9. どうやら聖女サマは不死身のようです
「ほわっ…ほわっ…ほわ……」
意識の遠くに、赤ん坊の泣き声がする。
鼻にかかったような、か細くて庇護欲を掻き立てられる声。
ねーちゃん、赤ちゃん産まれたんだっけか。
愉しみにしたいからって、産まれるまで性別が解んなかったけど、どっちが産まれたんだろう。
男の子だったら一緒にたくさん遊んであげよう。
女の子だったらめちゃくちゃ可愛がってあげよう。
ねーちゃんがきっかけで、仕事人間だった俺は人生を見直して、人らしく生きようと思ったのだ。
人一倍、感慨深くなるのも当然である。
(ああ、眠い)
「ほんわ…ほんわ…」
泣いてるよ、ねーちゃん。
そいつ、お腹が空いているのかも、な。
だってあれから随分経った気がするんだ。それに80mlしか飲んでない。
赤ん坊ってのは、頻繁に腹を空かせる生き物なんだろ?
「ほわっ!!ほわっ!!ほゎわっ!!!」
「!!」
耳元、はっきりとした声。
一気に覚醒し、ガバリと起き上がる。
しかし、ふわふわ過ぎるソファに完全に埋もれてしまっている俺は、殆ど身動きが取れない。
横目で声のする方向を見やると、ソファの真横に備えたローテーブルの上、赤ん坊が手足をわたわたと動かしていて、なんと縁の端っこまで移動していたのである。
「うわっ、マジかよ!!」
身体の半分以上は縁から出ていて、危なっかしいというよりは、ほぼ落ちかかっているも同然だった。
ローテーブルは俺の膝ぐらいまでの高さとはいえ、赤ん坊からしたら自分の背丈ほどもある。
大人でさえもベッドから落ちたら痛いのだ。どこもふにゃふにゃの赤ん坊が落ちたらひとたまりもないだろう。
ソファに埋もれてもが付いていても抜けられず、手をこまねいていても仕方ないので勢いをつけてソファごと回転。何とか脱出に成功する。
が、その時立てた、ガタンと大きな音に赤ん坊――リアが驚いて泣き声が大きくなった。
「あわわわわっ、ま、待って!」
そしてついに辛うじてテーブルに乗っていた肩が外れ、リアはひっくり返って硬い石床に落ちていく。
間に合わない!
俺の馬鹿!何で寝入っちまってたんだ!
1秒にも満たない一瞬で、最悪の結末を想像する。
リアの、小さな身体が床に打ち付けられる、そんなにぶい音を覚悟して瞠目していた俺であったが、いつまでもその音は聞こえない。
「……?」
ただ、リアの泣き声、中断せずに聴こえるのみである。
俺は這ってテーブルに急ぎ、リアの元へ。
「は?」
ここに来て、何度「は?」と言ったのか、数えるのも阿呆らしい。それくらい、俺は面食らい過ぎた。
激しくは無い泣き声。
相変わらず手足を縮こませながら、アワアワと動いているリア。
天井を見つめ、涙も流さず、猿みたいなしわしわの顔を更にしわくちゃにさせながら。
その背を、数センチ。
――――浮かせて。
人間ってのは、あんまりにも驚くと反応すらしなくなんのな。
現実と仮想の狭間で考えを停止させる。
もれなく俺もそんな感じで、浮いたリアを見る事しか出来なかった。
夢か現か。
どちらにせよ、タチが悪い。
「はは…そういう事かよ…」
鳥に攫われて行方不明になっても、こいつ自体を少女らが心配していなかったワケも。
一週間も碌にミルクをやらずとも、死なないからと無頓着だったフアナの態度も。
そして、俺がわたあめに食いつかれて怪我一つ負わなかったのも、頬を幾ら抓ろうが痛くなかったのも。
女神の加護を、俺が得ていると言ったフアナ達の会話を反芻して導き出された答え。
浮いたリアを両手で抱き上げて、胸元の高い位置へ。
そして、パっと手を離した。
俺はとんでもない事をしている。
テーブルとは比べ物にならない、わざともっと高い場所からこいつを落としたんだから。
非難なら後でいくらでも受けてやる。
でも、多分非難されるような結果にはならない。
重力に従ってストンと落ちていく無力な赤子。
打ちどころが悪ければ、最悪死ぬ。
「……」
「ほえっ、ほえっ、ほえっ…」
やはりというか、結果はもう分かっていたんだけど。
リアは床に叩きつけられる事はなく、先程と同様に、衝突一歩手前で浮いたのだ。
そこに見えないプロテクトがあるかのように。
(異世界…)
これでも学生時代からゲームや漫画に興じてきた身である。
家族には内緒だが、就職するまではサークルに入って薄い本なんかも作ってきた。
このような世界に偏見は無く、ジャンルとしてのMMORPGは大好きだ。叶うならばそんな世界に、一度でいいか行ってみたかった。
だけどよ。それは叶わない夢だからいいのであって、モノホンを頼んだ覚えは過去一度も全く金輪際ねぇ!!!!
