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8. じっくり一緒に学んでいけばいいんだよ

 

 赤ん坊の名前が分かったとして、しかしフアナは何か言い淀み、少し思案して話を切り替えた。

 思うところは絶対あるはずだ。余程の鈍感でもない限り。

 王都からベビーシッターとして呼ばれた「俺」は予想よりも早く到着し、赤ん坊の扱い方も名前も分からないのだから、まずは偽物と疑うだろう。


 手紙で知らされた人相ってやつが「俺」にクリソツだったからと、こうして不審に思いながらも赤ん坊の側に置いている。

 そんな不確かなものを信用し、何処の誰かも分からん奴を身近に置くのは実に不用心。俺が言えた義理ではないが、これが逆の立場ならとっくに警察を呼んでるレベルだ。


「コウハ?」


「へ?あ、ああ…ごめん」


「……」


 じぃと訝しげに見つめられる。

 フアナは最初から俺に敵意剥き出しだったが、理由はそこなんだろう。今は様子見をしているだけで。


 俺はポケットからスマホを取り出し、子育てテキストを開く。

 新生児の項目からミルクの飲ませ方と検索し、長ったらしい文章を読む。

 すっすっとスマホを操作する俺を、フアナは黙ってみている。

 初めて見るオモチャのような、それがなんだか分からないけど面白そうな物には違いないと瞳をキラキラさせている。


 じっと見られて居心地は悪いが、さっさと目的を果たしてしまおう。


「なになに…」


 一日の7割は寝ていて、腹が減ると泣く、か。

 ははっ、ニートみてぇだな。


 んで、1日に8回、3時間ごと授乳する。

 マジか…朝も昼も夜もお構いなしか。そういやねーちゃんも言ってたな。赤ちゃん講習で寝不足がかなり堪えるが、いつかは解放される時が来るから頑張れとか言われて凹んでた。


「どうしたの?」


「あのさ、訊きたいんだけど、あの赤ん坊…リアは産まれてどれくらいなんだ?」


()()して一週間よ」


 再生?

