20
トンネルの電気は、最初から点いていなかった。
暗闇のなかを歩いた。あの夏の日、あんなに怖かった場所が、いまじゃなんともない。
なにか大きなものが、僕の心の奥を塞いでいる。血の一滴だって、出てこない。
トンネルを抜けた先。冬星の下で、時崎さんが待っていた。
だれかに似ている。どうしてだか、初めて時崎さんを見たときに感じたのと同じことが、心に浮かんだ。
「香住さん」
時崎さんが、言う。
「前に私があなたに言ったことを、覚えていますか」
その言葉で、鮮明に蘇る記憶があった。
いつも穏やかな時崎さんが、真剣な調子で口にした言葉。
「『どんな未来も、いつかは向き合わなければならないものなんです』……」
いまとなっては。
わかる。その言葉が、すべてだったってこと。
結局いつかは未来と向き合うしかない。そういう、悲しい言葉。
ええ、と時崎さんはうなずいて、
「そして私はこうも言いました。『いつでも頼ってください』と」
時崎さんは袖をまくると、懐に手を差し入れて、引き抜いた。
その手には、抜身のナイフが握られている。
「私は、不老不死です」
ぶつん、と。
時崎さんは、そのナイフで、自分の腕を、思いきり突き刺した。
僕は、声も出ない。
出せないうちに、時崎さんの腕に溢れ出した血が、動画の逆回しみたいに、なくなっていくのを見た。
「…………え、」
「偶然じゃないんですよ、香住さん。過去や未来に意識をつなげられる伊名城さんがいたこと。それに、パラレルワールドに存在する自分を観測できる倉上さんがいたこと。同じアパートのなかに、ふたりもそんな人間がいたことは、偶然じゃないんです」
時崎さんは、ナイフを地面に置く。傷ひとつなくなった腕も、袖のなかに戻して。
「千二百年前の話です。私は不死の薬を飲んだことで、永遠を生きる存在になりました。言ってみれば、理想時間薬……。自分の身体を、理想の時間における状態に保つ薬です。そしてその薬を飲んだとき、同時にある呪いを受けました。ここ……結び荘の住人は、偶然集まった人たちなんかじゃありません。私が、その呪いを解くために集めた人たちなんです」
僕は、どんな反応をしたらいいのかわからない。
時崎さんが不老不死だっていうことに、疑う余地はなかった。目の前の光景は現実だったし、それに時崎さんは、伊名城さんのことも、倉上さんのことも、当然みたいに知っていた。
思い出す。
この結び荘を選ぶとき、不動産屋の人は、どんなふうにそれを僕に勧めた?
『これ以上の物件はないですよ』って……。ほかのアパートを見せる前から、言っていなかったか?
「多時間観測者、倉上花音。
時間停止者、三川宗太郎。
時間跳躍者、竹緒都。
時間乱歩者、伊名城玲。
そして、あなたも。全員が、時間に関する、生まれついての特異体質者なんです」
あまりにも、まっすぐな声で。
疑う余地のないような話し方で、時崎さんは言った。
全然、話が飲みこめない。
急すぎる。いままで信じていたものが、がらがらと音を立てて崩れるような感覚にさらされてしまう。
でも、きっと。
ここを逃しちゃいけないんだって、それだけはわかって。
「……三川さんと、竹緒さんも、なんですか」
「三川さんは、短時間ながら時間を止めることができます。そして竹緒は……、彼女は、本当は千二百年前の生まれです。同時代にいられるのは、三年が限度。一定の時間を連続して過ごしたあと、百年、二百年もの時間を跳躍してしまう体質なんです」
笑うしかないような話なのに。
笑えないでいた。たしかに……ときどき、三川さんは、手品みたいなことをする。いちばん初めは、僕が落としたはずの財布を、瞬きする間もない一瞬で手に取っていた、あの初対面の夜。それからも、何度か似たようなことを。
竹緒さんは……、まさかと思っていたけれど。そういうことだったって言われたら、納得できるような、そういう人だった。
世界は、僕が思っていたよりも、ずっとでたらめだって。
そんなことを、いまさら考えていた。
「なんで、僕の日記のことを、知ってるんですか」
「千二百年、ただ眠っていたわけじゃありません。いまの私は、見るだけでその人が特異時間体質者か、見分けられるだけの知識があります。……そして香住さん。あなたは勘違いをしている」
「勘違い?」
「あなたの能力は、日記みたいな外付けのものじゃありません。それはただの、あなたの特異体質のひとつの現れです。未来の記憶が逆行して、日記という形で現れているだけなんです」
「未来の、記憶?」
「ええ」
時崎さんは、うなずいた。
「時間逆行者、香住森一。
あなたの力は、時間をさかのぼる力です」
その言葉は。
救いみたいに、僕に響いた。
「それって、つまり」
「時間をさかのぼって、倉上さんを助けることができる。そういうことです」
