ヴェルヴェーヌ
ここから数話、周辺の人間の話となります。
教会の朝は早い。
初夏の清々しい空気を吸い込み、小鳥のさえずりに耳を澄ませた。
以前にも、夜勤明けや不寝番終わりに東雲色に色づく朝焼けを見たものだが。何も持たない今、ただそこにある空や花々がこれほど美しく貴重であると初めて知った様に思えた。
……この歳になってそんな事を知るなんて、なんて愚かなのだろう。
結局大切だと思っていたものは、全て指の間をすり抜けて行ったのだから。
ここへ来て半年程は、自分の境遇に涙する事ばかりだった。
恨みと嫉妬と焦り。全てが……努力も費やした時間も、全てが一瞬にして崩れ去った。
脅迫観念のような責任感とちょっとの優越感が、いつしか取り返しのつかない出来事へと発展して行ったのだ。
当時、追い詰められていたとも言えるし、視野が狭くなっていたとも言えるだろう。
一端のつもりでいたが、世界の裏側を歩く人間からすれば、ただの世間知らずの女でしかなかったのだ……自分は利用されたのだ。
再び時が経ち少し余裕が出来ると、自分がしてしまった事への後悔と恐怖、時に諦念に駆られた。
全て受け止めてくれそうな司祭、心優しき修道士達。
そして、厳しい境遇でも前向きに生きる子ども達。
教会に隣接されている孤児院の子ども達の姿には、学ばされるものがあった。
……死別など、止むを得ない理由で孤児院に来る者だけではなく、親に捨てられてここにいる者も多数いるのだ。恨んで捻くれてもよいものを、子ども達は明るく前向きに過ごしている。
外の世界はなかなか厳しいと聞く。差別は当然のように存在するし、働き口も受け入れ先も狭く、賃金も安いらしい。
「でも、マグノリア様が商会を作って下さったから、そこで働ければ他の人と同じお給金を貰えるんだよ!」
「だからって、こんな小さな子を働かせるの?」
思わず責めるような言葉が口をついて出た。自分の命を救ってくれた相手だというのに……
だって、小さい子どもなら給金なんて安いのだろう。孤児院への寄付金とやらで済まされて終わりかもしれない。ヴェルヴェーヌはそう思う。
ところが、子ども達は顔を見合わせて首を振った。
「する・しないは自由だよ? ギルドで仕事を受けるのと同じだけの金額が出るし、お小遣いが欲しいからしているだけで」
「それに、元々孤児院で間借り(?)をしていたから優先的に仕事を回して貰えるんだ。小さい内から仕事を覚えていけば、デカくなった時に有利なんだよ。普通は工房に入らなければ覚えられない仕事を覚えられたりするんだ」
多くの平民の子ども達は、親元にいる普通の子でも知人の店や工房、ギルドなどで簡単な仕事を貰い、自分のお小遣いを稼いでいるのだそうだ。
孤児院の子ども達は、学校の帰りに屋台で食べ物を買いたいので、手伝いをしているのだと教えてくれた。
更に、スラム街や孤児院出身者達の生活を改善する為に立ち上げた商会があるお陰で、差別のない勤め先が出来たのだという。
そして、就職する頃に色々な技術を身につけていれば、普通の工房でも好条件で就職出来るのだそうだ。
王都にまで流れて来た噂は、全て本当だったのだ。
大貴族の、美しさと才能に恵まれた少女。
多分自分は現実を見ずに、ただただ嫉妬していたのだと、しみじみと叩きつけられた様に感じられた。
「……なぜそんなに頑張れるの? 親を恨んだりしないの?」
ヴェルヴェーヌの言葉に子ども達は顔を見合わせた。
「……まぁ、正直何でだよ、とは思うけどさ」
「そんな事いつまでも思っていても腹は一杯にならないしねぇ」
「そんな事より将来、ちゃんと生活出来るようにならないと」
「親もよんどころない事情があったのかもだし」
「どうしようもない事に構ってるよりも、自分が同じ事をしないように、しっかりしないとね!」
子ども達は実にしっかりと、現実的かつ前向きに。たくましくも自分たちの境遇を受け入れて、乗り越えていたのだった。
ヴェルヴェーヌは、自分の考えと行いを恥じて、口篭もった。
この頃から、司祭に懺悔をするようになった。そして暇があれば神に祈るようになる。
……神に縋るとか、正教に救いを求めるという為の行動ではなかった。ただひたすらに自分の感情を吐き出し、考えを纏める為。
段々と客観視出来るようになって来る頃には、少しずつではあるが、様々な過去を受け入れて行く事が出来るようになって来たのだった。
