第3話 公爵邸でのふたり
公爵家からの迎えの馬車に乗り込むと、私はポケットに隠れていた殿下をそっと馬車の座席におろした。殿下は向かいの席で宙を睨んでぶつぶつと呟いている。「どうしてこんなことに――」とかろうじて聞き取れたけれど、私とて同じ気持ちだ。
馬車の車輪が石畳のくぼみにはまってガタンと大きく揺れた。衝撃で殿下の体が座席の上で少し跳ねたが、なんとか大丈夫そうだ。
私はそっとため息をつくと、窓の外に視線を移した。
ちょうど噴水の広場に差し掛かったところだった。
重厚な石造りの建物にぐるりと取り囲まれた広場には、さまざまな人が行き交っていた。
豪華なドレスをまとい従者をしたがえて、ゆったりと歩く貴婦人たち。異国の織物や珍しい香辛料を売る商人。かごを抱えて花を売る少女。
中央の噴水には神話の神々を模した精巧な石造りの彫刻が置かれており、噴水の脇で芸術家のような男性たちが議論を交わしているのが見えた。
この時代に、人間が小さくなるなんて魔法みたいなことが起こるなんて……
何百年も前、世界には魔術や呪いが存在し魔法のような便利な道具(魔道具)が実在したと伝えられているが、それは、寝物語で話して聞かせるようなおとぎ話だと思っていた。女神様に出会った人は誰もいないけれど、女神様を信じている教会のようなものだと……
そう思っていたのに……
◇
公爵邸に戻った私は、さっそく執事に伝言を頼んだ。
「お父様が戻られたら大事な話があるので今日中にお時間を頂きたいと伝えてもらえる?何時になっても構わないわ。大事なことなの」
私室へ戻って着替えをすませ、侍女がお茶をいれて部屋を出て行くのを見届けてから、ようやく殿下に声をかけた。
「殿下、大変お待たせして申し訳ありません」
鞄の中に手を差し伸べて殿下をそっとソファに運ぶ。馬車の中ではブツブツと悪態をついていた殿下だったが、先ほどよりは落ち着いた様子だった。
落ち着いたというよりは、落ち込んでいるのかもしれないわ……
すっかり元気をなくした様子は、幼児にしか見えなくてすこし胸が痛んだ。
「殿下、まずはお茶を飲んで落ち着きましょう」
殿下をテーブルの上に移した後、私は侍女がいれてくれた紅茶を小さなミルクピッチャーに少し注いで、殿下にそっと手渡す。お茶を飲んで気がまぎれるといいのだけれど……
殿下はそろそろと器を持ち上げて口に運んだが、首を傾げてテーブルに戻した。
「お口に合いませんでしたか?」
殿下は腑に落ちないような顔で首を傾げて「なぜかわからないが、飲みたいとか食べたいという欲求がまったくない。これも呪いのせいなのか……」と肩を落とした。
――食べたり飲んだりしなくても体は大丈夫なのだろうか。
「そういえば、殿下。父に会うにも王宮へ行くにも、さすがにその恰好はまずいですよね……」
小さい殿下は裸にハンカチをぐるぐる巻きつけた状態だ。ずるずる布を引きずっているし、裾を踏んづけて何度も転びそうになっていた。
「そう、だよな」
「服をなんとかしましょうか」
一から服を作る時間はない。何かで代用できないかと考えて、私が思いついたのはぬいぐるみの改造だった。
くまのぬいぐるみの首回りの糸をほどいて、中綿を丁寧に取り出し、ほつれた布のふちを丁寧に糸でかがる。
嬉々としてぬいぐるみを改造する私を、殿下がなんともいえない顔で眺めていた。
「お前は裁縫が好きなのか」
「ええと、可愛らしいものや綺麗なものを作るのは好きです……」
小さい殿下に着ぐるみを着せたら絶対に可愛いだろうという邪な考えが頭に浮かんで少し後ろめたい。
ぬいぐるみの中に指をいれて内部を確認する。内側も丁寧な縫製でちくちくしないし、これなら素肌に着ても大丈夫そう。
