19
ちりん、と鈴の音がした。
振り向くと、和服の女の子。
「ああ、竹緒さん」
「ここにいたんですね、香住さん」
自動販売機の前に、僕はいた。
あの春の夜に倉上さんに連れてこられた、ひとりぽつんと立っている、蛍みたいな、そんな自動販売機の前に。
いまはまだ、冬の夜だけど。
三月十九日、冬。
僕は倉上さんの死んだ日にこの場所に来て、ただ、ぼんやりとしていた。
「だいじょうぶですか」
気遣うように、竹緒さんが言ってくれた。
だから僕は、こう答える。
「……だいじょうぶですよ。心配かけてすみません」
二歩、三歩、と竹緒さんが歩み寄ってくる。
そして手を伸ばして、指で、僕の目元をすうっ、となぞった。
「無理を、しないでください」
「…………」
結局。
結局、なにも変わらなかった。
涙は、まだ一滴も流れていない。
ただ、むなしさと、無力感だけが、僕のなかにあふれる、すべてだった。
「伊名城さんが、見つかりました」
竹緒さんが言った。
「でも、錯乱しているみたいで……。時崎が、しばらく会うのは難しい、と」
「そうなんですか。……見つかって、よかった」
伊名城さんは、ホワイトデーの次の日から、姿を消していた。
部屋の中身をぜんぶ残したまま、失踪した。伊名城さんが働いているというカルチャーセンターの職員さんも来て、時崎さんに事情を訊いているのを見た。
ほらね、と倉上さんは言っていた。
伊名城さん、優しいから。自分で自分のついたうそに、耐えられなくなっちゃったんだよ。
そして、倉上さんは、こうも言った。
戻ってきたら、優しくしてあげてね。伊名城さんのせいで、私、死ぬんじゃないんだから。
僕は、うなずいた。
本当のところ、怒る気持ちもあったけど。
自分じゃ助ける方法がわからないっていうなら、気休めなんか、言わないでほしかった。
そうすれば僕が、自分で倉上さんを助ける方法を探したのに。
そんな風に、怒る気持ちもあったけれど。
でも……同時に、わかってもいる。
伊名城さんから「だいじょうぶ」と言われて、それ以上考えるのをやめたのは、自分の弱さのせいだって。
人から言われた言葉で簡単に安心したのは、それに縋りたかったからなんだって。
僕は、自分の力で未来を変える自信がなかった。だから、伊名城さんの優しいうそを、頭から信じこんだ。
だから、本当は。
僕は、伊名城さんに怒る資格なんてないんだって、そうわかっていた。
伊名城さんがいなくなってからの僕は、結局、なにも倉上さんにしてあげられなかった。
「それから、三川さんが時崎の代わりに調べてくれたのですが、倉上さん、もうご両親も亡くなられて、お身内の方はいらっしゃらないそうです。だから結び荘で葬儀を、と」
「それは、時崎さんが?」
「いえ」
竹緒さんは、目を伏せて、
「私が、そうしたいという話です。……お友だち、でしたから」
「……そうですか。その、倉上さんも」
よろこぶと思います、という言葉を、僕は飲みこんだ。
そうして続けてしまえば、倉上さんがこの世にもういないことを、認めてしまいそうだったから。
「あの、それから」
竹緒さんは、着物の懐に手を入れて、折りたたまれた小さなメモ用紙を取り出した。
「時崎から、伝言です。中身がなんだか、私は知らないんですが」
僕はそれを、無気力に受け取る。
しっかりしなきゃいけない、と思うのに、身体に力が入らない。
「……すみません。いろいろ、やってもらっちゃって」
「そんな言い方、しないでください。ひとりで抱え込まないでください。私も、時崎も、三川さんも……それに、伊名城さんもいますから」
気持ちが落ち着いたら戻ってきてください、と言って、竹緒さんは去っていった。
そして僕が、ひとり残される。
冬の自動販売機は、いっそう真っ白で、孤独に見えた。
僕は考えるものも考えられないまま、それを眺めている。
さくら抹茶ラテは、まだ置いていなかった。
春が来る前に、倉上さんが去ってしまったから。
立ち上がる。お金を入れて、ブルームーンソーダ。
どうしてだろう。
石みたいな、味がした。
そのまま僕は、じっとしていた。
冬の風が体温のすべてを奪ってくれるまでそうしていようかって、本気で思っていた。
「あ……」
でも、そのとき。
風が、僕の手からメモを、さらっていった。
さっき竹緒さんから受け取った、時崎さんからのメモを。
なくしちゃいけない。そう思って、重たい身体を動かす。風に転がされたメモはひとりでに広がっていた。
見ると、こう書いてある。
『覚悟があるのなら』
そして、地図。
その場所には、見覚えがあった。
夏の夜に訪ねた、あのトンネルの先。
「…………なんの、覚悟なんだろう」
命を捨てる覚悟とか、そういうのなんだったら。
もう僕は、そのくらいのことを覚悟とは呼ばないって、そう思った。




