タイトル考えるのすらだるい ~ひたすら気分が重くなった時の話~
私は他人から影響を受けやすい。
特に感情の部分で。
周囲にイライラしている人がいると、そのいら立ちがつわってイライラしてしまう。悲しんでいる人がいると胸が痛くなる。苦しんでいる人がいるとやりきれない気持ちになる。
なのに世間での出来事にはどこか無関心で、ニュースやネットで悲劇的な記事を見かけても他人事でいられる自分がいる。
ただ……全ての事柄に関して無関心かというとそうではなく、感情に訴える人を見て、その人に共感してしまうと、とてもつらい気持ちになるのだ。
例えば、池袋で起きた例の交通事故。
被害者遺族の方が必死に己の感情をかみ殺して、カメラの前に立つ姿は、正直見ていてつらかった。彼の気持ちが痛いほどよく分かった。
私自身、大切な人を不慮の事故で亡くした経験はまだないのだが、それでもその人の気持ちに共感してしまう。あの事件は残された者にとってあまりに辛く、あまりに理不尽だった。
私がニュースにできるだけ無関心でいようとするのは、共感するあまり辛くて苦しい気持ちになるのを避けようとしているからかもしれない。
最近、そんな風に思う。
共感して苦しくなるのは、何も現実の出来事だけではない。
架空の世界での出来事も影響を及ぼすことがある。
若いころに太宰治の「人間失格」を読んだ。
あの作品は私に強い影響を与え、とても暗い気持ちになったのを今でも覚えている。
当時、私は精神が不安定で、あの作品を読むことでより混沌とした心持になった。
苦しい。
ただただ苦しい。
私は何かから逃れるように読書の世界へ没頭したが、果たして差し伸べられたのは救いの手ではなく、黄泉の国からいざなう死者の手だった。
死んでしまいたい。
何度もそう思った。
私は人と適切な距離感を保つのが苦手で、人間関係で悩んでいた。自分では何も悪いことをしたつもりはないのに、気づいたら周囲から距離を置かれてしまうのだ。
失敗しても、その失敗に気づけない。
そんなことが何度もあった。
悪いことは重なるもので、暗く重い気持ちになっていると、何もかもが嫌になるようなことが起こる。私の場合もそうだった。
だから……もう終わりにしたい。
そんなことを友人に話した気がする。
友人は言ってくれた。死ぬのなんて簡単だと。
今すぐ死ななくてもいいから、明日死ねばいい。
明日になったらまた悩めばいい。
そう言ってもらった途端に、急に心が軽くなった。
ああ……今すぐに死ぬ必要はないのだと、そのことを理解した。
と同時に、私にはいつでも終わりにできる手段があると自覚した。
私はいつでも望んだときに自分自身の命を絶つことができるのだ。
不思議なことに、死を自覚したとたんに、死にたい気持ちが薄れて行った。今までずっと悩んでいたことが、どうでもよく思えるようになったのだ。
もし……あの時、私を救ってくれた彼がこれを読んでいたら、心の底からお礼を言いたい。
ありがとう……と。
ただそれだけのことなのだが、今こうして当時のことを振り返りながら文章を紡いでいると、気が楽になるのを感じる。
季節の変わり目だからかも分からないが、今の私はどうも調子が悪い。体調はどこもおかしくないのに、気分が急に滅入ったりする。
落ち込んだ心を元の状態へ戻すのには一苦労する。
だからこそ、こうして自分を保つため、心を整理するためにエッセイを書いている。この作品にそれ以上の意味合いはない。ただ己の感情をネットの海に吐き出したいだけだ。
かつて読書に救いを求めた私は、今度は創作に救いを求めてしまった。
あの時からまるで成長していない。
しかし……それでいいのだと思う。
感情をため込んでしまうよりもずっとましなはずだ。
嫌なことがあった時は、嫌なことから救ってくれた人のことを思い出そう。
そうすれば少しだけ心が軽くなる。