第1話 崩壊の朝
首都圏の朝は、無機質な鉄の軋みと人々の吐き出す二酸化炭素で飽和している。
大手総合商社「マグナ・ステラ」の法務部長、剣崎壮一郎にとって、この満員電車での通勤は日常の戦場であり、同時に心を無にするための儀式でもあった。
吊革に掴まりながら、私は今日予定されているコンプライアンス委員会の資料を脳内で反芻する。四十五歳という年齢は、会社という組織において脂が乗ると同時に、板挟みの重圧が最も掛かる時期だ。部下の管理、役員への根回し、そして家庭の維持。どれ一つとして綻びを見せることは許されない。
特に最近は、妻の玲子との会話が減っていることが気にかかっていた。娘の美奈も高校生になり、父親を避ける時期に入っている。家族のために働き、今の地位と、都内の戸建てを手に入れた。ローンはまだ残っているが、それも家族の笑顔があればこその苦労だと言い聞かせている。
「……ッ」
不意に、背後から強い圧力がかかった。車両がカーブに差し掛かり、人の波が大きく揺れる。私はバランスを崩さないよう、足に力を込めて踏ん張った。
その時だった。
「きゃあっ! やめてください!」
鼓膜をつんざくような甲高い悲鳴が、密室の空気を切り裂いた。
車内のざわめきが一瞬で凍りつく。私は何が起きたのか理解できず、周囲を見渡そうとした。しかし、その動きが仇となった。
「この人です! この人が触ったんです!」
目の前にいた若い女性が、涙目で私を指差していた。
彼女の指先は、震えながらも明確に私の胸元、ネクタイのあたりを示している。
周囲の乗客たちの視線が一斉に私に突き刺さる。軽蔑、嫌悪、そして正義感を暴走させた敵意。
「え……? いや、私は何も……」
「とぼけないでよ! ずっとお尻触ってたじゃない!」
女性の金切り声が響く。私は両手を挙げ、無実を証明しようとした。法務部長として数々のトラブルを処理してきた経験から、まずは冷静に状況証拠がないことを示すべきだと判断したのだ。
「落ち着いてください。私は両手で吊革を持っていたし、鞄も網棚に……」
「逃げる気かよ、オッサン!」
横から割り込んできた若い男が、私の腕を乱暴に掴み上げた。正義の味方を気取ったその男の顔には、痴漢を取り押さえたという歪んだ英雄願望が見え隠れしている。
「おい、駅員呼べ! 次の駅で降ろすぞ!」
「待ってくれ! 私は本当にやっていない! これは誤解だ!」
私の訴えは、車輪の走行音と周囲の罵声にかき消された。
電車が駅に滑り込む。ドアが開くと同時に、私は数人の男たちによってホームへと引きずり出された。抵抗すれば暴行とみなされる。法的な知識が、皮肉にも私の身体を硬直させていた。
遠巻きに見る野次馬たちのスマホが、一斉に私に向けられる。レンズの奥にある無数の目が、私という人間を「犯罪者」として記録し、拡散していく恐怖。
「事務室へ来てください」
駆けつけた駅員の事務的な声が、私の社会的な死刑宣告のように聞こえた。
◇
警察署の取調室は、想像以上に冷たく、そして乾燥していた。
パイプ椅子に座らされた私は、数時間にわたって同じ質問を繰り返されていた。
「だから、やっていないと言っているでしょう! 私はマグナ・ステラの法務部長だ。社会的地位もある人間が、満員電車でそんなリスクを冒すわけがない!」
