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江戸が終わって、明治が終わって、大正、昭和……。激動の時代を経て、僕はとうとう、自分の生きた時代に戻ってきた。
段々と、生きづらくなってきていた。
戸籍やなにやら……、不老不死を隠して生きるには難しい、管理の行き届いた社会になってくるにつれて。
それでもいつか舞台となるべき場所……、竹緒さんのおじいさんおばあさんから譲り受けた土地を確保することには成功した。
もうずっと前のことだから、屋敷なんかは残っていなかったけれど。
土地の用途はいくらかの変遷を経て、学生寮に辿り着いた。
そして少子高齢化。学生の数が減ってくるにつれてその寮は、ただのどこにでもあるアパートになって……。
結び荘という名前を、僕がつけた。
*
最初に埋まったのは、103号室だった。
伊名城玲。……深夜、街のごみ捨て場で丸まって眠っていたのを、拾ってきた。
もちろん、彼女は僕のことを知っていた。過去と未来に意識を飛ばせる、時間乱歩者。
次の日の昼、起きて、自分がどこにいるかを理解して、僕の顔を見て、伊名城さんは一言、こう言った。
「いいんですか?」
そして、僕はこう答えた。
「ええ。そのつもりで、あなたを連れてきたんですから」
預貯金はゼロ。手持ちの財布には三千円。頼れる身内はひとりもいない。
まだ、二十歳にもなっていなかった。
「あ、あの……。私、占いの才能があって。だからその……すぐに、、お家賃とか払いますから」
その申し出を、僕は「いいえ」と断った。
「あいにく、お金は大して必要としていないんです」
「……本気ですか?」
「本気だっていうことは、もう未来で知っているでしょう。……大学にでも行ってください。この年になると、人からなにかをもらうより、人になにかをあげる方が、楽しくなってくるんです」
小学校にもほとんど通っていなかった彼女に、いちばん初めから、勉強を教え始めた。
元々、長い時間のなかで教師の役割をすることが多くなっていたから、それほど苦ではなかった。
生まれもった賢さがどのくらいだったかなんて、もう関係ないくらいの歳月を積み重ねていた。集積した知識をただ持っているだけの人が役に立つ時代は、もう終わってしまったけれど……。
それでも、人ひとりに基礎的なことを教えるくらいは、まだできた。
「これでとりあえず、給与明細を見て自分がどのくらいのお金をもらえたのか、それから、一ヶ月のあいだどんなペースで生活していったらいいか、わかるようになったでしょう」
これだけ丁寧に伊名城さんの生活を支えたのは、前の世界の姿が、頭に焼き付いていたから。
いまにして思えば、前の世界の彼女は全部を知っていたのだろう。
うそは、ひとつも吐いていなかった。
『だいじょうぶです。香住さんは、死にませんよ。それに、倉上さんも、助かります』
その言葉のとおり、僕は死ななかった。そしてきっと、あのあと、倉上さんも助かった。
なにも、うそはなかった。
もしも前の世界の時崎もこうして伊名城さんを拾っていたのなら……、きっと伊名城さんは、時崎を裏切るわけにはいかなかった。
かといってあの人は、友人を裏切ることに耐えられるほど優しくない人でもなかった。
板挟みになってしまったあの人に……、それでもできる限りの真実を伝えようとしてくれたあの人に、僕は同じくらいの優しさを向けたいと、そう思った。
三年かけて、高校卒業認定試験に合格して、彼女は大学に入った。
ひとりだと不安だから一緒に入って、と泣きつかれたときは閉口したけれど……、それでも少しのあいだの退屈しのぎとしては、最適だった。
それに、そこにいればいるで、やるべきことも多少は見つかった。
「時崎さんには、感謝しても、しきれません」
卒業して、就職して、初任給。
そのすべてを、封筒に入れて、彼女は僕に渡してきた。
「滞納してた家賃です」
「……あの、それ、ぜんぶ渡したら今月はどうするつもりなんですか」
「だいじょうぶです。貯金、バイトしてたころのがありますから」
「そうじゃなくて。そこまで急ぐものでも……、なんなら、そのまま払わなくたっていいものなんですから、もう少し計画的に……」
「算数、ぜんぶ忘れちゃうくらいの感謝です」
受け取ってください、と伊名城さんは、封筒を前に出す。
僕は溜息を吐いて、
「忘れないで、ちゃんと覚えておいてください」
「はい」
伊名城さんは、屈託のない顔で、満面に笑った。
「一生、忘れません」
お祝いに、お酒を飲んだ。
明日も仕事があるから一缶だけ、と言って。
伊名城さんは、ゆっくりと。
ゆっくりとそれを、飲み干した。




