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本格的に朔夜の論語の勉強が始まった。
朔夜と司宇は文机を挟んで座っている。
向い側ですらすらと漢文を書く司宇を、朔夜は頬杖をつきながらじっと見ていた。
司宇の書く文字は、とても美しかった。
少し堀が深い・・・?目は大きく、鼻筋がすっと通っている・・・それに、司宇って顔が小さいのね・・・・
筆の運びに合わせて時々動くまつ毛を見ているだけで、何故か楽しくて仕方がない。
不意に朔夜の脳裏に、司宇に口移しで薬を飲ませた時のことが思い出された。
一気に顔の熱が上がり、両手で頬を覆い大きく深呼吸をする。なんとか火照りを覚まそうとするが、そううまくいくわけがなかった。
ぎゅーっと目を閉じ、ぱっと開けると目の前の司宇と目が合った。
「朔夜、お前の出る種目は顔芸ではなく、論語だ」
「わっわかってるよ」
司宇は呆れたように小さくため息をつきつつも、優しく笑う。
「今日はこれを覚よう。俺が意味を言うから、まずはそれを書き取るといい」
「・・・・うん。わかった」
司宇から受け取った紙にはびっしりと漢字が羅列してあった。
「えっと、これが論語なの?」
「孔子を知っているか?」
朔夜は首を横に振った。
「孔子とは四聖人のひとりで、孔子とその弟子たちの会話が主に論語とされているんだ。論語は学而第一、為政第二といった具合に全部で二十篇あるが、もちろんこれを全て覚えるのは今からではとても間に合わない。だから、俺が山を張っていくつかを抜粋するから、朔夜はそれを覚えたらいい」
「うん、わかった」
朔夜は胸の前で両手で拳をつくり頷いた。
「じゃぁ、始めるよ。始めは巧言令色鮮仁。これは言葉が巧みで外見を装う者は、他者を気遣う気持ちは少ないという意味だ」
「うん。こうげんれいしょく・・・っと」
朔夜は必死に司宇の言葉を書き留めた。
「ねぇ、司宇。これってつまり、詐欺師を意味してるわけだよね?相手を思う気持ちがないからこそ、言葉巧みに騙すことができる。そういうことでしょ?」
司宇はどこか関心したように朔夜へと視線を向けた。
「なるほど。朔夜、お前は勉学に向いてるかもしれないな。教えられたことをただ、覚えるだけでなく自ら考えることは重要なことだ」
そう言って司宇は朔夜の頭にぽんっと手を乗せた。
いつも朔夜の頭をこうして撫でてくれるのは、義兄の耕史だった。同じことを司宇にされるのは、どこか気恥ずかしい気もしたが嬉しさの方が勝っていた。
「司宇っ、本当にそう思う?」
「あぁ」
嬉しそうに笑みを浮かべた朔夜を見て、司宇は思わず視線をそらした。
なんとか平静を装った司宇であったが、内心では完全に頭を抱えていた。
可愛い・・・可愛いすぎるだろ・・・・
今ではどうして朔夜を男だと思ったのか、男に見えていたのか、そっちを理解する方が難しくなっていた。
蓮翠や義輝がどうして気づかないのか、不思議で仕方がない。
「・・・・宇・・・司宇、司宇ってば!」
朔夜の呼ぶ声に、はっと我に返ると朔夜はすっかり訳を書き終えて、きょとんと司宇を見ていた。
「ねぇ、司宇。どうかした?なんだかぼんやりしているみたいだけど・・・。あっ、もしかしてまた熱が!」
そう言って司宇の額に伸ばされた手首を、司宇はぱっと掴んだ。
「いや、熱なんかないから。とにかく、まずはこれを写して覚えることからだ。俺は少し弓でも引いてくるから」
そう言って逃げる様に部屋を出て行ってしまった司宇を見て、朔夜は首を傾げた。
ここのところ司宇の様子がなんだかおかしいのは確かである。
「怒ってる感じでは・・・ないよね・・・」
思い当たるのは、馬小屋での一幕だ。
朔夜の秘密。
しかし、司宇の言ったそれが朔夜が女子であることだと断定するには、確証がもてなかった。
自分から打ち明ける勇気など、とてもない。
胸の奥がもやもやとして、苦しくもある。
朔夜は自らの考えを払拭するかのように、ぶんぶんと頭を振った。とにかく今は論語を覚えなければならない。気を取り直して、ひとり机に向かったのであった。
勢いに任せ部屋を飛び出た司宇であったが、実のところとてもじゃないが弓を引く気分ではなかった。
目的もなく歩いていると、見えたのは馬上である。
「あれは、蓮翠か?」
視線の先には愛馬の雛菊に跨り、なんとも楽しそうな蓮翠の姿があった。
馬上から司宇と目が合うと、蓮翠は真っすぐ司宇の元まで来て雛菊から降りた。
「なんや、朔夜への教示は終わったんか」
司宇は小さく何度か頷くと、馬場の柵へと背中を預けた。
