第2話 孤立無援と突きつけられた紙
カーテンの隙間から差し込む朝日が、埃の舞う書斎を白々しく照らし出していた。
私はソファの硬い感触と、首筋の鈍い痛みと共に目を覚ました。昨夜、寝室を追い出され、この狭い部屋に閉じ込められたまま、いつの間にか意識を失っていたらしい。
慣れ親しんだはずの我が家の書斎が、今はまるで独房のように感じられる。
喉が渇いていた。口の中が張り付き、不快な味がする。だが、部屋を出てキッチンへ向かうことを躊躇う自分がいた。
ドアの向こうには、妻と娘がいる。
昨日、私に向けられたあの氷のような視線と、汚物を見るような表情が脳裏に焼き付いて離れない。
「……夢であってくれ」
掠れた声で呟き、重たい頭を振る。しかし、机の上に乱雑に置かれた警察署からの押収品リストの控えと、電源の切れたスマホが、これが紛れもない現実であることを残酷に突きつけてきた。
スマホの電源を入れると、再び通知の嵐が画面を埋め尽くす。
昨夜よりも状況は悪化していた。Twotterでは私の顔写真だけでなく、大学時代の卒業アルバムの写真まで掘り起こされ、拡散されていた。「犯罪者予備軍の顔」「目つきがヤバい」といった、後付けの偏見に満ちたコメントが何千と連なっている。
世間は、新しい生贄を見つけて興奮状態にある。真実など誰も求めていない。彼らが欲しいのは、安全圏から石を投げつけ、ストレスを発散できるサンドバッグだ。
ブーッ、ブーッ。
不意にスマホが振動し、着信画面が表示された。
ディスプレイに表示された名前は『人事部長 小野寺』。
胃の腑が冷たくなるのを感じながら、私は通話ボタンを押した。
「……はい、剣崎です」
『ああ、剣崎君か。昨日は大変だったようだな』
小野寺の声は、平坦で事務的だった。長年、共に会社を支えてきた同期としての温かみは、そこには微塵も感じられない。
『単刀直入に言う。君には当面の間、自宅待機を命じる。出社はまかりならん』
「待ってください。私は無実です。あれは冤罪なんです。今、弁護士と協力して証拠を……」
『事実かどうかなんて、今は問題じゃないんだ』
小野寺は私の言葉を遮り、冷たく言い放った。
『会社の看板に泥が塗られた、という事実が重いんだよ。ネットを見ただろう? マグナ・ステラの名前がトレンド入りしている。株価にも影響が出始めているんだ。クライアントからの問い合わせも殺到している。法務部長である君が、コンプライアンスリスクそのものになってどうする』
正論だった。会社という組織の論理で言えば、疑わしきは排除する。それがリスク管理の鉄則だ。皮肉にも、それは私が長年、法務部長として徹底させてきたルールでもあった。
『懲戒委員会が開かれるまでは、社内の人間との接触も禁止する。会社のパソコンへのアクセス権限も凍結させてもらった。業務用の携帯も、後ほど郵送で返却するように。……以上だ』
「小野寺、頼む。話を聞いてくれ。これは誰かに仕組まれた可能性があるんだ。私は……」
プツッ。ツー、ツー、ツー。
通話は一方的に切られた。
スマホを握りしめる手が白くなるほど力を込める。
会社人生二十二年。全てを捧げてきた組織から、トカゲの尻尾切りのように切り捨てられた瞬間だった。私のデスク、私の部下、積み上げてきた実績。それら全てが、一瞬にして遠い世界のものとなってしまった。
その直後だった。MINEの通知音が軽快に響いたのは。
メッセージの送り主を見て、私の眉間がピクリと動く。
『北村拓也』。
私の直属の部下であり、妻・玲子の不倫相手である男だ。
『部長、大丈夫ですか? ニュース見て驚きました。まさか部長があんなことするなんて……信じられません』
文面だけを見れば、上司を心配する部下のメッセージに見えるだろう。
だが、私には分かる。この行間に滲み出る、粘着質な嘲笑と優越感が。
「まさか部長があんなことするなんて」。この書き方は、暗に「やった」ことを前提にしている。
さらに続けて、メッセージが届く。
『会社の中は大騒ぎですけど、法務部の実務は僕がしっかり回しておきますから安心してください。部長の席は、僕が温めておきます(笑)。奥様も心配されているでしょうね。お力になれることがあれば、いつでも言ってください』
「……北村」
私は画面を睨みつけ、低い声で唸った。
「僕が温めておきます」だと?
