嵐の誕生日・前編
マグノリアの目の前には、二メートルを超すであろう筋肉の塊がぷるぷると震えていた。
少年漫画真っ青なマッチョを超越した堅牢な筋肉に慄くが、こげ茶色の瞳は優しく、普段は厳つい顔つきなんだろうに、それが切なげに歪められていた。
(……ああ、この人はちゃんと愛情を持った人なんだな……)
人間は、上手く取り繕っていたとしても意外に本心が透けて見えるものだ。
それが良きにしろ悪きにしろ、強ければ強いほど隠しきれない。
少なくとも、自分に対して敵意は無い。
マグノリアは無意識に握りしめていた鎚鉾から手を離す。
小さく、詰めていた息を吐きだした。
観念したらしい家令達は静かにセルヴェスから離れると、数歩後ろへ下がった。
セルヴェスはゆっくり小さな孫娘の前に膝をつく。
「……マグノリア……?」
かすれた声。
大きな自分が小さな子どもからどう思われるか解っているのだろう。少しばかり逡巡すると、恐る恐る太く大きな右腕をゆっくり伸ばしてきた。
「……おじいしゃま、でしゅか?」
一歩前へ進み出て、屈んでも自分の目線より上にある祖父の顔を真っ直ぐみつめる。
何度も何度も、無言でセルヴェスは頷く。
言葉を出せないのだろう。
彼は奥歯を噛み締めて頷く。
暫くして、やっとセルヴェスは小さな声を発した。
「ああ。おじいさまだ」
なんて事の無いたった一言に、万感の想いが籠っている声音だった。
その場に居合わせた使用人一同は、揃って目線を下げた。
「わたくちはマグノリアと申ちましゅ。初めまちて、おじいしゃま。宜ちくお願い致ちましゅ」
そう言い終わるや否や、太い腕で抱きしめられた。
「マグノリアァァァァアアッ!!!!」
「ぐえっ!?」
カエルを踏み潰したような声がマグノリアの喉から発せられると同時に、耳元での大音声に耳がキィィィンと鳴る。
い、息が……ぐ、ぐるぢぃぃぃ……っっ!!
タップタップ!!
慌てて腕を叩く(相手は昂った感情のまま高速で頬ずりして気づいてないケド)。
そして、頬が削れる……!!
「セルヴェス様、お嬢が潰れちまいやすよぉ?」
「父上!! 幼児をそんなに抱きしめたら複雑骨折しますよ!」
のんびりしたガイの声と、焦ったクロードの声がして、べりっと引き剝がされた。
(し、死ぬところだった……!)
複雑骨折。
遠くなりそうな意識の片隅でかすめた不穏なワードに、ギルモア屈指の、伝説の騎士の恐ろしさを感じる。
くわばらくわばら。
「……大丈夫か?」
マグノリアはよれよれと草臥れ、セルヴェスがオロオロしているのを眺めながら、ため息交じりにクロードが声をかけた。
「あい。クロード……叔父ちゃま?お兄しゃま?」
彼は一瞬虚をつかれたように驚いた顔をすると、マグノリアの言葉にちょっと困ったように微笑んだ。
「一応叔父だが、まあ呼びやすい方で構わんさ。俺はクロード・アレン・ギルモアだ」
そう言って右手を出す。
マグノリアは小さな手で握り返す。が、温かい大き過ぎる手にはまるで握り込まれるようだった。
(……知ってる……)
何だろう、この感覚。親父さんやブライアンの事を初めて思い起こした時と同じ感覚。
知らない筈の人間を、知っている感覚。
はっきりと、何を、と言うんじゃないけど……肖像画を見たから、とかっていうのとはちょっと違う感じ。
(モヤモヤするんだよなぁ……)
そんな気持ちを振り払うように、目の前の若い叔父をまじまじと見る。
すんごいイケメンだ。前世も今世も見たことないクラスの美貌。
眼福というやつなんだろうが、美しすぎて若干落ち着かない。
「マグノリアでしゅ。よちなにお願い致ちましゅ。……じゅい分変わりまちたねぇ……」
「ん?」
マグノリアの思わず小さく漏れた心の声を聞くと、眉を片方上げた。
何とも絵になる様である。
肖像画でみた彼の姿は、線の細い、氷の妖精のような綺麗な子どもだった。
子どもらしく切りそろえられていた黒髪は、今は無造作に伸び、肩と背中に散っている。
切れ長ではあるが子ども特有に丸みを帯びていた青紫の瞳は、年相応に艶やかさが加わったようにみえる。
