どんどん知識を吸収しよう
文字表は、一日もしない内に覚えてしまった。
そう、ご存じの通りマグノリアは元日本人だ。
ひらがな・カタカナの五十音は言うに及ばず、漢字数千字を普通に覚え使い熟す、という教育がなされる民族である。
たったの三十字(この世界のアルファベットもどきは三十字だった)。数字も基本十字を組み合わせるらしい程度なので……ましてやどこかで見たことがある文字だ。
瞬殺である。
ただ、アルファベットに似ているということは、表音文字ということだろう。表意文字と違い、雰囲気で読んだり理解することがし難いとも言える。ある程度の規則性はあるだろうが、それを身につけるまでは手探りだし丸暗記になる。膨大な単語を覚えるのはそれなりに手間が掛かりそうだ。
ダフニー夫人の授業は、毎回というのは流石に引率する侍女達にもマグノリア的にも憚られ、二・三回に一回程度の割合でお邪魔している。
質問や発言をしたいのは山々だけども、どう考えても三歳児にそぐわないものになってしまいそうだし、第一、正式に教えを乞うている身でもない。謂わば、無料受講を見逃してもらっている立場なのである。
ちゃんと学習した方が良いのはブライアンでもあるし、ここはグッと我慢我慢……と思っている。
指定席となりつつある兄の隣に座り、授業を受ける様子には違和感が無い。
集中力が無いブライアンに比べて、鬼気迫るような表情で授業を受けるマグノリアに、正直、侍女達もダフニー夫人も感心と称賛を持っている。
……そんな周りの様子を感じているブライアンは、正直面白くない。
元々両親の影響もあってか、マグノリアに対して余り良い感情を持っていない。常に自分が一番でありたい少年は、度々やって来ては先生に褒められる妹が疎ましくてしょうがないのだ。
そしてもう一人。たった一人の正式なマグノリア付きであるロサも、今の様子に薄らと危機感を抱いていた。
両親に疎まれている少女を守る為には、目立たずひっそりと、隠れるように育てなければいけない。
自分には、根本的にはマグノリアを助ける力は無い。
それならば、長い人生を出来るだけ安全に暮らせる術を身につけさせた方が良い。そうロサは考えている。
ほんの一か月半前まで、マグノリアはとても大人しい、穏やかな子供だった。
だがある日を境に、ガラリと性格を変えてしまった。
表面上変わったところは無い。
寧ろ、駄目なものや無理な事には滅多にワガママを言わなくなり、こちらを思い遣るような言動を見せるようになった。
まず、両親に会いたいと駄々を捏ねることが一切無くなり、かわりにマナーを教える様にと言って来た。いつも大人しく座っていた筈が、自分たち侍女に沢山の質問を浴びせ、何かを確認しているような様子を見せ始めた。
こちらが促さなければ外へ出ることが無かったのに、自分から頻繁に庭に出向くようになった。一旦廊下へ出れば、好機とばかりに色々な場所を見たがる。
すれ違う下働きの者を以前の様に避けるのではなく、労い、笑顔で積極的に話し掛け、慣れると、自分達にとは違う質問を浴びせるようになった。
紙と書くものが欲しいと言われ、屋敷の外に出る事は出来ないのかと請われ。
兄妹仲が悪く、苦手だった筈の兄君とお茶会をしたいと言われ。そこで嫌味を言われれば今迄の様に涙を浮かべるどころか、笑って受け流し。
手伝いでマグノリアにつく二人の侍女にも、部屋の外へ余り出さない様に、余計な事は答えない様にと釘を刺したが、怪訝そうな顔をされて訳を尋ねられた。
そして、屋敷に雇われる時に旦那様や家令に言い含められる『当家の娘について他言はしない』と言う契約の内容にも疑問を呈された。
そんな事があってか、漂う侍女間の微妙な緊張感を察すると。
マグノリアはロサには何も尋ねることは無くなり、何かを考える様にずっと窓の外を見るようになった。
そして、ロサの休憩や休日などに庭や屋敷内の散策へ出向き、自分の疑問を確認する行動を起こすようになった。
そして今。
いつの間にかダフニー夫人の許しを得て兄君と同じ授業を、兄君よりも理解して聴いている。
きっと、近い内に見つかってしまう。
どんな未来が待っているのか、想像がつかない。下手をしたら……瑕疵をつけて遠くへ嫁がされてしまうかもしれない。そうしたら、もう二度と屋敷の誰とも逢う事は無いだろう。
可哀想な侯爵令嬢をどう守れば良いのか、ロサは途方に暮れていた。
一方のマグノリアは、ダフニー夫人に頂いた文字表を写したり、ダミーのお絵描きをしたりしながら、心の中でブライアンと一緒に課題をし、覚えた単語の書き取りをして『幼女が兄の真似をして勉強をしている風』を強く装いながら、夫人の齎す知識を貪欲に聞きかじっていた。
まだ基礎力が相変わらずな兄にそれらを施しながら、少しずつ、歴史・文法・算術・詩歌・文学・音楽史……時には論理の初歩や哲学的な話へと無理ない範囲で伸びていくダフニー夫人の手腕に感心をしていた。
この世界は解らないことだらけだけど、知識欲が旺盛になってしまったらしいマグノリアにとって、知らない文学や詩歌、哲学の類は『面白いもの』であった。
