、久しぶりだわ。あの家じゃ、壮一郎がうるさいから高いワインなんて飲めなかったもの」
「あいつも今頃、家でカップラーメンでも啜ってるんじゃないですか? 哀れなもんです」
北村はフォークで肉を突き刺し、小馬鹿にしたように笑った。
「でも、驚いたよ。まさかあんなにあっさり離婚届にサインするなんて。もっと粘るかと思ったけど」
「プライドだけは高い人だからね。私に捨てられたことを認めるのが悔しくて、強がってるのよ。それに、退職金が入るまでは籍を入れておくほうが得だって、向こうから提案してきたの。馬鹿よね、自分が搾取されるとも気づかないで」
玲子は壮一郎の提案を、自分の都合の良いように解釈していた。
北村もまた、慢心しきっていた。
「退職金か。部長なら数千万は出るでしょうね。それを慰謝料としてふんだくって、その金で二人でハワイでも行きますか」
「素敵! 絶対に行きたい!」
玲子は少女のように目を輝かせた。
彼女にとって、北村は若くて刺激的で、そして無限にお金を出してくれる魔法使いのような存在だった。その金が、夫の会社から横領された犯罪によるものだとは知らずに、あるいは薄々勘付いていても見ないふりをして、享楽に溺れていた。
「会社の方も、うまくいってるの?」
「バッチリですよ。部長がいなくなった穴は、僕が埋めることになってます。次期部長の席も約束されたようなもんです。邪魔者は消え、金も地位も手に入る。人生、イージーモードってやつですね」
北村はワインを飲み干し、不敵な笑みを浮かべた。
彼の中には、罪悪感など微塵もない。あるのは、自分こそが勝者であり、壮一郎は時代の敗北者であるという歪んだ選民意識だけだった。
「ねえ、拓也。離婚したら、あの家はどうしようかしら」
「売っちゃいましょうよ。あんな陰気な家。金に変えて、都心のタワマンにでも住みましょう」
「そうね! 私、タワマンに住むのが夢だったの。アウスタ映えもするし、美奈も喜ぶわ」
二人は未来の妄想に花を咲かせ、笑い合った。
その足元が既に崩れ落ちていることにも気づかず、破滅へのカウントダウンが進んでいることも知らずに。
◇
自宅に戻った私は、自室に篭り、冴島から受け取った資料と、これまでに集めた証拠を整理していた。
全ての点を線で繋ぎ、逃げ場のない「処刑台」を組み立てていく作業だ。
法務部長として培ったスキルが、こんな形で役に立つとは皮肉なものだ。
論理構成に隙はないか。証拠能力に問題はないか。相手がどんな言い逃れをしてきても、即座に論破できるだけの材料は揃っているか。
深夜まで及ぶ作業だったが、疲れは感じなかった。むしろ、脳はかつてないほど冴え渡っていた。
日付が変わる頃、スマホが震えた。
会社の人事部からの一斉送信メールだった。
『件名:懲戒委員会の開催について』
『日時:明日 午前10時』
『対象者:法務部長 剣崎壮一郎』
『内容:痴漢行為による社会的信用の失墜に関する処分決定』
ついに来た。
明日の午前10時。それが、全ての決着をつける刻限だ。
メールには、証人として法務部代表の北村拓也も出席すると記されていた。
北村は、この場で私にとどめを刺すつもりだろう。「普段から部長はセクハラまがいの言動があった」などと嘘の証言をし、私を懲戒解雇に追い込む計画に違いない。
だが、それは私にとっても好都合だ。
彼が公の場に出てくる。役員たちが揃う、逃げ場のない密室に。
そこで彼の化けの皮を剥ぎ、全ての悪事を白日の下に晒す。
私はパソコンを閉じ、深呼吸をした。
静まり返った家の中、廊下に出ると、美奈の部屋から微かに明かりが漏れているのが見えた。
私は少し迷った末、美奈の部屋のドアをノックした。
「……何?」
不機嫌そうな声が返ってくる。
ドアを開けると、美奈はベッドの上でスマホをいじっていた。
「美奈、少し話がある」
「今アウスタライブ見てるんだけど。手短にしてくんない?」
彼女は私の方を見ようともしない。
これが最後だ。父親として、娘に与える最後のチャンス。
「パパは、明日会社に行く。そこで身の潔白を証明してくるつもりだ。……もし、パパが無実だと分かったら、お前はまた、パパと暮らしてくれるか?」
私の問いかけに、美奈は初めてスマホから目を離し、呆れたような表情を向けた。
「は? 何言ってんの。無実とかどうでもいいし。もう『痴漢で捕まった親父』っていう事実は変わんないじゃん。私の学校での立場、もう終わってんだけど。今さら無罪でしたーってなっても、失ったフォロワーは戻ってこないの。分かる?」
「……そうか。お前にとって大事なのは、フォロワーか」
「当たり前じゃん。パパより大事だよ。てかさ、ママと離婚するんでしょ? 慰謝料たっぷり取れるんでしょ? だったらそれでいいじゃん。私、新しいパパのほうが絶対いいし。北村さんだっけ? あの人、優しそうだしお金持ちそうだし」
美奈の口から、北村の名前が出た。
玲子は既に、娘にまで北村を紹介していたのか。そして娘もまた、父親を金蔓としてしか見ておらず、より良い金蔓がいるならそちらに乗り換えることを躊躇しない。
彼女の心は、もう修復不可能なほど歪んでしまっていた。
それを育ててしまったのは、他ならぬ私と玲子だ。
「……分かった。もういい」
私は静かに言った。
これで未練はなくなった。
娘もまた、共犯者だ。玲子の背中を見て育ち、玲子と同じ価値観で生きている。
彼女にもまた、これから訪れる「冬の時代」を生き抜く責任を負わせなければならない。
「じゃあね、おやすみ。犯罪者さん」
美奈は再びスマホに視線を戻し、冷たく言い放った。
私は無言でドアを閉めた。
部屋に戻った私は、明日のために用意しておいたスーツに袖を通した。
クリーニングに出したばかりの、パリッとした白いシャツ。
勝負の時にしか締めない、濃紺のネクタイ。
鏡に映る自分は、数日前の憔悴しきった顔とは違っていた。
目には力が戻り、背筋は伸びている。
そこには、家族に裏切られた哀れな夫の姿はない。
会社という戦場で、不正と戦い続けてきた「法務部長・剣崎壮一郎」が立っていた。
「待っていろ、北村。そして玲子」
私は証拠ファイルの入った鞄を手に取り、その重みを確かめた。
明日の朝、この鞄が開かれる時、マグナ・ステラの会議室は処刑場へと変わる。
私の人生を狂わせた代償を、彼らにはきっちりと支払ってもらう。
利子をつけて、骨の髄まで。
私は窓の外、白み始めた空を見上げた。
嵐の前の静けさが、街を包んでいる。
だが、その静寂もあと数時間で終わる。
反撃の狼煙は、既に上がっているのだ。




