今を生きる
ある頃からスラム街の人々の態度や目つきが変わったように思う。
マグノリアは変化の手応えを感じていた。
(……まだ生活が安定していないから手放しで断言は出来ないけど、このまま行けば彼等はきっと大丈夫だ)
飢えは人間を変える。
性善説を全面的に肯定する気はさらさら無いが、荒んだ生活は確実に心を削るものであるのは想像に難くない。
彼等が受けた身体の傷も心の傷も、癒える事はまだまだ先であろう。
もしかしなくても、完全に癒える事なんて無いのかもしれない。
過去を忘れるでも乗り越えるでもなく、ありのままに今を生きられたら良い。
そう思いながら敢えて彼等には何も言わず、暫くそっと見守る事にした。
変化したての心はとてもデリケート。下手に指摘してやる気を削ぐといけないからだ。
そしてひとつひとつ確実にやるべき事をこなしていく。
端布は幾つかの工房や店舗で無理のない範囲で納品してくれることになった。
若い店主や親方、女性店主などが協力者として手を挙げてくれた。領主や他の店、工房と繋がりを持ちたいという野心ある人間が参入してくれているようだ。
大店などは様子見といった所なのだろう。
どちらの立場も考えも理解できるので、どうこう言うつもりも無い。無理に参加して足並みを乱される方が面倒なのだ。
集めた端布を使って、輸送中に瓶が割れないよう緩衝材にするためのマットのようなものを、練習がてらパッチワークで作ってもらう。
すっかり上達した婆ちゃんとリリー、時折マグノリアが確認と指導に立つ。
追加で手芸部隊に参入した人達は、みんなこんな事で良いのかと首をひねりながらも、めきめきと上達している。
そろそろ、少しずつ鍋敷きなどの簡単な製品を作り始めても問題ないかもしれない。
基本的なパターンを伝えて、行く行くは彼女達自身でデザインも出来たら、もっと幅が広がるであろう。
そしてリリーは最近侍女としての仕事より、事業関連の仕事が主という位八面六臂の大活躍である。果たして侍女としては良いのか悪いのか解らないけど……本人は嫌がっていない様子なのが救いだ。
「ガイ、綿……綿花って領地で取りぇる? そりぇとも輸入?」
「……お嬢」
パッチワークを練習しているおばちゃん達の上達が予想よりもかなり早いので、キルトの事を考えて発言したら恨めし気な目で見られた。
……流石に、働きづめ所か放っておくと仕事の山の上に更に山積みしてこようとするお嬢様に、苦言を呈するつもりらしい。
「今すぐじゃないケド……」
普段は陽気な護衛から視線を逸らす。
……綿花は春まきだった記憶があるので、取り掛かるなら早めに用意が必要だろうと思うのだ。
「……けど、何なんすか? それ、絶対やるって顔っすよね? 新しい事はクロード様が帰ってくるまでストップですよ」
そうジト目で言いながら、両手で大きくバツを作る。
セルヴェスも完璧に駄目な事は止めに入るが、許容量が他の人間より大きいのか、ただただ孫に甘いのか。余程の事でないと駄目とはならない。
――領地のためと言えばそうなのだが、とにかく大忙しなのだ。
湯水のようにアイディアが出まくる(ように周りには見える)マグノリアに、誰かがストップをかけなければ仕事はどんどん留まる事を知らずに山積みされていく事だろう。
小さな従僕殿は本日は馬車の御者とふたり、四地区の水車小屋の確認と骨粉末の引き渡しに出ている。僅か六歳にもかかわらず、マグノリアに立派にこき使われているのだ。
ジト目のまま肝心のマグノリアを見てみると、どこ吹く風で考え事をしているようだった。
……また新しい事を考えてるに違いない。ガイはそう確信する。
そしてその通り、駄目なら駄目で彼女は別の方法を頭の中で展開し始めている。
(うーむ。これはパウルに要確認かなぁ。綿花の事まで知っていれば良いけど……)
地球では暑い所で栽培される事が多い植物だった。こちらでも同じなのだとしたら、イグニスでも取り扱っていたかもしれない。更に布工房の親方に聞いてみれば一般的な市場価格も解るかもしれないと考える。
「……全然聞いちゃいないじゃねぇですか……」
ふむふむとひとり納得するお嬢様に、げんなりするガイであった。
*****
季節は進んで春が来ると、更に忙しさが増す。
一斉に畑にキャベツ苗が植えられ、パプリカ種の発芽状況など、様々な確認と作業に追われる。
冬から春にかけてと社交の時期が長期のため、前半の任期(?)を終えて帰ってきたクロードは、積みあがった仕事を見て大いに眉を顰めた。眉間に見た事も無い位の立派な渓谷が出来上がっていた。
後半……いや、クロードに残り三分の一程にまけてもらった社交と会議に出掛けなければならないセルヴェスは、嘆きながら馬車に押し込められた。
