7. ピンク髪の巫女、現る
天井が高い。
無機質な石の柱が幾つも複雑に組み合わさって、ここだけ見ると実に見事な職人技が活きた建造物である。
前の職場は住宅関係だったのだ。
木や鉄筋を使わず、石だけで建物を造るのは簡単そうで難しい。
自重の問題をまずクリアしないといけないし、そもそもが住宅に向いてない。
磨き上げられた長い通路を進む。
青い髪、電気石色の瞳、若返った姿。
突っ込みたい事は多々あったが、まずはこの生理現象をどうにかしたかったのが優先された。
分かり易く云えば、便所を探していたのである。
神殿から俺が押し込められた部屋までは一本道だった。そこに至るまでにいくつか廊下が分かれていた箇所もあったが、変にウロウロして無駄に迷うより、まずは原点回帰しようと思い立った。
見た感じ、電灯らしきものはない。長い石畳を飾るのは年季の入ったランタンで、その等間隔に並んだ姿は厳かな雰囲気にとても良く合った。
(電気が通ってないのかもな)
だとすれば、携帯の電波が届かないのもさもありなんだ。
充電できないものをわざわざ持ち合わせて何の意味がある。
(だったらあいつらは天然記念物だな)
スマホや携帯、パソコンに頼らない日常生活など今更無理に等しい。当然、電気のない生活も。
文――とか言っていたから、郵便物は届くのだろうし、王都というのはここよりも都会の響きがある。
このまま夢から醒めなければ、王都に行ってみるのもいいかもしれない。そうすりゃ携帯も…何か分かるかもしれない。
冷たい空気を纏わせた礼拝堂を通り過ぎて外へ。
外門には出ず、神殿に沿って周囲を歩く。
山の頂にあるこの地は遥か下を見通せる。
ここに来るときは赤子を腕に乗せてプルプルしていたから景色を見る余裕なんて無かったが、果たしてそれは絶景だった。
右側に長い階段があり、その下は一面の木々で覆われている。
周りは全て湖。
水平線が見えるほどまでに広大で、果てが無い。
水面が太陽に照らされ反射し、キラキラと宝石のように煌めく様子は圧巻の一言である。
森のもっと先、うっすらと街道も見えた。
「やっぱ何も分かんねえか」
見覚えのある景色、もっというと近代的な見知った情景を期待していた。
だけど目の前に広がる光景はそのどれでもなく、何処か知らない外国の田舎の風景のようでもあった。
「そんで、便所もねぇ!!」
田舎の公共施設だから、トイレは外にあるものだと思っていたが。
探し回ろうにも、神殿は大きかった。
一回りするのに大変な労力を使うだろうし、そこまでは俺の膀胱ももたねえ。
何よりあの赤ん坊を、長い間放置出来ないと思って踵を返そうとした時、あのいけすかないピンク髪と出会ってしまった。
「げ」
「あら、シッターじゃない。こんなとこで何してんの?迷子?」
ピンク髪は両手に大きなカゴを抱えている。中にはたくさんの洗濯物。
後は干すだけなのか、絞って丸まった衣服がパンパンに詰まっていて重そうだったが、あんな細腕なのにそんなの物ともせず、彼女は俺に寄ってきた。
げ、は聴かれてなかったみたいだ。
「いや、トイレ。探してんだけど」
「といれ?」
きょとんと首を傾げる仕草が小動物みたいで可愛い。
さっきまでぷんぷん怒りまくってたのに、今は普通だ。
「便所だよ。えーっと、厠?御不浄?って言えばいいのか?」
「おしっこ漏れそうなの?」
なんちゅう言い草だ!
仮にもうら若き乙女がそんな直接的な言い方をしてはいけません!!
