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クトゥルフ神話TRPGリプレイ「カタシロ」 

作者: 霊龍(レイリュウ)


                    KPダディベアさん

                    PL霊龍  PCエスパー

 瞼を上げると白い天井が目に映った。頭が痛いし、体も上手く動かない。

 ここは…病室…なのか? いや、というより手術室のようだ。

 扉の開く音、一人の男が入ってきた。白衣に身を包み、頭には包帯を巻いている。

「ああー気づいたようですね。落ち着いてください。私は医者です。はい。」

「…医者だと。何故俺はこんな所にいる。何があった。」

「そうですね…。貴方は落雷に遭って病院に運ばれたのですが、覚えていますでしょうか?」

 ふと蘇る記憶。意識を失う直前、強い光を浴びた気がする。いや、待て。それよりも前は何をしていた…。俺は…誰だ。これまで何をして生きていた…。何故何も思い出せないんだ…。

「落雷…というより、ちょっと待ってくれ。俺は…誰だ。」

「誰? と言いますと、貴方はお名前が分からないと…?」

「…ああ。俺は…何故ここまで覚えていないんだ。」

「何処に住んでいたのでしょうか。」

 必死に記憶を辿ろうとする。しかしそこには何もない。思い出せないというより、抜け落ちている。俺という存在は確かにあるのだろうか。俺は一体何者だ…⁉

「…分からない。」

「これはこれは…。一種の記憶障害でしょうか。なるほど…。」

「なあ、俺は誰なんだ。」

「さあ。私も急に運ばれてきた貴方を担当しておりますので…。」

「じゃあ、ここは何処だ。」

「ここは最寄りの病院ですが。貴方は本当に記憶が無いので?」

「ああ。嘘をつく理由なんて無いだろ。」

「まあそうですねぇ。まだ検査が必要というわけですね…。お体はどうです?」

「…頭が痛いな。これは落雷の影響なのか…? 俺はそもそも生きているのか。生きているよな…?」

「それは…生きていないと私が誰ということにならないですかね。」

「そうだよな。いや、ここまで覚えていないと生きているのかどうかって…。すまない。」

「もしかして貴方には私が天使にも見えるようで?」

「いや、その逆だな。死神かと思ったぜ。」

「なるほど…死神に見えると。それはそれは…随分かっこいいですね、私。」

「ふざけるな。俺はまだそっちに逝ってはやらん。」

「ご安心ください。貴方はしっかりと生きておられます。」

「そうか。じゃ、俺はいつここから出られるんだ。いや、聞き方を変えよう。いつここから出してくれるんだ。」

「そうですね…。まあ安心してください。私は優秀なので三日もあれば…ここから出られるくらいには回復するでしょう。」

「三日…。三日もかかるのか、三日しかかからないのか…。しかし、ここまで記憶が無いとなると…本当にできるんだろうな。」

「そこは信頼していただいて構いませんよ。私は優秀なので。」

「…どうも胡散臭いが…まあいいだろう。どうやって回復させるつもりだ。そもそも、あんたは俺が誰かも知らないんだよな。」

「急に運ばれてきた患者様なので、私は貴方のことというのはしっかりと分かっておりません。そしてなに分…ここの病院の現状なのですが、大変忙しくて…。そこは申し上げにくいのですが、貴方様の体が動かないということですので…三日間こちらで過ごしていただきたいのです。」

「しゅ、手術室で患者を置いておく病院があるか。」

「…他に部屋が無いのでして。申し訳ないです。」

「ほう…まるで実験されているような気分だな。」

「それとも体が動かないまま外に放り投げた方がよろしいでしょうか?」

「…それはそれで困る…。それだとお前の医師免許が剥奪されるだろ。困るのはお前だと思うが。」

「いえ、本人が望まれているということなら仕方ないことなので…。私としても大変不本意なのですが。」

「…分かった。ここにいることは許可してやるが…。本当に普通の病院なんだろうな…。俺が寝ている間に勝手に改造されても困るんだ。」

「改造ですか? なにやらそういったアニメがあったような気がしますが。私にはそんな勇気も…そんなそんな…。ほっほっほっ。」

 …どこまでも胡散臭い。なんだこの医者。本当に医者なのか。

「他の医者はいないのか。」

「私は脳外科を担当しておりますので、貴方様の方に出張って来ているのですが。」

「ふーん…。三日と言ったな、三日で必ず俺は出るからな。」

「はい。三日もあれば大丈夫です。私、優秀なので。はい。」

「優秀…ねぇ…。その腕、見させてもらおうじゃないか。」

「ありがとうございます。ああ、せっかくなので記憶の方も取り戻しておきたいと思いますので…私と簡単なお喋りをいたしませんか?」

「喋る? 暇つぶしじゃなくてか。というか、あんた忙しいんじゃないのか。」

「ええ、まあ外来の方がもう少しで来られますが…暫くは大丈夫でしょう。」

「…いいだろう。俺もどうせ何もできないしな。喋るくらいなら付き合ってやる。」

「はい。貴方様がどう思うのか。本能的な、深層心理といった部分が見えて…記憶に繋がればいいなと思います。」

 医者はそう言うと『囚人のジレンマ』というゲーム理論の一つを持ちかけてきた。共犯を働いたとされる二人が「黙秘」または「自白」のどちらかを選択するゲームだとか。両者が「黙秘」を貫いた場合、両者の懲役は二年となり事件は迷宮入り。片方が「自白」を選べば自白した方は無罪放免、「黙秘」した方は懲役十年。両者が「自白」を選んだ場合は両者とも懲役五年をくらう。このルールで医者と俺が共犯者だと仮定して、俺がどの選択をするのか聞きたい…と。

