マーガレット
マーガレットは、現在、全く別物ともいって良いマナーと礼節を叩きこんでいるところだった。
その間、デビュタントでのマグノリアの言葉が耳から離れなかった。
――『確かに小さい内から教育されたほうが立ち居振る舞いは自然と身につくでしょう。ですが低位貴族の基本的なマナーや礼節はそう難しいものではありません。小さな子どもでも習得可能です』――
――『……その言葉、ポルタ様を貶めるものですわ。おやめ下さいませ』――
――『蓄積のない幼児でも出来るのですから、大人に近い上、上級クラスに籍を持つほど優秀なポルタ様でしたら、効率的に身につける術をお持ちの筈ですわ』――
聞けば彼女は、『妖精姫』と呼ばれているらしい。
そんな儚げな可愛らしいお嬢様が口にした言葉は、数年前の夏の出来事と同じ様に辛辣で厳しかった。
初めは高位貴族特有の嫌味が混じっているのだと思って哀しく思っていたが。
だが、マグノリアが言った事は本当の事で、嫌味も誇張もなかったのである。
デビュタントの数日後、アーノルド王子の側近の中で一番礼節に詳しいルイに聞いてみれば、低位貴族のマナーの基本位は、貴族教育を始める前にある程度は出来るようになっている事が暗黙の了解なのだそうだ。
貴族教育は、大体七歳前後から始められる事が多いという。
だが丁度ルイやマーガレットの世代は、アーノルド王子が誕生した為、高位貴族の多くが早期教育を始めたそうで。
王子の婚約者であるガーディニアは、三歳位には低位貴族のマナーを押え、四歳で王宮に招かれたそうだ。
(四歳……生まれた時からその環境にあるとはいえ、実質一、二年で覚えているのだわ……)
ガーディニアが特別に優れたご令嬢である事も確かではあろうが、マグノリアの言う通り、成人に近い知恵がある人間がいつまでも出来ないと言っているのは甘えであろう。
そういう気持ちがあったのは確かだ。
みなしごになり、仕方なく貴族の父に引き取られたのだ。自分がなりたくて貴族になった訳ではない、と。
挨拶ひとつにしても、頭や視線の下げ方、腰の落とし方までいちいち細かく指定することに意味が見いだせないと。
それよりも元気よく、相手が明るい気分になるような雰囲気を心掛けた方が良いのにと思っていたのだ。
現に、アーノルド王子やそのご友人達は、そんな飾り気のないマーガレットを可愛がってくれた事に、肯定されたような勘違いをしていたのだ。
その世界で生きて行かなくてはいけないのなら、その世界のルールに則る事も必要であろう。
平民の中で暮らすのに、貴族の様な挨拶をすれば失笑されるのと同じで、平民の様な仕草であの煌びやかな世界にいては、自分も周りの人間も失笑されてしまう。
(何よりも、みんなと……あの人の隣にいてもおかしいと思われない位の立ち居振る舞いを身につけたい)
身分はどうにもならない。
婚約者がいるのに、奪おうなんて勿論思わない。
……だけど……
(だけどせめて、友人として隣にいても恥じない位のご令嬢だと言われたい!)
マーガレットに出来るのは、自分を目標の位置まで引き上げる為に努力する事のみだ。
そう決心すると、マーガレットはのめり込む様にマナーと礼節のレッスンを熟して行ったのである。
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デビュタントでの一件は、社交をあまりしないポルタ家へもすぐさま伝わった。
更にその場に居合わせた異母兄も事態を重く見たらしく、両親にマーガレットへの教育の重要性を念押しする事になった。
本当に王子と恋仲になるなんて……一時の戯れだとばかり思っていたのに。
戯れどころかどんどん仲が深まり続いていく事に父は慌て、義母はかつての恋敵を見るようで非常に不快を感じていた。
人の相手を攫っていく女。彼女達はちょっとでも隙を見せれば容赦なく奪って行く。
可愛らしい見目と何も出来ない様なそぶりで、これと思った男に近づいていくのだ。
何も知らない様な純朴そうな顔をして、あの女もこの娘を身籠っていた。
――せめてもの救いは、この娘の場合は息子達の出世に役立つかもしれない事位である。
本当に汚らしい。
ポルタ夫人はマーガレットと同じ空気を吸うのも嫌だと、心の中で叫ぶ。
いつも彼女が屋敷にいるときには、極力顔を合わせない様にしている。正妻である自分が何故そんな風にこそこそしなくてはならないのかと思うが、四六時中顔を合わせていては、言ってはいけない言葉を吐き出してしまいそうで仕方がない。
今もこの世のすべての祝福を受けたかのように笑う顔を目に入れないように、夫人は瞳を伏せて、鼻と口を扇で覆った。
ただ、このままではポルタ家が迷惑をこうむる事になってしまう。
――あんな娘の為ではなく、全て息子たちの為。
夫人は知人の伯爵夫人に頼み込み、マーガレットは高位貴族女性のマナーと礼節を習う事になったのである。
養子の事情を慮った伯爵夫人は、快くその役目を引き受けてくれたのであった。
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「だいぶ、自分のものとして身について参りましたね。よく頑張りました」
「ありがとうございます。全て夫人の教育の賜物ですわ」
マーガレットの教師役を買って出た伯爵夫人が、顔を綻ばせて褒める。
マーガレットはご令嬢らしい様子を崩さないままも、愛らしい表情で微笑み礼を言う。
元々子爵家出身の夫人は、伯爵家へ嫁いでなかなかに苦労をした。
伯爵家といってもそう大きな家でもないので、まだそれ程というところではあったが、嫁ぐ為に重ねたレッスンは、今までの礼節に比べて段違いのもので、もはや別物と言っても過言でないと思ったものだ。