こっちがドギマギして顔を赤くしていたが、ピンク髪自身は何も感じていない様子。
田舎はある意味遠慮がないというし、こいつも他意はないんだろうけど。
「ふぅん。男の子なんだからその辺にしちゃえばいいのに」
「え!」
「それに手水場のことを、《王都》ではトイレって呼ぶのね。都会の人は違うのね、洗練されてヤな感じ」
「おいおい、いくら男でも垂れ流しってのは駄目だろ。論理的にも常識的にも、環境的にも」
ピンク髪は横目で俺をじっと見て、それからぶはっと吹き出した。
「あはは、あんた一応そんなの気にするタチなんだ。言葉が乱暴だから大雑把なヤツかと思ってた。それも都会人ならではってこと?」
「おい、あんた…」
「フアナよ」
「え?」
「だから、フアナ。あんたじゃなくて、あたしの名前」
ピンク髪、もといフアナがカゴを足元に置き、手を差し出してくる。
明るい緑の瞳が真っ直ぐ俺を見つめていて、俺はドキリと胸の鼓動を感じる。
「節穴?」
だから妙にこっ恥ずかしくて、彼女が明かした名前を茶化してみたら、途端に細い眉がキッと引き締まってバチンと腕を叩かれた。
「あんた、喧嘩売ってんの?」
「いや…って、痛ぇえええ!!!」
「痛くするように叩いたから当たり前でしょ。自業自得よ」
そんな細っこい手で可愛らしくバシンとするもんだから何てことないと思ってたのに、実際に俺に届いた衝撃は重く、ジンジンと痺れるように痛かった。
「まあ、いいわ。痛い目見てくれたからチャラって事で」
「っつう~~」
「じゃあ、行きましょ?」
フアナが俺の手を掴む。
洗濯カゴをそのままにして、強引に俺を引っ張るから慌てて手を振り払う。
「行くって何処に!?」
「トイレってとこでしょ」
何言ってんのとフアナは笑う。
怒ったり笑ったり、忙しい少女だ。
フアナは振り払われた手をこしこし擦っている。
「ごめん。結構限界だから、助かるわ。だけどいいのか?カゴ、そのまんまで」
「いいのよ。どうせ洗濯当番あたしだし、まだ日も高いし天気も好いからすぐ乾くと思う。それに…あんたのもってるソレ、気になるし」
俺の脇に抱えた粉ミルクの缶と哺乳瓶を興味津々にみている。
「ソレって、ミルクのことか?」
「《王都》で正式にどんなモノを使ってるか知りたいじゃない。ミルクっていうの?何に使うか分かんないけど」
「え!!??」
「だから気になっちゃって」
フアナと並んで歩く。
彼女の足は神殿に入り、また礼拝堂を通り過ぎて長い通路に出た。
なんだ、施設内にあったのか。
ウロウロする必要もなかったらしい。
「あんた、名前は?」
フアナが歩くたび、長い巫女服の袖が揺らぐ。
伝統的な日本の祭事の衣装。下がミニスカにニーハイだなんて、神サマもびっくりだろう。
そんな彼女は「ミルク」の単語を初めて聞くどころか、哺乳瓶を見てもその用途が分からないとのたまう。
どれだけ無知な輩であっても、その形状、名前から何に使うかなんていちいち説明せずとも分かる問題だ。
だけどフアナは冗談を言っている様子は無く、ニコニコと俺の回答を待っているのだ。
「こ、うは」
「なに?」
「だから名前。きりやま、こうは」
「それ、どっちが名前なの?」
「は?」
ってか、そこから説明せにゃならんのか?
いやいや、冗談じゃなく本気でもかなりキッツイぞ。
日本語を話す奴が、ピンク髪の名前自体は外国っぽいけど、苗字と名前の区別もつかないなんて。
まるで別世界だ。
異世界、ともいうべきか。
話が通じてそうで、通じてない。文化も常識も、俺の知ってる世界と違う!!