 これは明らかに自白を促している。懲役的にみても、「自白」を選べば無罪放免か懲役五年で済む。「黙秘」を選べば懲役二年か十年をくらってしまう。何を犯して捕まったのか明記されていないが、懲役十年をくらうほど大きなことをしたのだろう。そこまでしたなら、共犯者を連れてまで犯したならば、捕まっても意志を貫き通すのが覚悟ってものだ。そこは自分の核であって絶対で、守り通さなければならない部分。そこを乱してしまえば、もう『自分』はいないも同然だ。捕まった時点で負けだと言う者もいるだろう。だが、警察に捕まることが最終地点ではない。いかに『自分』を守り通せるか、信じられるかだ。勝負は自分の中にある。そこに懲役は関係ない。共犯者を信じるのはその次の行動だ。俺は黙秘を続ける。自白すれば今まで守ってきたことを曝け出すことになるからだ。己のしたことに対する信頼を裏切ることになる。それは自分を否定しているのと同じ。後は、相棒に任せよう。共犯者が俺を売るか否か、俺がそれに値するならば俺はそこまでの存在だったというわけだ。それで十年くらっても構わない。共犯者が自白を選んだとして、それが俺に対する裏切り行為かどうかは定かではない。本当に俺を知っている者なら『自白』は選ばないだろうが、そうでないなら「相手もちゃんと罪を償おうとしてくれるはず」という生半可な考えで選択するだろう。そういう奴は確固たる『自分』を持っていない。そんな空っぽな奴は大切なことに気づかないまま陳腐な人生を送る。俺はそれを知っていて、気づいて、行動に移せる。それで十分だ。たとえ死刑だろうが、『自分』は守り通す。そこだけは譲れない。だが、そんな俺は……一体誰なんだ。

「…決めた。」

「では、一緒に言いましょうか。せーの。」

「黙秘。」

「自白。」

 医者は『自白』を選択した。悩む様子が無かったことから、あらかじめ答えを決めていたのかもしれない。俺の考えを聞かれたが、上手く言葉にならない。それでも何とか要所は伝えられたと思う。

「自白は負け、黙秘すれば十年はくらうが…自分には勝った、そう…決めているんだ。」

「ほう…。これはゲームですが。相手がいる前提のゲームだとしても、あくまで自分という壁に対して勝利することが…あなたの前提条件と言いましょうか…。あなたが貴方であること…なのかもしれませんね。」

「ああ、そこは他人がいようと関係ない。」

「随分とあなたの本質的な部分に近づいたかもしれませんね。それが直接、記憶を何とかできることには繋がらないかもしれませんが。」

「…お前はそれを知って一体何をしたいんだ。」

「いえ、私が何かしたいというよりは…あなた様の記憶を戻したい、ということでしょうか。」

「つまりその…話を通して俺の内側の核たる部分を目覚めさせるようなこと…か。」

「まあそんなことできたらいいんですけどね。できる保証なんて何処にもありません。」

「…猶予は三日だからな。」

「体の方は何とかして三日で治してさしあげます。では私は外来の時間なので、そろそろ失礼します。」

 手術室のベッドで一人取り残され、何をしろというのか。体は重く、立ち上がって歩き回ることも叶わない。だが、手の届く範囲なら見ることはできるだろう。見回せば側には台とモニターが置かれており、少し離れたところに棚と加湿器のような機械も見える。手術室で、抵抗できない状態で、何をされるのか。台の上には器具が並べられている。刃物の類は見当たらないが…何の器具なのか分からない。分からないというか、上手く認識できないというか…。

モニターには血圧や心拍数などの異常を知らせる機械がついているようだ。こんなものが出されているということは、俺はかなり危ない状態だったのだろうか。画面には「97」「98」という数字が表示されていた。この数字が何を意味しているのか。一見心拍数にも見えるが平常時では数値が高すぎるのと、数字が二つあるのも当てはまらない。それに…どうやらこのモニターから出ているケーブルは俺に繋がっていないようだ。何かを測り終えた後なのか、俺には関係ないのか。ここで目覚めてから分からないことだらけだ。

「誰かいるの?」

 子供の声だった。隣の部屋から男の子の声が…話しかけてきた…?

「なんだ、隣にガキがいるのか。」

「誰か隣の部屋にいるの?」

「え、俺に話しかけているのか。」

「…かなぁ。僕も隣の部屋に人が入ってきたのかなって思って…喋りかけてみたんだけど…。」

「じゃあ、俺ってことにしておくか。何か用か?」

「ああ。ちょっと…僕もここに入院していて。話し相手になってもらいたいなって思って…。」

「話し相手? お前、いつからここにいるんだ。」

「ずーっと。」

「ずっと…。声からして…ガキのようだが、お前はいくつだ。」

「えっと…もう少しで十…だったかな。」

「十…お前はずっとここで過ごしているのか。学校とかには行っていないと。」

「うん…。事故に遭っちゃって。結構大きな事故だったから、その時からずっと入院してる。」

「あんたの担当医師は誰だ。どんな奴だ。」

「看てくれるのはお父さんだよ。」

「お前の親は医者か…。そう言えば、あの医者の名前…聞いていないな。」

「あの医者って…?」

「俺も…今日に目が覚めたばかりでよく分かっていないが、目の前に…。なんだろうな、あの胡散臭い医者は。自分で優秀と言って…頭に包帯を巻いた奴だ。」

 あいつが放つ独特な胡散臭さを言葉で言い表すのは大変だ。

「もしかしたらお父さんかもしれないね。頭にいつも包帯しているから。」

 衝撃だ。あんな奴が子供を持っているなんて。

「親父か…。では、あいつは自称優秀ってことか。」

「父さんは凄く仕事ができるって言っていたけど。どうなんだろ、僕には分からない。」

「お前をそこにずっと閉じ込めているくらい治せないってことだろ? お前がどんな状態か知らないが。」

「でも絶対治してくれるって、お父さん言ってたよ。」

「医者は皆そう言うのさ。…お前に絶望を与えるつもりはないんだ。俺もとっとと出たいしな。」

「ああ、そうだ。僕、全然外に出たことないからさ、せっかくなら外の話をしてよ。」

「外の話…? してやりたいのは山々なんだが…生憎、全然記憶が無くてだな。なんなら俺の名前すら分からない状態だ。」

「また記憶が無い人なの?」

「またっ…てどういうことだ。ここにはそういう奴がよく来るのか。」

「うん…。そこの部屋、今まで何人か患者さんが来たようだけど。皆して記憶が無いって言うんだ。そういう人が入る部屋なのかな…?」

 今まで何人か手術室に置いて…しかも記憶がない。妙だ。病室が混んでいるからという理由だけではないだろう。記憶が無いというのも、都合よく抜かれているだけかもしれない。