あれならばありもしない言い訳を考えて、早々に帰ってくるかもしれないなと皆が思う。
セバスチャンは最近は落ち着いた家令は返上しているらしく、幾つもの書類を手に、何本あるのか解らない見えない足を回転させて相変わらず館を走行しまくっている。
この前はプラムまでもが同じように走っていた。
キャベツは通年採れると言っても過言ではない位、それぞれの季節で栽培される野菜だ。極端な暑さや寒さでない限り、栽培と収穫がなされる。
農家では秋まきキャベツが収穫の時期を迎える。
市場に出回り始めるため、余って破棄するようなら農家から買い取りを行って、先行してザワークラウト作りを始める事にした。
生鮮品店へも捌き切れないようであれば買い取りを行うと、再度周知を行う。
「手はしっかり洗って下しゃい! 器具の殺菌を忘りぇないで!」
教会の調理場と食堂は、工房と化している。
徹底した手洗いと殺菌を口が酸っぱくなる程に訴えるマグノリアに、人々は初め苦笑いしていた。
衛生観念が違い過ぎるのは仕方が無いので、身につくまで唱え続けるしかないのである。腐ったものを流通させるわけにはいかない。
健康を守るもので健康被害とか、笑えないではないか。
そうこうしていると練習で作ったもので幾つか傷んだものが出たので、これ幸いと皆に臭いや味を確かめてもらった。
こうなっては売れない事。万一間違いで流通してしまえば苦情が来る事。全て破棄になる事。そうすると皆の給料の上乗せ分がどんどん減っていく事。何より人を助ける筈のものが人を病気にしてしまう事をマグノリアは説明した。
あれこれ手を広げているようでいて、マグノリアが無駄な事をしない事はみんなが知っている。
彼女が行えと言う事は、それなりの意味がある筈だ。
お嬢様の本気の説明に率先して手洗いと消毒に気をつけるようになるのは、そう時間はかからなかった。
「マグノリア様! 何か手伝えることはありますか?」
後ろから声をかけて来たのは孤児院の子ども達だ。教会に併設されている事は知っていたが、彼等は仕事をしていると知ると、興味深そうに見学を願い出た。そしていつからか手伝いをかって出るようになっていた。
仕事を覚え、技術を身につけたいのだそうだ。
孤児院から社会に出ていくのは、なかなか厳しい現実が待っているらしい。
どこかの家の子どもとして引き取られて大切に育てられるならまだしも、成人して働くとなると、偏見や差別から苦労が多いと聞く。
普通の生活を送るのが困難で、スラム街の住人になる者も多いそうだ。
「じゃあ、糸を編んで紐を作ってほちいの。余りゅようなりゃ瓶につけるカード作りもお願い。調理を覚えたい人は賄い班に合流ちてお手伝いをちて下しゃい」
手を切らないように注意をすると、心得ているとばかりに頷いた。
廃材として集まった長めの糸は瓶の口に縛る紐作りに活用する事にした。短すぎるものは緩衝材兼練習として作っているパッチワークのマットの中身として入れてしまう。
……綿の代わりにはならないが、捨てるよりは良いだろう。穴も塞げないような屑同然の布も同じく。
焚き付け用に欲しい人が居る場合は公平に分ける。
印刷所で裏表を印刷してもらった紙は決まった大きさに切っては折り曲げ、小さな見開きのカードのようにしてもらう。上の方に千枚通しで穴を開け、編んだ紐を通してもらい出来上がった製品に結びつける。完全手作業だ。
瓶に一つ一つ糊で貼り付けるより失敗が少なく、何より情報量が多い。
一面に商品名と産地と工房名、開いた二面と三面にシンプルなザワークラウトのレシピと注意点。裏側である四面目に簡単に病気の注意と対応方法(食事療法)が書かれたものだ。
これをつける事には賛否両論があったが、マグノリアには譲れないものであった。
利益を損なうような行動は商売としては有り得ないのかもしれないが、儲けよりも命の損失を防ぐことが第一だからだ。自分が会えない人々、実際に関われない人々にも、命を救うために商品と共に情報を伝播させる。
……真似される? それは上々。それこそが狙いだ。
儲けは次の、そのまた次の手もある。それが駄目なら更に考えがあるのだ。材料もそう高いものではない。大丈夫。
反対は初めだけで、マグノリアが真剣に説明するとすぐに収まった。
全くもって荒唐無稽であり、商売としてはどうなのかと思うが。それでもマグノリアが言うのなら大丈夫なのだろうと思う事にしたのだ。
信じて精一杯に自分が出来る事をする。文字通り全員が一丸となって事を成していた。
*****
そうして出来たものをクルースに持ち込む。
広場の空いている場所に、簡易的な小屋……もとい、店を建てる。
その辺は領主家特権を使わせていただいた。露店を少しマシにした程度のものではあるが、露店よりは製品をきちんと管理出来るであろう。