やることが他に何も無いという事もあるし、不安からの逃避もあるだろう。更には圧倒的に足りない娯楽のせいか、面白い位、知識が頭に沁み込んでゆく。
ブライアン相手の講義であるから、簡単かつ解り易い。
兄は悪戦苦闘しつつ勉強しながら、一つの題材で他の教科の基礎力も少しずつ磨かれて行くという寸法である。
学習指導要領なんてものはなく、『学校』や『基礎知識』の示すものが曖昧なこの世界において、現実的な読み書き計算、マナーに加え、貴族として浅く広い教養を身につけるという方法は、なかなか現実に沿った選択なのかもしれなかった。
何かに興味を持ち、より深い教養を身につける手助け、下準備し、心への種を植える。
多分そういうことなのだろう。
ダフニー夫人は良き教師であった。
侍女達の話によれば、若い頃は王宮で女官をしていたそうだ。
元々貴族の家庭教師は、自分の専門について教える事が多い。
貴婦人である貴族女性は、マナーや行儀を教えることが多いらしく、音楽や文学など、得意なものがあれば加わることもあるらしい。
歴史や算術など他の教科は、学者や元教師など、専門家の分野なのだ。
わざわざ専門家にご教授願う程の能力と興味が、ブライアンにあるのかは甚だ疑問だけれども……多くの教科を解り易く、かみ砕いて教える夫人の能力は、大したもんだと思う。
マグノリアが『つもり風』を装っていることも、薄々気が付いているようで。
「お嬢様にも差し上げましょうね」なんて言いながら、兄のそれより詳しい文法の説明やら、読んでおくべき本のリストなどを、基礎的な課題のプリントならぬ木札に紛れ込ませて渡してくれる。
……マグノリアは良くわからないと、さり気に視線を外して誤魔化しているが、「その内お役に立てば」そう、含んだような微笑みを静かに浮かべている。コワい。けど有難い。
余り頻繁に出入りすると、あっさり足がつきそうだなと考えながら、アスカルドの文字でアスカルドの文法に則って、簡単な作文を作る。我ながらだいぶ上達したとマグノリアは思う。
自動翻訳機能のお陰で一応話せるからなのか、はたまた日本での知識があるからなのか。もしくはマグノリアの基本スペックが高性能なのか。説明を受ければ、当たり前のように簡単に身についた。
この様子なら、ボキャブラリーが増えれば、ある程度は本から知識を得ることも容易いだろう。
将来的にこのまま目覚めず、転生してしまった世界(仮)で生きて行く場合、貴族として生きて行くことと平民として生きて行くこと、両方を想定して学ばねばならない。
基本は平民として生きて行こうと思っている。
のびのびウハウハお姫様ライフも捨てがたいが、この両親の下ではそう遠くない未来に、とんでもないところに嫁に出される未来しか想像できず、のびのびもウハウハも出来ないと思うのだ。
元々日本で平民として暮らしていたのだから、こちらの平民の常識を身につければ何とかなるのではないかと思っている。
……凡そ知る家事や労働が、二十一世紀の日本に比べて、べらぼうに重労働であることは想像に難くないが。
どう転んでも根っからの貴族では無いマグノリアにとって、貴族社会に馴染んで社交界で生きて行く、という未来が全く思い浮かばない。
それよりも、平民として生きるという選択は、至極当然のように感じた。
願わくは、地球の中世のように暗黒時代ではなく、ある程度衛生的で医術が発達していてくれることを祈るばかりだ。
一番面倒なのは、今の忘れられた存在として無教育のまま、幼いまま、貴族社会に放り出されてしまう場合だ。無力すぎる。
ライラが教えてくれた教養の座学の範囲は、出来る限り早々に学んでしまいたい。
……勉強が出来たからどうとも言えないのだが、知っている筈の知識は持っていた方が弱みが少ない。何につけ誤魔化される範囲も少なくて済む筈だ。
前世の知識の程には、一般的な貴族の、それも嫡子でもない子女には求められていないだろうと思う。其々の分野を其々数十冊程読み込めば、取り繕える位の付け焼き刃位には、何とかなるであろう。
無理強いされない限り、王立学院に行くつもりもない。
両親も多分、入学させるつもりもないであろう。
……最終手段は修道院だ。
ラノベでは悪役令嬢が幽閉される場所にされてるけど、地球の中世・近世の修道院は、結構女性に寄り添った施設であり、受け皿であった筈。
勿論幽閉先の一つでもあっただろうけど、本当の幽閉は屋敷の離れや収容塔や牢獄だ。
修道院は礼儀の学習場所であり、駆け込み寺であり、炊き出し支給場所であり、老人ホームであり。「困ったら修道院」的な――この世界ではどうなんだろう。
以前に、この世界は『修道院から結婚』だと瑕疵になる、みたいな事を聞いた気がするけど……『修道院から就職』という選択肢は存在しないのだろうか。うーむ。
(今度ライラにでも聞いてみよう)
*****
「おおぅ……」
デイジーに図書室に連れて来て貰う。ここまで長い道のりだった!
