第10話 誰かの悪意
「おい。ふざけるな。開けろ! おいっ!」
扉をバンバンッ叩きながらダリルが叫ぶ。
ダリルはいったん扉から距離をとると、勢いをつけて何度も扉に体当たりした。
ダリルの体が激しく扉にぶつかるたびに、衝撃音がこちらまで響いてくる。けれども何度やっても扉が外れることはなかった。
「誰か!誰かいないかー!助けてくれ!」ダリルが声のかぎりに叫ぶ。
私は呆然として床に座り込んだまま、殿下を抱きしめていた。
緊張で知らず知らずのうちに強く握りしめてしまったようで、胸の前から「おい、苦しい」と小さな声がした。はっとして殿下をポケットに滑らせる。
——落ち着かなくては
何度も深呼吸をして気を落ち着かせると、わたしは周囲を見渡した。
ここは備品室……
天井近くにある明り取り用の小窓以外に窓はなく、四方の壁にずらっと金属製の頑丈な棚がならんでいる。棚にはたくさんの木箱が収められていて、床にも蓋が開いた箱がいくつか散乱していた。
「くそっ」ダリルが拳をダンッと扉に叩きつけた音がした。
ダリルを見ると、彼はさきほどの私と同じように周囲をぐるりと見回して、高窓を指さした。
「あの窓じゃ、リリアンでも出られないよな」
「ええ、あれは無理ね」
一瞬、殿下なら……と頭をよぎったが勝手に殿下の話をするわけにはいかない。
ダリルはふたたび扉の前に戻り、跪いて丹念に調べている。
「ねぇダリル、あの男子生徒に見覚えはある?」
「いや、初めて見たな」
ダリルが引き戸の隙間を覗き込み、扉をガタガタとゆする。
「そう…。私も見覚えは無いわ……」
「鍵をかけられる構造じゃないし、引き戸だから何かをつっかえ棒のようにしているのかもしれない……扉が溝にしっかりはまっていて体当たりくらいじゃ内側からは開きそうもない」
ダリルは手を払って立ち上がると、腰に手を当て片手で眉間を揉みながらはぁと大きくため息をついた。
「まずいな……」
「困ったわね……」
「とりあえず、あの窓を割って叫んでみるか」
ダリルが窓のほうに顎をしゃくった。
「ええ、窓を割るのに使えそうなものを探しましょう」
私たちは棚に保管されている箱を端から順に開いていった。
「この棟はあまり使われていないから近寄る生徒もいないわ。隣の棟まではかなり距離があるから叫んでも聞こえないかもしれないわ……警備が巡回しているはずだけれど……次はいつくるかしら」
「おそらく五時か六時頃だろう。棟を施錠するために回ってくるはずだ。それに賭けるしかないな」
ダリルも逆側の棚から箱を出しては中身を確認している。手分けして手あたり次第に漁ってみたが、紙束とガラクタばかりで役立つものは何もない。
仕方なくダリルが木箱の蓋を手に棚をよじ登り、窓ガラスを割ると、窓から声が枯れるほど叫んだのだが何の応答もなかった。
割れた窓からかすかに演武場の声が流れてくる。喧騒にかき消されて演武場にいる者にはきっとこちらの声は届かないだろう。
――次の巡回がくるのを待つしかない
でも警備も買収されている可能性があるわ……
私が思案している横で、ダリルは開いた箱から紙束をとりだすと、無造作に扉の前に絨毯のように敷き詰めた。
「ほら来いよ」とダリルが手を差し出す。
意図はわかるけれど……
スカートで床に、それも保管してあった書類の上に座っていいの……?
