イントロダクション
つまらない。暇を持て余している状況に苛立っていた。
調査を終わらせて、一刻でも早く「シェルター」に戻りたいと思っていた。「シェルター」はお世辞にも身を置きたくなるような素敵な場所とは言えなかったが、それでも「外界」に比べればまるで天国だ。
欠員の補充として指令を受け、これまでに何度か「外界」調査班に同行していたが、その度に酷い場所であると再確認していた。
30分も滞在すれば、どのような環境なのか概ね理解することができるだろう。それほどまでに変化が乏しかった。一日のどこを切り取って見ても常に暗く、寒い。動くものは風で舞い上がる細かな灰だけだった。
全世界を巻き込んで行われた大戦により、地球上の殆どの場所は絶対的に生物の生存を許さない環境へとなり果てていた。高濃度の汚染に晒されれば、一呼吸の内に全身が壊死し、命を落とす。微生物でさえも長期間の生存は不可能だ。
僕が今生存できているのは、完全に密閉された頑丈な防護服を着ているためだった。
少し周囲を見渡す。僕が立っているのは小高い丘の上だった。光量は乏しかったが視界を遮るものは何もないので地形の把握くらいは可能だった。緩やかな坂が眼下一面に広がっている。大地には隙間なく灰が厚く降り積もり、地表を覆っていた。
文献によればかつてこの地は緑豊かな場所だったらしいが、到底信じられないような話だった。
「ねぇ、ベール」
「どうしたんだ、ミラー?」
無線から会話が聞こえてきたので耳を傾けてみる。個別回線での通信は原則として禁止されていたが、今の僕にはちょうどよい暇つぶしだった。
「上の方で光っている、あれは何?」
「あぁ、それはきっと太陽だろう」
つられて空を見上げてみたが、それらしきものは見えない。辛うじて空に淀んだような灰色の雲が動いているのが分かるだけだった。
「タイヨウ?」
「シェルターの第一層に、植物栽培用の大きな発熱灯があるだろう。あれを大きくしたものだと考えればいい」
「でも、あれの光はとても弱弱しいよ。暖かさも感じられない」
「撒き上がった砂ぼこりや灰に光化学スモッグの混ざった物が、半永久的に地球を覆っているんだよ。太陽の光も熱も、ほとんど遮断してしまっているんだ」
「何回か調査に「外界」へ出ているけど、初めて見つけた」
「普段よりもスモッグが薄いのかもしれないね。僕は太陽がどこにあるのかも分からない。きっとミラーは目がいいんだろうな」
機器が計測完了のアラームを鳴らしたので、二人の会話を聞き入っていた僕は我に返り、作業を再開した。薄暗闇の中で仄かに光る液晶画面に表示された汚染値は、平常のそれを少し下回ってはいるが、別段驚くほどのものではない、という感じだった。
より確実性のある数字を出すために、同じ作業を数回繰り返す必要があった。数値が正しく記録されているか確認し、リセットする。小さな力で簡単に沈むような柔らかい地面なので、倒れないようにバランスを調整し、再設置してから開始ボタンを押す。代えの利かない電子機器の取り扱いには細心の注意を要する。僕のミスで壊れてしまえば、どんな罰則が課せられるか分からなかった。
一連の動作を終え機器が正常に動作していることが分かると、僕はほうっと息をついた。計測が終了するまで少し時間がかかる。単調で暇な時間が多い割に、ある程度気を配りつづけなければならないのだった。
僕が取れる行動の選択肢は極めて少なかった。再び周囲へ目を向ける。遠くの方でオレンジ色の点が2つ動いているのが見える。ベールとミラーだろう。オレンジの蛍光色で塗られている防護服が、時折二人が手に持つライトの光を反射していた。無線からは会話は聞こえてこない。僕が機器を操作している間に、班長が会話を止め、作業に集中するよう注意をしていた。
もっとも先ほどの会話を聞く限りでは、活動に特別な成果は無いようだった。もっともそれは二人に限った話ではなく、僕についても同様だったが。「外界」の活動で驚くべき結果が出たことは今まで一度としてなかった。
「コナン、観測はどれくらい進んでる?」
無線越しに班長のジルの声が聞こえた。気密性の高い防護服を着ている状態では互いの声を直接届かせることができない。先ほどの二人とは違って個別チャンネルを使用していた。
周囲を見渡してジルを探す。10メートル程離れた場所に立っていた。双眼鏡を目に当てて遠くを観察している。
「あと2回ほど計測しないと、正確な数字を算出できないよ」
「そう」
会話をしている間も、ジルは双眼鏡を目から離さなかった。
「その時間はない」
「どうして?」
「嵐が来るわ」
「…こちらに向かっている?」
「ええ」
