ガーディニア
ガーディニアは、領地の薬草園に視察に出ていた。
目の前に広がる一面の薬草たち。
ガーディニアにとって緑とは整えられた庭であったし、旅行先の長閑な田園風景であり、遠くに見える山々である。
アゼンダで一面に茂るパプリカ畑をみて心底驚いたものだが、まさか数年後、植物は違えど自分が畑を作る事になるとは思ってもみなかった。
貴族の子どもは年少期は領地で過ごす事が多い。
よって、意外に子どもの頃は自然の多い場所で、のんびりと過ごす事も多いものだ。
だが王子と同年代に生まれた大貴族の子女は、側近や妃になる為に、王宮のある王都で過ごしている者も少なくなかった。なので領地といいつつも、実は良く知らないという者も意外に多いのが現実だ。
ガーディニアもご多分に漏れず、生まれてからずっと王都で暮らしている。
王太子妃になる為だけに生きていると言っても過言でなかった彼女だが、今は新しい事業の方に気持ちが大きく傾いていた。
正直、他の女性に気を取られ、己をぞんざいに扱う婚約者にかまけるよりも、しっかり目に見えて結果の出る事業に取り組む方が何倍も楽しい。
事業は手を掛ければ手を掛ける程数字となって示されて来るし、領民は心を砕けば砕く程、それ以上に愛情を持って接してくれた。
身分差のある世界で、貴族であるというだけで大した事をしなくても、普通でさえあれば尊敬され敬われる。
シュタイゼン家は酷い貴族ではないものの、そのベクトルは領地・領民よりは王家や貴族達に向けられていると言っても過言ではない。
領地とは収入源であり手の掛かるものであり、どこか遠くにあるものだった。
領主である父が、また次期領主である兄が管理するもの。話には聞くが、年に一度位旅行として訪れる場所であるもの。
薬草園の管理を任せている農園主が、心底嬉しそうにガーディニアに言う。
「……お嬢様が我々の生活や領地の事にお心を砕いて下さり、みんな感謝しております」
「そんな、感謝だなんて……」
本来、領主の家の者が領地に関心を持つのは当たり前の事だ。
領地と領民の為に尽くすのが領主の筈であるのに……
(私は、今まで何を見て来たのだろう……)
最新のドレス、美容に芸術。家柄にあったマナー。気配りと目配り。社交界での立ち位置……
貴族である以上、それらも押さえるべきものであろうが、もっと根本的な何かが欠けていたのだ。
「私の……いえ、領主家の人間の方こそ、いつも領民のみなさんに感謝しています。いつも領地と領主家を支えてくれてありがとうございます」
「お嬢様……!」
感極まったような農園主の顔を見て、ガーディニアは微笑んだ。
それらの様子を、後ろから黙ってガーディニアの兄は見つめていた。
歳の離れた兄は嫡男として、ガーディニアとはある意味、真逆に育てられた。
王子の側近とするにはいささか歳が離れている事もあり、そのせいもあってか学院に通う以外の殆どを領地で過ごしている。逆に殆どを王都で暮らす父の補佐の為、実質的に領主の仕事を取り仕切っているのはガーディニアの兄だ。
屋敷に帰る馬車の中で、兄はしげしげと妹の顔を眺め口を開いた。
「随分変わったんだね」
「そうでしょうか?」
どこか他人行儀な兄妹だが、それは歳と生活が離れていたから仕方がない。貴族の兄妹としては案外よくある関係だ。
「こんなに領民に心を砕くようになるとは思わなかったよ」
兄は楽しそうに笑うが、ガーディニアとしては耳が痛い。
「ガーディニアにとって、領地って自分の場所じゃなかっただろう? 以前領民が久しぶりにやって来た君に挨拶をしたら、凄い顔で見ていたもんな」
「…………」
そうだ。ガーディニアにとって自分の居場所は王都であり、こんな片田舎ではないと思っていた。織物が盛んな土地であるシュタイゼン領は、当然それに関連した仕事に従事する者が多い。
かつて小さいガーディニアが愛らしい動物を見たら喜ぶと思って組んだ領地視察だったが、動物の臭いに終始顔を顰めたばかりか、汚れる為に粗末な服で作業をする人々が手を止め頭を下げたのを見て、眉を顰めないまでも、汚いものを見るような冷たい瞳で見ていたのを兄は見ていたのである。