「なぁ、蓮翠」
「なんや?」
「お前、朔夜を見てどう思う?」
「は?」
「いや、だからさ、お前から見て朔夜は・・・・その・・・男か?」
「いや、男やろ」
即答する蓮翠に司宇はため息を返した。
そんな司宇を見て蓮翠は「うーん・・・」と空を仰ぎ見た。
「つまりなんや。司宇。お前朔夜に惚れたんか?まぁ、わからんこともないけどなぁ」
「ほんとか!」
司宇が蓮翠の襟元を掴み詰め寄った。
「お前にも朔夜が女子に見えるんだな!」
すぐ目の前に迫る司宇の顔を見ながら、蓮翠は苦笑いした。
「ちょい待ち。落ち着けや」
そう言って司宇を引き離すと、蓮翠は腕を組み腰を曲げて司宇の顔を覗き込んだ。
「朔夜は身体もちっこいし、男なら当たり前にできることができん。その上あの顔立ちや。化粧なんかしたら、そらもぉその辺の女子よりよっぽど別嬪さんや」
司宇は黙って蓮翠の話を聞いていた。
「せやかて、あいつは男や。まぁお前がそれでもええ言うんなら、ええんやろうけど。なんでも徳川の将軍はんにもそんなんおったなぁ。家光・・・言うたか?」
「え?は?馬鹿っ、蓮翠お前、何言って!俺は別にっ!」
司宇が顔を赤くして慌てていると、背後から修練を終えた義輝がやってきた。
「お前たちもひと汗かいたか・・・って、司宇どうかしたか?」
赤面した顔を隠すように下を向く司宇に、義輝が「ん?」と首を傾げた。
「なんでもあらへん。司宇の恋の話や」
「こっ恋だと!」
目を丸くする義輝を見て、司宇が慌てて蓮翠の口をふさいだ。
「ばかっ!だから違うって言ってるだろ!」
「こっ恋って、司宇、お前清国から来てずっと修義館にいるのに、いつの間にそんな女子をっ!」
「あーーーーっ、だから違うんだっ!いいか、義輝。蓮翠は知っての通りいい加減な奴だ。こいつの言うことを信じるな!」
ぴしゃりと義輝に指を指して言った司宇の隣で、蓮翠が面白そうに笑っている。
「あ、あぁ・・・わかったよ」
義輝は何が何だかわからないままに、頷いたのであった。
三人揃って白虎の部屋に戻ると、朔夜は机に突っ伏して寝入っていた。
「朔夜の奴、慣れない頭を使って疲れたようだな。とはいえ、そろそろ夕食の時間だろう。起こしてやらねばな」
そう言うなり、義輝は朔夜の肩を揺すった。
「朔夜、朔夜、夕食を食べ損ねてしまうぞ」
「んっ・・・・んん~・・・・あれ、いつの間に寝ちゃったんだろう」
寝ぼけ眼の朔夜と机を挟んで義輝が頬杖をついた。
「どうだ、論語の暗記は順調か?」
「うん、司宇が丁寧に教えてくれるからね。今日の分は全部覚えたよ!」
楽し気に会話を交わす朔夜と義輝を、司宇が見ていると不意に司宇の耳元で蓮翠が囁いた。
「なぁ司宇?朔夜と義輝は随分と仲がえぇなぁ」
「別に、同じ白虎なんだ。あれくらい普通だろ」
「そうやろか?」
開いた扇子で仰ぎながら、蓮翠はにやにやしながら司宇を見ている。
「あのなぁ、蓮翠。俺が言っているのは、そう言うことじゃないんだ!」
「ほな、どないなことやろ?」
司宇は「あーっ!」と叫んだ後で、「蓮翠ちょっと来い!」と蓮翠の袖を乱暴に引いて部屋を飛び出し裏庭へと向かった。
蓮翠は司宇に引きずられながらも、楽しそうである。
「蓮翠、いいか。これは重要なことだから、真面目に聞け」
裏庭に着くなり、司宇は蓮翠の肩をがしりと掴み、いつになく真剣な眼差しを向けた。
蓮翠は相変わらず楽し気で、いたずらっ子のような眼差しを司宇に向けている。
「多分、いや・・・間違いなく、朔夜は女子だ」
突拍子もない司宇の言葉に、流石の蓮翠はきょとんとした後で、「はぁ?」と両手を広げた。
「司宇、えぇかげんにしいや。いくら朔夜がかいらしかてそらちゃうやろ」
そうじゃないと、司宇は蓮翠にさらに詰め寄った。
「俺だって、最初はあいつが男に見えていたんだ!」
そう言って司宇は、帰宅日での出来事を蓮翠に話して聞かせた。
「ん~、つまりや。朔夜は実は女子で、ようわからん術で男に見せてると?お前がそれに気づいてからは、朔夜がほんまもんの女子に見えていると・・・そういう訳やな」
司宇は深く頷いたが、蓮翠はいまいち納得がいかない様子で、口元に閉じた扇子の先をトントンと当てている。
「陰陽道はもともと清国、まぁ昔はいくつかの国に分断されてはいたが清国からこの日本に伝わったものだ。実際、清国には陰陽の術を使った様々な話が残っているんだ。例えば・・・瓜仙人という有名な昔話がある。知っているか」
蓮翠は首を横に振った。
