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失敗夫婦から学ぶ男女関係のエトセトラ

 ――新島聡は困っていた。

 親友の桜田学から夫婦関係の相談を受けていたのだが、新島は女性がそれほど得意という訳ではなかったからだ。女友達がいる事はいるが、サバサバとした接し易いタイプがほとんどで、彼の妻のようなタイプはあまりよく分からない。

 「……由芽のやつ、お小遣いがもっと欲しいって言うんだよ」

 飲み屋でそんな愚痴を聞かされた。彼の年収は600万円程で、年齢を考えれば悪くない。ただ、小学校5年になる娘が一人いて、それで出費が増えているらしい。そして彼は釣りを趣味にしており、そこでもそれなりに金がかかっている。

 「いくら欲しいって奥さんは言っているんだ?」

 新島が尋ねると、「月に3万だって」と彼は返した。

 ……3万。

 馬鹿にできない金額だろう。

 桜田から誘われた今日の飲み屋も立ち飲みの安い店で、しかも最低限のつまみしか頼んでいない。あまり贅沢はできない立場なのだ。

 「僕が釣りを止めれば、それくらいの金額は作れるだろうって言うんだけどさ」

 もちろん彼としては趣味の釣りをやめるつもりはないようだ。そして、彼が「嫌だ」と応えると奥さんは不機嫌になってしまったのだそうだ。

 それを聞いて新島はちょっと考えた。

 「……いや、でも、それくらいなら奥さんがパートでもして稼げば良いのじゃないか?」

 「それが……、家事が忙しいから、そんな暇はないって言うんだよね」

 「はあ」

 子供がいない新島には、それが本当なのかどうか判断が付かなかった。ただ、子供が二人いる状態で普通に会社で働ている女性が友人の姉にいるから、恐らくは誇張しているだろうとは思っていた。

 もっとも、それを伝えたら、更に夫婦関係が悪化しそうだったので言わなかったが。

 「しばらく待って、機嫌が直るのを待つしかないのじゃないか?」

 結局、新島はそんなあまり有効とは思えないアドバイスしかできなかった。そして一週間後、再び新島は彼の相談を受けることにしなってしまったのだった。つまりは、彼の妻の機嫌は直らなかったのである。

 

 「今度は、家事をボイコットまでしちゃってさ」

 

 と、桜田学は落ち込んだ様子で言った。

 今度は昼食の時だった。職場近くの定食屋。新島と桜田の会社は別だが、比較的近くなので偶に一緒に昼食を食べるのだ。

 頼んだ鰯定食をボロボロに崩しながら、彼は溜息を漏らす。

 どうやら、それには“家事を自分がしなかったら、どれだけ困るか分からせてやる”という意図があるらしい。

 「それで、お前はどうしたんだ?」

 「娘が手伝ってくれるって言うから、一緒に家事をやったよ。食事は昼はコンビニで食べて、夜は外で食べた」

 「で、どうなった?」

 「“娘を抱き込んで”って、更に怒っちゃったな」

 彼は再び大きく溜息を漏らした。

 「なぁ、どうすれば良いと思う?」

 そう相談をされても、新島にはどうすれば良いのかまるで分からなかった。そもそも彼からの一方的な主張ばかりで、奥さんからは何ら話は聞いていないのだ。これではどこに問題があるのか分かりようもない。しかしでは、直接奥さんに話を聞けば良いと言われると、そこまでするのも変な気がする。

 今度は新島が軽く溜息を漏らした。

 友人の様子を見るに、放置もできそうにない。一体、どうすれば良いのだろう?

 

 ――篠崎紗美は困っていた。

 自宅で、電話にて親友の桜田由芽から夫婦仲の相談を受けていたのだけど、彼女はそれほど男性経験が豊富ではないのであまり共感ができなかったからだ。

 「あいつは何にも分かっていないのよ! 家事ばかりやっていたら、気が塞いじゃうもんなのよ。偶には気晴らししたいじゃない! その為には金が必要なの!」

 彼女はどうやら月に3万円程の自由に使えるお小遣いを旦那さんに要求しているらしい。

 家事労働は月収30万円に相当するという話もあるから、その不満も分からなくはない。ただ、一軒家に住んでいて、その他生活費も全て旦那さんが出しているのだから、その分を差し引いたら可処分所得はそれほど残らないのじゃないかとも思うが。

 今だって、遊びに使えるお金がない訳じゃないようだし。

 「釣りの趣味をやめれば、それくらいの金は浮くはずなのよ」

 ……まぁ、旦那さんは遊べているのに自分は遊べていないのが不満なのかもしれない。その気持ちは分かる。ただ、どうにも話していておかしいと思う点もあるにはあった。

 「がんばって家事をやっているのだから、それくらいの感謝を示してくれたって良いのじゃないかしら?」

 ――本当に彼女は、お金が欲しくて旦那さんにそんな要求をしているのだろうか?