「本当に何も覚えていないの?」

「ああ…。覚えていないんだ。それに体も動かせないし。」

「うーん…。でも、お父さんは凄く優秀な名医って言うから大丈夫だよ。きっと。」

 とは言われても、あの医者はあまり信用できない。してはいけない気さえする。記憶を無くしているとはいっても、言葉や一般常識は覚えているあたり…ただの記憶障害…なのか…? 名前くらいは思い出したい。『自分』を見つけたい。

「…お父さんが何かしてるの?」

「いや、これは俺の憶測に過ぎないが…毎回毎回、記憶のない患者をここに入れているのは少々気にかかる。」

「…そういう病院ってことじゃないの? 僕には難しいことは分からない。」

「見せかけの可能性は考えられないか。例えば、患者から記憶を抜いてだな…ロボットのような状態にしてこき使う…とか…?」

 我ながら突拍子もない考えだ。根拠はどこにもない。

「そ、そんなことができるの⁉」

「いや、現代の技術ならできるかも…。」

「て、テレビで…悪い怪人とかがやっていたかもしれないけど…。お父さんはそういうことをしているの。」

「かもしれないと言っておく。あくまでも俺の考えだが、その可能性はある。技術があれば何だってしたくなるものだ。」

「僕はお父さんみたいに優秀な医者になりたいと思っているけど。お父さん…そんな悪い人なのかな…。」

「どうだろうな。その線も疑っておくのは悪くないだろう。もう少し探る必要があるな…。」

 扉の向こうから弱々しい頷きが聞こえてきた。だいぶ子供の夢を奪ってしまったようだ。そんなつもりはなかったのだが。と、あれこれ考えていると急に眠気が襲ってきた。体を起こせないこともあり、瞼が重く下がっていく。意識を手放す直前、子供の声で「おやすみ」と聞こえた気がした。


二日目

 目を開けると白黒の世界が広がっていた。場所は変わっておらず、相変わらず手術台へ横になっている。だが所々にしか色が無く、テレビの画面がちらつくようにはっきりと認識できない。どこか正常ではない。視覚障害が現れたようだ。いよいよダメかもしれない。少しして扉が開き、人…?が入ってきた。正しくはヒト型をした何かだ。その顔も体もはっきりとした形を成しておらず、色も継ぎ接ぎで化け物のようだ。

「やあ、調子はどうですか。体も随分と動くようになったのではないでしょうか。」

 それは医者の声を放った。何かが目の前にいるのだから幻聴ではないだろうが、果たして人間なのか。俺の視覚に問題が生じているだけなんだよな…?

「ええっと…お前…は…人か? 誰だ。」

「どうしたのですか。昨日のようにまた死神にでも見えましたか?」

「いや…その…声はお前か…。お前はお前なのか…?」

「…どうしたのです?」

「お前が上手く見えない。ちゃんと形として捉えられないというか、そもそも色も見えないというか…。視覚に問題が生じている。」

「おお…。」

 しかし体の状態は昨日よりは幾分か良くなっているようだ。ということは、俺が寝ている間に治療でもしたのだろうか。こんな者に頭をいじられているところを想像しただけで寒気がする。

「俺が寝ている間に何かやったか?」

「昨日あなたが寝ていたので、その間に治療は行いましたが…次は目ですか。視覚がおかしいと。まあ、明日には体の異常は確実に無くなっているでしょう。私は優秀なので、大丈夫です。はぁい。」

「大丈夫ねぇ…。この状態でよくそれが言えたものだ。あと、俺が寝ている間に色々やっているのか。」

「まあ…あなたが寝ていましたので、起こしてはいけないと。そのまま…治療を行いましたが。」

「いや、普通…治療を行う前に何か言うだろ。」

「起こそうとはしましたよ。ですが…あなたがそれはそれは気持ちよく泥のように寝ておられましたので…。」

「あんた…他人の脳をいじっておいてよくも…そう…。どこまでも気に食わない医者だ。」

 せめてどんな治療をするとかは知らせるのが常だろ。知らない間に脳を触られているのは気持ちが悪い。…そう言えば、こいつには子供がいたようだな。

「あ、そうだ。あんた幼い子供がいるようだな。」

「ああ…どうしてそれを?」

「そのガキが…隣の部屋にいるのか知らねぇが、話しかけてきてな。」

「…それはそれは…ご迷惑をかけているようでしたら、申し訳ないです…。」

 医者はどこか悲しそうな声色を放った。

「別にそれは構わないんだが。そいつの話によると、今俺がいる病室には…何人か記憶を無くした奴が来るそうじゃないか。」

「まあ、脳外科ですので…。」

「脳外科と言ってもだな。お前、何か企んでいるか。」

「いえいえ、私は治療を目的としておりますが。」

「治療か。じゃ今まで記憶を失った奴は健康な状態で帰したというわけか。」

「はい。それはしっかりと働いておられる方もいれば、毎日自堕落に過ごされている方もおられるかもしれませんが。少なくとも健康で帰っておられますよ。」

 俺の考え過ぎなのだろうか…。

「…お前の胡散臭さときたら…ありゃしないんだが…。」

「まあまあ…それよりも、あなたの体調は明日にも治っていると思いますので、今日もせっかくですから記憶を取り戻すためにも少々お話をいたしましょう。」

「いや…その…お前が物理的に人に見えないんだよ。その状態で近くに来て欲しくないんだが。」

「大丈夫ですよ。明日には治っておりますよ。はい。」

「どうやって治すんだよ。」

「まあ私は優秀なので。」

「自称だろ。」

「いえいえ…。確かに優秀なので。ここ大事ですよ、二回言ったのですから。」

  何を言っても、何を返されても…どこまでも気に食わない。このどうしようもない胡散臭さはどうにかならないのか。信用ができない。しかし、現状こいつに任せるしか方法がない。