 またも聴き慣れない言葉が出てきた。

 これも素直に聞いたら怒るんだろうな、と思ったら何も言えなくなってしまって、敢えて突っ込まず無視する事にした。


「赤ん坊ってのは1日に8回ミルク――飯を食わせないといけねえ。胃が小さくてたくさん入らんからな」


 そうしてこまめに授乳する事が大事だと記されてある。

 最も母乳の場合は粉ミルクよりも消化が遅いから、きっちり8回を守る必要はないらしいけど、リアは母親がいねえからどうしても粉ミルクだけになってしまうだろう。


「え!8回も!?うそ、どうしよう」


「部屋に皿に入った牛乳っぽいのがあったけどよ、この一週間、まさかそれを置いてただけだった、なんて言わねえよな」


 狼狽えるフアナに話を聞くと、やはりペットよろしく地べたに置かれた皿は、あの赤ん坊の飯のつもりだったらしい。

 自分たちと同じく、朝昼晩の3回。

 歯が生えてないから固形物は食わんだろうと、様々なスープを与えていたようだ。

 しかも、更に直接べちゃりと押し付けて、それで良しとしていたらしい。


「普通に虐待じゃねえか…」


「し、知らなかったのよ!誰も教えてくれないし、リア様も泣くだけで何にも言わないし!」


 当然、皿の中身は減るはずもなく。

 要するにあの赤ん坊は、この一週間は殆ど飲まず食わずだったという事である。


 あの飢えた感じ、おしゃぶりへの執着、泣き叫ぶ度合いの酷さに合点がいった。


「赤ん坊が喋るワケねぇだろ。あんたら何人いるか知んねえけど、大人もいるのに何で誰も変だって気付かないかねぇ」


 子育てをした事のない男の俺でさえも、何となく本能で分かるというか。

 テレビや漫画、ゲームでそれとなく学んでいるんだろうが、それにしても酷い。


「よく死ななかったよな、あいつ」


「…ごめん」


 産まれた日を0日として、最初は10ml。

 以降は1日ごとに10mlずつ増やすのが理想、か。


 今日が7日目としたら70ml。奇数は分量がメンドイから80にするか。


 哺乳瓶を簡単に煮沸消毒して、粉ミルクを4杯入れる。


「本当は沸騰した湯を70度くらいに冷ました湯でミルクを溶かして、それから40度の人肌くらいに冷ますのがミルクの栄養分が損なわれずに丁度いいらしい」


「結構面倒臭いのね。度数で言っても分かんないけど、沸騰、お茶、お風呂みたいな感じかしら」


「そうそう。分かり易い例えだな」


 湯が冷めるまで待っても良かったのだが、フアナ達のリアに対するガサツな世話を聴いたらそんなにのんびりとも言ってられなくなった。

 早いとこミルクを持っていって、心行くまで腹一杯飲ますのがまずは優先だ。


「コウハ、氷水で冷やそう」


 桶に氷を入れ、上から柄杓で流水をかける。


「リア様大丈夫かな。死なないとは思うけど、悪い事しちゃってたみたい」


「ってか、本気で知らない事の方が驚きなんだけど?」


 作業台の上に零れた粉ミルクをペロリと舐め、フアナは顔を顰めている。

 あまり味がしないみたいだ。


「知らないっていうより、知る必要がないのよ」


「は?」


「あたしたちは―――あんたとは違うの。あんたの住む、そことは」


「どういう…」


「だからシッター(あんた)を呼んだのよ。リア様が、あんたを寄越すように《王都》に依頼した」


「赤ん坊が依頼って、意味わかんないんだけど」


 フアナは俺から哺乳瓶を奪い、まずは頬に当て、それから一滴、白いミルクの液体を手首の裏に落とした。


「あたし達はそれぞれやるべき役目がある。あたしは巫女だし、今日は洗濯物を干すのが仕事。あんたがボンジュール言ってるおっさんは、ご飯を作るのが仕事」


「おい」


「で、あんたは」


 ずいと哺乳瓶を目の前に突き出した。


「リア様を育てるのが仕事。あたし達の役目じゃない」


 手に取ると温くなっている。ほんわりと暖かい、牛乳を水で薄めた何とも言えない匂いが湯気から香る。


「早くリア様に飲ませてあげて?あたしは料理長にミルクの事、説明しておいてあげるから」


「あ、ああ…」


「どうせ8回もあげないといけないなら、湯が頻繁に必要でしょ?あの人、あたし以外の人が厨房をウロウロするのを嫌うの」


「そうなのか。悪い、助かるよ。それに付き合ってくれて、サンキューな」


「さんきゅ?まあ、いいわ」


 追い立てられるように厨房から出された俺は、確かにフアナがいなければすんなり湯を手に入れる事さえ叶わなくて未だにマゴついていたはずだから素直に礼を言う。

 うまいことベビーシッター役に仕立て上げられ、まんまとその役目をこなす羽目になってしまって腹立たしくもあるが、乳飲み子をこのまま放って出て行くのも気が引ける。


「食事が出来たら呼び行くわ。そこでさっきも言った通り、みんなに紹介してあげる」


「ああ、助かるわ」


「あんたの欲しい情報、あたしの予想通りなら、そこで分かると思う」


「え?」


「だからとりあえずは、リア様の傍にいてくんないかな。お願い、あたし達は、あんた以上に()()()()()()


 フアナの思わせぶりな態度はここまでだった。

 それから有無も言わさず厨房の扉は閉じられ、俺は部屋に戻らざるを得なくなってしまったからである。


 俺の知りたい情報、か。

 フアナは何を知っているのか。

 出会った時の気の強さ、あの威張った感じはしなかった。むしろ素直でてきぱきと働き、好印象すらある。


 それぞれの、役目。

 知る必要のない、情報。


「ああ、もう分かんねぇ!!!」


 フアナの言う通り、今は従う他無かった。

 時が来れば、この不可解な事象も全て知り得るのだ。一人五月蠅く意気込んでも仕方なかろう。





 ガチャガチャ。


 部屋に戻る。

 一応鳥を警戒して、窓は閉めておいた。

 姿見に映るこの姿も、俺なのに俺でない理由も説明がつくなら、待ってやろうではないか。


 低いテーブルの上、赤ん坊―――リアは目を覚ましていた。

 もごもごと手足をばらばらに、もどかしそうに動かしている。


 何処を見ているか分からない蒼い瞳。

 俺が近くに寄っても無反応である。


(どうやって飲ませるんだ…)