 様々な愚痴を聞くうちに、そのような疑問を篠崎は抱き始めた。

 「ねぇ、そんなに不満があるのなら、思い切って離婚しちゃえば?」

 試しにと思ってそう言ってみた。本当に旦那さんが嫌いなのなら、この言葉に同意をするだろうと思ったのである。すると、

 「……そこまでは考えてないわよ。娘のことだってあるし」

 声のトーンは明らかに変わり、そんなことを彼女は述べた。

 “うーん。やっぱり問題はお金じゃないのかもしれない”

 それで彼女はそんな風に思ったのだった。

 

 数日後、再び桜田由芽から篠崎の元に電話があった。

 「あいつ、娘を味方に付けたのよ!」

 彼女はそう愚痴を言った。

 どうも彼女は旦那さんへのアピールの為に家事をボイコットしたようなのだが、それで娘さんが一緒に家事を手伝ったというのだ。彼女には悪いが、男親と娘の仲が良いというのは微笑ましいと篠崎は思ってしまった。

 「家事をボイコットしたのに、旦那さんは怒らなかったんだ?」

 「別に怒らなかったけど?」

 それを聞く限りでは、“できた男性”のように思える。ただ、そう言うと彼女が怒り出しそうなので言わなかったが。

 彼女、桜田由芽はどちらかと言えば依存的な性質だ。自立した女性ばかりを持ち上げる風潮が世間にはあるが、決してそんな事はないと篠崎は考えている。彼女のようなタイプにも役割があり、優劣の差ではない。

 そして、彼女から結婚すると聞いた時、相手の男性はそんな彼女にとって相応しいと篠崎は思っていた。篠崎自身が実際に相手の男性に会った訳ではないのだが、彼女の発言や態度からそのように予想したのだ。

 彼女の話を聞く限りでは、その予想は正しかったのではないかと篠崎は考えた。気性の激しい直情径行型の性格だったなら、妻に家事をボイコットされれば暴力を振るっているかもしれない。

 ただ、彼女にとって彼女の旦那さんはそれでも完全に相性が良かったという訳ではなさそうだった。

 「旦那は娘と一緒に外でご飯を食べて来ちゃってさ。それだって無駄遣いじゃない。娘は喜んでたけどさ」

 これは恐らく拗ねているのだ。

 一応断っておくと、彼女は決して性格は悪くはない。面倒見が良い、可愛い性格をしている。そもそも労働に対して、相応の報酬を要求するようなタイプではない。しかしでは、無条件で無償の奉仕をするのかと言えばそれも違う。

 “世話がしたい”

 と、思えなければ駄目なのだ。そういう気持ちになれなければ。

 “何を当たり前の事を”と思う人もいるかもしれないが、犬や猫の世話をするのはその人が犬や猫を可愛いと思うからで、それは犬や猫がそれに相応しい性質を持っているからに他ならない。今まで彼女は何ら不満言わずに家事に従事して来た。それが変わったのであれば、変わったなりの理由があるはずである。

 つまり、旦那さんが無償で“世話をしたい”と思える対象ではなくなったのだ。もちろん、実際には無償ではないはずだが、彼女の感覚では無償の奉仕をしているかのように思えてしまっている……

 きっと“何か”があったのだろう。

 それが何かは分からないが。

 「ねぇ、あなたの旦那さん。以前と何か変わった事があったりしない?」

 愚痴の途中で割り込むようにして篠崎がそう訊いてみると、彼女は突然のその質問に素っ頓狂な声を上げた。

 「え? 何?」

 「だって、あなた、以前はラブラブだったじゃない。それなのにいきなりそんな事を言い出したから“おかしいな”って思って」

 少し考えると、彼女はこう返した。

 「そう言えば、最近、軽く飲んで帰る事が多くなったわね」

 「それって会社の飲み会じゃないの?」

 「違うわね。飲み会だったらもっと遅くなるし。それに、彼の会社はあまり飲み会をやらない社風なのよ」

 「なるほど」

 ――もしかしたら、浮気かもしれない。

 そのように篠崎は考えた。彼女は勘が鋭い。言語化能力はあまり高くないから、それを言葉にはできないが、敏感に相手の態度などから心情の変化を見抜いてしまう。

 「次にその飲みがあった時、それとなく場所を訊いてくれない? 教えてくれれば様子を見に行ってあげる」

 ……もし浮気だったなら、流石に友人として見過ごせない。できる限り力になりたい。そう篠崎は思ったのだ。

 幸い、彼女の勤め先は、彼女の旦那さんの勤め先とそれほど離れてはいなかったのだ。

 