「…ったく。じゃ、何の話をするんだよ。」

「そうですね。あなたは『テセウスの船』をご存じでしょうか。」

 聞いたことはあるが、内容までは知らない。医者によると、元々テセウスという人物が乗っていた船が徐々に古い部品を新しいものに置きかえっていった際に、結果全ての部品が置きかえられればそれはテセウスの船と言えるのか…というパラドックスのようだ。

「これに対して、あなたは新しくなった船をテセウスの船だと思われますか?」

「…その新しい船は…変わらずテセウスの船だと思う…。」

 これは似たようなものに実在論と唯名論というものがある。『その者の名前』はどこにあるのか。名前は外見についているのか、その人の性格など内面的なものに名付けられるのかという哲学的な話だ。俺はこれに対して、外見が変わってもその人自身は変わらないと考えている。『自分』は己の中にしか存在しない。たとえ姿が変わっても、中身の『自分』がそのままなのであればそいつはその人自身だ。社会的には別人かもしれないが、本人は本人のまま。だから船の部品が全て変わっても、テセウスの船は変わらずそこにあり続ける。神話的な話でも、人も物も外見は器であり、そのもの自身を決めるのは中身の魂だというものがある。そいつが誰かを決めるのは他人だが、誰であるか知っているのは己しかいないはずだ。俺は感情を持たない物にもこの精神論をぶつける。感情をもたないからといって、それ自身は変わらない。

「外見が変わったところで…意味は無いと。元々のテセウスと思われているもの自体は変わっていないから、テセウスの船ということでしょうか。」

「人間だって変わらない。ヒトは細胞からできているだろ。それは毎日毎日死んでは生まれ、新しいものに変わっている。何日かあれば全て変わってしまう。それでもその人自身は変わらない。それと同じじゃないか?」

「…なるほど…。全て入れ替わったとしても、元々の中身さえ変わっていなければテセウスの船のまま、あるいは元々の人間のままであると感じるのですね。」

「周りがどう思おうと…」

「ああ、失敬。あなたは周りの人間というよりも、『自分がどうであるか』というところが大切であると。そういうことですね。」

「そうだ。」

「昨日から引き続いて、あなたは随分と自分を確固たるものとして捉えているということでしょうか。」

「それはそうだろう。自分があって、俺がいるのだからな。だから、今俺は名前すら分からないことに危機感を覚えている。」

「どんどん貴方という本質が見えてくるような気がしますね…。おっと、そろそろ外来の時間ですので失礼します。」

 せめて名前さえ思い出せればいいのだが…。異質な者が出て行き、部屋が少し明るくなった気がした。とは言っても、色はまばらにしか見えないが…。しかし今日は体を起こして周りを見られそうだ。ベッドの側にある加温装置に手をやると冷気が手の甲を撫でた。それに交じって何か別の気体も出ているようだ。見たところ少し改造した跡がある。加温機に見せかけている…のか。こんな改造したものなど、普通の病院には無いと思うが。やはり…何かあるのか。自身の体が特別熱いわけではない。機械を冷やすためなのだろうか。しかし出ているのはただの冷気だけではなさそうだし…。人体実験という可能性がどうしても否定できない。

 棚上の書類は患者の診断リストのようで、誰かの名前とその横に適正率①、適正率②の数字が書かれている。どの患者の適正率も①と②の両方が高い数値の者はいない。適正率というのは…臓器提供とかだろうか。ここは脳外科…脳を提供…? 考えただけで吐き気がする。もしかすると俺の脳も狙われているのだろうか。

 ふと書類の走り書きに目が留まった。両方の適正率を満たす者を引き続き探すということが書かれている。高い数字…を満たす…高い数字…?モニターの「97」「98」という数字はもしかすると適正率なのか。これが俺の数字だとすると、本当に狙われているのかもしれない。このリストに書かれている患者を帰した理由が適正率の低さなら、俺は帰してもらえない。あるいは何かされるかもしれない。何を企んでいるんだ、あの医者は。

「あ、大丈夫? 起きてる?」

昨日と同じガキの声が隣の部屋から話しかけてきた。

「…その声は昨日の奴か。」

「うん、そう…。名前を言っていなかったね。僕『あきら』っていうんだ。」

「あきら…。すまないな、俺は昨日も言ったが自分の名前が分からない。名乗ることはできない。好きなように呼んでくれ。」

「そっか、ごめんなさい。何か気分を…悪く…」

「いやいや、とんでもない。あきら…だな。どうした、また話し相手にでもなってほしいのか。」

「うん。でも、大丈夫?」

「ああ、俺は大丈夫だが。」

「ああ…そうなんだ…。」

「なんだ、含みがあるように思えるが。俺がどうなるか知っているのか。」

「いや…その…そこに運ばれた人たちなんだけど…。最初は元気なんだけど次の日になるとおかしくなる人が多かったから…。大丈夫かなって、心配しちゃって…。」

「それは…視覚障害とかも含むのか。」

「そういうのは…初めて聞いたかも。今までは…ボーっとしていて話しかけても全然返してくれなかったり、少しお話したら赤ちゃんみたいになっちゃったり…。」

「…そいつらは名を名乗ったか。」

「うーん…どうだったかな。しっかりと覚えてはないけど、男の人とか女の人とか色々な人がいたような気がする。」

 ちょっと待てよ。ここに来た患者の名前がこのリストにあるなら、あの医者は俺の名前を知っているんじゃないのか? 知っていて教えないのか…。その目的は?俺を狙っているなら、なぜ記憶を取り戻そうと話をするんだ…?