 ソファは埋もれてバランスを崩すから、机の上にケツを乗っける。

 スマホを見ながら、リアを抱き上げて左手の肘辺りに頭を乗せ、左手の掌で身体を固定する。


 簡単そうに見えて、これが意外とうまくいかない。

 なんせ赤ん坊はどこもかしこもふにゃふにゃしているからだ。

 一番怖いのは、ガックガクの首なんだけど。


 俺にされるがままのリアは大人しい。


 哺乳瓶の口元、空気穴を上にしてまずはちょんちょんと先を当てた。

 これをすると反射で口を開けるのだとテキストには書いてある。

 2滴ほど小さな唇にミルクを落としてあげると、いきなり口がぐわあと開いた。


「よっしゃ!」


 カポリと先っちょを口の中に押し込むと、リアの瞳が大きく見開いた。

 視線は定まっていない。俺を見たかと思えば、何もない空間を見たりと忙しく動く。


 産まれたての赤ん坊は、母親からの母乳を飲むのが下手くそな子もいるらしい。

 上手く吸えないなんてのは当たり前なんだそうだ。

 そりゃずっと胎内で自動的に栄養が補充されていたのだから、赤ん坊だって初めての行動なのだ。初っ端から完璧に出来る人間なんていやしないのだ。


 だけどこれに悩む母親も多いと聞く。

 自分の飲ませ方が悪いのか、どうして飲んでくれないのか。禿げるほど悩む人もいる。

 出産したばかりで情緒不安定なところに、この問題が襲ってくるから呑気ではいられない。


 リアも哺乳瓶を銜えるのは初めてだ。

 舌の奥で先を挟み、乳を吸うように力を込めないとミルクは出てこない。


「諦めんなよ、一週間ぶり…初めてのまともな飯だぞ」


 だからすぐに先っちょを離して諦める。

 俺が先を摘まんでミルクを出してやると、思い出したかのようにまた口を開ける。

 懸命に飲もうとはしているが、なかなかどうして上手くいかずもどかしい。


 これは、母親も、赤ん坊も練習してから上手くなるものらしい。


 四苦八苦しながら飲ませ続ける事30分。

 赤ん坊を支える左手はいい加減疲れていて、痺れも出始めている。

 赤ん坊の口の周りは溢れたミルクまみれである。

 でも最初とは違って、戸惑いながらも先を吸うコツを、何となく掴みかけているようでもあった。

 哺乳瓶から、ジュージューとミルクが吸い込まれていく音がするからな。


 たった80ml。

 もうすっかりミルクは冷めてしまっている。

 それでも懸命に飲もうとする意志は強く、これぞ人が「生きる」ための本能なんだなと他人事のように思った。



 それから暫くして、哺乳瓶の残りが僅かとなったところで、リアは反応しなくなった。

 俺もリアも、周りもぬるぬるである。

 飲みながら疲れてしまったのだろう。泣きはしなかったが、途中で眠ってしまったのだ。


「初めての割には、上々じゃね」


 リアの頭を撫でる。

 お情け程度に頭にくっ付いている、ほわほわの金髪を指に絡める。

 小さな、とても小さな頭。触るととても、熱い。


「はあ…」


 意識して、溜息を吐いた。


 陽はまだ高い。

 ぽかぽか陽気に、疲れた俺。

 目まぐるしく過ぎた時間に、慣れない事をして、何もかもどうでもいいくらい疲れを感じている。


 左腕には眠る赤ん坊。体温は高く、芯から心地良い。

 頭からはおひさまのような、独特の匂いがする。

 手にまとわりついたミルクの滓も、ほんわりと香って思考をマヒさせる。


「やべ、眠いかも」


 夢の中で眠るなんて、可笑しいだろ。


 そう思ったのも束の間だった。

 辛うじてリアをまた絨毯の上に置くだけの余力はあった。


「くそ…起きたら真相解明しちゃる…」


 俺はそのままズブズブに埋もれるソファに身体を沈み込ませて、完全に理性を飛ばしてしまうのであった。



 ああ、そうだ。

 寝入る前に一言だけ。



 《今日の俺の子育て理論》

 親も赤ん坊も初めてだらけ。最初っから上手くいくことなんて絶対にない。ちょっとずつ練習して、ちょっとずつ上手くいくようになってんだから、気に揉む必要なんてねえからな!!

 人生、勉強。死ぬまで、勉強。

 ま、そういうこった。



 じゃ、おやすみ。


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