函館共和国軍
首相になったからって、この国では何を変える事も出来ないが、首相になる事は出来た
飛行機は長い唸りを立てて、夜明け前の空を切り裂くように降下した。客室の明かりは薄く、毛布にくるまった者、座席に深く沈んで眠る者が混じる。椅子のリクライニングの軋みとベルトを締める音、逆噴射で震える機体の残響——いつもの帰国便の雑然とした空気が、しかしこの便にはいつもの「帰り」ではない匂いを残していた。
「はやくして下さい、首相」
事務次官の声は低く、焦燥を帯びていた。首相は眠りから覚め、まどろむ瞳で周囲を見回す。女性であり、初の女性首相として世界の注目を浴びたばかりだ。フランスでの公務を終え、時差も疲労もある身だ。だが、周囲の空気に異変があることだけは、すぐに分かった。
「何処へ行くのよ、事務次官?」と首相は尋ねた。言葉はまだぼんやりしていた。制服を着た防衛大臣が、冷たくはっきりと返す。
「函館に行ってもらいます。」
千歳に到着したばかりのはずだ。首相は驚いて座席から身を乗り出した。まるで観光の予定を台無しにされた気分で、思わず声を荒げる。
「何で、防衛大臣のあんたが決めてるの! 千歳に到着したばかりで、何でまた飛んだの?」
「そうも言ってられませんから」と事務次官。鋭い短い言葉だ。防衛大臣は追って言った。「五稜郭に入ってもらいます」。
首相は言葉を失った。五稜郭——歴史の香りがする古い土塁の名が、ここで籠もった命運を決する場所として持ち出されるとは思ってもみなかった。
「新撰組のイベントでもあるのかしら」と、首相は半ば冗談めかして口にしたが、誰も笑わなかった。事務次官は眉ひとつ動かさずに答えた。「寝ぼけてますか?」 防衛大臣は口をつけ加える。「エアフォースワンの中では熟睡してましたからな。もう、北海道しか無いのですよ。」
客室では静かなざわめきが続き、ベルトの金具が金属音を立てる。やがて機の放送が低く流れた。「只今、エアフォースワンは函館空港に到着いたしました」。アナウンスは淡々としているが、それが持つ意味は重かった。
車両へ向かうと、そこには戦車ではないが兵員輸送車の並ぶ隊列があり、首相は驚愕した。目の前で車両のドアが勢いよく開き、陸上自衛隊の兵士たちが整然と降り立つ。護衛が解かれ、別の警護隊が立つ——事務次官は静かに命令を下した。「ここからは我々自衛隊が警護します」と。統合幕僚長が檄のように返す。「まずは五稜郭の地下会議室へ」。
空気が変わった。地下の会議室は古い石の匂い、湿ったカビの匂いの混じる場所で、低い天井と蛍光灯の冷たい光が張りつめる。首相は椅子に案内され、座ると世界が急に縮んだように感じた。周囲の表情は緊迫している。公設秘書は首相を守ろうとする態度と、どことなく諦観の混じった目をしていた。
統合幕僚長は淡々と話し始めた。「簡単に説明しますと、この国は中国に取られました」。
言葉が耳に入らない。首相は笑い飛ばそうとしたが、誰の顔も笑っていない。防衛大臣はさらに付け加える。「正確に言うと、米軍が基地を明け渡し、その指揮が中国に渡ったのです」。首相の頭の中で、日米安保の言葉がぐるぐると回る。アメリカの大統領の名前、外交の体面というものの存在はどこに行ったのか。
「アメリカと話させて」首相はすがるように言った。事務次官は答えに窮し、やがて小声で言った。「来週あたりでは? 日本の最後の首相と言う事で」——その言葉の皮肉と冷たさが、首相の胸を針のように刺した。