「お父さんがまた何かしたの?」

「残念ながらお前の親父は…何か企んでいると思うぞ。」

「そう…なのかな。でもお父さんは僕のこと治してくれるって言っていたけど…。」

「適正率…。あきら、お前は一体どこが悪いんだ。手が動かないとか、脳に障害があるとか…。」

「…難しいことは分からないけど、目も見えないし…体もほとんど動かせない。ほとんどというよりは、事故があって以来ベッドから動いたことがない。」

「植物状態…にしては話せるんだな。」

「お話はできるから。お父さんとだったり、そっちの部屋の人だったり…色んな人とお話はしているよ。」

「ということはお前…食事とかは摂っていないのか。そういえば俺も摂っていないな…。」

「…うん。お父さんが…そこは大丈夫って言っていたと思うんだけど…。よく分からないや、そこは。」

「…スムージーとかを流し込んでいる可能性はあるな。」

「目も見えないから、どんな風にお父さんが仕事しているか見たことないし…。」

「…相当重傷だな…。」

「うん。だから元気になったら、お父さんみたいな医者になりたいと思っているんだ。」

「ああ…あいつみたいな医者にはならない方がいいと思うぞ。」

「え、な、何で…⁉ お父さん…優秀だって言っていたけど…。」

「腕はいいんだろうが…性格的なところが。俺は胡散臭さしか感じない。いまいち信用できない。」

「そうなのかな。たまに冗談とか言って笑わせてくれるけど。」

「…俺に対してだけなのか…? 俺の捉え方が悪いのか…。ま、親父を目指すのは止めておいた方がいいと思う。」

「そっか…。じゃあ、お兄さんは…ああ、何をしているか分からないのか…。」

「ああ。思い出したいんだがな。あいつに問いただせば分かるかもしれない。やってみるか…。いや、やっぱり…主導権はあいつが握っているしな…。俺はあまり動けないし…くそ…。」

「じゃ、お兄さんが元気になったら僕に会ってくれない? 僕も元気になったらだけど。」

「お前とか。」

「うん。お父さんが胡散臭いのは分からないけど。他の色々なことを見てみたいんだ。お兄さんが僕に…もっとこうなった方がいいっていうのを教えてもらいたいんだ。」

「…しかし…俺の考えはひねくれているかもしれないが、それでもいいなら。」

「でも、お兄さんと僕は普通に話せているし大丈夫大丈夫。」

「そうか、そう言ってくれるなら。いいだろう。」

「そしたら約束だよ。お兄さんが元気になって、僕も元気になったら会ってくれる?」

「…会ってやる。あの医者にどうこう言えば連絡くらいつくだろう。いいぜ。」

「約束だよ。」

「…口約束か。分かった、約束だ。」

 たまたま病院で隣同士になった程度で、外の世界で会えるか分からない。約束を守れる保証なんてない。

そうこうしているとまた急激な眠気がやってきた。体を起こしていることができず、意識が遠のいていく。完全に堕ちる直前、「おやすみ」とガキの声が聞こえた気がした。


三日目

 目を開けた瞬間から白が飛び込んできた。はっきりとしたクリーム色の白い天井、ベッドの深い緑、金属台の銀と鋼が混ざった色。視覚が戻ったようだ。体の調子もいっそう良くなっている。喜ばしいことではあるが……ただ寝ただけでここまで回復するはずがない。あの医者、また俺に無断で脳をいじったのか。

「いやいや、どうですか~。」

 聞き飽きた声と共に医者がやってきた。一日ぶりとは言っても、昨日のことが頭に焼き付いていて久しぶりに見たように錯覚してしまう。

「そういや…そんな顔だったな…。一日置きではあるが…。」

「ああ、視界はどうですか?」

「まあ…良好だ。」

「ええ、そうでしょうそうでしょう。」

「お前…また…いじったのか、俺の脳を。」

「いやぁ…外来の方を診に行って帰りましたら、また同じように眠っておられましたので。」

「そうか。俺が寝ているのが悪いのか。それとも、あんたが手術をする前に声を掛けないのが悪いのか一体どっちなんだ。」

「声を掛けようというところまでいったのですが…ああ~気持ちよさそうに寝ている方を起こすのも…少々…。」

「いやいやいや…。言ったよな、声掛けろって。あんた医者だろ。」

「声は掛けた…掛けたような…掛けたんですかね…。掛けたと思うのですが…掛けたことにしておきましょうか。うん、そうでしょう。多分、声を掛けていましたよ。はい。」

「俺が起きていなければ掛けていないのと同じなんだよ…!」

「そうでしょうか。でも体調はどうでしょう。」

「…いや…良いけど、良いけどさぁ…。」

「うん。視界も良好、体調も良くなっている。これでもう…退院は目前でしょう。」

「いやその前に記憶が戻っていないし、その前にそうだ、そうそう。お前本当は俺の名前知っているんじゃないのか。」

「…いえ。ここに運ばれただけですが。あなたは身元を証明できるようなものは持っていますか? 特に調べた際は出てこなかったのですが。」

「じゃあ、その棚の上にある診断リスト。あれは何だ。誰のものだ。」

「診断リスト…。ああ、これは私には関係の無いものです。他の医者のものでしょうか。それに…ここは私個人の部屋でもないですし。」

「…二日くらいそこに放置しているが。じゃ、このモニターはなんだ。」

「うーん…。あなた様は医者でしょうか?」

「いや、知るか。」

「専門的な知識を持っていない方にこれを説明するのは…いささか難儀なものでして。どうしましょう。三時間くらいお喋りをぶっ続けた方がよろしいでしょうか。」

「ほう…三時間。お前にその時間があるなら聞いてやるぞ。」

「いえ途中で抜けてしまいますが。」

「なら一時間に収めて喋ってもらおう。」

「いやいや…しっかりと説明しないと。なかなかにそれを理解するのは難しいかと。」

「分かりやすく説明するのがお前だろ。患者に手術の内容とかを分かりやすく説明できるのがお前だろ。それすらできないのかお前は。だから起こさないのか。なるほどねぇ…。」