「地位があるからやらない? 剣崎さん、それは通りませんよ。ストレス社会ですからねぇ。エリートほど、こういう歪んだ趣味を持ってるもんなんですよ」
担当の刑事は、私の名刺を弄びながら嘲笑うように言った。
彼にとって真実などどうでもいいのだ。目の前に「被害者を名乗る女性」がいて、「現行犯で取り押さえられた男」がいる。それだけで、事件の構図は完成している。書類を早く片付けたい、そんな怠惰な空気が充満していた。
「否認するなら、拘留が長引くだけですよ。会社にも連絡はいきますし、奥さんや娘さんも知ることになる。素直に認めて示談にした方が、傷は浅くて済むんじゃないですか?」
「やっていないことを認めるわけにはいかない! それこそ家族に対する裏切りだ!」
私は机を叩きそうになるのを必死で堪えた。
やっていない。本当に、指一本触れていないのだ。それなのに、なぜ私がこんな目に遭わなければならないのか。
時計の針は既に正午を回っていた。会社には連絡がいっただろうか。今日の会議はどうなった。部下の北村あたりが上手く誤魔化してくれているだろうか。いや、警察から連絡がいけば、誤魔化しようがない。
「……会社に、電話をさせてくれ」
「今は無理です。弁護士が来るまで待ってください」
取り付く島もない。
孤独と焦燥が、私の精神を削り取っていく。
狭い部屋の中で、私はひたすら家族のことを考えた。
玲子。美奈。
彼女たちなら、きっと信じてくれるはずだ。私がそんな卑劣な真似をする人間ではないと、誰よりも知っているはずだ。
一年半前、玲子の様子がおかしいことに気づいた時も、私は家族の平穏を守るために騒ぎ立てず、事態を見守ることを選んだ。それほどまでに、私は家族という形を大切にしてきたのだから。
夜になり、ようやく当番弁護士が到着した。
事務的な手続きを経て、私はとりあえずの釈放を許された。もちろん、無罪が確定したわけではない。在宅起訴の可能性を残したまま、捜査が続くという不安定な状態だ。
警察署の裏口から出た時、外は既に深い闇に包まれていた。
重い足取りでスマホの電源を入れる。
その瞬間、通知音が鳴り止まなくなった。
『【拡散希望】マグナ・ステラの法務部長、痴漢で逮捕www 動画あり』
『こいつ近所に住んでるわ。マジでキモい』
『娘も同じ学校にいるんじゃね? 親が性犯罪者とか終わってる』
『#剣崎壮一郎 #痴漢 #マグナステラ』
Twotterを開いた私は、指の震えが止まらなくなった。
トレンドには私の名前と会社名が並んでいる。駅のホームで連行される私の動画が拡散され、そこには「死ね」「社会のゴミ」といった罵詈雑言が何千件と書き込まれていた。
個人情報は既に特定されていた。住所、出身大学、そして家族構成まで。
世界中が、私に石を投げつけている。
見知らぬ誰かの悪意が、津波のように押し寄せてきて、私の尊厳を押し流していく。
「……嘘だろ」
吐き気がした。
これが、現代の処刑か。
裁判を受ける前に、社会的に抹殺される。法務のプロとして生きてきた私が、法の及ばない場所で裁かれている。
ふらつく足でタクシーを拾い、自宅へと向かった。
運転手がバックミラー越しに私を不審そうに見る視線さえ、突き刺さるナイフのように感じられた。
自宅のある住宅街に近づくにつれ、心臓の鼓動が早くなる。
近所の目はどうだ? もう知れ渡っているのか?