嵐は変化の乏しい外界における例外だった。そして、「外界」で最も注意しなければならない事象だった。防護服さえ機能していれば身体への汚染の悪影響は非常に小さくなる。だが体が吹き飛ばされるほどに強い風や、金属さえも溶かすような酸性雨に耐えられるように作られていないので、死の危険性が格段に向上するのだった。
外界における一回当たりの活動時間は、酸素ボンベの容量や汚染への身体的負荷の事情から5時間を超えることはない。今までは嵐に遭遇することはごく稀なことだったはずなのだが…。
「どうも最近、天候が不安定だね」
「…観測作業は即刻中止して。急いでシェルターに帰還する」
僕の話を全く無視して、ジルは簡潔な指示だけを伝えてきた。
ジルは不愛想で口数も少なかった。だが、根は真面目で人の話は聞いてくれる人間だった。つまり、それほどまでに危機が差し迫っているような状況だということだ。
「了解。機器を片付けてくるよ」
ジルは無線でベールとミラーに対して速やかに集合することを指示してから、僕に言った。
「待っている間に終わらせて」
二人は観測地点からさほど遠くにいる訳ではない。速足で歩けば10分程度で合流するだろう。
電子機器は貴重品だ。取り扱いには細心の注意を払う必要があるので時間がかかる。
「私も手伝う」
ジルはそこでようやく双眼鏡を顔から離した。
風が強い。強烈な嵐の存在を背中に感じながら、僕たちは歩みを進めていた。
観測地点から「シェルター」への入り口は徒歩で3時間程度の距離だった。4人で縦列に並んで丘を登る。僕は列の最後尾で殿だった。
誰も口を開かない。外界の急激な天候の変化の恐ろしさは全員が承知していた。自然と足が早まる。最初に下ってきたなだらかな坂道を、より早い速度で上っているのだった。
まだ行程の半分も歩いていなかったが、既に僕は疲れを感じ始めていた。
身動きの制限される防護服を着用している上に、灰で覆われた地面に足元を取られるため、一歩一歩踏ん張るように歩く必要があった。
さらに僕たちは観測機器の部品を背負っていた。いかなる環境でも正常に動くよう大型で頑丈に作られている。細かく分割はできるものの、明らかに4人で運ぶことを想定した大きさではなかったので、一人一人の負担は大きいものだった。
額を滑り落ちる汗が鬱陶しかったが、防護服を着ているので対処のしようがなかった。
立ち止まって少しでも休みたい気分だったが、先頭を行くジルの歩調は変わらない。観測員として、時々に同行を命じられる僕とは違い、彼女は専門教育を受けていて、日頃より案内役として外界での活動に当たっていた。ジルと僕は同期だったが、身体能力には大きな差があった。
おまけに彼女は気候の天候の変化に敏感だ。僕でも強い風を感じられるくらいの距離に嵐が迫っているのだから、彼女が感じている圧力と恐怖は並々のものではないのだろう。普段は感情を露わにしない人間だったが、行動は案外愚直で、自分に正直だった。
そんなジルとは対照的に僕の前を歩くミラーはかなり疲れているようだった。歩速は次第に低下し、ジルとベール、僕とミラーの間隔が広がってきていた。
強風により灰が舞い上がっていて、視界が悪くなっていた。このままでは前の二人とはぐれてしまうかもしれない。
「ジル」
僕は無線の個別回線で連絡を取った。
「小し休憩の時間は取れないかな?ミラーが辛そうだ」
「…速度を緩める。荷物は私が持つ」
あくまで立ち止まるつもりはないようだった。
「5分でいいんだ。そんなわずかな時間も取れないくらい危ない状況にあるのか?」
「私は時計を持っていない」
「僕はそういう話がしたいわけではないんだけれど…」
どうもジルは個人的な感情を優先しているように思われた。
彼女とは違って僕は天候の変化を読む訓練を受けていないため、実際にどれほど近くまで嵐が迫っているのか、全く知りようがなかった。だが、彼女の性分を考えると、出せる限りの速度で無暗に「シェルター」の入り口を目指しているだけなのではないかと考えてしまうのだった。
常に死の危険性が伴う外界での活動は、案内役の判断が最も重要視される。まじて班長を兼任しているジルの言葉や行動は大きな意味を持っていたが、どうやら彼女はその自覚が薄いようだった。
「もう少し歩けば入り口につく。ミラーに頑張ってもらうしかない」
ジルはあくまで自分の意見を曲げる気は無いようだった。
もう一人の班員であるベールも、外界調査への参加は今回が初めてということもあり自分のことに手いっぱいのようだった。
時計を見やる。
「ジル、歩き出して1時間ほど経過している。行きの道は全体で3時間かかっている」
ジルは何も答えない。
「入口までの残りの距離は君にしか分からない。まだ3分の1も歩いていないかもしれない。もう一度聞くけれど、本当にこれは状況に適した速度の歩調なのかい?」
「…10分の休憩。計測はコナンに任せる」
とうとうジルが折れてくれて、全体回線で簡潔に伝えてきた。