私の椅子を狙っていたのは知っていた。だが、まさかこれほど露骨に牙を剥くとは。
そして「奥様も心配されているでしょうね」という一文。
これがただの社交辞令でないことは明白だ。彼は今、玲子と連絡を取り合っているはずだ。「あのオッサン、ざまあみろ」と二人で笑い合っている光景が目に浮かぶ。
怒りでスマホを壁に叩きつけそうになる衝動を、私は必死で抑え込んだ。
まだだ。今、感情的になってはいけない。
北村からのMINEは、彼が私を完全に侮っている証拠だ。油断している敵ほど、扱いやすいものはない。
私は震える指で、あえて無難な返信を打った。
『すまない。迷惑をかける。よろしく頼む』
既読はすぐについた。
おそらく、彼は画面の向こうで鼻で笑っているだろう。「間抜けな上司だ」と。
それでいい。今はまだ、道化を演じてやる。
時計の針は正午を回っていた。
空腹が限界に達していた。昨日の昼から何も食べていない。
私は意を決して、書斎のドアノブに手をかけた。まずは水を飲み、何か腹に入れなければ思考も鈍る。
ドアを開けると、リビングからテレビの音が聞こえてきた。ワイドショーの司会者が、どこかの不倫スキャンダルを面白おかしく報じている。
私は足音を忍ばせてキッチンへと向かった。
リビングのソファには玲子が座っていた。
彼女は私の気配に気づくと、パッと振り返り、露骨に顔をしかめた。
「……何? 部屋から出てこないでって言ったはずだけど」
その声には、冷徹な響きがあった。
テーブルの上には、デリバリーで頼んだらしいパスタの空き容器が二つ置かれている。私の分など、最初から用意されていないことが明白だった。
「水をもらおうと思ったんだ。それと、何か食べるものは……」
「ないわよ」
玲子は即答した。
「犯罪者に食べさせるご飯なんて、うちにはありません。食べたかったら、自分でコンビニでも行ってくれば? まあ、ご近所さんに顔を見られる勇気があればの話だけど」
「玲子、私は自宅謹慎を命じられているんだ。外に出るわけにはいかない」
「じゃあ、餓死すれば?」
彼女は事も無げにそう言い放ち、テレビのリモコンを操作してチャンネルを変えた。
あまりの言い草に、私は言葉を失った。
これが、一五年間共に暮らしてきた妻の言葉なのか。
どれだけ夫婦仲が冷え切っていたとしても、人間としての最低限の情けすらないというのか。
その時、二階からドタドタという足音が聞こえ、娘の美奈が降りてきた。
彼女は制服姿ではなく、スウェットの上下を着ている。学校を休んだのだ。
「あ、パパいるじゃん。最悪」
美奈は私を見るなり、手で鼻を覆うような仕草をした。
「ちょっとママ、空気清浄機強にしてよ。なんか犯罪者菌が移りそう」
「美奈、お前……」
「話しかけないでくれる? パパのせいで私、今日学校休んだんだからね。友達から『大丈夫?』ってMINE来まくってて、ウザいことこの上ないんだけど。返信考える私の身にもなってよ」
彼女は冷蔵庫からジュースを取り出すと、私を避けるように大回りでリビングのソファへと移動した。
その際、わざとらしく「汚い、汚い」と呟くのを、私は聞き逃さなかった。
「……私は、やっていないんだ。信じてくれ」
絞り出すような声で、私はもう一度だけ訴えた。
しかし、二人の反応は冷ややかだった。
「はいはい、みんなそう言うのよね。ニュースで見たわよ、往生際が悪いって」
「てかさ、やってようがやってなかろうが、どっちでもいいし。パパが警察に捕まって、ニュースになった。その事実がムカつくって言ってんの」
美奈はストローを噛みながら、スマホの画面に視線を落としたままだ。
そこには、父親としての尊厳など欠片も存在しなかった。
私はただの「迷惑な同居人」であり、彼女たちの平穏な生活を脅かす「異物」でしかなかった。
