閑話 気がかりな侯爵令嬢(ダフニー夫人視点)
私はダフニー伯爵夫人。若い頃に城で女官をしておりましたが、二人目の子どもを産んだ時に体調を崩し、女官を離職いたしました。
産褥が思わしくなかったのか、数年程体調不良で過ごしましたが、回復後は高位貴族のお子様達の家庭教師をしております。
二年ほど前、ギルモア侯爵家から嫡男であるブライアン様に、基本的な知識を教えて欲しいとご依頼がありお引き受けいたしました。
数年前代替わりした国王に待望の御子が御生まれになり、高位貴族の家では我が子を王子の側近に、または王太子妃に。低位貴族ならば側妃に……と、近年稀に見る早期教育ブームが国中で起こり、王都では特に過熱しています。
王子の四歳上と年周りも良く、ギルモア家の嫡男ともなれば、側近入りは確実でしょう。
通常通りの七歳での教育始めは、遅い位とも言えます。
――まあ、あのギルモア家の嫡男ですから。遅すぎる教育も、事前に基本は浚ってあるか、いとも容易く巻き返すのかもしれませんが。
『武のギルモア』と言われ長い歴史を紡ぐ侯爵家は、代々優れた武人を輩出する家門として名高く、先代のセルヴェス様、現アゼンダ辺境伯は、特に並み居る武人の中でも屈指の名将と言われています。
数十年前の大戦では大きく勝ち続け、二十歳そこそこで『常勝の赤鬼』とも、自ら先陣切る鬼気迫る豪快な太刀筋から『悪魔将軍』とも言われていました。
傾国の美姫と謳われた、あの儚げなご母堂から産まれたとは思えぬ筋骨隆々の赤毛の大男は、良く見れば顔立ちは整った美男であるにもかかわらず、非常に男臭い無骨な見てくれでありました。
その姿に似合わず、学問も意外に優秀で知られており、音楽と芸術を愛する殿方でもありました。
その息子である現ギルモア侯爵・ジェラルド様は、祖母と母から受け継いだ優し気な風貌の策士。
腹に一物も二物も重ねて隠し持ち、父親程ではないもののその辺の騎士より余程強い剣武の才を持つ、ギルモアの頭脳と言われております。
将来は宰相かと言われていましたが、出世欲が無いらしく、のらりくらりと躱していて。
幼くして養子に入った義弟のクロード様が、優秀過ぎる頭脳から『稀代の天才』と呼ばれ、また余りある剣の才から『アゼンダの黒獅子』と呼ばれている事を利用して、自らを『ギルモアの凡人』と称していたり。
……長男の彼は嫡男としての役割を優先する余り、自分がしたい事を後回しにしただけ。
同じような優秀な頭脳と剣の才をもつ彼は、尖った爪を隠して、冷めた目で周囲を見回しているのです。
そしてその息子であるブライアン・クリス・ギルモア。
社交界の三花と呼ばれた内の一人、バートン伯爵家のウィステリア様との息子である彼は、父親譲りの金髪と、母親譲りの瑠璃色の瞳の可愛らしい少年であります。
中身はと言えば……飽きっぽく、集中力の無い、身体を動かす事が大好きな『ごく普通の少年』でした。
ギルモア家の人間らしく、剣の才はあるようですが……
相見える教師を目の前にして、緊張を露わにし、覚える様子も考える内容も極々普通の、どちらかと言えば優秀とは言い難い様子の少年でした。
(……まあ、あの三人がおかしいだけで、これが普通なのでしょうけどね……)
名家の嫡男と言う事で甘やかされたのか、自分を特別だと思っている少し尊大な、けれど根は素直な少年。
ギルモア侯の教育にやや肩透かしを食った気分になりながらも、ダフニーはかみ砕き、必要な教育を施して行く。
遠くに赤子の泣き声が聞こえる。
ブライアンが赤子のいる部屋の方なのか、顔を向けため息をついた。
「……煩い」
「使用人の子ですか?」
彼の乾いた口調からあたりをつけて聞くと、その答えに耳を疑った。
「妹です」
妹。
ギルモア侯爵家のご令嬢と言う事だ。
未来の王妃最有力候補。
……ギルモア侯爵家に女児が誕生したという話は聞いたことが無い。
昨年、珍しく三か月ほどウィステリア様が社交界に顔を出されないと、体調不良らしいと社交界で口の端に上った事があった。
程無くして復帰された姿は変わらずお元気そうだと、噂はそれっきりだった筈。
元々細身な彼女はお腹が目立ちにくい。ドレスのデザインも選びさえすれば、妊娠したとしてもかなり後期にならないと目に見えて解るということは無いだろう。
本当に目立つ一、二か月を家に籠り、産後程無くして復帰されたと言う事か。
(本当に社交界がお好きなのねぇ……)
しみじみと心の中で呟く。
それにしても。時期を計算すればもうじき一歳になろうと言うところか。