いや、今はそんなことよりも家族だ。
玲子と美奈に、事情を説明しなければならない。
私の無実を信じてくれる味方が、この世に二人だけはいるはずだ。その希望だけが、今の私を支える唯一のロープだった。
我が家の前に立つ。
リビングの明かりがついている。その温かいオレンジ色の光に、私は救われるような思いで玄関のドアを開けた。
「ただいま……」
声が掠れた。
喉が渇ききっていた。
靴を脱ぎ、廊下を進む。足音がやけに大きく響く。
リビングのドアを開けると、そこにはソファに座る玲子と、ダイニングテーブルでスマホをいじっている美奈がいた。
二人の視線が、私に向けられる。
「心配したぞ」とか、「大丈夫?」とか、そんな言葉を期待していた私が馬鹿だった。
そこにあったのは、汚物を見るような目だった。
ゴミ捨て場に群がるカラスを見るような、あるいは道端の吐瀉物を避けるような、生理的な嫌悪を含んだ冷徹な視線。
「……帰ってきたの」
玲子の第一声は、氷点下の響きを持っていた。
彼女はワイングラスを片手に、組んだ足を苛立たしげに揺らしている。
「玲子、聞いてくれ。あれは冤罪なんだ。私は何もしていない。満員電車で誰かが……」
「言い訳なんて聞きたくないわ」
私の言葉を遮り、玲子は吐き捨てるように言った。
「ニュースにもなってるし、ネットでも大騒ぎじゃない。ご近所の奥さんたちからも、もう何件もLINEが来てるのよ。『大丈夫?』なんて白々しいメッセージと一緒に、ニュースのリンクが送られてくる屈辱、あなたに分かる?」
「だから、それは誤解だと言っているだろう! 私は嵌められたんだ!」
「火のない所に煙は立たないわ」
玲子は冷笑を浮かべ、決定的な一言を放った。
「普段からそういう目で若い子を見てるから、こういうことになるんじゃないの? あなたのその真面目ぶった仮面の下にある卑しさが、とうとう露呈しただけよ。本当に……私の人生の汚点だわ」
心臓を素手で握り潰されたような衝撃だった。
一五年間、連れ添った妻。仕事でどんなに辛い時も、彼女の笑顔を守るために歯を食いしばってきた。
その妻が、私の無実を信じるどころか、「火のない所に煙は立たない」と、冤罪被害者に対して最も残酷な言葉を投げつけたのだ。
「パパのせいで、私もう学校行けないんだけど」
追い討ちをかけるように、美奈がスマホから目を離さずに言った。
その声には、父親への心配など微塵もない。あるのは、自分の世間体が傷つけられたことへの怒りだけだ。
「Twotter見た? 私の高校まで特定されてるし。明日学校行ったら、絶対みんなにヒソヒソ言われるじゃん。いじめられたらどう責任とってくれるの? パパが痴漢とか、マジでありえない。キモすぎ」
「美奈……お前まで、パパを信じないのか?」
「信じるとかそういう問題じゃないし。事実として、パパが捕まったせいで私が迷惑してるって話。慰謝料とか弁護士費用とかで家のお金なくなるんでしょ? 私の大学費用とかどうなんの? マジで最悪」
美奈は舌打ちをして、再びスマホの画面に没頭した。
彼女が見ているのは、おそらく父親が社会的に抹殺されていく様子だろう。それを「ネタ」として消費し、自分の被害者ポジションを確認しているに過ぎない。
膝から力が抜けた。
私はその場に崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて必死に支えた。
信じていた。
少なくとも、家族だけは。
世間がどれだけ私を叩こうと、この家のドアの内側だけは、私が帰るべき場所だと思っていた。
だが、それは幻想だった。
私が必死に守ってきた「家族」という城は、最初から砂上の楼閣だったのだ。
私が「金づる」であり「ステータス」として機能している間だけ維持されていた、虚構の関係。
それが、この冤罪事件という衝撃によって崩れ去り、その下にあった醜悪な本音が剥き出しになった。
「会社からはなんて?」
玲子が事務的に尋ねてくる。私の心身を気遣う様子はない。
「……自宅待機だ。処分が決まるまで、出社は禁止された」
「そう。じゃあ、しばらくはずっと家にいるってことね。目障りだわ」