声をあげて、泣きたくなった。
倉上さんが死んでいるのを見ても、涙を流さなかったのに、いま、この瞬間に。
うれしくて、泣きそうな気持ちになっていた。
……でも。僕は、気づいている。
「戻っても、」
情けない声で、時崎さんに言う。
「助ける手段が、ありません。僕は、一年も前から倉上さんが死ぬことを知っていたのに、なにもできなかった……」
「香住さん、言ったでしょう」
時崎さんは、優しい声で。
「『いつでも頼ってください』って」
懐に手を差し入れて、今度は、ナイフじゃない。
小さな、紫色の小瓶を取り出した。
「私がかつて飲んだ、不死の薬です。……二本で、ひとつなんですよ。冷たいまま飲めば、そのまま不死になる。温めて飲めば、その不死を解除する。いつでも元の……ふつうの人間に戻れるように、二本を、セットにして使うんです」
時崎さんが、僕に歩み寄ってくる。
小瓶を、その手に持って。
「永遠を生きる覚悟を、私はしました。だから、この残りの一本は、もういいんです。香住さん。もしあなたが倉上さんを助ける覚悟があるなら、その薬を持って、時間を逆行してください」
「……いいん、ですか」
いいわけないって、わかってた。
だって、永遠を生きるって、想像しただけでも恐ろしいことだ。
だれが死んでも……、なにが滅びても。街や、国や、人や、星や……、宇宙が滅んでも、死ねないってこと。
真っ暗闇の中で、いつかひとりぼっちになるかもしれないっていうこと。
それが、どれほど恐ろしいことか。
「いいんです」
時崎さんは、寂しそうに言った。
「本当は……、私が倉上さんに使うべきだったんでしょう。私で、終わりにすべきだった。でも私には、その勇気がなかった。……こんなこと、頼める義理じゃないのはわかっています。それでも、あなたに託します。あなたに、決めてほしい」
時崎さんの気持ちが、僕にはわかった。
いま、僕だって、迷っている。
不死の薬なんて、そんなものを使ってまで、倉上さんを助けることが、正しいのか。
花が、蛍が、しゃぼん玉が好きだって言ったあの人を、永遠に生かして、苦しめることになるんじゃないか。
人を死なせてしまうことは、悲しいことだった。
でも、人を生かすことだって、悲しいことなのかもしれない。
自分が死ぬくらいで済むんだったら、そっちの方が、ずっと簡単な選択だったかもしれない。
そのくらい、その紫の小瓶は、重たいものに見えた。
それでも、僕は。
「行きます。あの人のことが、好きだから」
それを、時崎さんの手から、受け取った。
時崎さんは、安心したように笑った。
「時間逆行には、いくつかコツがあります。トンネルのなかに入りましょう」
僕は、時崎さんに先導されるまま、真っ暗なトンネルのなかに入った。
「そのまま……、ずっと歩いていてください。それから自分の頭のなかに、映像を浮かべてください。ついさっき私といたときの記憶を、スクリーンに映すみたいに頭のなかに浮かべるんです」
言われたとおり、僕はそれをする。
冬星の下、寂しげに佇んでいた時崎さんのこと。
「そのまま歩いて……、映像が浮かんだら、その先の記憶をさかのぼっていってください。まずは、冬のことから……」
今朝、死んでいた倉上さんのこと。
ホワイトデーに、一緒にケーキを食べたこと。しゃぼん玉を吹いたこと。
初詣にみんなで行ったこと。冬の朝陽のなか、悲しそうにしていた伊名城さんのこと。
「次は秋……」
夜通し、倉上さんとゲームをしたこと。
竹緒さんと一緒にパンを食べて、夕焼けを見たこと。
「夏……」
このトンネルに、倉上さんと来たこと。その夜のこと。
夏の夜、三川さんにすき焼きを奢ってもらったこと。
「春……」
春の夜の、口づけ。それから花、ひかり。
新しい生活のなかで会った、同じ屋根の下の、ふしぎな人たち。
はじけたしゃぼん玉。見上げた花と、僕がこれから、好きなる人のこと。
楽しかった、って。
そう、思った。
「香住さん」
時崎さんが、闇のなかで言う。
「竹緒は、なにも知りません。三川さんも、きっと。そして伊名城さんは……あなたに、謝っていました。でも、彼女のせいではないんです」
わかってます、と言おうとした。
伊名城さんのせいじゃないって、それは倉上さんにも言われていたことだから。
でも、声が出なかった。
ふしぎな感覚だった。身体が、暗闇のなかで、夜に溶けてなくなってしまうような。
魂が、この星から剥がれていくような、そんな奇妙な心地が、していた。
「悪いのは、私です。私が、私たちが、全部を仕組んだんです」
時崎さんのせいでもないって、言おうとして。
でも、その言葉は。
仕組んだ、って言葉は。
なにかが違うって、気が付いた。
「その不死の薬は、あなたが飲むんです」
どういうことですか、と問い詰める声が出ない。