この国の貴族は、子どもが誕生して半年~一年程の間に盛大なお披露目を行う事が多い。
(何か……不都合があるのかしら……)
出産は命がけだ。それは母だけでなく子も同じ。
体力が無い分、何かあった場合は子の方がリスクは高いとも言える。
事故があったり、生まれつき何か発育に不都合な事がある事も少なくない。
その場合は病弱と言う事でお披露目をしない事がある。
「……そうですか。それはおめでとうございます。妹御はお元気で? ブライアン様に似ていらっしゃいますの?」
にこやかに問いかけると、勉強に飽きていたらしい彼は、話に食いついた来た。
「ううん。別に、おめでたくなんてないです。顔は曾おばあ様に似ているって言ってました。朱鷺色の瞳で。良く泣いているから元気だと思います」
「――――」
朱鷺色の瞳で彼の曾祖母と言えば、アゼンダ辺境伯の母、アゼリア様だ。
いまいち要領を得ないものがあるが、言葉通りお元気でアゼリア様に似た女児なら、母親など軽く凌駕する美姫になるであろう。
祖父母や親たちが口々に褒めそやす、今はなき北の国の王女様。
ダフニー夫人は遠い遠い昔に想いをはせる。
国を滅ぼされ、とある国の後宮に閉じ込められるところを数多くの国が待ったをかけた。
文字通り大陸中の、多くの国の要人の心を奪った傾国の姫。
当時元王女を巡っての諍いの激化を懸念して、我こそはという者を集め武道会にて彼女の身代を決めたという。
並居る猛者を押しのけて、彼女の夫の座を見事勝ち取ったのは先々代のギルモア侯爵。
ところがギルモア侯爵は彼女の身の上を想いやっての勝ちで、自分と結婚せずとも良いので、秘密裏に身を隠すか、行くところが無ければ領地で静かに暮らし、好いた者が居ればその人物と結婚すれば良いと彼女に申し出たのだ。
そんな侯爵の優しさに心を打たれた姫は、約束通り降嫁し、一年後子宝にも恵まれ、幸せに暮らしたのだ……
『騎士侯爵と妖精姫』は今でも人気のお芝居だ。
全くの現実なのか、どの程度フィクションが混じっているのかはわからないが。
小柄でお顔立ちが幼い事もあってか、かの息子と並ぶと、母親というより姉の様であると言われ続けていた事は知っている。
ダフニーが九歳の時に母と一緒に招かれたお茶会で、女同士の陰険なやり取りに疲れてこっそりとテーブルから抜け出した。ギルモア家の庭園を歩いていると、低い草木の間から大きな足が覗いていてギョっとする。
誰か具合が悪いのか、まさか死んではいないかと恐る恐る近づいてみると、赤毛の大男が大きな鼾をかいて眠っていた。
(ギルモア家のセルヴェス様……?)
貴族の、それも侯爵家の嫡男だというのに、地べたに大の字で鼾をかきまくる豪快な寝姿だ。
(お茶会にいらっしゃらないと思ったら、お昼寝していらしたのね)
思わずため息をつく。
しかし大きな男だ。先程初めてお会いしたこの男の母君であるアゼリアを思い出し、生命の神秘を感じる。
三十歳だというアゼリアは、二十代、ヘタをしたら十代と言っても通用するかもしれない儚げな女性だった。
細く嫋やかな腕、折れそうな程の柳腰。あどけないと言っても差し支えない顔立ち、けぶるようなピンクの髪。小さな顔に収まる朱鷺色の大きな瞳――。
「セル~! セルヴェスーー!!」
遠くから鈴を転がすような声が聞こえる。
目の前の男を起こすべきかと思い、声を掛けようとした、その時。
「敵襲!!」
低い声で唸りながら、大男はガバリと起き上がった。
「ひっ!?」
「ん?」
目の前にいる小さい女の子を見て、意外に優し気なこげ茶色の瞳を瞬かせる。
「……おや、君も茶会を抜け出して来たのかい? 迷ってしまったのかな?」
楽し気に低い声で笑うと、服についた芝生を乱雑に払って立ち上がった。
どの位あるのか……予想以上に大きな身長差で、思わずあんぐりと口を開いたまま、首を精一杯反らして見上げた。
「あーっ、セル!!」
低木からひょっこりとび出た頭をみつけたのだろう。怒りを滲ませた声がすると、隣のかなり上の方から小さくヤベっと声が聞こえた。
「ちょっと!あなた、さぼって何をしてるのっっ!?」
挨拶とは打って変わって(声はかわいいけど)がなり立てながら、アゼリア様がドスドスと走って来ると、息子の鳩尾に向かって思いっきり渾身の右ストレートを打ち込んだ。
「ぐっ!」
「……っ!?」
思ってもみない状況に、両手で口を覆い、声も無く驚いたまま固まっていると、アゼリア様はドレスの後ろ側からステッキのようなものを取り出し(何処に入っていたの?)跳び上がってぽこん。とセルヴェス様の頭に打ち込む。