殿下は完成した着ぐるみを見て渋っていたが、「裸のままでは困ります!」と説得して着てもらうことに成功した。
なんということでしょう……
想像していたとおり、いいえ想像以上に動くぬいぐるみは愛らしかった。
「あの、動きづらかったり、暑かったりしませんか」
ぽてぽてぽて。
手のひらサイズのくまちゃんが動いている。
殿下は腕をくるんくるんと回して、その場でぴょんぴょん飛び跳ねた。
「ん。動きは大丈夫そうだな」
「あの、殿下。帽子っ。その頭の部分もかぶってみてください。移動のときは顔も隠したほうがいいと思います!」興奮して声がうわずってしまう。
ぬいぐるみの頭の部分をすっぽりかぶれば、動く小さなくまちゃんが出来上がった。
あぁっ、可愛すぎるわ――
「これを着ていれば誰にも正体がわかりません。とりあえず陛下とお会いできるまで、これで移動しましょう」にやけそうになる口元をなんとか引き絞って淡々と伝えると、殿下もしぶしぶ仕方ないなと頷いた。
私は針仕事で凝り固まった体をぐうっと伸ばすと、手元のお道具を片づけた。
夕食は自室に運んでもらったのだが、お茶のときと同様に殿下の体は食事を受け付けなかった。
空腹も感じないのかしら?
いったい体はどういう状態なのだろう……
◇
食事を終えてカウチでウトウトしかけた頃、ようやくお父様の執務室に呼ばれた。
殿下がくまのかぶりものを脱いで顔を出すと、お父様は一瞬、動揺する様子をみせたが、すぐに表情を取り戻し私と殿下の話に耳を傾けてくださった。
だが、さすがにこんな夜更けに王宮へ向かうことはできないので、明日の朝一番に陛下との謁見を依頼することに決まった。
これで殿下を王宮へ帰せると、ほっとする私にお父様が思ってもみないことを告げた。
「では私は陛下に手紙を書くから、リリアンナは殿下に失礼のないようにお世話しなさい」
「ええっ? 私が殿下のお世話をするのですか?」
驚いて問いかけると、お父様は疲れたように目の周りを指でもみほぐしながら息を吐く。
「仕方ないだろう。使用人に姿をみせられないのだぞ。事情を知っているのは、私とお前だけだ」
確かに……こんなに夜遅くまで働いてきたお父様に、殿下のお世話をお任せするわけにはいかないわ。
「ですが、婚約者といえど婚前の男女が同室で夜を過ごすなんて……」
「このサイズの殿下と何があろうはずもないだろう。とにかく、他に方法がないんだ。明日までの辛抱だ。夜も遅いしもう休みなさい」
それ以上、反論できるはずもなく、私は殿下をぬいぐるみのように抱えてお父様の執務室を出ていった。
自室に戻った時には、すっかり夜も更けて、私は疲れきっていた。いつもの就寝時間をとうに過ぎている。おそらく殿下もそうなのだろう。さっきから黙り込んでいる。
就寝の支度を手伝う侍女が部屋で待ちかまえていたので、そっと殿下をベッドの上に降ろすと壁を向いて転がした。ぬいぐるみのふりをした殿下は身動きできないはずなので、着替えを見られることもないだろう。
髪を整えてもらいつつ、殿下の寝床をさがして部屋を見回した。
――どうしたらいいのだろう
殿下とふたりでベッドに寝るなんて論外だわ。机と椅子。ソファセット。衣裳部屋に隔離したら怒るわよね……ああ、もう疲れすぎて頭がまわらない。
侍女が下がってから、殿下にそっと声をかける。
「殿下、殿下」
小さくゆすると殿下がウーンと寝返りをうった。
くまのぬいぐるみを着たまま、小さい殿下はあどけない顔ですぴすぴと寝息をたてている。
突然の事態に心労もあるだろうが、この体は疲れやすいのかもしれない。無理に起こしたとして、どこへ移動させればいいのか……
――ああ、今日はもう無理だわ
思考がまとまらない私は泥のように疲れた体をベッドに滑り込ませた。