それどころか……。
「時間逆行は、一度始めたら自分の意思で立ち止まることはできない。目を開けたら、その薬はあなたが飲んでください。そして……、竹緒を探してください。千二百年前の、跳躍体質が不安定な時期の彼女に触れれば、彼女の力はあなたの逆行の力を一時的に飲みこんで、本来の時の流れに戻してくれます」
嵐のような突風が、吹いてきている。
声はふしぎと聞こえているけれど、でも、海の果てまで飛ばされてしまいそうなくらい強い風が、吹いている。
流されるんだ、とわかった。
時間を少しさかのぼるなんて、器用なことはできない。
このままじゃ、どこまでも飛ばされてしまう。制御できない。星の始まりまで、あるいはそのもっと前まで、僕は戻り切ってしまう。
騙したんですか、と叫ぼうとした。
でも、それは声にならないで。
「不死の薬は、二本ともその時代にあります。……私は、あなたに謝る資格すらない。でも、できれば……、できれば、私と同じことを、あなたにはしないでほしい」
それを最後に、声は聞こえなくなった。
風は、どんどん強くなる。
目を開けた。
もう、暗闇じゃなかった。
トンネルの向こうに、夕暮れが見える。それは段々と昼になっていって、やがて朝焼けに、そして夜に……。
時間の逆回しが終わる気配は、まるでなかった。
その逆行の速度は、どんどん上がっていく。数十秒で一日が過ぎて、次の数十秒で、一週間。
そしてそのあいだ、僕の身体は止まってなんかいなかった。
衰弱して、立てなくなって、もう、考える暇なんかない。
紫色の、不死の薬の入った瓶を開けて、僕はそれを一息に呑み干した。
次の瞬間から、さらに時間は加速していく。
季節が次々に流れていく。
トンネルは壊れたように見えて、本当はきっと、作られる前に戻っていた。
樹々が茂り始める。きっとこれは、伐採される前のこと。
空の色が濃くなって、空気に水のような匂いが混ざり始める。
もう、三百近くの季節が、訪れては、消えていった。
行かなきゃ。
僕は歩き出した。一度あれだけ弱ったはずの身体は、不死の薬を飲んだ途端に、いままでよりもずっと軽く動かせるようになった。
竹緒さんを探せ、って。
自分を騙した人の言葉を信じるなんて、ばかみたいだけど。
それでも時崎さんと、結び荘の人たちと過ごした時間の全部がうそだったなんて思いたくないし、思えないから。
僕は歩き出す。
竹緒さんを探して。
場所は……、そこ以外に、思いつかないから。
結び荘の、ある場所へ。
ほとんど目印もなくなっていたのに、二度もトンネルに来ていたおかげか、きっとここだ、という場所に、ちゃんと辿り着けた。
辿り着けたのに、きっと、なんて言葉を使ったのは、もう、まだそこに結び荘がない時代にまで、遡っていたから。
家がなくなる。別の、前の家が逆回しに壊されていって、元通りに建つ。
そんなことが何度もあって、もう、千年近くを巻き戻って。
大きな屋敷が、そこに立っていた。
僕はそのなかに入り込む。
人の姿は見えない。たぶん反対に、人にも僕の姿は見えていないんだろう。
生きている時間の流れが違うから。そういうことがどういうわけか、僕には直観できるようになっていた。
ここにいるっていうことも、ふしぎと、僕にはわかった。
お屋敷の、座敷の奥の奥。
泣いている女の子がいるのを見つけた。
逆回しの、だれもいない世界のなかでひとりだけ。
小さくなったり、大きくなったり、光ったり。奇妙な動きをする女の子。
一瞬だけその顔が、僕の知っている時代のものと、重なった。
「竹緒さん」
その手に、自分の手を重ねた。
それで、ぱあっと、視界が開けた。
だれもいない部屋なんかじゃなかった。
大きな空間に、烏帽子を被った人たちがずらりと並んで、驚いた目で僕を見ている。
平安時代、と。
僕は口のなかで、小さく呟いた。
「だあれ?」
だれも声を出せないでいたなか、最初に言ったのは、その女の子。
泣き腫らしたように赤い目をした、幼い竹緒さんだった。
本当に、ずっと昔にまで戻ってきてしまったんだ。
竹緒さんが時間跳躍者だって言った時崎さんの言葉に、うそはなかった。
ということは、僕はあの薬を飲んだとき、不老不死になってしまって。
いまは、自分が生きていた時代から、千二百年を隔てた過去に、いるってことで。
僕を見上げている竹緒さんの不安そうな瞳に、涙が溜まり始める。
なにか言わないと。
「僕は、」
とにかく、まずは自分の名前から、と。そう思って。
見てしまった。
その涙が映し返した、自分の顔。
「……時崎、」
さん、と。
その言葉は、あんまりか細くて、消えてしまう。
「とき、ざき?」
その言葉を、竹緒さんが、繰り返す。
瞳には、僕の顔が映っていた。
時崎さんに、そっくりの。