「いや…それができるのでしたら、私もっとお喋りが上手いですよ。あなた様がそのようにイライラしていることなんて…そりゃもう…ならないでしょうね。はい。」

「ほう…そこは認めるんだな。」

「まあ私は口下手ですので。」

「フッ。じゃあこれは分かるだろ。『97』『98』というのは、これは適正率か。」

「ああ、そもそもこの機械はあなた様に関係のある機械ではないですし。」

「ほう俺に関係ないのか。なら電源を切っておけ。紛らわしい。」

「ああ、じゃあ切っておきますか?」

 医者はコンセントを抜き、モニターの画面を消した。医者の言葉を鵜呑みにしたわけじゃないが、関係がないものは周りに置かないでほしいものだ。余計な不安が増える。何故そういうところに気を配れないのか。こいつを見ていると血圧が上がる。

「あなた様は十分細かい方なのですね。」

「こんな状況だし自分すら分からないんだ。そりゃこうなっても仕方ないだろ。」

「じゃあ…やっぱり記憶を取り戻すためにも、もう一度お喋りをする必要がありますね。はい。」

「またお前と話をするのか。今日は何なんだよ。」

「あなたも乗り気になってきましたねぇ。」

「うるせぇよ、そうじゃねぇよ。俺は早く名前を思い出したいんだよ。」

「はい…今日は『臓器クジ』というものなのですが、ご存じないですか?」

 『臓器クジ』…ある人間一人を殺して他の多くの人間を助けることに賛成できるか、という思考実験のようだ。いくつかルールがあり、健康な人が公平にクジを引き、当たりが出たら殺されなければならない。殺された者の臓器は余すことなく必要とする者たちへ配られる。移植手術などに失敗はないものとする。人を殺す以外に臓器を得られる手段はないものとする。現実には似たようなものにドナーカードがあるが、この話では人工臓器は作れないという前提条件がある。

 結論から言うと、俺はこのシステム自体は否定しない。一人の健康者の犠牲によって臓器を必要としている複数人が助かるなら、とても効率的なやり方だ。もし俺が選ばれたとしても…納得はしないがそれが義務で抗うことができないのであれば、従うだろう。今の状態であれば尚更、自分すら無い状態は生きているとは言い難い。この世にいてもいなくてもどうだっていい。

「なるほど。あなたは臓器が配られる不健康な人が誰であっても、関係はないと?」

 提供先が誰でもいいのか、という話であればランダムで選ばれる分には誰でも構わない。仮に自分が恨んでいる者がそれで助かったのなら、回復した後に殺せばいい。要は助かる者が犯罪者だろうが大悪党だろうが、ランダムで選ばれた結果である以上逆らえないだろう。重要視するところではないと思う。

「…やはりあなたは、相手というものにはあまり興味を持っていない…そういうところでしょうか。」

 自分に関する記憶がなく、家族や友人がいるなら…その記憶すらもない。今の状態なら重要視するのは今ここにいる『自分』のみ。名前も知らないが、確かにここに存在しているものを信じるしかない。

「じゃあ…あなたの大切な人だったり、あなた自身が殺される直前まで記憶を持った状態で…クジに当たったからという理由だけで殺される。そしてその後、その体に残っていた臓器は他の人へ配られる。そういった世界にあなたは賛成できますか。」

 自分が分かった状態もしくは、大切な人が当たったとしても…そのシステムに抗えないならば従う。無理なものは無理だ。抵抗できないなら、納得はしないが従うだろう。

「昨日…一昨日はどちらかと言うと『自分』を大切にしてきたようですが、今日になると抗えないと分かれば自分を引っ込めることができる…そんな方だったのかもしれませんね。あなたは。」

「自分を主張し続けても誰も聞かなければ意味がない。」

「まあ、良く言えば引き際を分かっているということでしょうか。」

「…そういうことにしておけ。」

「いやいやそうでしょう‥‥。そうなんですね…。」

 医者の顔が少しニヤついているような気がする。

「なんだよその顔。」

「いえいえ私は元々この顔ですよ。また死神にでも見えましたか。」

「そうか。普段からそうムカつく顔をしているのか。」

「ほう…私はムカつく顔をしていると。あなた様はそう感じるのですね。」

「ああ、そう感じるね。この三日間ずっとイライラしている。」

「なるほどなるほど…。どうなのでしょう。何か私の顔に因縁というものがあるのでしょうか。」

「…どうだろうな。てめぇの顔とその話し方が凄く合っていて…こう…。」

「合っているとは、褒めていただきありがとうございます。」

「褒めてねぇよ。ああ………俺って一体何なんだ…。」

「自分というものをかなり大事にされている。そんな方なのでしょうね。」

「…このまま記憶が戻らないなら…いっそ死んでもいいな…。もう、助けなくていいぞ。」

 ここまできても自分が何者か分からない。失くしてはいけないもの、守るべきもの。生きている意義を持っていないような気がする。そもそも生きるために持つべきものを持っていない。そんな俺は助からなくていい。存在していなくていい。

「いえいえ。でも随分と元気になられたようですので、最後までしっかりと診断をして…終わりというところでしょうか。少しだけ…外来の方を診させていただいて、その後戻ってきますので。また少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか。」