絵より細くなった頬も、高い鼻も、引き締まった口元も。綺麗と言った方がしっくり来るものの、男らしい精悍なそれだ。
ただ十九歳という年齢のせいか、未だどこか少年めいてはいるが。
何より祖父程ではないものの、百八十を優に超えるであろう高い上背に、見上げるマグノリアはそっくり返るのではないかと思う。肩幅も広い。
「肖像画でしゅ。女の子みたいに可愛かったでしゅのに」
「女の子……可愛い?」
言われたクロードは、ボソリと釈然としないような表情と声色だ。
「おや、お嬢はイケメンはお嫌いで?」
「うーん。イケメンは色々大変しょうでしゅからねぇ」
渋い表情のマグノリアの言葉に、普段、社交の後の不機嫌なクロードを見ているようで、アゼンダの三人組は苦笑いをした。
暫らくして落ち着くと、セルヴェスとクロードは部屋の中を見回す。
白い家具で取り揃えられた部屋は美しいが、子どもの、それも幼女の部屋には到底見えなかった。
ついでに言えば、これらの家具はセルヴェスの妻であるルナリアが、以前ここに住んでいた時に使っていたものである。
「……子ども用の家具が一つも無いのか……」
子ども用家具を揃えることを渋ったウィステリアによって、物置に置かれていたものを見繕い、使用人によって運び込まれたとガイが確認済みだ。
何度も家具を変えるのが面倒だから、質も良いし充分だろうと言う事らしい。
クロードは椅子に座る為の無骨な踏み台と、高さを調節するために重ねられたクッションを見て小さく眉を寄せた。
「マグノリア、誕生日なのに着替えないのか?」
当然のようにクロードが確認すると、マグノリアはキョトンとした。
「……誕生日? 誰のでしゅか?」
セルヴェスとクロードは、息を詰める。
「自分の誕生日を知らないのか……?」
「今日はわたちの誕生日なのでしゅか?」
問われたクロードを仰ぎ見て、次にセルヴェスに視線を移す。
「……えーーと。どんな服なら良いのでちょう? 同じようなものちかないでしゅけど」
そう言って固まったままの二人をクローゼットのある部屋にいざなった。
開け放たれたクローゼットを見て二人は絶句する。
「他に服は……?」
「ごじゃいましぇんよ。もっとふりゅいのが、一着、しぇん濯に出てまちゅけど」
大きさの合わないだろうドレスが二着と、くたびれた、木綿と麻のワンピースが合わせて三枚。木綿のブラウスが一枚。
スカスカのクローゼットにぶら下がっている。
「「…………」」
ガイは絶句する主人達をじっと見ていた。
セルヴェスもクロードも良家の子息として育っている。
彼等は常に尊重され、大切にその御身を扱われる。
子どもの頃、座るのに難儀な椅子を使う事など無かっただろう。
戦地や野営等でボロボロになる事はあろうとも、家へ帰れば上質で清潔な服を身に纏う。
それはとても有難い事であるのだが。二人も充分理解している。
だが理屈ではわかっていても、それらは当たり前の事であり、普段気にする事は殆ど無いだろう。
素材を気にする事も無いので、木綿でも絹でもそう頓着が無い。
鍛錬や練習で汚すので普段は汗を吸う木綿のシャツを羽織ってることもままある。
そしてそれらは常に充分な数があり、そしてその時々に必要な品質のものが複数取り揃えられている。
高位貴族として体面を保つための豪華な礼服達も同じ。
彼等は決して浪費家ではない。
しかし質実剛健とは言え、必要なものは常に充分に与えられ、満たされている。
物も心も。
それはここには居ないジェラルドも同じ事。
戦地で常に危険と隣り合わせであろうが、家でその身を邪険に扱われることも無ければ、疎まれることも無い。愛され、丁寧に大切にされ、尊重されるのだ。
ガイは敢えて待遇について詳しくは二人に伝えなかった。無論、状況は余すことなく伝えたが。
『子ども用の家具が無く、大人用の家具で不自由している』『粗末な服しか与えられてない』『家族に顧みられていない』……そんな風に断片的な事実たちを報告した。