 「あいつも、昔はあんなんじゃなかったんだよ……。なんで突然…」

 

 新島聡はやっぱり困っていた。

 親友の桜田学の夫婦喧嘩が相変わらず解決していないらしく、未だに悩み続けているからだ。

 いつもの安い立ち飲み屋。饒舌なタイプでもないのによく喋っている。きっと家庭の状況が辛いのだろう。

 彼、桜田学は大人しい性格をしている。ただ、野心的なタイプではないが、それでも実直で誠実な人柄は男らしいと評価できるかもしれない。しかしそれだけに不器用で、何かと誤解を受け易い。つまり、女心の機微を読み取って、巧く対応するようなことはできない。

 話を聞く限りでは、奥さんの方に問題があるようにしか思えないが、いつまでも奥さんを宥められないのは、そんな彼の性質の所為ではないかと新島は思い始めていた。

 “これは無理をしてでも、一度くらいは、奥さんに会っておいた方が良いのかもな”

 などと愚痴を言う彼を見ながら新島は思った。

 ちょっと……、否、かなり不自然になってしまうが、遊びという態で、一度彼の自宅にお邪魔をしてみるべきかもしれない。

 もっとも、それが解決に繋がるとは思えなかったのだが。

 一通り愚痴を聞き終えると、それほど金もかけられないので彼らは早めに切り上げて飲み屋を出た。そしてそれから、新島は桜田と別れると不意に声をかけられたのだった。

 「あの…… ちょっといいですか?」

 見ると、そこにはOLだろう見慣れない女性の姿があった。一瞬、逆ナンかと思ったが、そういうタイプにも思えない。

 

 「あの…… ちょっといいですか?」

 

 篠崎紗美は意を決してそう話しかけた。

 桜田由芽から連絡を受け、彼女の旦那さんが飲んでいるという店に行ってみると、彼女の旦那さんと思しき人物は会社の同僚なのか、友人らしき男性と一緒に飲んでいたのだ。彼女の旦那さんはあっさりと居場所を教えてくれたようだから、元より浮気の線はなさそうだとは思っていたが、どうも本当にただ飲んでいるだけらしい。

 ――ただ、少しばかり気になった。彼女の旦那さんの様子は、上機嫌とはとても言えず、恐らくは愚痴を言っている。そこで篠崎は傍に寄って聞き耳を立ててみた。すると、どうにも彼は彼の妻……、つまりは桜田由芽に関する愚痴を言っているようなのだった。彼の友人は困っているように見える。想像するに、初めは相談という態で話を聞いていたのに、いつの間にかただ愚痴を聞いているだけの状態になってしまったのだろう。まるで自分のようだと篠崎は思った。

 “……まあ、夫婦喧嘩しているのだから、このくらいは普通か”

 旦那さんの愚痴を聞きながら、そう篠崎は考えたのだが、そこでふと気が付いた。彼女は桜田由芽からの一方的な話しか聞いていない。旦那さん側の事情も聞いてみるべきではないだろうか? 本人から直接聞くのは色々と憚れるが、旦那さんの友人だろうこの男性からならそれほど支障はない気がする。見た目や態度からは、話が分かりそうな印象を受けた。

 “物は試しだ”

 そう決心をすると、彼女は彼らが店を出て、旦那さんの友人だろう男性が一人になったのを見計らって声をかけた。

 男性は驚いた顔を見せた。絶対に変に思われていると臆しながらも彼女は言葉を続けた。

 「すいません。私は桜田由芽の友人でして。……その、申し訳ない話なのですが、彼女から相談を受けて、様子を見に来ていまして」

 察しの良い男性らしく、それを聞いただけで大体の事情を把握したようだった。

 「ああ、なるほど……」

 浮気を疑ったのですね?とは、明確には言わなかったが、そう理解したようだった。桜田由芽自身が旦那さんを疑った訳ではないので慌てて「一応断っておくと、彼女自身は疑ってはいません。私が余計な心配をしたと言いますか……」と続ける。