社交界での噂とポルタ夫人のご苦労を聞くに、どんな令嬢かと思ったものだが。
実際にふたを開けてみれば、非常に素直で呑み込みの良いお嬢さんであった。
元々平民であったという事から、マナーの重要性を理解しないまま形をなぞっただけであったのだろう。
上位クラスに在籍している程優秀であるから、そこと絡めば叩かれる事も予測できたであろうに。そもそも入学前にもう少しマナーも学べば、こんな事にはならなかったのだろう……
ただ、ポルタ夫人の気持ちも解る訳で。
メイドに夫を盗られるだなんて、腹立たしいにも程があるだろう。
そんな女の娘を引き取り育てるというのは、どれほど屈辱的か。
家や息子の為なのだろうが……それでも表面上は同じように学院にまで通わせ、なかなか出来る事ではない。
あるところの奥様は、マーガレットと同じような境遇の娘を引き取り、下働きとしてこき使っているという。
別の奥様は、曰く付きの高位貴族の後添えにしたというではないか。嫁いで数年後、その娘は儚くなったと聞く。
そんな噂があちこちに転がっているのだ。
それに比べれば罵倒するでも叩くでもなく我慢して、ちゃんと子どもとして遇するだけマシというもの。
現在、社交界では意見が二分している。
ガーディニアが不憫だという意見と、王子の寵愛が増すマーガレットが側妃になるのではないかというものである。
正妃に、なんていう世迷言もあるらしいが、流石に男爵家の……それも平民出身のご令嬢が正妃はありえないであろう。
本来なら寵姫がいいところであろうが、王子の溺愛ぶりから、側妃として押し通すのではないかと噂されている。
――王宮も怖い場所である。はてさて、この子はどう泳いでいくのだろうか? 案外、しぶとく図太く泳ぎ切るのだろうか。
「……では、音楽史はお読みいただくとして、実際に歌ってみましょうか……」
「承知いたしました」
伯爵夫人は瞳を細めると、美しい微笑みで楽譜を手渡したのだった。
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「マーガレット、疲れてはいないか?」
「大丈夫でございます」
「……ここでは普通にすると良い。素直なマーガレットの方が良いぞ?」
困ったような辛いような表情をしたアーノルド王子が、マーガレットにお茶を勧める。
マーガレットは輝くような微笑みを向けた。
ある休日の、王宮の庭でのひととき。
「教師をされているご夫人も、とても褒めているそうですよ」
ルイが労うようにマーガレットに教えてくれた。
後どの位、こんな時間が続くのだろうとマーガレットは思う。
春にはアーノルド王子もルイも学院を卒業してしまうのだ。
友人と言っても、学院を去り立場が変わってしまえば、こうして王宮に呼ばれてお茶をする事も無くなって行くであろう。
そして次の年に……
ガーディニアが卒業すれば、ふたりは結婚してしまうのだ。
――嫌だ、と心の中で叫ぶ自分と、祝福しなくてはと涙を流す自分がいる。
好きになってはいけない人なのに。
解っていても心が止められないなんて……
自分が側妃になるのではという噂がまことしやかに出回っているらしいが、そんな事はありえないだろう、そう思っている。
自分がそんな大役を熟せるとも思えないし、アーノルド王子からも何も言われていないのだ。普通、そんな気があるのだとすれば、話のひとつやふたつ出るであろう。
それに、正妃としてガーディニアがいるのである。
いつでも彼の隣に。
――そんなの、耐えられるであろうか? それなら始めからそんな夢など見ずに、綺麗な友情のまま大切に、この気持ちだけ抱えて生きて行きたい……
「……どうした?」
「いいえ、なんでも」
マーガレット以外には見せない優しい表情で問い、マーガレットも愛らしい様子で小さく首を振った。
王宮の庭を、甘い香りを乗せた風が通り過ぎて行く。
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『……こりゃぁ、いよいよエラい面倒な事になって来よったな?』
『修羅場☆ラバラバ♪』
――左肩におっさんな虫はデフォルトだが、なぜかマグノリアの白い小鳥が己の頭の上に乗っているのだが。
「…………」
最近小鳥……ラドリがおっさんな虫のところに遊びに来ては、まるで止まり木のようにブライアンの頭や肩にとまっている。
もしや王宮にマグノリアが来ているのかとみんなハラハラしていたが、ただ単におっさんな虫のところに遊びに来ているのだと(小鳥に)言われ、全員がホッと息を吐いたのであった。
おっさんな虫曰く、どエラいおっさんなご令嬢ことマグノリアは、ここにいる全員に怖がられているらしく。
解る。思わずブライアンは同意した。
……実は実妹でありながら、ブライアンも会うと緊張するのは内緒である。全然全くちっともこれっぽっちも勝てる気がしないので、なるべく関わらないように生きて行こうと思っているのであった。
何はともあれ。王子の護衛をしながら、いったいどうするのだろうかと目の前のふたりを見て考える。
王宮の庭を甘い香りを乗せた風が通り過ぎて行くが、ちっとも心安らがないのは何故なのだろうかとブライアンは思う……
『修羅場☆ラバラバ♪』
『ラバラバ☆バラバラ!』
「…………」
……思う。
『バラバラ☆パラパラ♪』
『パラパラ☆焼き飯!!』
「ええい、やめいっ!」
ブライアンは上半身を激しく振っては小声で怒鳴りながら、おっさんな虫とウザい小鳥を払い落した。
麗らかな木陰の四阿での、ある午後の事である。