「…今日で最後だよな。今日に元通りにならなければ…一体どうなるんだ。」

「いえ別に…。もう今日で退院できると思いますので、最後確認して終わり程度でしょうか。」

「明日になるまでに戻らなければ……退院させなくていい。いや、もうどうなってもいい。そうなれば……。じゃ、外来だって言っていたな、行って来いよ。」

「はい、失礼します。」

 床は冷たい色をしている。ここから出たところで、この状態で何ができる。自分も分からないまま彷徨うのか。冗談じゃない。どうすればいい…。

 今日は足が動く。自由に歩き回れる。確か隣の部屋には『あきら』と名乗ったガキがいるはず。会いに…いけるのか…会っていいのか…。

「なあ、まだそこに…いるか。」

「ああ、いるよ。どうしたの。」

「えっと…その…昨日も話しかけてくれたから…今日も話をどうだ。」

「うん。話してくれるの?」

「…お前の父親について色々愚痴りたいことはあるが…。その…扉を介して声を張り上げるのも疲れた。そっちに行ってもいいか、今日は体が動くんだ。」

「ああ…だいぶ良くなったんだね。…来てもいいけど…ちょっと自分がどうなっているか分からないから恥ずかしい…気も…。でも…いいよ。その方が話しやすいし、良いよ。」

「いいのか。見られたくないなら行かないぞ。」

「ううん、大丈夫。自分でもどうなっているか分からないから…ちょっと酷くても…また一緒に話してくれたら嬉しいな。」

「そうか、目が見えないんだよな…。」

 事故に遭い、目も見えず体も動かせない状態…。知らなくてもいいことなのかもしれない。いつか会うという口約束はしたが…それは元気になった後のこと。脳外科の最悪な状態とはなんだ。ここにきて何故こんなにも迷いと不安が出るんだ。何を恐れているのか、自分にも分からなくなってきた。

「なあ、本当に良いんだよな。入っても…。」

「うん。大丈夫…!」

 入るか。

 扉の向こうには俺の影が立っていた。部屋は薄暗く、中央がぼんやりと光っている。歩みを進めた先のベッドに横たわっているのは………俺だった。

俺の姿をした奴が横たわっている。『自分』ではない自分がそこにいる。何故体が二つある。驚きのあまり息が止まった。そこにいるのは誰だ…⁉

「ど、どう? 大丈夫? 僕…。」

 光を放っているのはこの体ではない。ぼんやりとした光の正体。そこにはカプセルのような機械があり、中の緑色の液体には脳みそが入っていた。ガキの声は、そのシリンダーに付随した受話器から聞こえてくる。脳みそだけの状態で延命している…のか。どういう技術だ。ホルマリン漬けとはわけが違う。

「……あの医者…とんでもないことをしているな……えっ…と…。」

「え、大丈夫? 僕…そんなにひどい…?」

「あ、いやなんでもない。そういうことじゃなくて。自分の体がこんなにも動いたのは久しぶりだったから…そこに驚いていたんだ。」

 つい無意味な嘘が口走った。

「そう…なの…。…でも、声…震えてるし、大丈夫なの…。」

「…ぇ…ああ…大丈夫だ……大丈夫だ……。」

「驚きましたねぇ。こんなに…もう回復しているとは思いませんでした。はい。」

 振り返ると、あの医者が立っていた。平然な顔で、澄ました様子で立っている。やはり企んでいたんだ。俺を使って何をするつもりなんだ。

「てめぇ…これはどういうことだ。」

「ああ…あきら。この人に色々答えてもらったようですが、まずは…少々お話があるので眠っていただけませんか。」

「う、うん……分かった…。」

 医者は機械に手をのばし、電源を落としたかと思うとシリンダーの光は消えた。息子には秘密にしてるってことだ。こいつがしようとしていることは、息子の承諾も何も関係ない。ただ医者がしたいことに付き合わされているだけ。俺もそれに付き合わされたってことだ。怒りという怒りと殺意が湧いてくる。

「てめぇ、クローン作ってんのか?」

「いえいえ…。そんなものではございません。」

「じゃどういうつもりなんだ。何の真似だ。」

「何からお話すれば良いでしょうか。」

「一から説明しろ。でなければ俺がお前を殺す。」

「…一からと申しますと…先ずどれでしょう。」

「じゃ…この横たわっているものは何なんだ。何故俺の姿をしている。」

「その横たわっているのはあなた自身です。分かりやすく言いましょう。今のあなたは作られた体です。」

「は? 俺は…。」

「今の貴方にはあなたの脳みそが入っており、作られた体に脳みそを入れて動いております。」

「……じゃ…つまり……ロボットとか人形とか…そういう…。」

「息子は体の原形が留められないほどの重傷を負いました。でも何とか脳だけは保存することができました。幸いにも私はそういった種族との交流がありましたので。」

「…種族…。」

「その種族に体の作り方を教えてもらったのです。ただ…息子はその作り物の体に上手く接続できませんでした。機械に移し替えるには時間が経ちすぎていたようです。上手く順応してくれませんでした。でも君の身体なら、適正率98%の君の身体なら…その子に馴染んでくれる。そして、その人形の身体も君に馴染んでいるでしょう。その…ちょっと調整は必要でしたが、適正率97%でしたから。」

 あのモニターの数字はそういうことだったのか。ということは診断リストも。息子が順応する身体と替えの人形の身体、どちらも高い適正率な者は今までいなかったんだ。

「彼らの技術は完璧です。その身体を使うことで直ちに支障が出ることは絶対に有り得ません。ですが…なに分初めてですので、保証はできませんが…。」

 黙って聞いていれば好き勝手言いやがる。何も響かない。

「チッ…。てめぇ…勝手に……。聞いて呆れるぜ。何が適正率だ。」

 怒りは収まり切れないほど湧いてくる。言葉で表しきれない。今すぐにでも殺したい。殺したくてたまらないが…今はできない。だが、代わりに言葉で殺すことも…今の俺にはできない。自分が分からないから。

