閑話 変わった娘(ジェラルド視点・後編)
中二階の奥のソファに座り、物語を読むつもりがついつい近年の帳簿を開いていると、衣擦れの音が聞こえて来た。カチャリとドアが開いて人が入って来る。
この家で自分以外にここへ来る者は殆ど居ない。
珍しい事だと思いジェラルドはそっと階下に意識を向ける。
「おおぅ……」
小さな声が聞こえて来たので、そっと様子を窺う。
居たのは侍女に連れられたマグノリアだった。
壁一杯に収まる書籍を見て小さな頭を左右に振る様子は、まるで小動物のようだ。大きな丸い瞳も相まって、愛らしい。とても。
思わず無意識に小さく息を漏らした。
と同時に建領から続く貴重な蔵書を、汚されたり破られたりしないかハラハラする。相手は三歳の幼児。猿みたいなモノだ。
意外にも、娘は吟味するようにゆっくりと書棚の一つ一つを見て回り、部屋の様子をぐるりと確認しているようだ。中二階へ視線を上げたので、気づかれないよう、少し奥へ身体を戻す。
時折若い侍女に説明されたり、自分から確認して、気になったらしい書棚に目を留める。
王立学院の教科書を見やると、暫し考えるような素振りをし、それとなく、視線を外している侍女を確認すると何冊か開いてはパラパラと頁を捲り、小さく頷き、手にとっては机の上に置いて行く。
……もしや、内容を確認している? ……まさか。
ふとよぎる馬鹿馬鹿しい考えに、自ら否定する。
マグノリアに再び目を向けると、別の書棚の前に立っていた。
また少し考えたように上の方を見て、左右に瞳を動かすと、右上の書棚から図鑑を手に取った。
机の上に置かれた教科書を見た侍女に、選んだ本は難しくはないかと遠まわしに諭されるも、『お兄さまと一緒です!』と言い、取って付けたような笑顔で答えていた。
ジェラルドは、声を掛けずに二人を見送る。
……。
……何故だか気持ち悪い位に違和感がある。何故だ?
どうも娘は、図書室だけでなく庭や調理場など、屋敷の至るところへ出歩いているらしい。
元々かなり大人しい質であったし、マグノリア付きのロサは言わずともこちらの意を汲んでいると思っていたが、違ったらしい。
ウロウロされると、何処で誰に見つかるとも知れない。他家程ではないとは言え、多少は人の出入りもあるのだ。
現にダフニー夫人に見られている。
沈着冷静が売りな筈の自分が、珍しく急いている事に苦い笑いを漏らす。
頃合いを見て、人を替えるか強く言い含めるかする必要があるだろう。もしくは早々に修道院へ教育に出してしまうのも手かもしれない。
硬く拳を握り締める。
(……しかし、何故急に?)
それから家に居る時は、頻繁に図書室へ出掛けた。
疑問を持っているのも一つだが、何故か足が向いてしまうのだ。
中二階の席に座り、来る度に見かける娘の観察をする。
最初は侍女に『大人ぶりたい子供風』を装っていた様子だったが、程無くして侍女達も『勉強好きな子供』と認識すると、好きに本が見れるよう、集中出来るように少し離れた椅子に座り、時折見守るというスタンスにしたらしかった。
侍女達は、マグノリアが知ってる文字を拾って読んでいるとしか思っていないようだが、それにしては不自然な程に選ぶ系統が同じ分野だ。
マグノリアはその日その日で読む分野を決めているようで、系統立って数冊を机の上に置くと、結構な速さで目を通して行く。
その速さから、侍女は理解しているとは夢にも思っていない様子だが、目の動き、時に無音で動かす口の動きから、どう見ても読み込んでいるとしか思えない様子だった。
何故だ? 何故読める!?
字が読める読めないの範疇では無い。学院の教科書の後期専門科目の、補足の為や理解を深めるための補助参考書、専門書類だ。
……理解出来ているのか? 三歳の子供が?