 すると彼は軽く頷いた。

 「いえ、疑うのも無理はないと思いますよ。夫婦喧嘩の真っ最中で、頻繁に飲んで帰っているのですから」

 印象通りに話が分かる男性らしい。彼女は安心をした。そして“これならいけそう”と判断すると、

 「それで……、あの、もしお時間があれば、ちょっと話せないでしょうか? 実は桜田由芽からは話を聞いていますが、彼女の旦那さんからの話は聞けていないのですよ。旦那さんの方からの話も聞いておきたくて」

 そう言ってみた。

 すると彼は“我が意を得たり”といった様子で、「それは僕としてもありがたいです。僕もあいつの奥さんの話も聞いてみたかったので」と返して来たのだった。

 

 新島聡は頷いていた。

 突然、話しかけて来た女性は、篠崎紗美という名で、桜田由芽の学生時代からの友人であるらしく、夫婦関係についての相談を受けていたのだという。つまりは自分と同じ境遇だ。二人は近くのカフェに入ると、互いの情報を出し合った。

 「話を聞く限りでは、あいつの奥さん…… 桜田由芽さんの方に問題がありそうに思えますね」

 篠崎は頷く。

 「そうですねぇ。既に自由に使えるお金はあるみたいですし。敢えて擁護するのなら、“釣りは危険な趣味”って点くらいでしょうか? 論点はズレますけど」

 新島はそれに再び頷いていた。どうやら彼女は確りとした考えを持った女性であるようだ。

 彼は彼女に好印象を持った。

 「お金が欲しいのなら、パートでも何でもして欲しいっていうのがあいつの意見のようですが……」

 そう言ってみると彼女は、「その話は初耳ですね」と返した。恐らく桜田由芽は自分にとって都合の良い話ばかりを彼女にしているのだろう。

 「桜田由芽さんは、家事が大変だからできないって言っているみたいですが」

 「そうなんですか? まぁ、確かに真面目に家事をやっていそうな雰囲気はありますが。そーいうのは潔癖な性質なので」

 それを聞くと、彼は「なるほど」と腕を組んだ。

 「どうしたのですか?」

 「実はちょっと調べてみたのですがね、現代の母親は家事のクオリティを高くし過ぎるって問題があるらしいのですよ」

 それに篠崎は変な表情を浮かべた。それでその言い方が、まるで“昔の母親は怠けていた”と言っているかのような印象を与えかねないと気が付いた彼は、慌てて説明を追加した。

 「昔は洗濯機や冷蔵庫や電子レンジなどの便利な家具がなかったでしょう? それに農家では共働きが普通でしたから、家事を確りとやっている暇はなかったのだそうで。だから必然的に掃除や洗濯は回数が少なかったし、料理だってそこまで手間はかけられなかったのだとか。お米に味噌だけなんてケースも少なくなかったらしいですよ。

 しかし、近代になり、たくさんの便利な家具が現れるとそれが変わった。楽に家事ができるようになったのですね。すると、高いクオリティの家事を求められるようになってしまった……」

 もし仮に桜田学の奥さんが“真面目に家事は毎日やらなくてはならない”と思い込んでいるのなら、「パートなんてやっている暇はない」と訴えるのも分かる気がする。

 「はー、そんな話があるのですか」

 と、それに篠崎も納得した顔を見せた。彼と似たような事を考えているのかもしれない。

 桜田学は少しくらい家事のクオリティが下がったとしても文句を言うような性格ではない。だから拘っているとすれば、奥さんの方だと新島は考えていたのだ。

 「生産性が上がると人手が余る。その余剰の労働力を新たな産業の為にに使うことで経済成長が起こる訳ですが、家事労働に関してはそれが起こり難かったのですね。その代わりに家事のクオリティが上がった……」

 二児の母親でありながら、会社勤めをしている女性が彼の友人の姉にいると前に述べたが、その女性は家事はそれほど確りやっていないらしい。

 新島の説明に篠崎は頷く。

 「……なら、それを由芽に言ってみるというのは有りかもしれませんね」

 それで家事を適度に手を抜くようになれば、パートをやる時間くらいは作れるはずだと彼女は考えたのだろう。彼はこう返す。

 「僕の方は学に、“家事の手を抜いても良いのじゃないか?”て、奥さんに言ってみるように提案してみますよ」

 上手くいけば、これで桜田夫婦は仲直りができるかもしれない。ただし、“夫婦喧嘩の根本的原因はそこじゃないかもしれない”とも新島は思っていたのだが。

 それはどうも篠崎の方も同じであったらしく、やや不安げな顔を浮かべていた。

 