子ども達に話を聞き、彼らの親への気持ち。そして境遇への感情。更に未来への考えを聞いた。
初めは大人が何故そんな事を聞きたがるのか不思議そうであったが、何度も教えて欲しいと願うと、朴訥とした言葉で語ってくれるのだった。
それは、ヴェルヴェーヌが自分の生い立ちや境遇を受け入れて行く為に必要な問いだったのだ。
自分より遥か年下の子どもの、心からの言葉。
それはヴェルヴェーヌにとって、司祭の説法よりも教典のありがたい教えよりも、血の通った本物の答えだったのである。
そしてこの数ヶ月ほど、ヴェルヴェーヌは自分がしてしまった事に向き合う事を決めた。
人身売買の為攫われた家族を持つ人の、時に本人の、心の叫びを聞く事にしたのである。
懺悔と同じように、誰もいない空間で心が少しでも軽くなるように、お話をお聞きするのだ。
「うちの子が、どうして……!」
血を吐くような嘆きと恨み、深い悲しみ。
行き場のない苦しみ……涙が止まらずにただただ、泣き続ける人もいる。
行方不明のままの人、帰って来たが身も心も病んでしまっている人。希望しない子どもを身ごもっている人。
何もなく無事だったが、ある事ない事噂が広まり追い詰められている人。恐怖でひとりで外を歩けなくなった人……
自分は誰の命も、直接は奪っていない筈だ。
だけど自分が関わってしまった事で、こんなにも苦しんでいる人がいる。
想像ではない目の前で放たれる現実の重さと重大さに、ヴェルヴェーヌは震え、言葉をなくし、吐き気を催した。
(私は、とんでもない事を……!)
張り付く喉とカラカラに乾いた口を、懸命に動かす。
「……それは、大変な事だったのですね」
「憎い! 憎い!」
髪を振り乱すご婦人を前に、どう答えればいいのか解らなかった。
言ってしまいたい。自分がしたのだと。
だがマグノリアからは、絶対に自分が関わったとは言わないようにと念を押されている。
――言えば命の危機さえあるからだ。
そしてこれは、ヴェルヴェーヌの罪を許して貰う為にしているのではない。
あくまで残された家族や、被害を負った本人と家族に寄り添い、励まし、乗り越える為にする行為なのだ。
苦難を受け入れ、昇華する為の手伝いをする為の行為だ。
だが、途轍もなく辛い行為なのだと知った。
想像していたよりもずっと。
ヴェルヴェーヌは何も言えず、一緒に泣く事しかできなかった。
(御免なさい、御免なさい……!)
「……泣いて下さって、ありがとうございます」
「~~~~~~~っ!!」
――違う! お礼なんて言わないで!
声が漏れないように、手で口を押えて強く首を振る。
贖罪――
一生背負うそれは、途方もなく重いものだと知り、戦慄を覚えた。
引っ越して来て数日。ダフニー夫人が教会を訪れた。
質素なワンピースを着たヴェルヴェーヌは、深く頭を下げた。
夫人が非常に矜持と責任感と愛情をもって、女官の仕事に取り組んでいた事を知っている。
「女官の職を貶めるような事を致しまして、誠に申し訳ございませんでした……!」
ダフニーは静かに近づくと、そっと背中を撫でた。
「……生きていてくれて、良かった」
小さく紡がれた言葉。心からの言葉だ。
沢山の心を込めた言葉を聞く内に、ヴェルヴェーヌは心からの言葉というものを感じられるようになっていた。
かつての上役は、本当に自分の身を案じてくれていたのだ。
有難さと不甲斐なさ。そして申し訳なさで一杯になり、我慢しきれなかった涙が、はしたなくも溢れ出てしまう。
ダフニーは、堪えている熱いものを押し止めて、声が震えないように己を奮い立たせた。
王宮に勤める女官の矜持である。
「ヴェルヴェーヌ、泣いている時間はありませんよ。我々は未来を担う紳士・淑女を育てあげねばなりません」
「……はい!」
ヴェルヴェーヌは涙に濡れる顔を上げ、背筋を伸ばして手を揃え、返事をする。
かつての女官の鬼と呼ばれた表情で、ダフニーはヴェルヴェーヌに向き直った。
「お手伝い頂けますね?」
「はい、勿論でございます」
「宜しい。では、こちらを。春から使う事になる教科書です。一週間で全て読み、改善点を挙げて下さい」
そういって、かなり大量の草案を手渡された。
「承知いたしました」
ヴェルヴェーヌも女官の顔で返事をする。二年程離れたところで、十年二十年と繰り返され、身体に染み付いたそれは衰えることはない。
そんな元後輩を見て、ダフニーは表情を緩めたのだった。