僕たちは起伏が少し小さくなっているところで立ち止まり、観測器具を傷つけないように慎重に地面に置いた。材質の都合から防護服は柔軟性に欠けており、座ることはできなかった。
「ジルに助言したのは君か?」
休憩が始まってすぐに話しかけてきたのはベールだった。
自慢するような事でもなかったので、僕は簡潔に返事をした。
「ありがとう。本当は私がジルに言うべきだった。ミラーが後ろに付いてきていないことは分かっていたんだが…」
申し訳なさそうにベールは言う。
彼は僕たち3人よりも年齢が一回り上だった。常に落ち着いていて、その態度や言動からは知性と人生経験が伺えた。
「でも、ベールだって他班からの異動で、実務は今日からじゃないか?」
「あぁ、元々は外殻検査の方だった」
外殻というのはシェルターの最も外側で、外の空気と接しているドームのことだ。
「じゃあ意見しても、聞いてもらえないって考えるのが普通だよ」
初等教育を修了した後、能力適性に応じて各人は班に割り振られ、それから専門教育を受けるのだが、実際の活動は知識以上に経験に依る部分が大きかった。
基本的に最初に配属された班で、同じような労働に生涯従事することになる。事情は詳しく知らなかったが、ベールが受けた異動というのは相当に例外的な処遇なのだった。
「君だって臨時の観測担当じゃないか、コナン」
「僕はジルの同期だから昔から話すことが多かったし、彼女は話の分からない奴じゃないから…」
実際には他にも理由があるのだが、当たり障りのないことを言ってごまかしておくことにした。
「フーン…同期なら互いの能力は良く知っているという訳か。おかげで助かったよ。実は私も限界が近かったんだ」
ベールは穏やかな口調で言った。
「最初の実務なんだからしょうがないよ」
適当に話を合わせておく。頭に浮かんでいたのは異動の事だった。彼は気さくで物腰も柔らかかったが、問題が何かなければそのような処置がとられることはまず無いのだ。先入観と実態のギャップが却って不気味さを助長しているように感じていた。
ベールの次に話しかけてきたのはミラーだった。
「ありがとう」
ミラーは個別の回線で、他の班員には聞こえないようにコッソリと謝意を伝えてきた。
「大丈夫、気にしないで」
年少であるが故に、中々小休止を言い出すことができなかったのだろう。ミラーは班の中で一回り幼く、小さい体格だった。ジルと同じく外界案内役としての教育を受けていているが、活動に従事し始めてから日が浅かった。
彼が肉体的負荷の高い外界調査班に選ばれているのは、彼がわずかな変化も見逃さない優れた目を持ち、捜索活動にその能力を発揮できると判断された為だろう。だが、若年であることを考慮しても、その身体能力をお世辞にも優れていると評価することはできなかった。
「君が付いていけないのは別に今日に限った話じゃないだろ?」
「…うん。ジルは最近おかしいよ。常に焦っているように見えるし、異常が起こるとすぐに帰ろうとするんだ」
「それって僕の前任者が亡くなった時から?」
「…うん。知っていると思うけど、この前の嵐に巻き込まれてさ…」
「管制システムは、ジルの活動内容に責任はなかったと結論付けていたけれど」
前任の外界班観測担当は元々身体能力に難があり、しかも歳も取っていたようだから、天候の変化速度も加味すると、犠牲は不可避だったとの判断がされていた。
「犠牲を出したことなかったんだって」
「…自分が班を率いているときに?」
ジルは優秀なナビゲーターだった。自分の能力に自信を持っているが故に、ショックが大きいのだろう。
「うん。ジルはあまり話をするのが好きじゃないみたいだから、分からないけど」
ミラーは彼女を心配しているような声色だった。
「…じゃあ、僕がジルに聞いてみることにするよ」
ミラーは幼いし、過度に気を遣ってしまうタイプの子のようだった。
「本当?コナン、君は優しい人なんだね」
本当はジルの悩みに対して全く興味が無かった。だが一瞬の判断ミスで死にかねない危険な環境下において、最も重要な判断を迷いのある人間に任せることはできなかった。
僕は後任の初等教育が修了するまでの一時的は外界調査班員に過ぎないのだから、ジルに嫌われても別に問題はないだろう。
そこでちょうど時計が10分を刻み終え、音を鳴らしたので、ミラーとの会話を切る。
「ジル、時間だ」
「移動する」
荷物を降ろさないまま10分をじっと待っていたジルは、間髪入れずに歩き始めた。僕たち3人は慌てて荷物を担ぎ、その後を追った。
「そういえば」
どうしても気になることがあったらしく、個別の回線でミラーが尋ねてきた。
「どうしてコナンはジルのことを確認するような質問を僕にしたの?この前も同じことを尋ねてきたのに」