「汚い平民風情が、私に言葉をかけるなんてって感じだったからね」
その通りだった。
片田舎の領地を、どこか軽んじてみていたのは確かだった。
平民は貴族に従うもの。自分は貴族であり、彼らを従え導く者だ。更には自分は選ばれた人間……貴族でも大貴族の家に生まれ、王子の婚約者であり、行く行くはこの国の王妃であると思っていたのだ。
何も見えていない、愚かな少女だった。
「……大人になったんだね。そんな君なら、立派な王妃に成れる事だろう」
「どうでしょうか……」
自信はありませんと言った。正直な気持ちだ。
かつてマグノリアが領民の為に心を砕き行動する事に、疑問しか持てなかった。
創意工夫をし、様々な事を成し得る領民の力と、自分の知らない事を知る領民の知恵に、今は素直に尊敬をしている。
『平民なくして貴族の暮らしはない……我々は平民に支えられて暮らしている』
マグノリアに言われ、何を世迷言をと思っていたが。
事業を立ち上げ協力を仰ぎ、その力を知る今、それは真実だと知っている。
「以前は、綺麗で貴族のご令嬢としては優秀だけど、生意気で鼻持ちならない薄っぺらな人間だと思っていたからね」
「まあ、随分正直に仰いますのね……」
面白そうにいう兄に、呆れたように返すが。
確かにその通りの人間だ。今だって見えていないものも多いだろうし、人として未熟である。
そして、兄はそんな妹を見てどう思っていたのだろうと思った。
また、領地を省みずに過ごす、同じ子どもであるにも関わらず自分をまるで見ない両親をどう思っていたのだろうかと……
――そんな事も見えなければ気遣えもしない人間なのだ。自分は。
「……王都は、いや、王子の周りは大変なようだね」
「お恥ずかしながら……ご存知でしたのね?」
兄は気遣わしげな表情でガーディニアを見ては、視線を足元へ落とした。
「田舎に引っ込んでるとはいえ、一応筆頭侯爵家の嫡男だからね」
「不徳の致すところですわ」
兄は、うーんといって窓の外を見た。
「これでもね、君の努力は知っているつもりだよ……小さい頃から自分の立場を理解して、良く頑張っていたと思っている」
だけどね、といった。
「まあ、同じ男として、王子の気持ちもちょっと解かったりもしたんだ」
「…………」
ガーディニアは、自分と良く似た兄の顔をまっすぐ見た。
「多分王子は、君に苦手意識を持っているんだろうね。何でも良く出来て、努力家で、間違わない人間」
Miss・パーフェクト。兄はそういって微笑んだ。
余程の事がない限り覆らないこの婚姻は、安心と煩わしさの両面がある。
王子にとって、ガーディニアは既に自分のものであり身内である。逆も同じだが。
多少ぞんざいにしたところでどうって事もない。
反面、好ましいとは思えない見目を持った上に、いつでも正しい事ばかりを言って来ては堅苦しくて安らげないガーディニアを疎ましく感じていたのだった。
「……正しさは大切だけどね、まして立場が立場だからね。ただ、年がら年中小言ばかり言われ続けるのも、有難い事だと解かっていても疲れるものだよ」
はじめは好意的に受け取ったとしても、否定ばかりでは心も疲弊して行く。
仲良くしようと思っても駄目出しばかりが返って来ては、いつしかなけなしの好意は消えて拒否感が募って来る。
「両陛下もあんな感じだから、忠告出来るのは自分だけだと、王子の為を思って言っていたのだろうけど……一生一緒に歩む相手から全く賛同がないというのも辛いものだよ。捨てれる範囲のものは目をつぶる度量も必要な事だ」
そうだ。はじめは王子もこんなに心の距離があった訳ではない。彼なりに未来の妻を大切にしようとも思っていたし、一緒に色々楽しめればと考えていたのだ。
子どもらしく一緒に遊ぼうと誘ってくれたし、食べたら美味しかったからと、わざわざお菓子を用意してくれた事も一度や二度ではない。
勉強ばかりでは疲れるからと、王太子妃教育の合間に散歩に連れ出してくれた事もある。
……反面、ガーディニアといえば、その遊び方は危ない、汚れる。それよりももっと本を読んだらどうかと返した。