やがて通信が繋がった。アメリカ大使の陽気な声が虚ろに聞こえる。「ご機嫌いかが?」という挨拶に、首相は震えて「あり得ないでしょう」と返す。会話は冷たい事実へと流れ、米中不可侵条約、アメリカの大統領令、基地の売却——どれも信じ難い政治の決断が次々に示される。世界は、短時間のうちに再編成されていた。
外の世界からの報告は続いた。北海道では少数民族の団体が札幌で動き、ロシア系の勢力と連動しているらしい。道知事が電話で首相の居場所を口にしたこと、それが首相の耳に届いた瞬間、彼女の背筋に冷たいものが走った。官房長官の不手際で真意が漏れたのだ。五稜郭――函館――情報は早く伝わる。護衛は縮小し、中央は混乱し、連絡網は崩れていった。
統合幕僚長の報告は追い打ちをかける。「今しがた報告があり…サイレンを鳴らしてハイスピードでこちらに向かっている」と。ヘリの音が微かに聞こえ、やがて空を裂くように近づいて来る。首相は椅子に掴まり、脈打つ胸を必死に抑えた。息子の顔が浮かぶ。大学生の息子。自分が招いた政策の帰結が、ひとつの命運として重くのしかかる。
事務次官の声はいつもより冷たい。「息子さんには時間が無いから…」と続き、会話は次第に不可解で残酷な香りを帯びていった。政府の中枢はもはや保身に走り、争いを避けるための取引と演出に傾いていた。支持母体のために言った言葉が巡り巡って自分を締め上げているのだと、首相は気づき始める。自分が国だったのか——統合幕僚長は静かに問うた。「守るべき国というのはいったい何だったのか」。
最後に示されたのは、古い刀だった。五稜郭の地下に、かつての剣が用意されている。土方歳三に由来すると称される名刀——演出のために、あるいは“体面”を保つために。公設秘書は躊躇いながらも提案する。「動画で世界中に流しますか」。防衛大臣は既に命令を下していた。「スマホでライブ配信ね、首相官邸ので」。
首相は立ち上がり、冷たく光る刃を見下ろした。息子の無事——それが交換条件だという。涙が出そうになったが、それを拭う余裕すらなかった。すべてが演出と取引の材料になり、国の最高指揮官という肩書きが、生贄として晒される寸法になっていた。だが、抵抗の炎が消えたわけではない。首相は痛烈な怒りをこめて言った。「貴様ら、覚えてろ。あの世で呪ってやる」。それが辞世にもなった。
やがて刃が理性の外側へ動き、金属が肉を切る音が小さく響いた。銃声が続けて二発鳴る。そこに流れた時間は短かったが、何世代もの歴史が一瞬で凝縮されたように感じられた。重苦しい沈黙ののち、誰かが小さく息を吐いた。
突然、声が割れて飛んだ。「はい、カット! 良い映画撮れました、お疲れ様」。照明が明るくなり、機材のケーブルが目立ち、スタッフの笑い声が地下の古びた空間を満たした。首相の胸の痛み、事務次官の冷笑、統合幕僚長の忠告——すべては演出だった。監督がカメラを降ろし、助監督が次のシーンの準備を始める。現場の空気は瞬時に現実に戻り、五稜郭の地下は再び「セット」となった。
俳優たちが互いに顔を見合わせ、メイク直しのために席を立つ。撮影用の血糊を拭い、古刀は小道具置き場に戻される。だが、現実と虚構の境界は曖昧だ。政治の中で実際に行われている行為と、スクリーンの中で演じられる行為とが、重なり合ったとき、観客の胸に何が残るのか——スタッフの冗談めいた会話の裏で、誰かが小さく呟いた。
「こんなドラマ、放映許されるかな?」
機材の音が去り、五稜郭の古い石壁が静かに息を吐いた。外の風が松の葉を揺らし、夜は再び深くなった。スクリーンの向こうで人々が想像したものと、外の世界で人々が生きている現実とは、まだしばらく交差したままだった。
終わり
俳優になったからって、何が出来るわけで無いが俳優で食っていける様にはなった。