困惑と戸惑いしか無い。
おかしい……それならば何故? 今までの様子は何だったのだ?
本当は賢かったとしても、物心もつかない人間が大人に人格を偽れるとは思えない。第一、何故そのような事をする必要がある?
暫く様子を見ていたが、疑惑が確信に変わった頃、図書室に居るマグノリアと直接話をしてみる事にした。
偶然を装って声掛けすると、今迄のように恐々と遠慮がちに甘えようとするのではなく。明らかに警戒した表情で、こちらの視線を窺ってきた。
丸い愛らしいが愚鈍だった朱鷺色の瞳には、冷えた、理知的な光が浮かんでいる。
――読んでいた筈の本は、上下の図鑑ですっかり隠されていた。
「……お父しゃま? 三か月以上ぶりでしゅね。ご機嫌麗しゅう」
取り繕った微笑で、綺麗なカーテシーで告げる言葉には、棘を感じる。
(……もしや嫌味?)
今迄の娘は、淋しい、構って欲しいと言いながら、自分が蔑ろにされている事も疎まれている事も理解せず、只々愛情を与えられずにくすんだ瞳をしていた。
他人行儀に行われたカーテシー。見本のように優雅な身のこなし。いつの間にか、くり返し練習が重ねられた事を物語る動作。
今、目の前の瞳にはこちらを値踏みするような、強い意志が見えた。
「偉いね、ご本を読んでいるのかい?」
頭に手を載せると、いつものように笑顔を見せるでもなく、ピクリと小さく肩を揺らし、警戒を強めた様子が伝わって来る。そしてさりげなく本を見ると、私を見上げた。
「あい。お豆やおやちゃいの本を見ていまちゅ」
答えにつられ下を見る。確かに絵が多く、絵本代わりに子供が眺めていても通りそうな本だった。
人好きのする、優しい笑顔を心掛ける。
「美味しそうだ。他には何を見ているんだい?」
マグノリアは重そうに、よいしょ、と一番下の本を押し出す。
「……おはにゃの本でしゅ」
こちらも同じ理由か。上手く誤魔化すものだ。
間に挟んであるだろう専門書を問いただそうか迷ったが、多分言い訳を用意されている事が容易に察せられ、口を閉じた。
形だけの笑顔を張り付け、遥か下にある娘の顔を見つめる。
一体この子は誰だ?
……大人しくて従順な、愚鈍なだけの子供じゃない。
まるで、子供の振りをした大人だ。
一見どうでも良い会話をしながらこちらの反応を見ると、警戒、嘲り、探り……と、綺麗な笑顔に厳しい視線を滲ませている。こちらの受け答えから、考えや対応を分析しているとしか思えない様子に、思わずジェラルドも警戒心を上げた。
こちらも娘の様子を窺っている事を感じたのだろう。やんわりとこちらを気遣いつつ、追い出しを掛けられた。
無視して話を続けようとしたところ、あっさり暇を告げ、部屋へ帰って行ってしまった。
思わずあっけに取られ、目をしばたたかせる。
あれが本性だったのか? 与えなさ過ぎて、自ら目覚めたのか。
――――まるで別人だ。
一緒に食事をと声を掛けたら、全く期待しない瞳と声で
「はぁ……?ご無理なしゃいませぬ様」
と、素っ気なく返された。娘の事情を感づいているのであろう侍女の、期待に満ちた輝く笑顔との対比が酷い。
「…………」
娘は変わった。
全く子供らしくない、優秀で抜け目無い、変な娘に。
娘が変わったのなら、ある筈だった未来も変わるのだろうか?
いつか心を……そう思ったところで、ハッとして拳を握りしめる。
一番は、彼女と家族の真の安全を守る事だ。
……たとえ、誰に理解をされなかろうとも。
いつかのダフニー伯爵夫人の、去り際の乾いた無表情な顔が浮かんで消えた。
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