私がためらっていると、ダリルがさっと私の手を取って、とにかく座れと書類をまいた床に誘導した。
「何時間も突っ立って待っているわけにはいかないだろ。それに扉を背にしていれば巡回の足音を聞き逃さずに済む。とにかく座って考えよう」
仕方なく頷いてダリルと一緒に腰を下ろした。
床に腰をおろして、備品室の扉に背中をもたせかけると、膝を両腕で抱え込んだ。公爵令嬢がこんな格好で床に座るなんて……マナー教師が見たらなんて言うかしら……
「なあ、警備にも手を回していると思うか?」
ダリルも同じ心配をしているようだ。
「ええ、もしかしたら公爵家の迎えの馬車にも……」
「ああ、そうか。王宮から迎えがきて直接向かったなどといわれたら御者は帰るかもな。それに間の悪いことに俺たちここに鞄を持ってきている。行方不明になったことが発覚しても学園の外まで捜索範囲に含まれると発見が遅くなる……」
「殿下を慕っている女生徒の嫌がらせで人形を奪ったのかと思ったのだけれど、こうなると別の思惑がありそうよね……」
二人の間に沈黙が落ちた。
窓から射しこむ光の帯に舞いあがったほこりがちらちらと浮いている。
――殿下は大丈夫だろうか
右手をそっとポケットに差し入れて、殿下の頭を優しくなでた。すると大丈夫だと安心させるように殿下が私の指をきゅっと掴んだ。
しばらくふたりで黙って座っていたのだが、沈黙に耐えかねたようにダリルが口を開いた。
「リリアンと会ったのは、三時半くらいだったはずだ。巡回がくるとしたら、あと一時間半から二時間くらいか。いったい何が目的なんだ」
犯人の狙いが何なのか、私も先ほどからずっと考えていた――
「嫌がらせの可能性もあるけれど、急速に広まっている噂と二人で閉じ込められたことを考えると……」
「くそっ! 醜聞ねらいか!! もしかしてあの噂もこのためか!?」
ダリルが膝の上でぐっと拳を握る。
「そう考えると合点がいくわ……」
「あの噂に加えて、男と二人で密室にいたと騒ぐだけで十分な結果をうむだろうよ」吐き捨てるようにダリルが言う。
「醜聞狙いなら証人がいたほうが効果的よね……」
私の脳裏に嫌な考えがどんどん湧きあがり、胸の中で不安が増していく。
ここまでして、誰も見ていない時に解放されるはずがないわ。すでに大半の生徒が帰宅していることを考えると……
「くっそ。まさか朝まで閉じ込めるつもりかっ?」
ダリルが立てた膝にごんっと握った拳を叩きつけて苛立たしげに叫ぶ。
ダリルの肩にそっと手をやると、ダリルが悔しさを滲ませてぎりりっと顔を歪めた。
「朝まで男と二人でいたら、リリアンにとって致命的な瑕疵になる。しかも相手が俺かよ。親父と兄貴に殺される。くそっ」
ダリルは肩を落としてうなだれると、私のほうを見ないまま沈んだ声でつぶやいた。
「リリアン、ごめん。俺がお前の足を引っ張ることになるとはな……」
「ダリル……。あなたは私の事情に巻き込まれただけよ。それにダリルじゃなかったら誰か知らない人と閉じ込められたかもしれないわ」
私は見ず知らずの男と一緒に閉じ込められることを想像して、自分の体を両腕で抱いてぎゅっと縮こまった。
閉じ込められるだけでは、すまない可能性もあったのだ……
「確かに……醜聞を狙うなら一緒に閉じ込める男もあらかじめ用意されてたかもしれないな……」
再びふたりの間に重い沈黙が落ちた。
◇
小窓から差し込む光が少しオレンジ色に染まってきた。
「なあ、イザベラ嬢だと思うか?」
「彼女はこんな回りくどいことを考えなそうだけれど……正直いってわからないわ。私を婚約者の座から引きずり下ろしたい人は、たくさんいるもの……」
この国は王を中心に貴族政治を行っているため、派閥間の争いがある。わがモンブリー公爵家が王家との婚姻でさらに力を強めるのをよく思わない家門も当然いるのだ。
「ここ数日、気がかりなことがありすぎて、周りが敵ばかりって忘れていたわ。警戒がゆるんでいたのね」自分の迂闊さが悔しくて、私は奥歯をかみしめた。
「気がかりって俺との噂のことか?」
――ちがう
小さくなった殿下のことを話すことはできない。私は黙って首を横に振るしかなかった。
会話が止むとたちまち静けさが満ちてくる。
閉じ込められてからどれくらい過ぎただろう。窓から差し込む光が弱くなってきた。
警備の巡回時間はとうに過ぎているはずなのに……
校舎はしんと静まり返って、人の気配どころか風の音すら聞こえなかった。
気がつけば演武場から聞こえていた歓声も聞こえなくなっている。
五月の終わり、日が長くなってきたといっても、あと一、二時間もしたら完全に日が沈むだろう。陽が沈めばランプの灯りもないこの部屋は真っ暗闇になる。
もしこのまま警備の巡回がこなかったら……
これから何が起こるのか想像しただけで、部屋の隅から忍び寄る影がぐっと濃くなったように感じられた。