 「ダメでしたね……」

 

 篠崎紗美は難しい顔をしていた。

 カフェ。目の前には新島聡がいて、彼は落ち込んだ様子だった。仕事終わりに二人で集まったのだ。

 篠崎が桜田由芽に「家事の手を抜いてみたらどう? そうすれば、パートの時間くらい作れるでしょう?」と言ってみたら、彼女はあからさまに不機嫌な声を上げた。

 「私、家事はちゃんとやりたいって思っているのよね」

 一度、家事をボイコットした人間のセリフとは思えないが、篠崎はなんとなく察していた。彼女の不満の“根”はそこではないのだ。だから同意したがらない。

 篠崎がそう説明すると、新島は眉を大きく歪めた。

 「僕の方は藪蛇でしたよ。奥さん、学が家事の手を抜くように言ったら怒っちゃったみたいで。悪い事をした」

 二人は同時に溜息を漏らす。

 はぁ……

 少しの間の後に、篠崎が口を開いた。

 「私、実は少し疑問に感じていたのですが、由芽は本当はお金なんかそんなに欲しくないのじゃないかって思うんですよ」

 新島は首を傾げる。

 「どうしてそう思うのです?」

 「話していて、“お金が欲しい”っていう感じがしなかったんです」

 「では、何が欲しいのでしょう?」

 彼は疑問を投げかけてはいたが、“反論”というニュアンスはなかった。恐らく彼の方も何かが引っかかっているのだろう。

 少し考えると、彼女は口を開いた。

 「そもそもお金とか物とかが欲しいのじゃないって思うんです」

 「はあ」

 「上手く言えないのですが、彼女は気持ちを満足させたいだけなのだと思うのです。家事をやりたい気持ちにさせてあげるのが大事というか」

 彼は腕組をすると、

 「まぁ、仲間のメンタルケアは仕事でも重要ですからね」

 などと言った。

 きっと必死に彼女の言葉を自分の言葉に置き換えているのだろう。そして、しばらく考えると、彼はこんな案を出して来た。

 「なら、こーいうのはどうでしょう? 外で働くのがどれだけ大変なのかを奥さんに分かってもらう」

 「なるほど……」

 由芽は会社で働いた経験がない。アルバイトくらいはした事があるが、本格的に仕事をした経験はほぼないと言って良い。だから、仕事がどれくらいのストレスになるのかを知らないのだろう。それが旦那さんへの同情に繋がれば“困らせるのは酷”と思ってくれるかもしれない。

 「でも、どーすれば良いのでしょう?」

 彼女がそう尋ねると、彼には考えがあるらしく即座に答えて来た。

 「実は学から相談を受けて、色々と調べるようになったのですがね、男女平等の国の方が男性の寿命は長いらしいのですよ」

 少し考えると、彼女は返す。

 「……つまり、男性だけが働く社会の方が男性の寿命は短いという話ですよね?」

 「はい。収入を得る役割が男性だけに集中しているという状況が、どれくらい男性にとって負担になっているのかがよく分かるデータだと思います」

 もちろん、“太く短く生きたい”という人もいるだろうから、それだけで短絡的に“男性が損をしている”とは言えない訳だが、それでも一考に値する話ではあるだろう。

 「問題はその話をどうやってうまく由芽に伝えるか、ですね」

 きっと旦那さんの口からでは、今の彼女は素直に受け止めてくれないだろう。

 「そうですねぇ。僕の方から、外で働くのがどれくらい大変なのかを、それとなく奥さんに伝えるように学に言っておきますから、篠崎さんはこの話を奥さんに伝えておいてもらえますか?」

 つまりは、彼女の方から前もって、“労働は過酷である”ことの証拠として、男性の寿命が短いエピソードを話して由芽に罪悪感を抱かせておいて、旦那さんから「仕事が大変だ」という話を聞かせる事で、由芽に素直に同情させるという作戦だろう。

 「分かりました。試してみましょう」

 これなら上手くいくかもしれない。

 そう彼女は思ったのだが、それから彼はこう続けるのだった。

 「ただ、あいつはこの手のことが苦手なので、ちょっと心配ですが」

 それを聞いて彼女は直ぐに思い直した。

 ……やっぱりダメかもしれない。

 