なにか貰っても、お気遣いは嬉しいがお手数をお掛けするのは申し訳ないからと、礼よりも恐縮の気持ちの方が大きかった。
息抜きをする暇があったら勉強をと思っていたし、実際に言った事もある。
はじめに自分の気持ちを押し付け、気遣いを否定したのはガーディニアの方だ。
勿論ガーディニアなりに気遣い、彼の為を思い、考えた上での言動ではあるが……
本当に相手を思うなら、彼の気持ちも汲み、本当は思いっきり走ってみたいと思っていたのだから、一緒に楽しんだら良かったのだ。
時に一緒に失敗をして、一緒に反省すれば良かったのに。
恐縮するよりも、喜んで欲しかったのだ。彼はガーディニアの笑顔を見たかっただけなのに。
頑張りを労い、そんなに頑張り過ぎなくてもいいと言ってくれていたのだろうに……
「悪い事は悪いと跳ね除けるべきだけどね……でも、人間関係を構築する上で共感する事は大切だよ」
その通りだ。ガーディニアは頷く。
社交ではそれが出来る筈なのに、どうして彼に対しては出来なかったのか。
甘えだ。余裕がなかったのだ。
未来の夫ならば、その位は汲んで欲しい。立場があるのだから解かって欲しい。そう思っていたのだ。
苦手に思いつつも、彼なりの歩み寄りだったのに……
「……殿下は元々優しくて愛らしい見目の方がお好みなのですわ。多分生理的に苦手なタイプなのだと思います」
彼の好みは。
そう、例えば優しそうで可愛らしい、マーガレットのような容姿の持ち主。
優しくて自分を受け入れ、褒めて伸ばし、同時に素直に頼る事の出来るマーガレットのような気質の女の子。
「……まあ、その辺は好みの問題だからね……君は充分、美しいと思うよ」
兄の言葉に、ガーディニアは苦笑いをする。
同じ顔をした兄は、自分も美しいと言っているようなものだが。
「男は単純だからね……本当に大切に思うからこその苦言だろうけど……それでも大切な人間に褒められたいし、頼られたいし、認められたいものだよ。馬鹿だと思うかもしれないし、本当に馬鹿だけど愛らしい存在だよ」
「いえ。全くその通りですわ。けして馬鹿だとは思いません……確かに人は、肯定されたい生き物ですわ」
男でも女でも。
自分が辛い立場になった時、マグノリアに肯定して貰えたのはとても有難かった。
あの時今の兄の言葉を聞いても、ちっとも心に届かなかっただろう。それよりも反発して、腹立たしく……自分を理解されない事に哀しくて、解かってくれないと嘆いた事だろう。
「……あ……」
それなら、王子は?
何かに行き当たったところでガーディニアは唇を引き結んだ。
「……もしだが。話が流れるような事があれば、気兼ねせずに領地に帰ってくると良いよ」
兄はガーディニアを優しい瞳で見ていた。
彼女と同じ、蒼い瞳で。
「ここは君の居場所でもある。今の事業を拡げてもいいし、のんびりと普通のご令嬢のように暮らすも構わないだろう。人生の選択肢はね、ひとつじゃないんだよ」
慈愛に満ちた言葉。
ガーディニアは、兄が思いのほか懐の深い、そして愛情深い人間である事を知った。
……離れて暮らしていた事が、今はとても惜しい事だと思う。
若い頃から領地を任されるだけの手腕は、嫡男だから出来るという訳ではない。
ガーディニアが来れない時、仕事の傍らに采配してくれるのは何も管理を任せている人間だけではない。兄も色々と心を砕き、手伝ってくれている事を知っている。
それは多分、領地の為になるからというだけではないのだ。
ガーディニアの王都での様子と、自分の居場所を作ろうとしている事もすべて知っているのだろう……
心の中で頭を下げる。
「お兄様……領地の事や、お兄様が領地でどんな風にお育ちになったのか、教えてくださいますか?」
「ええ? 何も珍しい事などないけどねぇ」
ゆっくりと馬車は向かう。離れていた時間を、ゆっくりと取り戻すように。
向かうはシュタイゼン家の屋敷へ。
王都のそれよりも素朴だが充分に立派な屋敷は、長い事留守にしていたが、確かに自分の居場所のひとつなのだと思えた。