玲子はため息をつき、テーブルの上に置かれた一枚の紙を顎でしゃくった。
「これ、書いておいて」
そこに置かれていたのは、離婚届だった。
記入欄には、既に玲子の名前が丁寧に書かれている。筆跡に迷いはない。おそらく、私が警察署にいる間に用意していたのだろう。
「犯罪者の妻なんて肩書き、死んでも御免よ。美奈のためにも、籍は抜かせてもらうわ。慰謝料と養育費については、弁護士を通して請求するからそのつもりで」
「……本気か」
「本気よ。あなたみたいな恥ずかしい人と、これ以上一緒にいられるわけないじゃない」
玲子の目には、私への愛情のかけらも残っていなかった。いや、最初からそんなものはなかったのかもしれない。
彼女の瞳の奥に見えるのは、計算だ。この泥舟からいち早く脱出し、新しい生活――おそらくは、あの「男」との生活――へと乗り換えるための、冷徹な計算。
私はゆっくりと顔を上げた。
絶望という感情が、あまりに深すぎると一周して無になることを、私は初めて知った。
心の中にあった温かいものが急速に冷えていき、代わりにどす黒く、重たい鉛のような塊が居座るのを感じる。
視界がクリアになる。
感情的になっていた数分前の自分が、まるで他人のように思えた。
法務部長としての冷静な思考回路が、ノイズだらけの脳内で再起動を始める。
彼女たちは、私を切り捨てた。
冤罪という、私が最も助けを必要としていた瞬間に、背中から刺したのだ。
ならば、もう情けをかける必要はない。
私は一年半前から、ある事実を知っていた。
玲子が、私の部下である北村拓也と不倫関係にあることを。
そして北村が、会社の金を横領し、玲子に貢いでいることを。
その全ての証拠を握りつぶさず、泳がせていたのは、いつか玲子が目を覚まし、家族としてやり直せる日が来るかもしれないという、愚かな希望を持っていたからだ。
だが、その希望は今、完全に断たれた。
この冤罪事件すら、北村が仕組んだものである可能性が高い。タイミングが良すぎるし、被害女性の証言も用意周到すぎた。
もしそうなら、これは単なる浮気ではない。私という人間を社会的に抹殺し、全てを奪い取ろうとする悪意ある攻撃だ。
そして妻と娘は、その攻撃に加担し、私にとどめを刺そうとしている。
「……分かった」
私は乾いた声で答えた。
表情からは感情を消し去る。今の私に必要なのは、激情ではない。完璧な論理と、容赦のない執行だ。
「離婚届にはサインする。だが、少し時間が欲しい。身辺整理が必要だからな」
「へえ、意外と素直ね。もっと泣きついてくるかと思ったけど」
玲子は勝ち誇ったように笑った。
その笑顔が、彼女が私に見せる最後の笑顔になるだろう。
次に彼女が感情を露わにする時、それは絶望の淵に立たされた時だ。
「ああ、素直に従うさ。君たちが望む結末になるように」
私は心の中で、隠し持っていた『破滅のカード』の感触を確かめた。
まだ切らない。
今はまだ、彼らを油断させておく。
最高に幸せな絶頂から、地獄の底へと叩き落とすために。
「部屋に戻るよ。……今日は疲れた」
私は二人に背を向け、寝室へと向かうふりをして書斎へと足を向けた。
背後から、玲子と美奈が明るい声で話し始めるのが聞こえる。
「やっとスッキリするね」「ねー、ママ、離婚したらハワイ行こうよ」
その会話を聞きながら、私は冷たい鉄のような決意を固めていた。
復讐ではない。
これは、法と証拠に基づいた、正当なる「制裁」だ。
書斎に入り、鍵をかける。
暗闇の中でデスクの引き出しを開け、二重底の下に隠していた黒いファイルを取り出した。
ずしりと重いそのファイルには、彼らの破滅が詰まっている。
「……始めようか」
私は誰に聞かせるでもなく呟き、ファイルの表紙を撫でた。
窓の外では、まだTwotterの通知音が微かに鳴り続けている。
世間も、妻も、娘も、そして北村も。
誰も知らない。
追い詰められた獲物が、実は喉元に牙を突き立てる瞬間を待っている猛獣であることを。
崩壊した朝は、終わりの始まりではない。
私にとっての、反撃の狼煙なのだ。
暗い部屋の中で、私の目は獣のように爛々と輝き始めていた。