聞いて、令嬢なのに不憫だと思っただろう。
そして二人の想像で、よもやここまでの待遇の悪さだとは思っていなかった筈だ。
実際に見て貰って、感じて貰った方が良い。
低位貴族でさえ、お下がりであったとしても出来る限りのこころ配りで、その子の成長に合わせた設えが揃えられる事だろう。家具然り、服然り。
ドレスを除けば貴族どころか富豪の平民でも無く、大して裕福ではない平民のそれだ。
マグノリアは舌ったらずの例の口調で『みんなが丁寧に洗濯してくれるからいつも綺麗に着れるから有難い』と洗濯係の下女に言ったらしい。そして『いつも洗濯してくれてありがとう』と。
下女は、他の三人にそんなことは言われた事どころか声掛けされた事が無いと、静かに涙を浮かべた。
高貴な人間は頭を下げない。
される事は当たり前の権利であり、下々の者と気安く話したり、頭を垂れるなど貴族のマナーに反するからだ。
マグノリアは荒れた手で渡された粗末なお菓子を下女から受け取り、それにも礼を言うと一緒に薄いお茶を文句も言わずに飲んだそうだ。
次に会った時は、庭師に貰ったのだとマグノリアが摘んだ果物を荒れた手に乗せられたらしい。
「お嬢様の為、家の為って言うけど。正直そこまでする必要があるのか解らないよ」
そう言っていた。
調理場でも、掃除婦にも。暑い日に外に立つ守衛にも。会えば挨拶をし、丁寧に頭を下げ、労をねぎらっていたと言う。
(まあ、お嬢にとっては情報収集で相手の懐に入り込む為もあったんでしょうけどね。でも必ずしもそんな事する必要も無いっすからねぇ)
使用人だって平民だって、人間だ。
マグノリアは未だ幼いがそれを知っている人間らしい。
元々の人間性なのか。未だ貴族らしい教育をされていないからなのか。それとも、既に違う常識を学んでいるのか。
世界は、人生は理不尽だ。
戦争で蹂躙される様々なものを見て来たセルヴェス様は充分にご存じだろう。
小さい頃から領政に携わるジェラルド坊ちゃまも、クロード坊ちゃまも、領地や人間の暗い部分をご存知の筈だ。
――さあ。それが他人事でなく、自分の身内に起こったらどうされやすか?
自分が引き起こしたら、どう決着つけやすか?
今後、不必要に不幸な子供を増やさないために。
国の守護者であるギルモアの姿とは?
「そうか。……マグノリア、これを」
噛み締めるように呟いてから、セルヴェスはマグノリアの手にずっしりとした塊を乗せる。
手のひらでは支えきれない事を察すると、慌ててマグノリアは抱え、無造作に包まれた塊と祖父の顔を交互に見た。
「お誕生日おめでとう、マグノリア」
厳つさについつい目が行ってしまうが、見れば意外に整った顔をしている祖父。
彼は優しい瞳で笑うと、マグノリアの誕生を祝った。
ポカンとしていたマグノリアは、遅れて、それが自分の為に用意された贈り物であり、今ようやく、初めてこの世界の身内に誕生を言祝がれたのだと言う事を理解した。
じんわりと、心に言葉と感情とが沁み込んで行く。
「あいがとうごじゃいましゅ」
丁寧にカーテシーをする。そしてずっしりとした包みを見て何度も瞬きをする。
「……開けても良いでしゅか?」
「勿論」
ガイはニコニコとしており、何故だかクロードは苦虫を嚙み潰したような顔をして断言する。
「開けて驚くぞ」
「?」
包みを開けると。何やら無数の黒い塊が……
(これ何? ……香辛料の匂い?)
クロードはため息とともに短く伝える。
「干し肉だ」
「良かったっすね、お嬢。『冒険』には食料と水、大事っすよ!」
マグノリアは食料(干し肉)を手に入れた。
――誕生日に干し肉って……いや。あったな、前世でも。
今では名前が思い出せない且つての友人に、高い酒とビーフジャーキーを貰ったことがあった。確か。
(つーか、幼女にジャーキーの塊って……)
マグノリアは心の中で苦笑した。
「……あいがとうごじゃいましゅ!」
家出する時に、ガイの言う通り保存食として持って行こう。そうしよう。
きっとお腹も心も満たされる筈だ。




