第8話 イザベラ嬢との確執
ガゼボで昼食をとった後、図書館に用があるというビビとは中庭で別れた。
渡り廊下をひとり教室へ向かっいると、前方に華やかなピンクの髪が見えた。イザベラ嬢とそのご友人たちが前から歩いてくる。
――ああ、今日は厄日だわ
伯爵令嬢のイザベラ様は王妃様の遠縁にあたり、エルネスト殿下の遊び相手として幼い頃から王宮に出入りしていたらしい。殿下とは大変仲が良いようで、学園でも一緒に過ごす姿を度々みかけた。私は彼女に思うところなどないのだが、私がエルネスト殿下と婚約したことで、彼女には目の敵にされている。
出会ってしまっては仕方がない。私はそっとため息をついて、殿下の頭をぎゅっとポケットの奥に押し込んだ。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。リリアンナ様」
軽く会釈をして通り過ぎようとしたのだが、案の定取り巻きのご令嬢たちに引き留められた。
「リリアンナ様、お待ち下さいませ」
取り巻き三人とイザベラ様に囲まれてさっと逃げ出すことができなかった。
「噂をお聞きしましたわ」
「リリアンナ様には親密な恋人がいらっしゃるそうですね」
「氷姫が恋をしていると話題になっていますわ」
慇懃無礼なその態度は、公爵令嬢に対して許されるものではない。
彼女たちが公爵令嬢の私にこのような態度をとれるのは、イザベラ嬢が後ろについているからだ。そしてイザベラ嬢の後ろには王妃様がいる。
「どこで、お聞きになったか知りませんが、根も葉もない噂ですわ」噂の出どころとして一番怪しいのはイザベラ様なのだが、私には否定するしかできなかった。
ご令嬢のひとりが、険しい目つきでこちらを睨みつけながら距離を詰めてくる。
「噂にしては随分と広く知られたお話みたいですけれど」
「エルネスト殿下のような素晴らしい婚約者がいながら不貞を働くなんて最低ですわ」
「リリアンナ様が殿下を嫌って避け続けているのは事実ですもの。他に恋人がいたのなら、殿下を無下にしていたのも納得できますわね」
「バシュレイ子爵家のご令息と懇意にしていらっしゃるのでしょう」
まくし立てられた言葉を聞き流していたが、最後のせりふに私はピクッと反応してしまった。従兄のダリルと恋仲という噂になっているのか……それはビビも言っていなかったわ。
「あら、本当にダリル・バシュレイ様がお相手なのね」
私の表情にめざとく気づいた令嬢の顔に、意地の悪い笑みが浮かぶ。
言質をとられて王妃様に告げ口されてはかなわないので、私はもう一度きっぱりと否定する。
「わたくしに恋人はおりませんし、殿下を嫌っているわけではありません」
するとイザベラ様が甲高い声で詰め寄ってきた。ピンク色の髪にくりくりした大きな瞳。王妃様にどことなく似ているイザベラ様は、私とは違って小さく華奢で可愛らしい外見をしている。エルネスト殿下はこういう女性らしい方がお好きなのだろうか。
「リリアンナ様のその態度で殿下を嫌っていないとおっしゃるのですか? 貴方は殿下が話しかけても最低限の返事しかしない、張り付けたような冷たい顔でニコリともしない! 自分から話しかけることもないではないですか!」
彼女の言うことは事実だし、傍からみたら私は最低な婚約者だ。殿下を慕っている彼女たちからしたら、私の態度は許せないだろう。
取り巻きの令嬢たちが口々にさえずる。
「恋人がいらっしゃるなら婚約者を辞退すればよいのです。公爵家ならできるでしょう!」
「あなたのような冷たい女が婚約者だなんて殿下がお可哀想だわ!」
「不貞を働くようなふしだらな女性を王家が認めるわけがないわ」
私に不満をぶつけられても、どうにもならない。私だって代われるものなら、代わって欲しい。これ以上は相手にする気にもなれなかった。
「……私の意見で決まった婚約ではありませんので、ご不満があるならば陛下と父に伝えてください。失礼しますわ」
と、その場を立ち去ろうとしたのだが、イザベラ様のまとう空気がさっと変わった。
普段は甲高い声のイザベラ様が、不釣り合いなほど低く、地を這うように響いた。
「――リリアンナ様は殿下に興味すらない……と、そう言いたいのですか」
イザベラ様が両手でハンカチをぎりぎり握りしめながら、私をまっすぐに見据えて、一歩、また一歩と近づいてくる。
憎しみがこもった視線に『私を傷つけてやりたい』という彼女の強い意思を感じた。
「リリアンナ様は、想像したことがありますか。殿下と結婚した後の生活を……。あなたは、殿下の寵愛を得られないわ。今と同じで、いないものとして扱われるの。王妃様はあなたを嫌っているもの。子ができなければすぐに側妃を迎えるでしょうね」
ここまで言われても表情を変えない私を、イザベラ様が忌々しげに睨む。
「殿下が側妃様とお子様たちに恵まれ仲睦まじく過ごすのを、あなたは一人きりで見ることになるのよ」
私は冷え冷えとした心境で、イザベラ様の怒りに燃える目を見つめた。
「リリアンナ様はそんな人生を望んでいるのかしら。私からしたら地獄にみえるわ」
――そんなこと、他の誰に言われるまでもなく、私が一番わかっているわ
胸の中に氷の塊が詰め込まれたようで苦しかった。これ以上聞きたくなくて、私はご令嬢たちをぐるっと見渡して言った。
「先ほどもいったように、この婚約は王命です。ご意見があるなら陛下に進言していただけますか。午後の授業が始まりますので失礼します」
まだなにやら騒いでいるご令嬢の脇をすり抜けて、こんどこそ私は渡り廊下を後にした。
私が望んだわけじゃない。断れるものなら、とっくに断っている。殿下と婚約してから他人の悪意ばかりを浴びる。こんなの誰も幸せになれない。
ドロドロした気持ちが顔にでないように奥歯をぎゅっと噛みしめて足早に教室を目指した。
すると突然、ポケットの中から「おい」と殿下が呼ぶ声がした。
——こんな場所で!
無視してスタスタと歩いていると、再び「おい、リリアンナ」と大きな声で呼ばれた。慌ててあたりを見渡し、ひと気がないことを確認して殿下に話しかける。
「殿下、周りに誰かいたらどうするんですか!」
「いないことがわかったから話しかけてるんだ。お前、なぜ言い返さないで我慢してるんだ。お前らしくないだろ」
――私らしくない?
殿下がいったい私の何を知っているというの。
できるなら私だって反論したい。だがイザベラ様に話したことは王妃様に筒抜けだ。何か言えばあとで数倍も責められるに決まっている。
あの日、殿下が小さくなった日の発言は、何年も抑え込んだうっ憤が爆発しただけで、いままではずっと我慢してきた。
私が、どれだけのことを我慢して飲み込んでいるのか、何も知らないくせに殿下は勝手なことばかり……
私は喉の奥から激情がこぼれてしまわないように、ぐっと拳を握りしめるとなんとか声を絞り出した。
「――――関わりたくないのです」
(イザベラ様にもあなたにも……)という言葉はかろうじて呑み込んだ。