私は無言で水道の蛇口をひねり、コップに水を注いだ。
ぬるい水が、乾いた喉を通り過ぎていく。それは味気なく、どこか鉄の味がした。
背中越しに感じる二人の視線に耐えきれず、私は逃げるように書斎へと戻った。
ドアを閉め、鍵をかける。
そのカチャリという音が、私と家族を隔てる決定的な断絶の音のように響いた。
それから数時間、私は書斎でただ時が過ぎるのを待った。
空腹は通り越し、今は胃がキリキリと痛むだけだ。
窓の外が茜色に染まり、やがて夜の闇に沈んでいく。
この家の中で、私だけが時間が止まったような感覚に陥っていた。
夜の九時を過ぎた頃、書斎のドアがノックされた。
返事をする間もなく、ドアが開く。
玲子が入ってきた。
彼女の手には、一枚の茶封筒が握られている。
「……話があるの」
玲子はドアを閉めると、私のデスクの前に立った。
部屋着ではなく、きちんとした服に着替えている。化粧も直しているようだ。
その姿を見て、私は直感した。彼女はこの後、出かけるつもりだ。おそらく、北村の元へ。
「なんだ」
「単刀直入に言うわ。離婚して」
玲子は茶封筒から書類を取り出し、デスクの上に放るように置いた。
緑色の紙。離婚届だ。
記入欄には、流れるような美しい文字で『剣崎玲子』と署名されている。印鑑も押されていた。
「もう限界なの。あなたのその陰気な顔を見るのも、犯罪者の妻として後ろ指を指されるのも。私の人生、こんなはずじゃなかった」
玲子は芝居がかった仕草でため息をついた。
「私はもっと輝いているはずだったの。商社マンの妻として、優雅に、尊敬されて生きるはずだった。なのに、あなたは仕事ばかりで家庭を顧みないし、たまに早く帰ってきたかと思えば疲れた顔で黙り込んで。その挙句、痴漢で逮捕? 冗談じゃないわよ」
彼女の言葉は、自己憐憫と身勝手な論理で塗り固められていた。
仕事ばかり? 誰のために働いてきたと思っている。
彼女が欲しがるブランドバッグ、美奈の私立高校の学費、この家のローン。それらを維持するために、私は心身を削って働いてきたのだ。
だが、それを口にしたところで、今の彼女には届かないだろう。
「……美奈はどうするつもりだ」
「私が引き取るわよ、当然でしょ。あなたみたいな親父に育てられたら、あの子の将来まで潰れちゃうわ。親権は私がもらいます。養育費は、あなたが会社をクビになっても払ってもらうからね。それがせめてもの償いでしょ」
「償い、か……」
私は離婚届を手元に引き寄せ、じっと見つめた。
この紙切れ一枚で、他人になる。
一五年の歳月が、この数グラムの紙によって清算される。
「玲子。一つだけ聞く」
私は顔を上げ、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「本当に、これでいいんだな? 後戻りはできないぞ」
これは、私からの最後の温情だった。
もし、彼女がここで少しでも躊躇を見せれば。もし、「ごめんなさい、混乱していて」と涙を見せれば。
私はまだ、踏みとどまったかもしれない。北村との不倫も、一度だけなら目をつぶったかもしれない。
家族を、再生しようと努力したかもしれない。
しかし、玲子は鼻で笑った。
「後戻り? するわけないじゃない。むしろ、これからが私の本当の人生の始まりよ。あなたという重荷を下ろして、やっと自由になれるんだから」
彼女の瞳には、希望の光が宿っていた。
だがそれは、私との未来ではなく、北村との享楽的な未来を夢見た光だ。
彼女は完全に、私を見限った。
そして同時に、私もまた、彼女を見限った。
心の中で、何かが音を立てて切り替わる音がした。
「夫」としての情愛、「父親」としての未練。それらが急速に冷却され、硬質化していく。
代わりに起動したのは、「法務部長・剣崎壮一郎」としての冷徹な演算機能だ。