それになんだ。
仮にガチで俺が異世界召喚を食らっていたとして、この地味さはなんだ。
こういうのはやべえ召喚しとかに呼び出されて、王様とか偉い奴から魔王を倒せ云々と、めまぐるしくも素敵麗し、希望と夢に溢れた冒険譚になるんじゃねえのか?
んで、会う奴みんな股が緩くて、俺は何故か最強で、ハーレムなんてものも形成しちゃったりして、ウハウハ♡になるんじゃねえのかよ!
それが赤ん坊の世話係とか。
は!全く笑えねえよ!
わたあめ如きに棒切れで戦って、殆どダメージ与えてなかったんだぞ?
どこが最強なんだ。
偉いやつ?ハーレム?
ド田舎の神殿で、ミルクやって終わりだよ!
確かに可愛い子はいたけども!フアナ以外に接点ねえよ!ハナっから放置だよ、初日からフラグ立ててナンボだろうが、どんなクソゲーだよコンチクショウ!!
「っつか、マジなのかよ…」
頭を抱えてみるがどうしようもない。
泣き続けるリアを抱き上げ、首を支えながら縦抱きにぎゅっとしてみる。
適当に布を巻かれただけの、扱いがぞんざいな赤ん坊。その首元が黄色く汚れている。
(ゲップさせるのを忘れてたな…)
口元にもミルクの滓が伝った跡がある。
細部に気が回っていないし、気付こうともしなかった。
(こいつは不思議なヤツだけど…でも何もできねえ赤ん坊なのは違いないのに)
フアナが言っていた。
俺の知りたい情報、皆の紹介の時に分かるかもって。
だったら教えて貰おうじゃねえか。
お前らのこと、この赤ん坊のこと。
ホントに此処が夢じゃなくて現実で。俺の知っている世界とどう違うのか、そして俺は戻れるのか。
何のために俺は此処にいて、これから俺がすべきことを。
隠し事一切無しで、納得するまで説明してもらう。
これは、絶対だ。
汗とミルクと生臭さが入り混じった不思議な匂い。
それは確かに臭いものなんだけど、ぎゅっと抱きしめたその存在からは不快な感情は無く、寧ろ心細い気持ちがその暖かさに絆され、救われる気がした。
ピピピピッ、ピピピピッ
スマホのアラームが鳴っている。
余りの眠さに意識を失う前、なんとか気力を振り絞ってこれだけは設定していたのだ。
「もう3時間経ってんだな…リア、飯食うか?」
寝入って3時間。
長閑なポカポカ陽気は何処へやら。今は黄色い西日が窓を照らしている。
「……」
リアは泣き止んでいる。
俺の目をじっと見て、小さなピンクの舌をテロテロと出し入れしている。
底にミルクが少し残った哺乳瓶とスマホをポケットに突っ込み、リアを抱いたまま部屋を出る。
俺の水色の髪は相変わらずで、これも説明が付くことを祈るのみであった。
厨房に行くと、忙しそうに駆け回るピンク髪の少女と、長いコック帽を誇示したチョビ髭ボンジュールがいた。
「あ、コウハ!…と、リア様っ」
「ボンジュ~~ルゥゥ!!」
巻き舌でニカニカと歯を出すボンジュールは両手に皿を抱えている。
「もうすぐ呼びに行こうとしてたんだ。リア様大人しいね、何か用事?」
「おうっ!フアナ嬢にお聞きしていま~すよ!初めましてぇの、ボンジュ~ル!!」
なかなか騒がしい人物である。
結構、いやかなり鬱陶しい。
「後は食堂にお皿を並べるだけなのよ。ほら、これからいつでも話せるんだから、早く用意終わらせてよ!」
と、ボンジュールのケツを蹴飛ばすフアナは実に頼もしい。
叱り飛ばし方といい、ちょっと乱暴なところといい、俺限定でそんな事をしているのかと思っていたが、どうやら万人共通の扱い方らしくて安心した。
安心って言い方も変だけどよ。
「ミルク作んないとな。悪いけど、また湯を借りに来たぜ」
「リア様、ちゃんと飲んだ?あれ、ちょっと残してるね」
フアナは俺から哺乳瓶を受け取り、予め調理に使っていた湯でチャチャっと洗う。
リアを抱いて両手が塞がっていたから助かった。
この少女、正確に多少難はあるものの、よく気が付くいい子だと思う。
「飲ませ方とか初めてだかんな。俺もこいつも。でも頑張って飲んでたよ、必死にな。一週間ぶりのまともな飯とは云え、全部は胃に入らなかったみたいだ」
「ふぅん。丁度、料理に使ってたお湯があるよ。まだ熱いから沸かさなくても良さそう」
「おう、サンキューな」
「さんきゅ?」
リアを左腕全体に凭れるように抱き、空いた右手でミルクの粉を入れる。
800グラムの粉ミルク。
このままのペースだと、10日も持たずに底を尽く。