「コウハ、だよ。光に羽って書いて」
「へえ、コウハ…っていうんだ?」
「なんだよ」
「なんでもないよ。なるほど、コウハ、ね。ふぅん…」
空中に漢字を書いて見せるが見ちゃいねえ。
これ見よがしに思わせぶりな態度で俺の名を繰り返すフアナに、なんだかこっちまで不安になってきやがった。
「DQNネームで悪かったな!」
「どきゅ?」
なにそれ、とフアナ。
いちいち首を傾げる仕草が可愛いが、こいつはいつ怒りだすか沸点がいまいち見えない奴なのだ。
話が通じないのは分かりきっていたので、説明するのはやめておいた。
結局トイレは、生活区に入る手前にあった。
わざわざ外に出なくとも、赤ん坊の居る部屋のほんの直ぐ側にあったのだ。
簡素な公衆便所といったところか。
ド田舎の汚ったねえボットン便所を想像していたが、思いのほか綺麗で使い勝手も悪くない。
男と女が別れていないのは気になるが、昔は何処も一緒くたにされていたのだ。
流石に水洗ではなかった。様式も無く、和式オンリーでもあった。
しかしケツを拭く紙は備えられていて、アジアの某国のようにゴミ箱に捨てるのかとも思ったが、そういった設備は無い。
個室のレバーを引っ張ると溜めていた水が流れてきて、汚物を押し流す。
耳を澄ますとチョロチョロと音がしたから、湧き水でも使っているのか。
神殿からそのまま、あの眼下に広がる湖に捨てているようでもあるが、仕組みが良く分からない。
まあ、なんだかんだと調べてみたけど、普通に快適だったのには驚いた。
スッキリして出てきた俺を待ち構えていたフアナは、次に厨房へと案内してくれた。
道すがら、ミルクを作るためのお湯が必要だと説明していたからである。
「神殿は殆ど使ってないのよ。祭事がある時だけね。基本はこの生活区に皆集まってる。必要なものも、ここに揃っているのよ」
厨房はこの長い通路の一角。
俺が初めてここを通ったと時、チョビ髭のボンジュール野郎が顔を覗かせた場所だった。
「あら、いない」
釜の上、たくさんの鍋がグツグツと湯気を立てている。
様々な匂いが充満している。
ムワリとここだけ湿気も熱気も、さっきまでの通路とは大違いだ。
「お湯が、いるのよね」
頼んでもないのに、フアナはテキパキと動く。
棚から空の鍋を出し、瓶から水を掬う。調理中の鍋を端に避け、スペースを作る。
「あんて、手際がいいんだな」
見ていて気持ちがいいくらいだ。
勝手知ったる場所なのか、フアナの行動に迷いはない。
「ありがと。慣れてるだけよ。ここは人が少ないから」
「あのボンジュールが料理長だろ?」
「ボンジュールって、ふふ。そうよ、今頃あんたを歓迎する食事会の準備でもしてるんでしょ。それに簡単なものだったらあたしも作れるし。あの2人は苦手だけど」
哺乳瓶のパッケージを開封し、粉ミルクの缶を開ける。
「あの二人って、紫の子達?何やってんだ?」
清々したと言いながら欠伸をしていたおっとり三つ編みと、何もかも押し付けて清々しい顔で出て行ったポニテ。
このフアナも疲れた休める云々と言っていたが、早速洗濯物に勤しんで休んでいない。
「さあ、寝てるんじゃないかな」
と、火打石を鳴らし、慣れた様子で火をつけた。
「疲れてるけど、当番だもの。あの子達はその前にたくさん働いたの。それに今はあんたがリア様を見てるでしょ?あれの面倒を見ながら家事なんてやってらんないわ。だから今は楽な方よ」
「リア様?」
「なに、あんた。聖女様の名前も知らないって言うんじゃないでしょうね!」
「うっ、いや」
「でも…ううん、なんでもない。で、なに?もうすぐお湯が沸くけど、次は何するの?」
――――リア。
これが聖女と云われる赤ん坊の名前。
ほんの少しずつだけど、状況が見えてきているのはいい前兆だ。
なんせ「無」の状態で、ここに居るわけだからな。