「…言葉にならないな…。」

「機械の身体が息子に合えばそれで良かったのです。ですが合うことはなかった。だから私は探した。そしてあなたを見つけることができたのです。」

「え、じゃあ…お前は俺を攫ったのか。」

「それに対しては否定も肯定もしません。」

「…何が医者だよ。お前、闇医者じゃないか。」

「何が医者でしょうかね。」

「俺を作った身体に適応させて、元々の俺の身体を息子にやろうってのか。」

「はい。私はそれをお願いしたい。」

「お願いだと?」

「はい。お願いです。」

「お前、俺がこの部屋を見つけなかったら黙っているつもりだったんじゃないのか。」

「どうでしょう。」

「どうでしょうじゃねぇだろ。俺がこの部屋を開けなかったら、あんた絶対黙ってただろ。」

「‥……。」

「沈黙は肯定だぞ。そうか、黙っているつもりだったのか。」

 企みが見つかったからお願いできいてもらおうなんて都合が良すぎる。

「あなたは…『テセウスの船』でどう答えたか覚えていますか。」

「…外見が変わっても中身はそのままだと。」

「今の貴方はあなたでしょうか。」

「いや、名前も分からないのに、俺だって言えるわけないだろ。しかも身体まで変えられて、もう訳が分からない。」

「…『臓器クジ』であなたはどう言いましたか。」

「システム自体に否定はしなかった。自分が選ばれたとしても、抗う術が無ければ従うと。」

「…じゃあ、もう一度言いましょう。息子の為に、君の身体が欲しい。君にはその作り物の身体をあげよう。これはお願いです。君の身体を譲ってください。」

 呆れすぎて笑いが込み上げてくる。俺はちゃんと言った。抗えないなら従うと。ここまでしておいて、なぜ貫き通さない。なぜ偽善を振りかざそうとするんだ。

「…何で……いや、何て言っていいかな。呆れるぜ。」

「強制も何もしません。これはお願いです。私個人としての。」

「…お願いって…。俺は言ったよな、抗う術がないなら従うと。だがお願いをされてしまっては拒否できるじゃないか。」

「………。」

「俺は言ったはずだぞ、抗えないなら従ってやるって。ここまでして…欲しいならさ、もっとこう…お願いじゃなくて、強制したらどうなんだ。何故それをしない。何故俺に選択させる。そんなの……。」

 勝手すぎるだろ。頭を下げたまま微動だにしない医者に向かって俺は言葉を続けた。答えてほしかった。脳を人形に移し、騙し通そうとしたにもかかわらず…最後に『お願い』だと。俺だけではどうすることもできない。この医者の助けなしでは元の身体には戻れない。主導権はこの医者が握っているんだ。俺に拒否権は無いんだ。それは医者も分かっているはず。なのに…なぜ実行しない。俺に選択肢を与えるなよ。ここまでして息子を助けたいなら、やり通せよ…‼ バカなのかこいつは…。頼むから言ってくれ、これはお願いではないと。お前に拒否権は無いと。そしたら従ってやるから、息子の為に身体を使えよ…。それを言うだけでいいのに。

「じゃあ…あんた本当は分かっているんだよな。せめて俺が誰かっていうのを教えてくれよ。」

「……お願いです。身体を譲ってください。」

「それは聞いた、それは聞いたんだ。今は俺が質問してるんだ。せめて自分が誰かっていうのが分かれば、少しは考えてやれるかもしれない。」

 俺は何故…身体を譲ることを考えているんだ…。こいつの息子が助かったところで、俺には……。それに、こいつの願いをきいてやる義理はない。

「………。」

「…何故お願いなんだ。…俺は一体誰なんだ。」

「………。」

「…俺の名も何も教えてはくれないのか。…ズルいな。それで身体を譲れだと…。何の情報も無く、俺が一番大事にしている『自分』すらも与えず…。それで譲れだと…。はっきり言おう、断る。」

 名前さえくれれば…『自分』さえ与えてくれるなら、百歩譲って身体はくれてやる。だが、それすらも貰えない。それでも、強制であれば俺は従ってやる。自分ではどうしようもできないから。たった一言、「譲れ。」と言われればもうどうしようもない。それこそ眠らされれば尚更だ。だがそれすらも無い。こんな状態では、もう断るとしか言いようが無いじゃないか。こんな勝手な行為に賛同するほど俺はお人好しではない。今だって、医者と息子をあの世に送ることも考えている。そもそも息子が生きていなければ、こんな選択肢は存在しない。だが、その根本を潰す力があるのかは分からない、医者が何か対策をしているかもしれないからだ。下手に手は出せない。俺は「断る。」と言うしかない。その先は医者に任せる。好きにしてほしい。元の身体に戻すか戻さないは…好きにしろ。

「………。」

「俺は最初に言ったよな、強制ならば受ける。だがお願いなら拒否ができる。簡単なことだ、はっきり言おう。断る。」

「……そう…ですか…。」

 視界が暗くなっていく。何をされたのかは分からない。意識が遠のいていく。最後に映ったのは、医者の悲しそうな表情だった。




 静かだ。俺は社宅の自室のソファーに寝転がっている。自分が誰か、その周りのことも当たり前のように覚えている。そして、あの病院のことも。あれは夢ではない…よな。

 めくれた袖から手首が見えた。肌色をした皮膚、骨の感触もある。その中で唯一、よく見ないと気づかないが一部分だけ肌の色が違う。これは元々の身体なのか、それとも作られた身体なのか。正直言うと、今の俺にはどちらでもいい。俺は『自分』を知っている。今の俺が俺自身であることに変わりはない。俺の人生を誰でもない俺が歩んでいるだけだ。たとえこれが作り物の身体だとしても、元々の身体が捨てられるわけじゃない。あの医者の息子に使われるはずだ。もう、俺にはどうしようもない。どこの病院かも知らない。あの医者の名前も知らない。取り戻す技術もない。抗えないなら、配られたピースでその後を組み立てるしかない。

 さあ、仕事の時間だ。





エスパー=サイ=ヒプノース

『自分』というものを重んじる。

己が存在する限り、この世には存在する意義がある。

逆に言えば、己を無くしたときはどうすればいいか分からない。

そこに意味があるのか。死を選ぶ時なのかもしれない。

己が分からなくなるのが一番怖いことだ。

身体は容器にすぎない。肝心なのは中身だ。

己という魂が分かる限り、決して諦めはしない。

ただし、どうしようもないことには労力を使わないと決めている。

諦めるときをよくよく見極めなければならない。


医者

事故に遭った息子を助けるため、とある種族の手を借りてエスパーの身体を人形と入れ替える。

だが最後にエスパーへ投げかけたのは「お願い」だった。


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