「ある仙人が瓜の種を蒔き水をやるんだ。そしてこう言う。『それ、芽が出るぞ』と。すると、群衆の面前で蒔いたばかりの種が目を出す。次には『伸びるぞ』というと出たばかりの芽がするする伸びてあっという間に瓜の実をつけると言う話だ」
「そら凄いな・・・それがほんまの事やったなら、飢饉なんてのうなるんやろなぁ」
「そうだ。本当ならな。だが違う」
司宇は一指し指を立てて蓮翠に詰め寄る。
「実際は別のところにある瓜が、たった今芽を出し育って実をつけた様に見せているだけだ。これが幻術だ。だが、これを幻術だと見抜いた者には、真実が見える。いいか、蓮翠。朔夜の兄は将軍家に仕える程の実力の持ち主だ。もしこの幻術が使えるとしたらどうだ?朔夜を男の姿に見せることも可能だろ?そして、それを見抜いた俺には朔夜の本当の姿が見えるようになった。なっ、つじつまが合うだろう?」
真剣な様子の司宇に、蓮翠もこれ以上邪険にするわけにはいかないと思った。
「うーん」と腕を組み考えるが、本当にそんなことが現実にあるのだろうかという疑念も払いきることができない。
「司宇、本気で言うとんのか?」
「あぁ、そうだ」
蓮翠は小さく何度か頷いたあと、口元に笑みを浮かべて蓮翠を見た。
「ほな、信じるわ。で、お前はどうしたいんや?」
「え?」
どうしたいかと問われ、今度は司宇がきょとんとする番だった。
朔夜が女子だったからと言って、一体自分がどうしたいのか。今わかるのは、既に司宇には朔夜が女子にしか見えず、朔夜と向き合うたびにどうにも調子がくるってしまうのだ。だからどうしたいなど、考えてもいなかった。
「なぁ、司宇」
蓮翠が閉じた扇子の先を額に当てながら言った。少しずつわかってきたことだが、蓮翠は何か考え事をする時によくこの仕草をする。
「お前の言う通り、朔夜が男であるのが幻術やったら・・・それはこの修義館にかけられてるいうことやな。僕らは修義館の外で朔夜と会うたことがない。つまりや、この修義館に術がかけられてるいうことや」
「確かに・・・。じゃぁここを出れば、朔夜の本来の姿がお前にも見えるってことか?」
蓮翠はニヤリと笑った。
「可能性の問題や。絶対そうとも言われへん。せやけど、朔夜は絶対に風呂はひとりではいりよるし、同じ部屋におんのに着替えていることろも見た事あらへんしなぁ。確かに、司宇の話も一理ある思うんや。まぁ、確かめてみることはできるやろな。ただな、司宇。もしほんまに朔夜が女子やったらどないするんや。女子である朔夜は修義館にはおられへん」
司宇はただ一点を見つめたまま頷いた。
「わかってる。別に朔夜を追い出したいわけじゃない。ただ・・・もしもあいつが本当に女子なら、俺達にもしてやれることがあるだろ?もし、本当に女子の身でこの修義館にいるとしたなら、今回の馬や弓だってあいつにとっては大変なことだ。それに、たった一か月足らずで俺が気づいたんだ。この先、他の奴に気づかれたらどうなる?」
「なるほどなぁ。そらあかんわ。僕らなら、朔夜の力になれる。そぉいうことか?」
「あぁ」と司宇は頷いて見せると、「よっしゃぁ」と蓮翠は閉じた扇子でポンと掌を打った。
「ほなこないなのはどうや?どの道、信義大会までは身動きがとれへん。せやから信義大会は本気で優勝狙うんや。優秀すれば、学長にひとつ何でも願い出ることができる。そこでや、白虎隊全員の外出許可を願い出るんや。僕んとこの屋敷で過ごしてももえぇし、どこか遠出してもえぇ」
司宇はまるで昨日のことを語るかのようにすらすらと策を練る蓮翠を見て、心底感心していた。つまり朔夜を修義館の外へ連れ出すことで、自分たちに本当のことを打ち明けざる得ない状況を作ろうということだ。普段どこかとぼけた様子の蓮翠であるが、その気になってさえしまえば蓮翠ほど頭の回転が速い者を他に見たことがない。
「なぁ、蓮翠。義輝にはどう説明する?」
「義輝は放っておいたらえぇやろ。当日女子になった朔夜を見て、腰抜かすやろ。見ものや」
声を上げて笑う蓮翠につられるように、司宇を笑みを零した。
口ではそう言っているが、実際真っすぐな気性の義輝にこんな計画を話せば、それこそ信義大会どころではなくなってしまうだろう。蓮翠なりの気遣いであることを司宇は気づいていた。
「そういうことなら、まずは何が何でも優勝だな」
「そういうことや」
どこかすっきりしたような顔をして歩き出した司宇の背中に蓮翠は笑みを浮かべた。
「なぁ、司宇。朔夜が女子やったとして・・・、ほんまに力になりたいだけなんか・・・。僕にはそうは見えへんけどなぁ」
蓮翠の言葉は司宇に届くことなく、幾らか湿気の含んだ風に攫われた。