「もう!たまにしか帰って来ないからお茶会を開けば!!」
何度も跳び上がっては、ぽこん、ぽこんと叩いている。
「イタっ、痛いってば! ……母上ぇ!!」
痛がりつつも頭を両手で庇いながら、避けるでもなく打たれ続ける彼は彼で、甘んじてお叱りを受けているのであろう。
ステッキの先(頭)には、拳の形に彫られた飾り石がついている。もしや……
「げんこつ……?」
思わずぽつり、呟くと、いつもは優美な眉をきゅきゅーっと吊り上げて息子を叱っていたアゼリア様は、振り上げる手を止め、大きな息子の後ろを覗き込んだ。
「まあ、ダフニー様? どうされたの?」
うって変わって優しい声色で問いかける。
まさか名前を憶えられているとは思わず、ダフニーは小さく息を飲んだ。
「申し訳ございません。不慣れなもので、少し外の空気をと思いお庭に出させて頂いたのですが。迷ってしまい、ご子息様に見つけて頂いてご案内頂いていたのです」
ふたりはおや、という顔をして小さな少女を見る。
目の前で叱られている青年を庇おうと、咄嗟に言い訳を考えたらしかった。
ふたりは目配せして小さく笑うと、
「そうなのですね。息子のおさぼりが役に立ったようで宜しかったわ。体調は大丈夫ですか?」
小さく頷くのを確認するや否や、キッと息子を見上げて、
「セルヴェスはダフニー様にお庭をご案内して差し上げて。体調が戻られた様ならお部屋にお連れして差し上げてね?」
「へーい」
言葉遣いは丁寧でも、下町の親子の様な気安い二人のやり取りに、思わず目を瞬かせる。
いそいそと茶会へ戻るアゼリア様を見送ると、
「さてさて、小さなお嬢さん。お手を取る許可を頂いても?」
九十度に腰を折りながら、目を合わせると恭しく大きな手を差し出した。
おずおずと手を乗せると、背を戻す途中で彼は身長差に苦笑いをする。
「うーん、エスコートは無理そうだねぇ」
二メートルを超えるであろう大男のセルヴェスは、自分の腰辺りにある頭の主を見て、失礼、と言うとあっという間に片手でダフニーを持ち上げ、肩に座らせた。
「きゃ!?」
高い。物凄く高い。思わず首に抱きつくが、はっとして、慌てて手を離す。
まるで荷物の様に軽々と抱き上げられ、
「さて、もう少し息抜きに付き合って頂いても宜しいかな? さっきは鬼軍曹から庇ってくれてありがとう」
短く刈られた髪は軍人のそれで、男らしい骨格に収まった精悍な口元を緩めて笑った。
(……くまさん……)
穏やかな茶色の瞳は、自分の部屋にあるこげ茶のクマのぬいぐるみを連想させた。大きくて力強いけど、心優しいくまのお友達。
のしのしと庭の奥に足を進めると、オランジェリーが見えて来る。
勝手知ったる様子で手を伸ばし、オレンジの実を二、三個捥ぐと、ひとつをダフニーに差し出した。
「喉が渇いたでしょう? ひとりで剥けるかな?」
小さな女の子を怖がらせないように、おどけた様子で笑う顔立ちは、意外にもとても甘やかだった。
――――手に乗せられたオレンジの様な。さわやかで、甘くて、ちょっと酸っぱい。
九歳の女の子の、淡い初恋の香りだった。
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その後、誰からもギルモア家のお嬢様の話を聞くことも無く、若きギルモア侯爵らしからぬ様子に内心やきもきしていたが……ある日、気がかりだったお嬢様自らが目の前に飛び込んできた。
三歳になったお嬢様は、見目麗しい小さな女の子だった。
多分、アゼリア様が幼かったらこんなお顔だろうと思う程にそっくりな見目。
人と余り交流せず話さないからか、発する音が拙い。
しかし音とは真逆のアンバランスな内容と、理知的な瞳。
そのくせこちらが見せた些細な気遣いに、破顔して喜ぶ笑顔。
若き侯爵が、王家と距離を取ろうとしていることは察せられる。
鼻も頭も回る者たちが少しずつ王家から距離を取り、野心溢れるものが近づこうと画策する今。
小さなお姫様はどうなってしまうのか。
老婆心ながら侯爵に差し出口をしたのがいけなかったのか、暫くすると再び姿を見ることが叶わなくなった。
(……話したのは失敗だったかしら……)
屋敷の奥の奥、固く重い扉の中に閉じ込められた侯爵令嬢。
やんごとなき美貌のお姫様。
かの曾祖母の様に、その身を攫い、身を挺して護ってくれる人物に巡り合う事が出来るのか……。
そんな、とある夫人が心痛める秋の午後。
……やんごとなき筈のお嬢様は、心の中で盛大に聞いた事も無い粗雑な言葉で悪態をつきながら。
その扉を自らぶち破る為、アップを始めた模様です!