 「そっちの手応えはどうですか? 由芽の方はそれなりに真面目に話を聞いてくれましたが」

 

 新島聡が頭を掻いている。

 今、彼は仕事中に篠崎から電話がかかって来たので、慌ててオフィスから廊下にある休憩スペースに出て彼女と話をしているところだった。

 「悪い反応ではなかったみたいですが、まぁ、あいつは不器用なので」

 奥さんの態度はちょっとは軟化していたらしい。だが、桜田学はそれをあまり活かせなかったようだった。夫婦喧嘩はまだ収まってはいないのだ。

 「そうですか」

 と、残念そうに篠崎は返す。

 「――ただ、発想の方向性自体は正しいと思うのです。きっと“奥さんはお金を欲しがっていない”という篠崎さんの予想は当たっています」

 仮にそうだとするのなら、“原因”は桜田学の方にあるのかもしれない。もし彼に“責任”があるかと問われたなら返答に窮してしまいそうだが、それでも新島はそう考えていた。

 「自分は金を稼いでいるのだから、家内は家事を確りやるべきだ…… そんな事をあいつは愚痴って言っていたのですよ。理屈自体は正しいかもしれません。でも、きっと、そんな考え方だから、奥さんの不満には気が付けないのじゃないかとも思うんです」

 新島はそこで一度言葉を切り、やや逡巡してから自信なさそうに続ける。

 「自分なりに、桜田夫婦のすれ違いの根本的な原因について考えをまとめてみました。ですが僕は男です。女性側のあなたの意見も聞いてみたい。そこでそれをあなたにも見てもらいたいのですが」

 その頼み事に対し、彼女は不思議そうな声を上げる。

 「構いませんが、それは一体?」

 「ちょっとしたエッセイのようなものです。やや長めなので、篠崎さんのパソコンの方にメールしておきますね」

 やや怪訝そうではあったが、彼女は「分かりました。読んでおきます」とそれを了承してくれた。

 

 ――新島聡からのメール

 

 男性原理、女性原理という概念があるのだそうです。男性原理は論理性、秩序、優劣への拘りなどの事で、女性原理は、感情性、受容性、共感や育成であるとされています。

 例えば、誰かが誰かの為に料理を作る場面を思い浮かべてください。男性原理の場合は上下関係や契約関係でそれを解釈するでしょう。上の立場の人間が、下の立場の人間に対して命令して作らせている。或いは、お金を払った取引の結果として、料理を作らせている。これに対し、女性原理の場合は、子供の為に料理を作ってあげる母親のような関係性としてそれを捉えます。

 人類は少なくともその進化の過程で、一時は一夫多妻制を経験していると言われているらしいのですが、或いは、これはその時に人類が獲得した性質なのかもしれません。

 一夫多妻制においては、男は少数しか子供を残せる権利を得られません。だから、自然、優劣に拘るようになりますし秩序だって求めるでしょう。それに対し、女は皆で協力する方が子供をより多く残せます。人間の子供は未熟な状態で生まれて来ますから、それは必要ですらあったでしょう。

 

 桜田学は良い奴ですが、それでも男性原理的な人間です。女性原理的なものはあまり理解できないのではないかと思います。そして桜田由芽さんは女性原理的な人間なのではないでしょうか? だからやはり、男性原理は理解できない。

 桜田夫婦の喧嘩の根本的な原因はこのような認識のズレなのではないかと僕は考えているのです。

 

 「メールを読みました」

 

 篠崎紗美はそう言った後に少しの間を作った。そして、

 「面白い話だとは思います。ですが、少々具体性に欠けています」

 そう指摘をした。

 「実際に由芽達はどうすれば良いと思いますか?」

 その問いを受けて新島聡は頭を掻く。

 「正直な話、抽象的なアドバイスしか思い浮かんではいないです。ただ、“互いに思い違いをしている”というのを気が付かせる意味では単に話を聞かせるだけでも効果はあると思ってはいますが」

 夜。

 居酒屋。

 二人は落ち着いた雰囲気のある個人経営の店で会っていた。

 彼女は少し迷ったようだったが、それに、

 「そうかもしれませんね」

 と頷く。

 「あなたのメールを読んで、ようやく言葉にできたのですが、多分、由芽は本当は“お金が欲しい”のではなく、“感謝”を……、いえ、“大切にされている”という実感が欲しいのだと思います」

