虐待と躾
最近の人間は、躾と虐待を一括りにしすぎているのではないか。
そんなことを考える瞬間が増えた。
怒鳴りつけるわけでもない。殴る蹴るなんて当然論外だ。
だけど、悪いことをしたときに「謝りなさい」と言わせることすら、
なぜか“強制”だの“虐待”だのと言われるようになった。
おしりを軽く叩く程度の注意まで、同じ枠に押し込められてしまう。
本当にそれでいいのだろうか、と私は思う。
人間は、痛みを知らなければ境界線が分からない。
してはいけないことの重さも、自分が誰かを傷つけた事実の大きさも、
言葉だけでは伝わらないときがある。
だから昔の大人たちは、言葉で分からなければ少しだけ力を使った。
それは“傷つけるための力”ではなく、
“ここから先は踏み越えるな”という線を教えるための力だった。
もちろん、力に逃げる大人もいた。
正しさではなく苛立ちで手を上げた者もいた。
だからこそ、暴力は悪だと言う人の気持ちも分かる。
分かるけれど、何もかも同じ箱に放り込んでしまうのは違うと思う。
若者が思い上がって見える瞬間がある。
自分の非を認めず、注意をすれば逆ギレし、
大人の言葉を軽く見て、礼儀の意味さえ笑う。
彼らが生まれた世界には、“分からせる”という行為が欠けていたのかもしれない。
傷つけないことが絶対の正義になり、
誰かを叱ることすら罪のように扱われた。
その結果、
「自分は何をしても許される」
「大人なんて大したことない」
そんな空気を纏った若者が増えたのだと思う。
私は彼らを憎みたいわけじゃない。
ただ、彼らの背中に“線”が刻まれていないことが、どれだけ歪みを生むかを知っているだけだ。
境界線を教えられなかった子供は、
自分の立つ場所を見失う。
そしていつか、自分自身を律することすらできなくなる。
大人を舐める若者が増えた。
けれどそれは、若者の傲慢というよりも、
大人が“叱ることの責任”を恐れ、後ろへ下がってしまった結果なのかもしれない。
本当に悪いのは誰なのか。
そして、どこまでが躾で、どこからが暴力なのか。
線を引く大人が減った世界で、
若者だけを責めるのは、少し違う気がするのだ。
その考えが正しいのかどうかは分からない。
けれど私は、境界線を教えるという行為だけは、
決して悪ではないと信じている。