武家の家門と聞いて、余り期待していなかったけど、意外にも沢山の蔵書があった。
ギルモア家はそこそこ古い家柄らしく、かなり年代を経た書物や、歴史書、領地・領政に関するもの、其々の時代の当主が好んだのか、文学や芸術的な分野のもの……そして、武家らしく沢山の兵法書が揃えられていた。
雰囲気は、小中学校の図書室と言う感じだろうか。
柔らかなカーテンに遮られた光と、穏やかにたゆたう小さな埃と。
古い本独特の匂いと、嗅いだことが無いこの匂いは羊皮紙なのだろうか?
何故か懐かしいような、安心する香りがする。
壁に作り付けられた高い、大きな本棚が隙間なく並ぶ。
四、五十帖位の部屋の端の方に、こぢんまりと置かれた机。間を縫うように遮るように、幾つかの設置式の本棚が、人が通れる位の隙間を開けて背中合わせに置かれ、沢山の蔵書が並んでいる。
中二階になった螺旋階段の上にも机と本棚があるらしく、階段を見上げながらマグノリアは小さく息を吐いた。
(図書室に螺旋階段。すっごい素敵……!)
一般的な貴族の館の蔵書がどんなものなのかはわからないけど、取り敢えず小棚一つとか、スカスカとかではなく、ちゃんと充分過ぎる蔵書を目の前に安堵した。
「鍵が掛かった書棚以外の本は、自由に借りられるそうですよ」
「わたちが借りても大丈夫かちら……」
「お嬢様はご本を汚したりされないでしょうから、大丈夫ですよ」
ぐるりとゆっくり見て回ると、棚の下の端の方に、誰かの使ったものらしい、王立学院の名の入った本がある。……教科書なのだろうか。
顎の下を指で摘まみながら考える。
多分、取り敢えずこれらをさらった方が効率が良いだろうと思い、数冊手に取って机の上に置く。絵本のような類はなく、ダミーと言うか、物の名前を覚える為にも、園芸書のようなものも一冊取る。
「デイジーも本、持って行くよね?そりぇともここで少し読んでかりゃ帰りゅ?」
「いえ、時間が掛かってしまうといけませんから、決まったらお部屋へ帰りましょう」
埃っぽい図書室は長居は無用と、デイジーはマグノリアが選んだ本を手に取る。
「流石にお子様が読む本は、ここには殆ど無いですからねぇ……あら、これは難しいのではないですか?」
教科書を見て、申し訳なさ気にマグノリアを見て眉を下げる。
「お兄しゃまと一緒でしゅ!」
幼女の真似したがりを演じておく。まあ、と華やかな笑みを浮かべると、
「良くお勉強の本とわかりましたね! 王立学院の前期課程の教科書ですねぇ……」
中身をパラパラと捲って確認する。そして、こちらも良いかもしれませんよ、と言ってデイジーが見繕った短い物語も加えてくれた。
「重いよね?手ちゅだうよ!」
手を伸ばすと、キョトンとした後にくすぐったそうに笑って、薄めの本を一冊手に持たせてくれた。
幼女のお手伝い心を汲んでくれたのであろう。優しくて、なんて可愛いんだろう。
思わずニンマリしてしまった。