 彼も頷いた。

 「しかし、それを聞いたら、きっと学は“甘えているだけだ”と捉えると思います。怒りはしないと思いますが、受け入れもしない。そしてきっと奥さんはその反応に困惑するのじゃないでしょうか。“自分は理解されていない”と感じてしまうかもしれませんね」

 今度は彼女は溜息を漏らした。

 「“甘え”って悪い事のように捉えられがちですけど、私は甘える事も重要なのではないかと思っています。由芽の旦那さんの場合は分かりませんが、“甘えられる”事で自信を持ち、精神の安定を保てる人だっているでしょう? 互いの精神の安定にとって時には“甘え”も必要なのではないでしょうか?」

 「そうですね」と彼は頷く。そして、再び溜息を漏らした。それからわずかな間の後に口を開くと続けた。

 「今、思い付いたのですが、あいつがあいつの釣りに奥さんも誘うというのはどうでしょう?」

 彼女は少し驚いた顔を見せた。

 「由芽は釣りってタイプじゃないですよ。今まで一緒に暮らしていて、もし惹かれるものがあったら既に始めているとも思いますし」

 「別に無理に釣りをしなくても良いでしょう? あいつが釣りをしている間、奥さんは別の事をすれば良い。景色が綺麗な場所で温泉も楽しめて釣りもやれるようなスポットもあるみたいですし」

 そう言われて彼女は考えた。旦那さんは娘さんとは仲が良いみたいだ。家族旅行という態にすれば由芽もきっと行きやすい。

 「そうですね。いいかもしれません」

 “男性だけが働く社会の方が、男性の寿命は短い”

 その話を聞いて、由芽の旦那さんに対する態度は多少は軟化している。今なら、旦那さんが誘えば受け入れてくれるかもしれない。

 「男性原理と女性原理の話を、僕は学にしてみますよ。あいつは頭は良いですし、気難しいタイプでもないので、きっと分かってくれると思います。まぁ、不器用なのでそれで直ぐに奥さんに上手く接することができるようになるかどうかは分かりませんが」

 彼女はそれを聞くと少し考え、それにこう返した。

 「由芽には話さないでおいた方が良いかもしれません。理屈を聞いちゃうと、素直に旦那さんの好意を受け入れられなくなってしまうかもしれませんので」

 彼が言うように由芽の旦那さんには不器用で女性の性質を上手く把握できていないという問題点があるのだろう。だが、それはそれとして、由芽自身の性格にも“面倒くさい”という問題点があるにはあるのだ。

 

 「あいつに言ってみたのですがね。……その、男性原理と女性原理の話を」

 

 新島聡は頭を掻いていた。

 昼休み、彼は篠崎紗美と職場の近くの公園で会っていた。

 「その様子だと、芳しい反応ではなかったのですか?」

 「まあ、そうですかね。ただ、嫌々ながらも奥さんを釣り旅行に誘ってみる気にはなってくれたようです。他に手段が思い付かなかったからだと思いますが。釣りにも行きたいでしょうし」

 半ば釣りが原因で起こっている夫婦喧嘩の真っ最中に釣りに行く訳にはいかないと、桜田学は釣りを我慢していたのだ。それで、余計に金がかかるが、“家族サービスもかねての釣り”という案には前向きになってくれた。

 「なので、もしかしたら、今回はこれで夫婦喧嘩は収まるかもしれませんが、あれだと今後また再発するかもしれませんね」

 “奥さんの気持ちに配慮する”というのが、きっと学にはよく分からないのだ。恐らく単なる“仕事”としてしか、家事を捉えられていないのだろう。

 オフィス街にある公園の為、周りには多くの社会人が歩いていた。中には男女…… 恐らくはカップルだろうペアもいる。仲睦まじい様子だが、果たして彼らのうちの何割が互いを理解しているのだろう?

 篠崎は淡々と口を開いた。

 「理想的な異性を、恐らくは誰もが思い描いて相手に接するのだと思います。でも、本当はそんな“理想的な異性”なんてどこにもいなくて、そして、自分の理想と相手がかけ離れていると認識してしまったなら不満を持つ。