軌道に乗れば普通の露店にしても良いし、もう少し引っ込んだ場所にきちんとした店を構えてもと思っている。
無理を言って(セルヴェスが)幾つも取り寄せさせた冷蔵の魔道具で、品質をより良く保持するために完成品は冷やしながらの販売と管理になる。
「パウル、大丈夫しょう?」
強張ったような顔で頷く彼は、西部地区の責任者を担ってもらっている。
一通り流れを習得した彼はひとり西部へ戻り、店の準備と関係各所との調整をし、宣伝を行っていた。
更に、諸事情でなかなか働けない人を店員として、数名採用もしていた。
「大量購入すりゅ人には、後日の納品になりゅ事を伝えてね。必ず事前に必要な量を知らせてもらって?」
そうでなければ、在庫がすぐ空になってしまうであろう。
多少在庫を作ってからの販売ではあるが、どう動くであろうか。
今も領都の教会では次々とザワークラウトが作られている。多分受け入れられるのに少し時間が掛かるだろうが……受け入れられたら、皆が思っているよりも断然大きな取引が飛び込んでくる筈だ。
そしてもう少し先には、春の初めに自分達で蒔いたキャベツが大量に出来上がる。
更にそこから一か月も経たない内にパプリカが採れ始める。そこからがもうひと頑張りだ。
「……本当に畑からだったのですね」
「ベリュリオーズ卿。デュカス卿も。見回りでしゅか?」
何とも言えない声色のイーサンがため息混じりに店を見回した。
彼も話半分というか、まさか本当に畑作りからするとは思っていなかったのであろう。
「今日こちらにいらっしゃるとの事でしたので」
にこりと笑うユーゴは相変わらずの紳士ぶりである。若干強面ではあるが。
マグノリアとしては中身の自分と同じ位の年であろうユーゴはとても話し易い。優しいし余裕があるし、高圧的でもなければ無駄に突っかかっても来ない。とてもラクである。
時折中間管理職の悲哀を感じる所も、年相応で好感が持てる。
「お忙ちいのに」
「仕事ですからね?」
細められた鳶色の瞳に笑いかける。
治療を始めてひと月程経った頃、残っていたシャンメリー商会の船は帰っていった。全員無事に回復をしたそうで、港に居る外国から来ている商人たちの間でちょっとした話題になったそうだ。
港町では果物や野菜をよく食べるようにするという話が出回ったらしいが、伝言ゲームはどこかで捻じ曲がるのが相場である。
本当の事も間違ったことも出回っているらしかった。
どこからか聞きつけては、実際の経験者であるパウルの話を聞きに来る人も何人もいるらしい。
マグノリアは人の流れとパウル達の動きを見るために、少し離れた所で、店の真正面に立つ。
(……流れが悪ければ、試食を配っても良いかも。良すぎれば、急いで畑に走る事になる)
ディーンには品出しの手伝いを、リリーには売り子と商品説明の手伝いをお願いしてある。クロードは騎士団の制服を着て店の奥に立ってもらい、万が一の牽制と抑止力を発揮してもらう事になる。
ユーゴとイーサンは周囲の見回りに出ていった。
「……ガイ、キャベツの収穫は少ち先だとは思うけど。早く実ってりゅのもありゅんだよね? そして予想通りの領地全域からの買い付けでヨロシク!」
ガイは頷いて、指笛を吹くと何処からともなく複数の鴉がこちらを目指して飛んでくる。そして眉と肩を同時に上げると半笑いで確認した。
「……お嬢。これって想定内なんすよね?」
港町のあちこちからゾロゾロと多種多様な人種の人々が、雲霞の如く店を目指してくるのが見える。
上手く行きそうだと安堵する所なのだろうか? それとも戦慄を覚える所なのか。
「……まあ、ありゅ程度は。健康は皆気になりゅ所だもんねぇ。ちょっと宣伝が効きしゅぎな気もしゅるケド。わたちはお店に戻りゅよ」
「わかりやした。あっしはこのまま各騎士団に鴉を送ったら、現物調達に行きやすよ」
言いながら、次々と通信筒に手紙を入れては放っていく。
今までは物事を比較的領都に近い範囲で行なってきたが、原材料を購入したが為に買占めと同じようになってしまったり、一部地域での値が高騰し過ぎないようにしなければならない。領民の生活を圧迫するような事にはしたくない。
少し離れた場所からも……領地全体から物品(今回はキャベツ)を供給する必要がある。充分なキャベツの確保(自分達の収穫)まで、繋ぎの数が必要だ。
「うん。お願い。領地の人が食べりゅ分までは買わないで。あくまで余剰分ね? 足りない分は待てりゅ人には待ってもらうかりゃ」
「了解したっす!」
そう言うとマグノリアは小さく両頬を張り気合を入れると、小走りで店に向かって走り出した。
文字通り、新事業が本当の意味で走り出す事になる。
――そちらも文字通り台風のような、暴走列車のような勢いで。