彼女は今、自分から地獄への片道切符を欲しがった。
ならば、くれてやろう。
彼女が望む通りのものを、望む以上の形で。
「……分かった」
私は静かに頷き、ペン立てから万年筆を取り出した。
これは、昇進祝いに玲子がプレゼントしてくれた万年筆だ。皮肉なことに、このペンで我々の関係を終わらせることになる。
「サインしよう」
さらさらと、ペン先が紙の上を走る。
名前を書き、住所を書き、本籍を書く。
迷いはなかった。
むしろ、一筆ごとに心が軽くなっていくのを感じた。
「はい。これで満足か」
記入を終えた離婚届を差し出すと、玲子はひったくるようにそれを受け取った。
確認するように目を通し、彼女の顔に歓喜の笑みが広がる。
「ええ、満足よ。ああ、やっとせいせいした! これで私も晴れて独身ね」
彼女は離婚届を大切そうに封筒に戻すと、私を見下して言った。
「明日の朝一番で役所に出してくるわ。あなたは早めに出て行く準備をしてね。この家は、私と美奈で住むから」
「ああ、分かっている。身辺整理がついたら、出て行くよ」
「整理なんていらないじゃない。あなたの荷物なんて、ゴミ袋に詰めればすぐ終わる量でしょ? なるべく早くしてよね」
玲子は足取りも軽く、書斎を出て行った。
廊下から、彼女がどこかへ電話をかける声が聞こえる。
「もしもし、拓也? うん、書かせたわ! ええ、バッチリよ。……うん、これから会える? お祝いしなきゃね」
声が遠ざかり、玄関のドアが開閉する音がした。
彼女は北村の元へ向かったのだろう。今夜は帰ってこないかもしれない。
静寂が戻った書斎で、私は深く息を吐き出した。
椅子の背もたれに深く体を預け、天井を見上げる。
「……泳がせてやるさ。今のうちはな」
私の手元には、離婚届の控えはない。だが、もっと強力な武器がこの部屋にはある。
私は机の鍵を開け、最下段の引き出しの奥から、分厚い黒いファイルを取り出した。
そこには、一年半にわたって興信所の友人と共に集めた、玲子と北村の不貞行為の証拠写真、LINEのやり取りの履歴、ホテルの領収書。
そして、北村が関与している裏帳簿のコピーと、今回の冤罪事件に関わる「仕込み」の痕跡を記した調査報告書が眠っている。
離婚届にサインをしたことで、法的にも私は「被害者」としての立場を盤石にした。
冤罪で苦しむ夫を支えるどころか、不倫相手と結託して追い出しにかかった妻。
この事実は、慰謝料請求において強烈なプラス材料となる。
さらに、北村の横領が明るみに出れば、彼が玲子に貢いでいた金の出所が「会社の金」であることも証明される。玲子は知らなかったでは済まされない。返済義務の一部、あるいは共犯としての責任を問われる可能性すらある。
「お前たちが選んだ結末だ」
私はファイルをめくり、北村と玲子がラブホテルの前で抱き合っている写真を指で弾いた。
写真の中の二人は、実に幸せそうな、愚かな顔をしている。
彼らは今、勝利の美酒に酔いしれているだろう。
障害物である私を排除し、金も自由も手に入れたと錯覚している。
だが、その足元には既にたっぷりとガソリンが撒かれているのだ。
あとは、私がマッチを擦るだけ。
腹の底から、暗く、熱い力が湧き上がってくるのを感じた。
それは復讐心などという生易しいものではない。
法と論理による、徹底的な「害虫駆除」の遂行意志だ。
私はスマホを手に取り、ある人物の連絡先を表示させた。
学生時代からの友人で、現在は辣腕弁護士として知られる男だ。
『準備は整った。作戦を開始する』
短いメッセージを送信し、私は画面を伏せた。
夜はまだ長い。
だが、私の心の中には、確かな夜明けの予感が満ちていた。
それは、家族という幻想を焼き尽くした後に訪れる、冷たくも澄み切った、再生の朝だ。