 多分ですけど、誰でも多かれ少なかれきっとそうなのだと思うのです」

 彼は返す。

 「そして、その不満が大き過ぎたなら喧嘩になって、そして最悪、関係が崩壊してしまう……

 といったところでしょうか?」

 「まぁ、“自分の理想”が誤りであったと気が付くケースなんかもあるのでしょうけどね。悪い人に惹かれる女の人なんかもいるみたいですから」

 そのタイミングで新島は微妙な間をつくり、意を決したように口を開いた。

 「では、どうすれば、その関係を壊さないようにできると思いますか? ……その男性と女性は」

 それを聞くと彼女は驚いた様子で彼を見た。そんな質問が来るとは思っていなかったのだ。

 「……そうですね。“家族の為に相手がいる”と思うのじゃなくて、“相手の為にも家族がいる”と思う事じゃないでしょうか? 月並みですけどね」

 彼はそれにゆっくりと首を振った。

 「いえ、重要だと思います。

 例えば“女性が働きたい”と言ったのなら、それを尊重して自分もそれに協力する。もちろん、その女性もきちんと役割を果たす前提ですけどね。

 女性に対して、“家族の犠牲になれ”なんて態度じゃダメなんだと思います。もちろん、男性に対しても同様ですが」

 そこで彼は言葉を一度切った。篠崎を見つめながら言う。

 「桜田夫婦の喧嘩を収める為の話し合いで、僕らは色々な事を学べたと思うのです。そしてきっとその学習した内容は男女関係を良好に保つ上で効果的なのじゃないかとも思うのです。彼らは充分には納得してくれないかもしれませんが」

 彼女は頷く。

 「そうですね。残念ながら」

 それを聞くと、やや食い気味に彼は口を開いた。

 

 「――ですからっ その、もし良ければ実践して、僕らが見つけた方法が役に立つことを証明してはみませんか?」

 

 篠崎紗美は驚いていた。

 新島聡の発言が、自惚れでなければ、プロポーズのように聞こえたからだった。

 「あの…… それは」

 彼は普段とは違った緊張した様子で返した。

 「自分でも不思議だったんです。学の夫婦喧嘩の相談に、どうしてこんなに懸命に応えうとしているのか?って。もちろん、あいつがいい奴で、友人だからっていうのもあるのですが、それ以上に、その、あなたに惹かれていたからだって、学の夫婦喧嘩が一応は収まって気が付いたんです。

 その……、あなたに会えなくなるのを残念に思ってしまって。あなたは確りとした考え方を持った誠実な素晴らしい女性だと、協力し合っていて分かったので」

 早口で語り終えた必死そうな彼の様子から、それが真剣なものだと彼女は悟った。

 公園には様々な人達が行き交っている。中には自分達の様子を不審に思っている人達もいるかもしれない。

 ただ、彼女は少しも恥ずかしくはなかった。いや、恥ずかしいと感じている余裕がなかったのかもしれない。

 もちろん、彼女は彼には好感を持っている。お金や人柄も、彼は申し分ない。しかし、ただそれだけでは、家族になり得る人物の条件を満たしてはいない。自分の気持ちがどこにあるのか。それが重要なのだ。まったく論理的ではないけれど……

 そこまでを想って彼女は気が付いた。

 “これは女性原理だ。きっと……”

 そして、それに気が付くと、なんだかおかしくなってしまっていた。

 「日本は、ジェンダー・ギャップ指数において2024年6月で、118位という非常に低い順位になっています。ですが、これは一部の指標におけるものに過ぎません。実際の女性の幸福度は決して低くはなく、例えばホームレスの女性の割合はとても低い。これは世界的観ても顕著な数字で、だから決して日本は女性が住みにくい社会という訳ではないと思います。が、それでも絶対に日本人男性が反省すべき点が一つだけあります。それは共働きにおいてすらも、男性の家事参加が非常に少ない点です。

 私は働いています。そして、仮に結婚をしたとしても仕事を辞める気は今のところはありません。つまり、あなたにも家事をしてもらうつもりでいます」

 彼は彼女の言葉に即答した。

 「もちろんです。僕はあなたがするなと言ってもする気でいます」

 それに彼女はくすりと笑う。

 「分かりました。私にはあなたを拒絶するだけの理由が見つけられません。それに、男女関係について真剣に話し合ってきた私達は、良い夫婦関係を築けるだけの素養があるのではないかとも思います」

 ちょっとした茶目っ気を出して、敢えて男性原理的に彼女はそう返してみた。それが伝わっているのかいないのか、彼は「よろしくお願いします!」と、思い切り頭を下げた。いつも理性的で、穏やかな様子なのに今はとても感情的になっている。熱い。

 「こちらこそよろしくお願いします」

 そんな彼の様子に微笑みながら彼女はそう返す。そして、“この人、こんな可愛い反応もするのだな”とそう思い、いつの間にかとても愛おしく彼を感じていたのだった。

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