リアには悪いけど、俺は10日も滞在するつもりはないけどな。
しかし粉っつーもんは、一気に湯を入れると下で固まって、なかなかどうして溶かすのが難しいモンだ。
ココアを飲むときなんかも、いっつもそう思う。カップの底にへばり付いて溶けんわ、薄いわ、洗うときスポンジが真っ茶色に汚れるわでメンドクサイ。
哺乳瓶を上下に激しく振っても、実は溶けていなかったりする。
しかもミルクが猛烈に泡立って、いざ赤ん坊に飲ませる最初の一口は空気しか出てこない。
とりあえず、要検証だ。
「食堂まで案内するわよ。皆、先に揃ってる」
「え?あ、そうなのか」
「リア様も一緒にお食事ね。ご馳走が食べられなくて可哀想だけど。せっかくのお肉なのに」
ふふ、と笑う。
肉…か、リアの好物みたいな言い方だな。
前は肉を食べていた、とでも言っているような台詞だ。
「お肉は貴重なのよ。都会から来たあんたには分かんないだろうけど。マナの劣勢だから、家畜をやたらに屠殺するのはご法度」
「マナ?」
厨房を出て、ランタンに灯された灯りがほんわりと照らす石床をツカツカと、俺の前を行くフアナが振り返りつつ喋る。
食堂は俺の部屋とは逆方向。礼拝堂に入る最初の渡り廊下の先にあった。
「厨房からは離れているけどね。祭事の時なんかは人がたくさん集まるから、こっちにあった方が都合が良いのよ」
生活区に食堂がないのは、部外者をこれ以上先に立ち入らせないようにする為の工夫なのだろう。
「あんたが呑気に部屋で寝ている間、先に皆を集めて少し話をしていたの」
「そうなのか?って、覗いたのかよ」
「静かだったから、また鳥さんに攫われていませんか~ってエリザがしつこくって」
「エリザ?あの二人のどっちかか」
「そうよ。ま、それも含めて後で紹介するわ。さあ、着いたわよ。とりあえず先に食事しましょう?あたし、お腹ぺっこぺこ」
両開きの木枠の扉の前に立つ。
生活区とは違う、濃い色合いの扉。対外的でもあるからか、重く堅苦しい雰囲気である。
ガシャン――。
物々しい音と共にギギギと扉が開く。
中から明かりが溢れてくる。薄暗い廊下を歩いてきたから、部屋の明るさが際立って見えた。
「あ、ご到着のようですよ!」
「おやおやこれは、リア様もご一緒で」
食堂の入り口にはロマンスグレーの執事風のオッサン。スマートに一礼して、俺の背に手を当てる。
「ささ、皆さまお揃いですよ。長旅でお疲れでしょうし、まずは歓迎の儀として料理長の渾身の作をご堪能頂きましょうか」
「あ、ああ…」
部屋の中央、真っ白なテーブルクロスの上に所狭しと並べられた様々な料理。
中にいた、フアナを除いた6人分の興味津々な視線が、一気に俺に集中する。
ご馳走、ご馳走というものだから、煽られるだけ期待は高まって、クリスマスパーティーのような絢爛豪華な料理が目の前に広がっているもんだと思い込んでいた。
飲めや歌えの大騒ぎ。
歓迎会っていうくらいだし、料理長のボンジュールは文字通り、走り回って俺を喜ばせようと頑張ってくれたに違いない。
「…ありが、とう」
ついついガッカリと、目に見えて肩を落としてしまった俺を許してほしい。
だってそれは予想とは随分とかけ離れていたから。
テーブルの上、草しかない。
緑の葉っぱ。赤やオレンジの落ち葉。茶色の茎。ドングリの実。
脇には大きな寸胴鍋が3つ。銀色のワゴンの中に、小麦粉を固めたような不揃いの固形物が高そうな皿に盛られている。
促されるまま、席に着く。
リアを膝に乗せ、頭だけを支える。
テーブルに置いた箔乳色の哺乳瓶に、集まった人たちの珍獣でも見るような奇異な視線が更に注がれるのを感じている。
メインらしき、貴重だという肉料理がこれまた高そうな彫刻が施された大皿の真ん中にチマっと乗っている。
薄桃色の、ただの肉の切り身。
何の肉かは、分からない。
質素だった。
兎にも角にも、質素。
めちゃくちゃ、質素。
どこまでも、期待外れ。
そして、不味そう…。
しかしフアナを始め、ここに集まった人たちにとってはご馳走なのだろう。
お祈りもそこそこに食事会は急に始まり、彼らは満面の笑みで素朴な料理にがっつき出した。
「コウハさぁん!お代わりも、たぁくさんありま~すからね~!!」
「へ?あ、ども…」
草をひとつまみ、口の中に放り込んで。
想像した通りの、青臭いツンとする味を噛み締めながら、俺は心底、家に帰りたくなった。